第149話 失った世界を、取り戻せ!
体育祭は、終わった。
あれほど校庭を揺らしていた歓声も。
クラス席から響いていた叫び声も。
バトンを繋ぐたびに沸き起こった拍手も。
全部、もう遠い夢みたいだった。
けれど、余韻に浸る暇などなかった。
高校三年生の秋は、立ち止まることを許してくれない。
文化祭が終われば体育祭。
体育祭が終われば、受験。
次から次へと目の前に差し出される現実に追い立てられるように、三年生達は一気に本格的な受験モードへと切り替わっていった。
そして陽向もまた、この日。
放課後の進路指導室で、小論文演習の答案を前にしていた。
「…………。」
手元には、赤ペンだらけの原稿用紙。
論点が曖昧。
具体例が弱い。
結論が浅い。
主張に説得力がない。
紙面のあちこちに書き込まれた赤い文字が、まるで自分自身を責め立てているみたいだった。
陽向はただ、呆然とその紙を見つめていた。
体育祭シーズンの忙しさからは、ようやく解放された。
もうグラウンドを走り回る必要もない。
生徒会本部で次々飛んでくる連絡を捌く必要もない。
競技進行表とにらめっこする必要もない。
それなのに。
陽向の文章は、戻ってこなかった。
総合型選抜試験は、もう今週に迫っている。
時間がない。
本当に、もう時間がない。
そう思えば思うほど、頭の奥に白い霧がかかる。
言葉を掴もうとしても、指先から砂みたいにこぼれ落ちていく。
かつては、何もしなくても勝手に溢れていたはずの言葉が。
今は、どこにも見つからなかった。
「……………プレッシャーが大きいんだと思う。」
国語科の教師が、静かに口を開いた。
進路指導室の窓の外では、秋の夕陽が校舎を淡く染めていた。
窓の向こうからは、運動部の掛け声が微かに聞こえてくる。
けれど、この小さな部屋の中だけは、やけに静かだった。
教師は、陽向の答案へ視線を落としながら、言葉を選ぶように続けた。
「文章は、感性だから。」
その声は責めるものではなかった。
むしろ、痛いほど優しかった。
「星野さんの文章は、演習で培うような知識で書いてる文章と違って、元々ちゃんと感情がある。だからこそ、今みたいに感情がすり減っている状態だと、演習を重ねればどうにかなる、という問題ではないのかもしれない。」
陽向の睫毛が、小さく震えた。
感情がすり減っている。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
自分では、まだ大丈夫だと思っていた。
生徒会で忙しいだけ。
疲れているだけ。
受験前で焦っているだけ。
そう思おうとしていた。
けれど本当は、ずっと前から限界だったのかもしれない。
文化祭。
後夜祭。
救急搬送。
体育祭。
指定校推薦の不合格。
書けなくなった小論文。
そして、胸の奥に刺さったまま抜けない、名前のつけられない痛み。
ひとつひとつは、何とか耐えられるはずだった。
けれどそれらは、少しずつ陽向の内側を削っていた。
誰にも見えない場所で。
陽向自身ですら気づかないふりをしていた場所で。
「……どうしたら……いいんですか……っ……」
声が震えた。
陽向は俯いたまま、ぎゅっと原稿用紙の端を握った。
紙がくしゃりと歪む。
次の瞬間、ぽろりと涙が落ちた。
一度こぼれたら、もう止まらなかった。
悔しさなのか。
不安なのか。
情けなさなのか。
それとも、全部なのか。
陽向には、もう分からなかった。
ただ、苦しかった。
「総合選抜だけが、全てじゃないよ。」
教師は、静かにティッシュを差し出した。
陽向はそれを受け取ったけれど、涙を拭うこともできず、ただ膝の上で握り締めた。
「来月には公募推薦もある。年が明ければ一般入試もある。チャンスは、まだ残されてるから。」
優しい声だった。
逃げ道ではなく、別の道を示してくれる声。
「今ここで全部終わるわけじゃない。だから、そんなに自分を追い詰めなくて大丈夫。」
「…………。」
陽向は何も答えられなかった。
大丈夫。
その言葉が、今はうまく胸に入ってこない。
頭では分かっている。
総合選抜に落ちたって、人生が終わるわけじゃない。
まだ受験の機会はある。
まだ道は残っている。
でも。
生徒会長という強力な武器を最大限に発揮出来るのは、総合選抜。
公募推薦を確実に突破出来るほど、得意科目以外の評定はそこまで良くない。
机に向かって勉強をするのは、集中力も続かない。
一般入試という長い戦いに挑めるだけの、忍耐力もない。
そして。
陽向が怖かったのは、不合格そのものだけではなかった。
自分の中から、言葉が消えてしまったこと。
大好きだったはずの文章が、急に遠くなってしまったこと。
文学部へ行きたいと願っていた自分自身の輪郭まで、ぼやけ始めていること。
私は、何を書きたかったんだっけ。
何を学びたかったんだっけ。
どうして、物語が好きだったんだっけ。
赤ペンだらけの原稿用紙が、膝の上で滲んで見えた。
陽向は唇を噛み締める。
泣いたところで、試験日は待ってくれない。
どれだけ苦しくても、時間は進む。
明日は来る。
本番は来る。
それなのに、自分だけが置いていかれているような気がした。
そんな陽向を見つめながら、教師は小さく笑った。
「失敗してもいいや、くらいの気持ちでいいんだよ。」
穏やかな声だった。
「とにかく肩の力を抜いて当日を迎えてみな。もしかしたら、その時になって急に文章がポンって降りてくるかもしれない。」
陽向は顔を上げる。
教師は肩を竦めた。
「小論文ってね。意外とそういうもの。」
どれだけ考えても書けない日もある。
逆に、何気なくペンを持った瞬間に言葉が溢れ出す日もある。
感性というものは、時々理屈では説明できない。
教師は机へ軽く腰を預けながら続けた。
「試験までの数日くらい、自分を追い込み過ぎなくてもいい。」
そして、少しだけ優しく笑う。
「星野さんの好きな本でも読んで。物語の世界に触れて。そうやって少し心を休ませてみな。」
本。
その言葉に、陽向の胸が微かに揺れた。
いつからだろう。
本を開かなくなったのは。
物語の中へ潜る時間がなくなったのは。
好きだったはずなのに。
救われてきたはずなのに。
気付けば、自分はずっと現実ばかりを見ていた。
文化祭、生徒会、体育祭、受験、恋。
目の前のことに必死になり過ぎて、自分が何に救われてきた人間なのかさえ忘れかけていた。
「…………わかりました。」
陽向は小さく頷いた。
その返事は、自分でも驚くほど弱々しかった。
夕陽がゆっくりと進路指導室の床を染めていく。
オレンジ色の光は柔らかくて温かい。
それなのに。
陽向の胸の奥だけは、どうしようもなく冷たかった。
不安も、焦りも、胸の奥に刺さったまま抜けない感情も。
何ひとつ解決していない。
それでも時間だけは進んでいく。
陽向は静かに椅子から立ち上がった。
「ありがとうございました。」
深く頭を下げる。
教師は優しく手を振った。
「頑張ってね。」
その言葉に、陽向は曖昧に微笑むことしか出来なかった。
進路指導室の扉を開ける。
廊下には夕暮れの静かな空気が流れていた。
西日を受けた窓ガラスが赤く光っている。
陽向は小さく息を吐くと、誰もいない廊下をゆっくりと歩き出した。
総合型選抜試験まで、あと4日。
けれど胸の奥では、受験への不安よりももっと別の何かが、ずっと静かに疼き続けていた。
(……本……か……。)
陽向は、先ほどの教師の言葉を思い出していた。
(星野さんの好きな本でも読んで。物語の世界に触れて。そうやって少し心を休ませてみな。)
夕暮れの廊下を歩きながら、陽向は小さく息を吐く。
本。
その言葉だけで、自然とある場所が思い浮かんでしまう。
図書室。
三年生になってから、ほとんど足を運んでいない場所だった。
以前の陽向なら、暇さえあれば通っていた。
放課後になると毎日当たり前のように向かっていた。
けれど、今は違う。
生徒会長になった。
受験も始まった。
忙しくて時間がなかった。
それも理由の一つだった。
だけど、本当は。
もっと別の理由がある。
「…………。」
陽向は唇をきゅっと噛み締める。
図書室の静かな空気。
窓際の席。
本棚の間を抜ける夕陽。
ページを捲る音。
そして──────
隣で本を読んでいた俊輔の横顔。
あの場所は、今でも彼の存在が強すぎる。
不意に思い出してしまった光景に、胸の奥が鈍く痛んだ。
付き合っていた頃は、あの場所に行けば当たり前のように俊輔がいた。
同じ本を薦め合って。
感想を語り合って。
時には何も話さず、ただ隣で本を読んでいた。
静かな時間だった。
その静けさが好きだった。
だから今でも、図書室へ行こうとすると胸が苦しくなる。
本棚を見るだけで思い出してしまう。
窓際の席を見るだけで思い出してしまう。
もう終わったはずなのに。
もう前へ進まなきゃいけないのに。
足だけが、ずっとあの場所を避け続けていた。
「………っ」
陽向は立ち止まる。
西日が差し込む廊下には、自分の影だけが長く伸びていた。
逃げていた。
きっと、ずっと。
俊輔との思い出からも。
失恋からも。
そして本当は、物語そのものからも。
けれど。
このまま逃げ続けていたら、きっと何も取り戻せない。
文章も。
物語も。
自分自身も。
陽向はゆっくりと息を吸った。
胸の奥はまだ痛い。
怖くないわけじゃない。
それでも。
「……図書室、行かなきゃ。」
小さく呟く。
その声は、自分に言い聞かせるようだった。
陽向は昇降口へ向かっていた足を止める。
そして、静かに踵を返した。
夕陽に染まる長い廊下の先。
懐かしくて、少しだけ苦しい場所へ向かって。
一歩ずつ歩き出した。
───────。
ガラ……
陽向はそっと、図書室の扉を開いた。
懐かしい紙の匂いが、静かに鼻先を掠める。
夕暮れの西日が大きな窓から差し込み、本棚の隙間を橙色に染めていた。
時間が止まってしまったみたいな静けさだった。
相変わらず、誰もいない。
陽向はゆっくりと足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
床を踏むたびに、小さな足音が静かな空間へ溶けていく。
変わっていない。
本棚も。
窓際の席も。
並ぶ机も。
何も変わっていない。
陽向は書架の間をゆっくり歩く。
見慣れた背表紙。
読んだことのある本。
まだ読んだことのない本。
指先で軽く背表紙をなぞりながら、視線を流していく。
その度に。
あの頃の記憶が、少しずつ浮かび上がってきた。
今日は何を読むのか。
次はどの作家を読むのか。
そんな話をしながら、本棚の前を並んで歩いて。
(あ、これ面白かったよ)
(まじ?)
(陽向なら絶対刺さると思う)
自分は、本が好きだった。
特に好きだったのは、ファンタジーだった。
剣と魔法の世界。
古い伝説が眠る王国。
竜や精霊が存在する異世界。
選ばれた主人公が旅に出て、仲間と出会い、困難を乗り越えていく物語。
そういう世界に触れるたび、胸が高鳴った。
現実にはない景色を想像するのが好きだった。
知らない土地を旅しているような気持ちになれるのが好きだった。
ページを開けば、そこには別の世界が広がっている。
その感覚がたまらなく好きだった。
青春小説も好きだった。
恋愛小説も好きだった。
人の心を丁寧に描く物語も好きだった。
誰かが誰かを好きになるまでの過程や、言葉にできない孤独や、少しずつ変わっていく関係性。
そういうものを時間をかけて積み重ねていく作品に惹かれた。
日常の中にある小さな感情を掬い上げるような物語も好きだった。
登場人物が悩んで、迷って、傷ついて。
それでも前へ進もうとする話が好きだった。
読んでいるうちに、その人の人生を本当に隣で見守っているような気持ちになれる作品が好きだった。
彼も似たような本を読むことが多かった。
けれど少し違った。
彼は難しいミステリーも好きだった。
伏線が綺麗に回収される作品や、最後の一行で世界がひっくり返るような作品や、読者を騙しながら真実へ導いていく構成をよく語っていた。
好きなジャンルも。
好きな作家も。
好きな展開も。
少しずつ違った。
だから同じ本を読んでも感想が違った。
同じ場面を読んでも受け取り方が違った。
その違いが面白かった。
その違いを語り合う時間が好きだった。
そんな他愛もない会話を交わしながら、本を選んで。
そして二人で窓際の席へ向かう。
同じ空間で。
同じ時間を過ごして。
沢山感想を話して。
時々黙ったまま。
ただページを捲る音だけが流れる時間が、好きだった。
静かなのに、彼が居たから寂しくなかった。
(……あ……)
不意に足が止まる。
一冊の本。
その背表紙を見た瞬間、胸が小さく震えた。
俊輔が好きだった本。
彼に勧められて読んでみたら、気付けば夢中になっていた。
徹夜しそうになるくらい先が気になって。
登場人物の感情に振り回されて。
読み終わったあと、誰かに話したくて仕方なくなった。
興奮したまま感想をぶつけた自分へ向かって、彼は凄く嬉しそうに笑っていた。
(だから、星野さんから聞ける本の感想は、僕の視点とは全然違うから…いつも新鮮で、すごく面白いんだよね。)
その声が、今でも鮮明に蘇る。
高一の頃。
まだ付き合う前。
憧れと緊張だけの、まだ片想いだった頃。
彼が好きだったのは、本だけじゃなかった。
自分が語る感想を。
登場人物について熱く語る時間を。
物語に泣いて、笑って、怒る。
そんな自分を、好きだと言ってくれた。
本当は両思いだったなんて、気づきもしなかったあの頃。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
好きだった。
物語が。
本が。
言葉が。
そして───その世界を一緒に歩いてくれた彼の事が。
物語の世界が、私と彼の世界を繋いでくれたんだ。
陽向は本棚へ手を伸ばした。
懐かしい表紙に指先が触れる。
胸の奥が痛んだ。
失恋の傷は、まだ消えていない。
今でも、この図書室には俊輔との思い出が多すぎる。
窓際の席も。
本棚の並びも。
夕暮れの光も。
全部が彼を思い出させる。
それでも。
陽向はゆっくりとその本を引き抜いた。
そして、あの窓際の席へと向かった。
西日が差し込むこの席。
今でも、彼の温もりが残っているみたいだった。
陽向は、そこへ座った。
机に本を置く。
ぱらり、とページが開く。
紙の匂いがした。
その瞬間。
胸の奥で、消えかけていた何かがほんの少しだけ灯る。
懐かしい。
苦しい。
寂しい。
でも───好きだ。
その感情だけは、今も確かに残っていた。




