第147話 見えない傷跡
体育祭の昼休憩。
カフェテリアは、午前の競技を終えた生徒達の熱気で満ちていた。
けれど、その一角だけは妙に静かだった。
「…………星野先輩……最近、私に当たりが強い気がする……」
ぽつり、と雫が呟いた。
目元はまだ赤い。
さっき本部テントで流した涙の跡が消えていない。
手に持ったおにぎりは包装を開いただけで、ひと口も食べられていなかった。
「陽向が…フレネミーってこと?」
咲が首を傾げた。
「…うーん……私……何かしちゃったのかな…….」
雫の指先は所在なさげに宙を彷徨い、その視線はテーブルの木目へ落ちたまま動かない。
聞こえてくる周囲の笑い声が、やけに遠かった。
「し、しぃちゃんっ!そんな事ないよー!」
慌てて咲が身を乗り出した。
まるで沈みそうになる空気を必死に引き上げようとするみたいに、明るい笑顔を浮かべる。
「陽向、今ほんとにいっぱいいっぱいなんだって!だから普通にパンクしてるだけだよ!」
励ますように雫の肩を摩る。
その時だった。
「だからって、それを理由に関係ない雫に当たっていい理由にはなんねーんだよ。」
低い声が割って入る。
朔也は鋭い視線を落としたまま、吐き捨てるように続ける。
「自分が大変だからって、遠慮なしに攻撃して。」
舌打ち混じりに続ける。
「自分のことは棚に上げて、てめーはどんだけ偉いんだっつーの。」
その言葉には明確な怒りがあった。
空気が張り詰める。
朔也の表情は険しかった。
雫が傷付いたことに対して、自分のこと以上に怒っていた。
「そういう朔也も、陽向に遠慮なく攻撃し過ぎだけどな」
静かに口を開いたのは蒼太だった。
朔也の眉がピクリと動く。
蒼太はまっすぐ朔也を見た。
「後夜祭のこと持ち出してあんな言い方するなんて… 陽向の特性を一番分かってるのは、他の誰でもなくお前じゃねぇの?」
その声は責めるようでいて、どこか呆れも混じっていた。
「……。」
朔也は黙り込む。
言葉が返せない。
蒼太はさらに続けた。
「自分じゃどうにも出来ないってのも、それで陽向本人が誰より苦しんでるのも、お前が一番知ってて何であんな事が言えんだよ。」
カフェテリアの喧騒が遠く聞こえる。
朔也は視線を落とした。
拳が僅かに握られる。
しばらく沈黙したあと。
「自分は出来ないくせに…」
ぽつりと呟く。
「人を責めるようなこと言ったあいつにイラついて……つい言っちゃっただけだよ。」
その声には怒りよりも、むしろ後悔の方が滲んでいた。
「だって、ひなは本来そんな人間じゃない。」
その言葉に、蒼太は小さく息を吐く。
そして、真っ直ぐ朔也を見る。
「雫に熱上げてんのは分かるけどな。これまでずっと支えてきたものまで放り投げて、何も見えなくなってんじゃねぇぞ。」
そこで、咲が慌てて蒼太の脇腹を肘で小突いた。
「もーっ!陽向も朔也も付き合い長いから遠慮ないんだよー!」
明るく笑って、わざとらしく大きな声を出す。
咲は必死だった。
朔也へ対して、陽向を諦めて欲しくない蒼太の気持ちが、蒼太の言葉の端に滲み出てるが、雫の前でするような話しではない。
「こんなのいつものことだし!だからしぃちゃんは、自分を責めなくていいからね!
咲は雫へ向き直る。
「体育祭終わったら、すぐ総合型選抜でしょ?だから今がピークなんだよ絶対。試験終わったら来月の公募推薦まで陽向も少し落ち着くし!」
そしてニコッと笑った。
「そしたらみんなでディンバー行こうよ!前みたいに騒いで!いっぱい喋って!陽向も絶対元に戻るって!」
咲らしい、根拠のない前向きさだった。
それでも、その明るさは少しだけ救いだった。
雫はしばらく黙っていた。
テーブルの上のおにぎり。
朔也の横顔。
心配そうに見つめる咲。
それぞれを順番に見つめて。
そして、小さく笑った。
けれどその笑顔は、どこか寂しそうだった。
「…………だと、いいんですけど……」
その呟きは、カフェテリアの喧騒の中へ静かに溶けていった。
本部テントには、陽向、横溝琉嘉、阿久津孝明、相田桜子、加賀優音の先輩役員だけが残っていた。
午後の競技開始まで、残された時間はわずか。
それでも、ようやく訪れた昼休憩だった。
机の上には、弁当箱と資料が入り混じっている。
得点表。
修正後のタイムテーブル。
午後の放送原稿。
誰も完全には休めていない。
陽向もまた、弁当を広げてはいたものの、業務片手に箸はほとんど進んでいなかった。
その一角で。
向かい合わせに座っていた相田桜子が、静かに口を開いた。
「陽向ちゃん……」
名前を呼ばれた瞬間、陽向の肩が小さく揺れた。
「小野さんと、何かあった?」
陽向の箸が、ぴたりと止まる。
一瞬。
さっきの光景が脳裏を掠めた。
怯えたように揺れた雫の瞳。
反射的に頭を下げた小さな肩。
その前へ庇うように立った朔也の背中。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
「……何もないよ」
陽向は視線を伏せたまま、静かに答えた。
出来るだけ平然と。
何でもないように。
けれど、声は思ったより少し硬かった。
「……小野さんに、何か思うこと……あったりする?」
その言葉に、陽向はぎゅっと箸を握り締めた。
「いや……特にないんだけど……」
特にない。
何もない。
そう言い切れたら、どれだけ楽だっただろう。
陽向は深く息を吐いた。
喉の奥に溜まっていた重いものを、少しだけ逃がすように。
「自分でも、よくわかんないんだよね… なんであんなこと言っちゃったのか」」
ぽつりと零れた声は、少しだけ弱かった。
分かりたくないと思っている自分がどこかにいる。
認めた瞬間、胸の奥に沈めてきた何かが形を持ってしまいそうで怖かった。
桜子は、すぐには返事をしなかった。
陽向の表情を責めるでもなく、探るでもなく、ただ静かに見つめている。
「陽向ちゃんは……今、余裕がないんだよ」
柔らかい声だった。
責める声ではなかった。
「文化祭が終わって、後夜祭があって、倒れて、受験もあって、体育祭の準備もあって」
桜子は、ひとつひとつ数えるように言った。
陽向は何も言えず、膝の上へ視線を落とした。
「だからきっと、小野さんが陽向ちゃんにとって一番近い後輩だから。仲が良いからこそ、言いやすい相手に無意識に甘えちゃってるのかなって、私は感じるかも」
「……そうなのかな」
陽向は、小さく呟いた。
きっとそうだ。
雫は可愛くて、素直で、懐いてくれていて。
自分のことを慕ってくれている後輩だから。
だから、少しだけ雑にしてしまった。
少しだけ、甘えてしまった。
そう思えば、まだ自分で納得出来る気がした。
けれど桜子は、そこで少しだけ目を伏せた。
「でも…」
陽向は顔を上げる。
「この前、生徒会室から陽向ちゃんが出て行ったあと、小野さんに私もフォローしたんだ。陽向ちゃんが今、大変な時期だからって」
「……うん」
「でも…その大変さって、小野さんはどこまで分かるんだろうね…」
陽向の胸が、ちくりと痛んだ。
桜子の声は責めていない。
でも、その言葉は静かに深いところへ落ちてきた。
「……確かに」
陽向は、唇を噛んだ。
「私も…去年まで、あんなに近くで見てたのに…」
脳裏に浮かぶのは、去年の生徒会長の姿だった。
いつも涼しい顔で。
完璧で。
何でも出来て。
自分を優しく見つめてくれていた人。
けれど今なら分かる。
あの涼しい顔の裏で、どれだけのものを抱えていたのか。
どれだけ疲れて。
どれだけ無理をして。
どれだけ一人で飲み込んでいたのか。
「俊ちゃんの本当の大変さなんて……全然分かってなかったな」
陽向の声は、少しだけ掠れていた。
桜子は静かに頷く。
「うん……それに…」
そこで、桜子は一度だけ言葉を切った。
少し迷うように、陽向を見る。
「修正資料……準備したの、坂牧くんだったんだよ」
「え……?」
陽向は目を見開いた。
「そうなの!?」
「うん。」
桜子は頷く。
「小野さんは、坂牧くんのミスを同じ書記として咄嗟に自分が謝って、新しい資料を陽向ちゃんに渡してくれただけ」
その瞬間。
陽向の胸の奥が、ズシンと重く沈んだ。
雫の怯えた顔が蘇る。
申し訳なさそうに頭を下げた姿。
自分は悪くないのに、それでも先に謝ったあの子。
「……うわ〜〜〜〜〜〜……」
陽向は両手で頭を抱えた。
声が震える。
「まじ最悪……しぃちゃんに……謝んなくちゃ……」
桜子は、ようやく少しだけ柔らかく笑った。
「うん。その方がいいね」
陽向は俯いたまま、小さく頷いた。
その時だった。
張り詰めていた空気を吹き飛ばすように、テントの中から加賀優音の明るい声が弾けた。
「あっ!琉嘉にお母さんが唐揚げ作ってくれたの忘れてた!」
「まじ?」
横溝琉嘉が顔を上げる。
「うん。この前ウチでご飯食べた時に、唐揚げめっちゃ美味いっていっぱい食べてくれたの嬉しかったっぽいよ」
そう言いながら、加賀優音は足元の保冷バッグを開けた。
中から取り出されたタッパーの蓋を開けた瞬間、香ばしい匂いがふわりと広がる。
「ちょっと今手ぇ離せないから口入れてくんね?」
得点表へ目を落としたまま、横溝琉嘉が当然のように言う。
「はいはい」
加賀優音は慣れた様子で唐揚げをひとつ摘まんだ。
「口開けてー」
「あー」
ぱくっ。
次の瞬間。
「うまっ!」
横溝琉嘉の目が僅かに見開かれる。
「優音ママの唐揚げ神。」
「それなー?」
加賀優音が得意げに胸を張る。
「優音ママ最高。」
「もっと褒めて。」
「結婚したい。」
「やめて、うちのお母さん取らないで。」
そんなやり取りに、テントの中へ小さな笑い声が広がった。
すると今度は、得点集計をしていた阿久津孝明が呆れたように顔を上げる。
「ちょっと、ここでイチャイチャしないでくださいよ。」
「うるせーな。散々藤崎会長と星野もイチャイチャしてただろーが。」
横溝琉嘉は即座に言い返した。
相田桜子まで笑いながら頷く。
その言葉に、テントの空気は一気に和んだ。
笑い声が重なる。
いつもの生徒会だった。
きっと陽向も、この輪の中心で一緒になって笑っていたはずだった。
「俊ちゃんが勝手に構ってきただけだーーー!!」
そう言いながら反論して。
なんて騒いで。
みんなから総ツッコミを受けて。
結局最後には大笑いしていたはずだった。
なのに。
「…………。」
陽向は笑えなかった。
そんな二人の仲良い光景にすら、胸の奥が、ズキンと痛む。
理由は分からない。
みんなはいつも通りで、誰も変わっていない。
変わってしまったのは、自分だけみたいだった。
楽しそうな笑い声を聞いているはずなのに。
そこへ混ざれない。
ほんの少し前まで当たり前だった場所が、今はどこか遠く感じる。
胸の奥に沈んだ重たいものだけが、じわじわと存在感を増していく。
陽向はそっと視線を落とした。
テントの外では、昼休憩終了を知らせる放送準備が始まっていた。
グラウンドの向こうでは、生徒達が次々とクラス席へ戻り始めている。
午後の競技が始まるまで、もうあと僅か。
それでも陽向の胸の中には、今やらなければならないことがひとつだけ、重く残り続けていた。
───しぃちゃんに謝らなきゃ。
その想いだけが、何度も何度も胸の奥で繰り返されていた。
昼休憩終了のアナウンスが校庭へ響き渡る。
生徒達が次々とクラス席へ戻り始め、ざわついていた空気が再び競技モードへ切り替わっていく。
体育祭本部テントにも、各持散っていた役員達が戻り始めていた。
陽向は資料を抱えたまま、入口の方へ視線を向ける。
そして。
その姿を見つけた瞬間、反射的に立ち上がった。
「……しぃちゃん!」
雫だった。
朔也、蒼太、咲と一緒に歩いてくる。
けれどその足取りはどこか重い。
さっきまで泣いていたことを思い出して、陽向の胸がぎゅっと締め付けられた。
雫がテントへ到着する。
考えるより先に身体が動く。
陽向は雫の前まで駆け寄ると、その場で勢いよく頭を下げた。
「さっきはごめんっ!!」
周囲の役員達が思わず目を丸くするほどの勢いだった。
「資料準備したの坂牧くんだったって聞いた…!何も知らないで私……責めるようなこと言って本当にごめん……!」
深く頭を下げたまま動けなかった。
雫は呆然と陽向を見つめる。
しばらくして。
大きな瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「…よ…良かったです……」
小さく震える声。
「…私…っ…星野先輩に嫌われちゃったかもって思って……」
その言葉に、陽向は勢いそのままに雫を抱き締めた。
「わー!!嫌ってないよーっ!!本当ごめーん!!」
ぎゅうっと。
小柄な身体を包み込む。
その声は先程までの温度とは違い、どこか温かったた。
雫もゆっくりと陽向の背中へ腕を回す。
「……う〜….」
小さく頷く。
それだけで十分だった。
張り詰めていた空気が、少しだけほどける。
その時だった。
ポカッ!
頭頂部へ何かが当たる。
「…!」
陽向が顔を上げる。
そこには朔也が立っていた。
手にはスポーツドリンクのペットボトル。
まだ表面には白い霜が残っている。
「これ、さっき親から受け取った。まだ中身凍ってるからお前にやる。」
母親が自宅で凍らせてきてくれたものを、ぶっきらぼうに差し出した。
陽向は目を瞬く。
相変わらず言い方は可愛くない。
けれど。
その不器用な優しさが分からないほど、陽向は馬鹿じゃなかった。
「……ありがと。」
小さく受け取る。
冷たい感触が掌へ伝わった。
すると今度は雫が、自分の首元へ手を伸ばした。
「星野先輩。」
ふわりと首へ巻かれる冷却タオル。
ひんやりとした感触に、陽向は思わず肩を竦めた。
「無理し過ぎないで下さいね。私にもお手伝い出来ることがあったら、何でもやりますから。」
雫は優しく笑う。
その笑顔は、さっきまで泣いていたとは思えないほど柔らかかった。
そして雫は振り返る。
「朔也くんのタオル、星野先輩に貸すね。」
「わかった。」
朔也も特に気にした様子なく頷いた。
当たり前みたいなやり取り。
自然な恋人同士の空気。
陽向の胸の奥で、何かが小さくと音を立てた。
「……二人とも……ありがとう……」
笑ったつもりだった。
ちゃんと笑えたはずだった。
なのに。
胸の奥が苦しい。
優しくされている。
傷付けたのは自分なのに。
雫は許してくれた。
朔也も心配してくれた。
本当なら嬉しいはずだった。
安心するはずだった。
それなのに。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
首元に巻かれた冷却タオルから、ほんのりと柔軟剤の香りがした。
朔也の家の匂い。
ずっと昔から知っている匂い。
その香りが鼻先を掠めた瞬間。
胸の奥で押し込めていた感情が、またぐらりと揺れた。
安心。
罪悪感。
後悔。
感謝。
寂しさ。
羨望。
言葉にならない感情達が、ぐちゃぐちゃに絡まり合う。
自分でも整理できない。
何が苦しいのか分からない。
何に傷付いているのかも分からない。
ただ。
胸の奥だけが、どうしようもなく痛かった。
陽向は冷たいペットボトルを胸元へ抱き寄せる。
そして誰にも気付かれないように、小さく俯いた。
午後の競技開始まで、あとわずか。
それでも今だけは。
自分の心の中で狂い始めた歯車の音だけが、やけに大きく響いていた。




