102話 義を見てせざるは勇無きなり
そして、四月十三日は訪れた。
放課後。
帰りのホームルームが終わった教室の空気が、少しずつほどけていく。
その中で、陽向はスクールバッグを肩にかけた。
まだ、胸の奥は落ち着かなかった。
今日が何の日なのか。
考えないようにしても、身体のどこかがちゃんと覚えている。
今年度最初の、生徒会役員会議。
「陽向ー!行こー!」
教室の入口から、咲の明るい声が飛んできた。
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
陽向は顔を上げ、ぱっと笑ってみせる。
「うん!」
その返事は、自分でも驚くほど明るく出た。
廊下へ出ると、咲と並んで歩きながら他愛もない話をする。
お互いの新しいクラスのこと。
担任のこと。
咲の声は軽く、楽しそうで。
陽向も相槌を打ち、笑い返す。
けれど、心の奥のどこかだけが、ずっと別の場所に残っていた。
廊下の先。
昇降口が見えてくる。
その手前で。
陽向の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
自分でも、止まるつもりなんてなかった。
ただ、身体が勝手に反応した。
視線が、無意識に横へ流れる。
あの階段を上がった先にある部屋。
生徒会室の方角。
胸の奥で、あの日の声が蘇る。
(——来週、待ってるからな。)
低くて、ぶっきらぼうで。
それでも確かに、背中を押すような声だった。
この一週間、何度も考えた。
朝起きるたびに気持ちは変わった。
授業中にも揺れた。
夜になると、また怖くなった。
行かなきゃと思う日もあった。
やっぱり無理だと思う瞬間もあった。
何度も、何度も。
餅田先生から聞いた、彼の話を思い出しては。
心の中で、生徒会室の扉の前に立った。
けれど。
「陽向……?どうしたの?」
咲の声が、すぐ隣で落ちる。
その声に、陽向はゆっくり瞬きをした。
胸の奥に溜まっていたものを、静かに飲み込む。
そして、笑った。
少しだけ、いつもより小さな笑顔で。
「ううん。行こっか、咲。」
そう言って、視線を前へ戻した。
外靴へ履き替える動作は、いつもと何も変わらない。
陽向は、もう一度だけ振り返りそうになる自分を押さえ込んだ。
そのまま咲と並んで、昇降口を出る。
春の風が、頬を撫でた。
正門の向こうには、いつもの帰り道が続いている。
背中の後ろに、校舎が遠ざかっていく。
生徒会室へは、行かなかった。
陽向はそのまま、春風が吹くアプローチ広場を進んで、正門を抜けていった。
────────。
ガラッ——
静かな音を立てて、生徒会室の扉が開いた。
午後の陽射しが、廊下から細く差し込む。
その光を背負うようにして、生徒会顧問の餅田先生が室内へ入ってきた。
「はーい、全員揃ってるかー」
いつも通りの、どこか気怠そうな声。
けれど——
「「「……………………。」」」
返事は、なかった。
生徒会室の空気は、重かった。
机の上に置かれた資料。
ホワイトボードに書かれた「令和◯年度 第一回役員会議」の文字。
窓の外では、春の風に花びらが落ちきった葉桜が揺れている。
なのに、この部屋だけ時間が止まっているみたいだった。
餅田先生は、静かに室内を見渡す。
────いない………か。
その“たった一人”の不在が、生徒会室の空気をこんなにも広く、寒くしていた。
餅田先生は、小さく息を吐く。
まるで、自分の中の感情を切り替えるみたいに。
「……よし。」
そう言って、いつもの席へ腰を下ろした。
パイプ椅子が、ギ……ッと小さく軋む。
「じゃあ、揃ってるみたいなので。今年度最初の役員会議を始めます。」
その瞬間。
「あの…………」
小さな声が、静かな空気へ落ちた。
三年生役員の相田桜子だった。
俯いたまま、膝の上で指先をぎゅっと握り締めている。
その声は、震えるのを堪えるみたいに小さかった。
「…まだ一人……揃ってません。」
その言葉で。
生徒会室へ、再び重たい沈黙が落ちる。
誰も何も言えなかった。
窓の外では、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
吹奏楽部の音も、微かに混ざっている。
新学期の放課後。
学校中が、新しい季節へ向かって動き出している。
なのに、この部屋だけが——
まだ、あの日の続きを引きずっていた。
餅田先生は、壁の時計へ視線を投げた。
秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……………流石に、この時間になっても来ていないなら……それが答えという事だろ……」
低く落ちた声。
そう言いながら。
餅田先生自身が、一番苦しそうだった。
諦めるような言葉を口にしながら、本当はまだ、どこかで扉が開く音を待っている。
そんな空気が、滲んでいた。
「もう少しだけ、待てないっすか!」
その沈黙を破るように、同じく三年生役員の横溝琉嘉が顔を上げた。
強い声だった。
けれど、その奥には焦りが滲んでいる。
餅田先生は、そんな三年生達を見つめたあと、今度は二年生役員へ視線を向ける。
「…………阿久津と加賀はどうだ?」
問われた二年生役員、阿久津孝明は、迷わなかった。
「俺は待ちたいです。」
即答だった。
その隣で、二年生役員、加賀優音も静かに頷く。
「私も……待ちたいです。」
その言葉に。
この場にいる全員の気持ちが、同じなのだとわかった。
誰も、“もう来ない”なんて思いたくなかった。
その空席を、誰も簡単には受け入れられなかった。
餅田先生は、俯きながらフッと小さく笑う。
呆れたみたいに。
でも、どこか嬉しそうに。
「……ほんと、お前ら………」
その時。
餅田先生の脳裏に、俊輔の言葉が甦った。
(今の聖稜国際の生徒会役員達は、そんな“主体性”を培った……これまでの先輩達より、遥かに優秀な役員達だと思っています。)
顧問に決められた事を、指示通りに従うのではない。
藤崎。
これが、お前の言っていた“主体性”というものなんだな……。
小さく息をついてから、顔を上げた。
「あと10分だけ待つとする。」
その言葉に、全員の視線が一斉に上がる。
「10分経過しても来なかった場合は、このメンバーで役員会議を始めるぞ。」
静かな声だった。
けれどそこには、“まだ待ちたい”という気持ちが、確かに含まれていた。
「「「はい。」」」
役員達の声が、揃う。
その返事は不思議なくらい真っ直ぐだった。
────────。
カラン──
ディンバードーナツのドアベルが、放課後の賑やかな店内へ軽やかに鳴り響いた。
先にホームルームを終えて店内で待っていた蒼太と朔也のテーブル席を見つけると、二人はそこへ向かって歩いていく。
「お待たせー!中川が何気にホームルーム長くてさぁ〜」
咲が、話が長い担任の文句をぶーぶー言いながら蒼太の隣へ座る。
そして朔也の視線が、自分の隣へ座ろうとしている陽向で止まった。
「あ?お前、なんでいんの?」
その一言に。
陽向が、バッグを椅子へ置こうとしていた手をほんの少し止めた。
「そういや俺らと同じクラスの横溝が、今日役員会議のはずだったよな?」
「え、そうなの?」
蒼太が思い出したみたいに顔を上げると、咲が、キョトンとした顔で陽向を見た。
「あー……」
陽向は、小さく視線を落とした。
そして、なるべく軽く聞こえるように笑う。
「言ってなかったっけ?今期、生徒会降りたんだよ。」
「「「はっ!!!???」」」
三人の声が、綺麗なくらい同時に重なった。
「なんで?」
朔也は、間髪入れずに聞いた。
その声には遠慮のカケラもない、
「いやー….だって受験生だし。私に受験も生徒会も両立するなんて普通に無理ゲーじゃね?」
陽向は視線を逸らしながらも、努めて軽く。
いつもの調子みたいに笑ってみせる。
「これまで散々先輩達に迷惑かけて来たのに……流石に後輩達には迷惑かけられないよ。」
そう言いながら。
胸の奥では、別の何かがずっと疼いていた。
「陽向は…それでいいのか?」
蒼太が、静かに問いかけた。
責める声じゃなかった。
ただ、本当に確かめるみたいな声だった。
陽向は、小さく笑った。
「勿論。私なんかが生徒会に居たら、みんなの足引っ張るだけだし…みんなにとって迷惑だよ。」
その笑顔は、どこか無理やりだった。
ガンッ——!!
突然、鈍い音がテーブルへ響いた。
咲の肩が、ビクッと揺れる。
朔也が手にしていたグラスを、勢いよくテーブルへ置いた。
朔也は、真っ直ぐ陽向を見ている。
「本当にそうなんだな?」
低い声だった。
その目だけが、妙に鋭い。
「生徒会の奴らは、本当にお前がいたら迷惑だって、心の底からそう思ってるんだな?」
「…………っ」
陽向の喉が、ひゅっと詰まる。
言葉が出ない。
「お前は今まで、誰に助けられて来たんだ?卒業してった先輩達だけか?」
朔也の声が、逃げ道を塞ぐみたいに落ちてくる。
「相田や横溝や、今いる他の役員達は、これまでお前を支えてはくれなかったか?」
泣きながら資料を抱えていた時、隣で手伝ってくれた相田桜子。
暴走した時に、必死でフォローしてくれた横溝琉嘉。
失敗して落ち込んでいた時、「星野先輩、大丈夫ですか?」って笑ってくれた加賀優音。
何も言わず一緒に残業してくれた阿久津孝明。
たくさんの顔が、次々と浮かぶ。
「お前は、生徒会役員の仕事から逃げてるんじゃない。」
朔也が、静かに言った。
陽向の心臓が、嫌な音を立てる。
踏み込まれたくない場所へ、今まさに足音が近づいてくる感覚。
そして——
「お前が逃げてるのは、藤崎俊輔がいないという現実だ。」
「——っ!!!」
ズドンッ!と。
真正面から胸を撃ち抜かれたみたいだった。
呼吸が止まる。
心臓を鷲掴みにされたみたいに、胸の奥が激しく痛んだ。
「朔也っ!!」
咲が慌てて声を上げる。
朔也が、陽向の地雷原を思い切り踏み抜いた。
その名前は、ずっとみんなが禁句のように避けていた。
藤崎俊輔の名前を出せば、陽向が壊れてしまうと知っていたから。
けれど朔也だけは、逃がさない。
陽向の弱さから、目を逸らさなかった。
「………陽向。」
今度は、蒼太が静かに口を開く。
その声には、怒りよりも、痛みが滲んでいた。
「今が辛いのは、よくわかる。正直めちゃくちゃしんどいだろうと思う。」
蒼太は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「だけど、これまで一緒にやってきた仲間に対して、“自分の事を迷惑な存在だと思ってる奴ら”だと言ってしまうのは、あんまりじゃねぇのか?」
蒼太の鋭い指摘に、陽向の指先が、ぎゅっと震える。
「続ける続けないはお前の勝手だけどな。」
普段は温厚な蒼太の声が、珍しく強くなっていく。
「少しでも助けて貰った義理があんなら。」
蒼太の目が、鋭く陽向を見る。
「陽向が、今の役員達に対して、ちゃんと仲間だったという意識があるんなら。」
低く、真っ直ぐな声。
「このまま何も言わずにバックれたりなんかしねーで、最後にちゃんと義理を通せよ。」
陽向も、視線を逸らさない。
真っ直ぐに蒼太を見つめる。
こんなに怖い蒼太を、陽向は見た事が無かった。
「辞めんなら辞めるで、せめて最後にみんなに礼を言うくらいの、そんくらいの誠意もねーのかよ。」
その言葉が、胸へ深く突き刺さる。
「お前にとっての“仲間”は、卒業してった先輩達だけだったのかよ。」
「………違う。」
掠れた声が、ようやく零れた。
その言葉に、蒼太はフッと表情を柔らげた。
「 義を見てせざるは勇無きなり。」
そして。
「行けよ。それが“筋”だろ。」
蒼太の言葉が落ちたその瞬間。
ガシッ!!
陽向の手が、勢いよくスクールバッグを掴んだ。
椅子がガタンッ!!と大きな音を立てて後ろへずれる。
陽向には、もう何も見えていなかった。
胸の奥で、何かが限界を迎えていた。
苦しい。
痛い。
怖い。
でも、それ以上に。
こんな自分が、嫌だった。
陽向は、足早に店の出口へ向かう。
夕暮れ前の店内を、一直線に駆け抜ける。
制服の裾が揺れる。
バッグが肩へ何度もぶつかる。
そして——
カランッ!!
ドアベルが、大きく鳴り響いた。
春の風が、一気に店内へ吹き込んでくる。
夕暮れ色へ染まり始めた光。
桜混じりの風。
遠くを走る電車の音。
その全部を置き去りにするみたいに。
陽向は、そのままディンバードーナツを飛び出していった。
学校へ向かって、一直線に走る。
俊ちゃんは、もういない。
学校にも。
この街にも。
もう、どこにもいない。
「………っ」
陽向の目から、涙が溢れた。
生徒会役員のみんなが、自分を迷惑だなんて思っていない事くらい。
そんなの、本当は最初からわかっていた。
相田桜子の優しさも。
横溝琉嘉の真っ直ぐさも。
加賀優音の気遣いも。
阿久津孝明の不器用な支え方も。
全部、痛いほど知ってる。
だからこそ。
みんなに会えば、きっと引き止められるとわかってる。
あの人達は、きっと真っ直ぐに手を伸ばしてくれる。
そんな顔をされたら。
そんな声を向けられたら。
きっと、自分は振り切れない。
役員を続ければ、絶対に壁へぶつかる。
困る事だって、何度もある。
失敗する。
泣く。
迷う。
その度に、思い知らされる。
どれだけ、先輩達に助けられていたのか。
どれだけ、彼の存在に支えられていたのか。
苦しい時。
泣きそうな時。
どうにもならなくなった時。
いつだって、あの穏やかな声があった。
(大丈夫。)
(陽向なら出来るよ。)
優しく髪を撫でてくれる手があった。
でも、もう。
それは、ない。
この先どれだけ苦しくても。
もう、彼は助けに来てくれない。
「……ぅ……っグス……ふ………」
全力で走りながら、止めどなく溢れる涙を何度も拭う。
その現実を。
生徒会室へ戻れば、嫌というほど突きつけられる。
彼の温もりが残る部屋で。
彼の声を思い出しながら。
彼がもういないという現実だけを、何度も何度も思い知る。
このまま学校へ戻るという事は。
それはもう——
“その現実”から、逃げられないという事だった。
「……はぁ………はぁ………はぁ………」
夕陽に染まり始めたアプローチ広場が見えた瞬間、陽向は正門の前で一度だけ立ち止まった。
校門の向こう。
見慣れた校舎。
見慣れた窓。
見慣れた階段。
その景色を見つめた瞬間、胸の奥へ色んな顔が浮かんだ。
橘梨愛。
水野彗。
瀬戸晴翔。
卒業していった先輩達。
そして。
今、生徒会室で待っている後輩達。
相田桜子。
横溝琉嘉。
加賀優音。
阿久津孝明。
たくさん怒られて。
たくさん助けられて。
たくさん迷惑をかけて。
それでも、ずっと隣で支えてくれた仲間達。
そして………………
(陽向、頑張れ。)
今でも大好きで堪らない。
俊ちゃん。
この先へ進めば、もう後戻りは出来ない。
ここから先は———修羅の道。
彼がいない現実を抱えたまま。
先輩達のいない生徒会を、自分達で進まなければいけない。
陽向は、最後にもう一度、涙を拭った。
それでも。
逃げない。
「………っ」
陽向は、ぎゅっと奥歯を噛み締める。
そして——
ダンッ!!
アスファルトを、強く踏み込んだ。
次の瞬間。
陽向は正門を駆け抜ける。
春風が、背中を押した。
昇降口へ飛び込み。
乱れた呼吸のまま靴を履き替える。
階段を、一段飛ばしで駆け上がる。
夕暮れ色へ染まり始めた廊下の先。
生徒会室へ向かって。
陽向は、もう止まらなかった。




