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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第三章〜高3編〜【最終章】  作者: 波方 真季


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101話 初太刀の起こりを打たれたら


新入生オリエンテーションが終わると、校内の空気は一気に色を変え始めた。


廊下の壁には、色とりどりの部活紹介ポスター。

昇降口には、チラシを抱えた上級生たち。

中庭では、吹奏楽部の演奏が遠くまで響き渡り、グラウンドからは運動部の掛け声が風に混ざって聞こえてくる。


「見学だけでも来てくださーい!」


「未経験でも大歓迎です!」


「マネージャー募集中でーす!」


あちこちから飛び交う勧誘の声。

新しい制服にまだ着慣れていない一年生たちが、戸惑いながら校内を歩いていく。


春特有の、少し浮き足立った熱気。

何かが始まりそうな匂い。


その空気の中で——


三年生になった蒼太は、今年から剣道部の主将になっていた。


放課後。


ホームルームが終わると蒼太と朔也は、いつものように二人並んで部活へ向かっていた。

そして二人が、道場前へ差しかかった、その時だった。


「え、めっちゃくちゃ可愛くね?」


「ワンチャン、アイドルとかやってたりする?」


「インスタ教えてよ」


騒がしい声が、道場前の空気を占領していた。


視線を向ける。


そこには、一人の女子生徒を囲むようにして立っている男子生徒たちの姿があった。

女子生徒の真新しい制服。

胸元のリボンも、まだ少しぎこちない。

どう見ても、新入生だった。


「なんだあれ……」


朔也が眉をひそめる。


「はぁ〜……新学期早々、みっともねぇな」


蒼太も、呆れたように息を吐いた。


「……あれ柔道部の2年だろ」


「ったく……道場の前で部活勧誘しながらナンパかよ」


剣道部と柔道部は、同じ道場を曜日ごとに分けて使用している。

今日は剣道部の活動日。

そのため柔道部は、道場の外で新入生勧誘をしていたのだろう。


けれど——


「えっと……あの……ちょっと……」


囲まれている女子生徒の声は、明らかに困っていた。

愛想笑いを浮かべてはいる。

けれど、視線は泳いでいて、肩も小さく強張っている。

逃げたいのに、逃げられない。

そんな空気が、遠目にもわかった。


蒼太は、その様子を見て小さく眉を寄せると、ポン、と朔也の肩を叩いた。


「俺、部長だから遅れるわけいかねぇし。頼んだわ」


「は!?俺!?」


思わず素っ頓狂な声が出る。


「シカトするわけいかねぇだろ。道場の入口前で邪魔だし。適当に撒いといて」


「は、だる。」


露骨に嫌そうな顔をする朔也。

蒼太はそんな反応を気にも留めず、軽く手を振った。


「じゃ、よろしく」


それだけ言い残すと、そのまま女子生徒と柔道部員たちの横を素通りし、道場の中へ消えていく。


「おい待てコラ主将!!」


朔也の抗議は虚しく空気へ溶けた。

道場の扉が、ガラッと閉まる。

残された朔也は、心底めんどくさそうに頭を掻いた。


そして——


男子生徒たちに囲まれ、小さく困った顔をしている新入生へ、ゆっくりと視線を向けた。


「すみません……私、これから仮入部に行きたくて……」


女子生徒の声は、小さかった。

断ろうとしている。

ちゃんと、逃げようとしている。


「えー、剣道部?」


「いや……」


「柔道部にも仮入来てよ」


男子たちは、まるで聞いちゃいなかった。

軽い笑い声。

距離感のおかしい踏み込み方。

“嫌がられてる”空気を無視したまま、面白半分で囲み続けている。

女子生徒は困ったように視線を泳がせた。

新品の上履きのつま先が、小さく揺れる。

逃げ道を探しているみたいに。


「ごめんなさい……もう行かなきゃなので……」


そう言って、女子生徒が強引に輪から抜けようとした、その瞬間だった。


 

ガシッ。


 

「ちょっと待ってよ。名前だけでも教えてくんない?」



男子生徒の手が、女子生徒の腕を掴んだ。

細い肩が、ビクッと震える。


その瞬間。


朔也は、盛大なため息を吐いた。


「はぁ〜〜〜…………」


春の空気に、重たい息が落ちる。


「……離して……ください……」


女子生徒の震えた声が、耳に引っかかった。


「……ちっ。」


朔也は、大音量の舌打ち。

次の瞬間。

朔也の足が、渋々前へ出ていた。


そのまま無造作に歩み寄ると——


 


グイッ。


 


腕を掴んでいた男子生徒の首元を、後ろから乱暴に引っ張り上げた。


「うわっ!?」


突然の衝撃に、男子生徒の身体が大きくのけ反る。

朔也は、そのまま気怠そうな顔で口を開いた。


「はいはい、ストップ。」


低い声。

けれど、その場の空気を一瞬で変えるには十分だった。


「道場の前でみっともねー真似してんじゃねーぞ、お前ら。」


その瞬間。

男子生徒たちの顔色が、一斉に変わる。


「黒川先輩……!!」


背筋が、ビシッと伸びた。

ついさっきまでヘラヘラしていた空気が、一瞬で消し飛ぶ。

朔也は、掴んでいた首元を雑に離した。


「剣道部に仮入希望の新入生、引き止めるとか。」


鋭い視線が、柔道部員たちを射抜く。


「お前ら、剣道部にタンカ切ってんの?」


「いや……」


「すみません……」


咄嗟に俯く柔道部二年。

朔也は、心底ダルそうに頭を掻いた。


「もう部活始まるから。今日は勧誘終わりな。」


そして——

わずかに目を細める。


 


「散れ。」


 


低く落ちたその一言に。

柔道部員たちは、一斉に頭を下げた。


「押忍!!すぁーせんしたっっっ!!!!」


ほぼ反射みたいな謝罪。

そのまま、蜘蛛の子を散らすように足早に去っていく。

騒がしかった空気が、一気に静かになる。

道場前には、春風だけが残った。


ひらり、と。


桜の花びらが、女子生徒の肩へ落ちる。


朔也は、それを一瞥したあと、小さく息を吐いた。


「……ったく。」


俯いたままの新入生へ、朔也は気怠そうに声を掛けた。


「……で、君はなに?剣道部の仮入?」


「あ……えっと……」


その声に、新入生がゆっくり顔を上げる。




春の光が、その髪をふわりと照らした。




低い位置で結ばれたツインテール。

艶のある黒髪には、まるで天使の輪みたいな淡い光が滲んでいる。

緊張でほんのり赤くなった頬。

困ったように揺れる上目遣い。

さっきまで怖かったのか、瞳の縁には薄く涙が浮かんでいた。



(……なるほど。可愛い。)



ポン、と素直に。

その言葉が朔也の頭の中に浮かんだ。

あれだけ男に囲まれていた理由には、妙に納得した。


けれど——

次の瞬間。






「バトミントン部の仮入部って……どこですか?」






「…………………。」


 

想定外の言葉に、朔也の思考が一瞬だけ止まった。

遠くでは、中庭から吹奏楽部の音が微かに聞こえていた。

数秒遅れて、ようやく言葉の意味が頭に入ってくる。


「……は?」


間抜けみたいな声が漏れる。


「バド部?」


「は、はい……」


少女は、おずおずと頷いた。


「バド部は中庭のコートだから……ここから真反対の新校舎だよ?」


「えっ!そうなんですか?」


「いや…案内見てないの?」


「す、すみません……」


シュン…と肩が縮こまる。


「それって……結構遠いですか?」


「うん。かなり遠い。」


「えぇ〜……」


女子生徒の顔が、一気に曇った。


「辿り着けるかなぁ……また迷子になっちゃうなぁ……」


「………………。」


その瞬間。

朔也の胸の奥に、言いようのないざわつきが広がった。


なんだこの感じ。

嫌な予感しかしない。


目の前の新入生は、本気で困っていた。

演技とか、ぶりっ子とか、そういう類じゃない。

多分、素で方向音痴なんだろう。

おろおろと視線を泳がせながら、不安そうに校舎の方を見る姿は、小動物みたいに危なっかしい。


こんな、まるで人気アイドルグループのセンターにでも立っているようなオーラを纏った可愛い女の子。


放っておいたら。

こいつ、多分また捕まる。

あるいは、普通に迷子になる。


朔也は、盛大に顔をしかめた。


(…………めんどくせぇーーーーーーーーー)


めちゃくちゃ、めんどくさい。


なのに。

春風に揺れるそのツインテールを見ていると、何故か見捨てる選択肢が頭に浮かばなかった。


朔也は、ガシガシと乱暴に頭を掻いたあと、心底ダルそうに口を開いた。


「……案内してやるから。来い。」


「えっ?」


パチッと。

少女の目が大きく見開かれる。

春の光を映したその瞳が、キラリと揺れた。

まるで、予想もしていなかった言葉を向けられたみたいに。


「ででで、でも……部活動、始まっちゃいますよね……!?」


慌てた声。

小動物みたいにおろおろした視線。

朔也はそんな反応に対して、気怠そうに肩を竦める。


「あ? あぁ、遅れてくからいい。」


そう言って、道場とは反対方向へ歩き出す。

無造作な背中。

片手をポケットへ突っ込んだまま、面倒くさそうに進んでいく足取り。


「えっ!そんな、申し訳ないですよ!!」




この人は——


 

ちょっと怖そうな見た目をしているのに。


口も悪くて。

態度もぶっきらぼうで。

見るからに、不機嫌そうなのに。


今日、初めて会ったばかりなのに。


見ず知らずの私なんかに。


 

どうして、こんなに優しいんだろう。




「あのさぁ。」




朔也が立ち止まった。


少女もピタリと立ち止まる。

振り返った朔也が、少しだけ眉を寄せながらこちらを見る。

春の日差しが、その横顔へ斜めに落ちていた。






「そんなに可愛いんだからさ。もっと気をつけた方がいいよ?」






何でもないみたいな口調で。


「……っ!」

 

思わず息が、止まった。

さっき柔道部の男子達にも、“可愛い”とは言われた。


でも、それとは全然違った。


軽薄な響きじゃない。

チャラチャラした雰囲気も下心も感じない。

ただ、本当に自然に。

当たり前みたいに零された言葉。


同じ言葉なのに、さっき言われた時とは、明らかに違う。




胸の奥が、キュンと締めつけられた。




耳の奥で、自分の鼓動がうるさい。

頬が、一気に熱くなっていく。



 

「け、剣道部にします!」




気づけば、言葉が飛び出していた。


「え?」


今度は朔也が、ぽかんと聞き返す番だった。

少女は、真っ赤になったまま勢いよく続ける。


「今日は剣道部の仮入部に参加することにします!」


「え、でもバド部行きたかったんじゃ……」


「バド部は明日行く事にしました!今日は、剣道部に参加してもいいですか?」


早口だった。

自分でも何を言ってるのかわからないくらい、勢いのまま言葉が溢れていく。




だって。



もう少し、この人の事を知りたい。




朔也は、そんな少女を見ながら、心底不思議そうに眉をひそめた。


「や……まぁいいけど……それは本人の自由だから……」


どこか戸惑ったみたいな声。

少女は、パッと顔を明るくした。


「よろしくお願いします!えっと確か…あ、黒川先輩!!」


勢いよく頭を下げる。

低い位置で結ばれたツインテールが、ぴょこんと揺れた。


朔也は、その様子を見ながら、小さく息を吐く。


調子が狂う。

面倒くさい。

絶対、面倒くさいタイプだ。


なのに——

何故か、放っておけない。


朔也は、ぶっきらぼうに言った。


「あそ。んじゃ部長んとこ連れてくわ。」


「はい!」


少女の声が、春の空気へぱっと弾ける。

その明るい返事を背中で聞きながら。

朔也は、再び道場へ向かって歩き出した。


少女は、少し前を歩く朔也の背中を見つめた。


広い肩。

無造作に揺れる黒髪。

制服を着崩した後ろ姿は、どこか近寄り難い雰囲気を纏っている。


なのに。


さっき、自分の腕を掴まれた直後。

あの人達の輪の中へ入ってきた時。

怖かった空気が、一瞬で消えた。

低い声。

乱暴な口調。

それなのに、不思議なくらい安心してしまった。


胸の奥が、まだ少しだけ熱い。


道場へ足を踏み入れた瞬間。

木の床と防具の匂いが混ざった、独特の空気が身体を包み込んだ。


放課後の道場は、練習前のざわめきに満ちている。

壁際では、一年生らしき仮入部員たちが緊張した顔で竹刀を抱えていて。

奥では二、三年生たちが、防具の紐を締めながら談笑していた。

竹刀が軽く打ち鳴らされる乾いた音。

誰かの笑い声。

床板を踏みしめる足音。

張り詰めているのに、どこか熱を帯びた空気。


その中を——


「蒼太ー!仮入ー!」


朔也が、気怠そうな声を響かせながら歩いていく。

少女は、その少し後ろを小走りでついていった。


制服を雑に着崩した後ろ姿は、やっぱり少し怖そうで。

歩くたび、周囲の空気が自然と避けていくみたいな存在感がある。


なのに。

さっきから不思議なくらい、安心している自分がいた。


「あぁ、その子…さっきの。」


道場の奥から蒼太がこちらへ気づき、軽く手を挙げる。


「今日剣道部に仮入するってよ」


「文句言ってた割には、ちゃっかりしっかり助けてやったんだな。さすが剣道部の裏番。」


「誰が裏番じゃコラ」


「あ、間違えた。ケツ持ちか?」


「チンピラじゃねーぞ」


「いやどー考えてもチンピラだろ」


「ぶっ殺すぞ」


テンポよく飛び交うやり取り。

言葉だけ聞けば物騒なのに、不思議と空気は険悪じゃない。


むしろ——

長い時間を一緒に過ごしてきた人同士特有の、遠慮のない距離感が滲んでいた。


少女は、ぽかんとしたまま二人を見つめる。


さっきまで道場前で男子生徒たちを一瞬で黙らせていた時とは、どこか違う。

今、蒼太と話している朔也は。

少女の目には、どこか年相応の男子高校生みたいに見えていた。


(……部長さんと、こんなに仲良いんだ……)


少女の胸の奥で、小さく何かが揺れる。


(……黒川先輩って……よっぽど信頼されてるんだな…)


胸の奥が、また少しだけ熱くなる。


「で、君名前は?」


道場のざわめきの中で。

蒼太が、少女へ向かって淡々と問いかけた。


小野おの しずくです。」


「小野さんね。剣道の経験は?」


「あ…ないです……」


そこで横から、朔也がフォローするように口を挟んだ。


「この子、本当はバド部の仮入行こうとして迷子になったんだってさ」


蒼太が、思わず吹き出す。


「迷子?はは、おっちょこちょいは誰かさんみてーだな」


その言葉で、朔也の頭に瞬時に騒がしくておっちょこちょいな幼馴染みの顔が浮かぶ。


「ただの方向音痴であんな重症者と一緒にしたらこの子が可哀想だろ」


「んな事言って。大好きなくせによ」


「うるせぇな!今関係ねぇだろ!」


その会話が耳に落ちた瞬間、雫の思考がピタリと止まった。


(……大好き……?)


その一言が。

胸の奥へ、ぽたりと落ちる。




あー……………そっか。




(そりゃ彼女いるか…黒川先輩かっこいいもんな………)


モテないわけがない。


むしろ。

こんなに優しくて、格好良くて、頼れる人に。

彼女がいない方が、不自然なくらいだ。


その瞬間。


胸の奥へ、すうっと重たいものが沈んでいく。


さっきまで熱かった場所が。

今度は、少しだけ冷たくなる。


自分でも笑ってしまう。


今日、初めて会ったばかりなのに。

名前を知ったのだって、さっきなのに。


どうしてこんなに、勝手にショックを受けているんだろう。


雫は、ぎゅっと指先を握りしめた。

胸の奥が、きゅう……っと苦しい。


雫は、誰にも気づかれないくらい小さく、唇を結んだ。


「仮入部の子たちはこっちなー」


蒼太が一年生たちへ声を掛けると、雫へ伝える。


「今日は見学と軽く体験だけだから、あっちの更衣室でジャージに着替えて。防具は着けなくて大丈夫。まぁ小野さん剣道部は本命じゃないだろうし。今日は竹刀だけ触ってみる感じで。」


「はい……!」


雫は、小さく返事をした。

その横を、朔也が無造作に通り過ぎていく。


「朔也も急いで着替えろよ」


「へいへい」


蒼太の言葉に、背中で適当な返事をした朔也。


(………下の名前………“朔也”って言うんだ………)


雫は、その背中を見つめていた。




練習が始まった道場には、独特の熱気が満ちていた。


バンッ!!


突然、床を叩くような激しい音が響く。


「ひゃっ……!」


雫の肩が、ビクッと跳ねた。


反射的に視線を向ける。

道場の中央では、防具を纏った部員たちが向かい合っていた。


次の瞬間。


「メェェェンッッッ!!!!」


腹の底から絞り出すような大声が、空気を震わせる。


パァンッ!!


竹刀同士がぶつかる乾いた音。

踏み込みの衝撃。

張り詰めた空気。

テレビで見たことはあった。

でも、目の前で見る剣道は、全然違った。


怖いくらい迫力がある。


「すご……」


思わず、小さく呟きが漏れる。


「小野さんだっけ?」


蒼太が近づいてくる。


「はいっ」


「今日は礼とか足さばきやるだけだから、気楽でいいよ」


笑いながら言うその雰囲気は優しい。

けれど、その後ろでは防具姿の上級生たちが次々と打ち込みを始めていて、道場の空気はどこかピリついていた。


「まず、剣道は礼儀からな」


蒼太が、道場中央へ向かって軽く頭を下げる。


「道場入る時も出る時も礼。“お願いします”“ありがとうございました”はちゃんと言う。あと剣道は足を滑らせるみたいに動く。走らない」


「は、はい……!」


雫も慌てて真似をする。

ぎこちなく頭を下げると、視界の端で朔也が更衣室から、出てきた。


紺色の剣道着。

袴。

さっきまで制服だった人が、一気に“剣道部”へ変わった。


剣道着姿の朔也は、制服の時よりずっと背が高く見えた。


広い肩。

引き締まった腕。

袴の裾を踏まないよう歩く姿。


制服を着崩していた時の気怠さとは違う。


静かで。

鋭くて。

近寄りがたい。


なのに、不思議と目が離せない。


朔也は、防具袋を床へ置くと、その場へ胡座をかいて垂れを腰へ巻き始めた。


慣れた手つき。

迷いのない動き。

胴をつける。

小手を締める。

面紐を指へ引っ掛け、ぎゅっと結ぶ。


無造作だった雰囲気が、少しずつ変わっていく。


面タオルを頭へ巻き。


そして——


面を被った。


その瞬間だった。




空気が、変わった。




さっきまでの“だるそうな雰囲気”が、一気に遠くなる。


面の奥に隠れた表情。

真っ直ぐ伸びた背筋。

竹刀を握る手。


ただ立っているだけなのに、道場の空気へ自然と溶け込んでいた。


(……かっ………こ……いい〜……)


気づけば、雫はじっと見つめていた。



「整列ー!」



蒼太の声が響く。

道場の空気が、一気に張り詰めた。


部員たちが一斉に並ぶ。


「正面に礼!」


『お願いします!!』


腹の底から響く声に、雫の肩がびくっと揺れた。


大きい。

思っていた何倍も。

空気が震えるみたいだった。


そして練習が始まった。


最初は素振り。


「イチ!」


バッ!!


竹刀が一斉に振り下ろされる。


「ニィ!!」


空気を切る音。


床を擦る足音。


全員の動きが揃うたび、道場全体がひとつの生き物みたいに動いて見えた。


その後。


防具組の打ち込みが始まる。


「コテェ!!」


パァン!!


「ドォォウ!!!」


バンッ!!


「メェェン!!!」


鋭い声が、何度も何度も空気を裂いた。


雫は完全に圧倒されていた。

怖いくらい迫力がある。

でも同時に、目が離せない。


その中で。

ひときわ空気を変えたのが、朔也だった。


「黒川先輩、お願いします!」


向かい側へ立った二年生が、深く礼をする。

朔也も竹刀を下げ、静かに礼を返した。


そして——次の瞬間。


バンッ!!!!!!


床を打ち抜くみたいな音と同時に、朔也の身体が一気に前へ飛び出した。


「メェェェン!!!!」


空気を裂くような大声。

速い。

雫の目には、本当に一瞬だった。


気づいた時には、朔也の竹刀が相手の面を打ち抜いていた。


「一本!!」


周囲から声が飛ぶ。


「っ……!」


雫は思わず息を呑んだ。

何が起きたのか、ちゃんとはわからない。

でも、“圧倒した”ということだけは理解できた。


朔也はそのまま振り返りもせず、静かに間合いを取る。

次の瞬間。


「コテェ!!」


低く鋭い声。

竹刀が閃く。


パァン!!と乾いた音が響いた瞬間、相手の小手へ綺麗に一本が決まる。


面越しの横顔。

荒くなる呼吸。

床を踏み込む音。

全部が、あまりにも眩しかった。


「黒川先輩つよ……」


隣にいた一年男子が思わず呟く。

その言葉に、雫の胸がまた小さく跳ねた。


次の相手が前へ出る。

けれど朔也は、また一瞬で相手を崩した。


「ヤァァァッ!!」


「メェン!!」


「ドォ!!」


大きく響く声。

迷いのない踏み込み。

鋭い打突。


そのたびに、道場の空気が震える。


誰よりも真っ直ぐ前へ出て。

誰よりも大きな声を出して。

真剣な顔で竹刀を振っている。


その姿から、雫は目が離せなかった。


そして。


数本の地稽古を終えたあと。


朔也は、ゆっくりと面を外した。





ぶわっと、汗で濡れた前髪が落ちる。





荒い呼吸。

首筋を伝う汗。

熱を持った横顔。


その瞬間。


道場の窓から吹き込んだ春風が、ふわりと彼の髪を揺らし、汗がキラキラと煌めいた。


「……っ」


雫の胸が、きゅうっと締めつけられる。


だめだ。

さっきからずっと、おかしい。


胸がうるさい。


視線が勝手に追いかけてしまう。





例え彼女がいても。


憧れるくらいなら、いいよね。


好きになっても無駄だけど。


叶わないかもしれないけど。




(………黒川………朔也………先輩。)




胸の奥で、そっと名前をなぞる。


誰にも聞こえないように。

自分だけに、確かめるみたいに。


そして雫は、小さく、小さく思った。





────推しにしても…………いいですか?





春風に揺れる黒髪が。

汗で濡れた横顔が。

不器用なくらい真っ直ぐな背中が。



あまりにも、格好良すぎた。







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