第145話 生徒会長は牙を向く
そして、いよいよ体育祭を今週末に控えた十月初旬。
放課後の生徒会室では、体育祭本番へ向けた最後の役員会議が行われていた。
競技進行の確認。
各委員会との連携。
当日のタイムスケジュール。
文化祭が終わったと思ったら、今度は体育祭。
役員達は慌ただしく資料へ目を通しながら、それぞれの担当業務について最終確認を進めていた。
そして会議終了後。
生徒会室には、いつものように慌ただしい時間が流れていた。
コピー機の音。
資料をめくる音。
誰かの笑い声。
役員達はそれぞれ自分の仕事へ散っていく。
そんな中だった。
「星野先輩っ!」
明るい声が響く。
雫だった。
両腕でファイルを抱えながら、小走りで陽向の元へ駆け寄ってくる。
「これ、体育祭の係別タイムテーブルと、放送委員と体育祭実行委員への共有事項をまとめ直したんですけど───」
その瞬間。
「ごめん、今ちょっと無理!!」
思ったより強い声が出た。
生徒会室の空気が一瞬だけ止まる。
雫もまた、目を見開いていた。
「……あ……」
小さく息を呑む。
「すみません……」
雫は思わず一歩後ろへ下がった。
肩がびくりと震える。
まるで叱られた小動物みたいに。
その直後。
ビシィィィッ!!
ファイルの角が、容赦なく陽向の頭頂部へ振り下ろされる。
「いったぁーーーっ!!」
頭を押さえながら悲鳴を上げる陽向。
その隣で、横溝琉嘉が眉を吊り上げていた。
「なに様だお前!!一年生に対してそんな言い方すんなコラ!!」
ファイルを片手に怒鳴る。
「えっ!?ご、ごめんしぃちゃん!!今言い方きつかった!?」
陽向は慌てて振り返る。
だが雫は首を横へ振った。
「いえ……私がタイミング悪く声かけちゃったのが悪かったので……」
申し訳なさそうに言うその瞳は不安で揺れている。
「本当……すみません……」
その肩は小さく縮こまっていた。
そんな様子を見ていた阿久津孝明が、肩を竦める。
「いやいや、星野先輩が今のは普通にきつかったですよ。」
「イライラしてるとお肌に良くないですよー」
加賀優音も続く。
どちらも冗談としてのお決まりである陽向弄り。
いつも通りの軽口だった。
普段なら。
ここで陽向が騒いで。
生徒会室にはいつもの笑い声が広がる。
そんな流れになるはずだった。
けれど。
「だから、謝ってんじゃん……」
陽向の声は低かった。
空気が変わる。
一瞬で。
生徒会室の温度が数度下がったような錯覚。
阿久津も。
優音も。
雫も。
誰も言葉を返せなかった。
一瞬にして静まり返った生徒会室で、陽向は俯いたまま続ける。
「まじなんなのみんなして……うざ。」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分かっていなかった。
ただ胸の奥に溜まり続けていた何かが、堰を切ったように溢れてしまっただけだった。
次の瞬間。
ガタンッ!
椅子が大きな音を立てる。
陽向はスクールバッグを乱暴に掴むと、そのまま背を向けた。
「…星野先輩…っ!」
雫の声が聞こえる。
けれど陽向は振り返らない。
そのまま足早に生徒会室を飛び出した。
バタンッ!!
勢いよく扉が閉まる。
残された役員達は、突然の事態に理解が追いつかなかった。
「…ちっ……」
そこで動いたのは横溝琉嘉だった。
生徒会室を飛び出す。
ガラッ───
「おい星野っ!!」
廊下へ響く足音。
残された役員達は顔を見合わせる。
誰もが分かっていた。
最近の陽向がおかしいことを。
疲れていることを。
無理をしていることを。
だけど。
役員達が思っていた以上に、陽向は限界を超えていた。
「わ、私……すみません……」
雫の声が、パニック状態で震えている。
「星野先輩に……謝ってきます……!」
今にも泣きそうな表情のまま、生徒会室を飛び出そうとした。
しかし。
「行かなくていい。」
低い声が、それを止めた。
阿久津孝明だった。
雫は足を止める。
「でも……」
「小野は何も悪くないから。謝る必要はない」
阿久津はきっぱりと言った。
横では加賀優音も困ったように眉を下げていた。
「今のは完全に星野先輩の方が問題だからね。」
その言葉に、雫は何も返せない。
すると今度は、相田桜子が優しく声を掛ける。
「陽向ちゃんね。総合型選抜がもうすぐだから、今かなり気が張ってるの。」
柔らかく笑う。
相田桜子自身も受験生だった。
だからこそ分かる。
追い込まれている時の苦しさを。
「文化祭も終わったばっかりだし、生徒会も体育祭準備でバタバタだし。」
小さく肩を竦める。
「だから、小野さんは本当に気にしなくて大丈夫。」
慰めるような声だった。
けれど。
「…………そう……なんですかね……」
雫の表情は晴れなかった。
胸の奥に、小さな不安が拭えないまま残っている。
「うん。陽向ちゃんは元々のキャパも狭いし。」
「元々感情的だし。」
「元々キレ症だから。」
相田桜子の言葉に便乗するように、加賀優音も阿久津孝明も乗っかった。
生徒会室に小さく笑いが起きて、空気がほどけた。
雫は息をつくように、ほんの少しだけ胸を撫で下ろした。
確かに最近の星野先輩は疲れていた。
受験もある。
忙しいのも知っている。
だけど。
さっき向けられたあの視線。
あの声。
ただ余裕が無かっただけとは、どうしても思えなかった。
雫はぎゅっと胸元を押さえる。
生徒会室の窓の外では、秋風が木々を揺らしていた。
体育祭まで、あとわずか。
けれどその前に。
何かが少しずつ、音を立てずに壊れ始めているような気がしていた。
夕暮れの廊下に、激しい足音が響き渡る。
ダダダダダダッ──────!!
先頭を走るのは陽向だった。
スクールバッグを肩に引っ掛けたまま、振り返ることもなく全力疾走している。
その後ろから。
「止まれーーーー!!!星野ーーー!!!!」
怒号が飛んだ。
追いかけているのは横溝琉嘉。
こちらも全力だった。
文化祭準備や体育祭準備で鍛えられた脚力を総動員しながら、必死に距離を詰めている。
「やだーーーー!!!!」
陽向は叫び返した。
「やだじゃねぇーーーーっ!!!!!」
「私のことは放っておいてよーーーーっ!!!!!」
「仕事放棄して逃げんなぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
廊下を歩いていた生徒達が、何事かと一斉に振り返る。
「あ、星野先輩だ」
「また何かやらかした?」
「横溝副会長ガチギレしてね?」
もはや校内名物となっているほどお決まりの光景だった。
そんなざわめきも構わず。
二人は校舎の廊下を爆走していた。
角を曲がる。
また走る。
さらに曲がる。
完全に鬼ごっこだった。
「待てコラァァァァァァ!!!!」
「やだぁぁぁぁぁぁ!!!!」
もはや会話になっていない。
その時だった。
ちょうど廊下を歩いていた男子生徒が、掃除当番らしく黒板消しを持っていた。
横溝琉嘉の目が光る。
「おい!」
「え?」
男子生徒が反応した瞬間。
横溝琉嘉は黒板消しをひったくった。
「借りる!!」
「はっ!?」
そして。
野球部顔負けのフォームで振りかぶる。
「星野ぉぉぉぉぉぉ!!!!」
ブンッ!!
黒板消しが夕暮れの廊下を飛んだ。
一直線。
見事な放物線。
そして。
パコーーーーーンッ!!!
「いだーーーーっっっ!!!」
陽向の足元へ、綺麗に命中した。
衝撃で足がもつれてバランスを崩した陽向は。
「うわっ!?」
ドシャァァァァァッ!!!
そのまま盛大に転倒する。
チョークの粉が巻い。
鞄が吹っ飛び。
資料が散らばり。
廊下にいた生徒達から悲鳴と笑い声が同時に上がった。
「ギャー!生徒会長ーーー!!」
「えっ!?黒板消しで仕留めた!?」
「すげぇ!!」
そんな歓声の中。
横溝琉嘉は全力疾走のまま陽向へ飛び込んだ。
ガシッ。
逃げられないように腕を掴む。
「はぁー……はぁー……はぁー……」
肩で荒く息をしながら。
額には汗。
髪は乱れ。
完全に疲労困憊だった。
それでも絶対に離さない。
「捕まえたぞコラ……」
低く唸るような声。
陽向は床に転がったまま、涙目で膝をを押さえていた。
「いだい……」
「当たり前だろ。」
「黒板消し投げる副会長があるかぁぁぁぁ!!」
「逃げる生徒会長があるかぁぁぁぁ!!」
即座に怒鳴り返される。
陽向はぐっと言葉に詰まった。
周囲の生徒達は完全に観客状態だった。
「副会長強ぇ……」
「生徒会長捕獲された……」
そんな声が飛び交う。
しかし横溝琉嘉は構わない。
陽向の腕を掴んだまま、じっと見下ろした。
そして。
先ほどまでの怒鳴り声とは違う。
少しだけ静かな声で言った。
「……生徒会室戻れ。」
陽向の肩が、ピクリと揺れた。
「嫌だ。絶対無理。」
夕陽が廊下を赤く染める。
騒がしかった空気が、ほんの少しだけ静かになった。
横溝琉嘉は腕を離さないまま続けた。
「お前が今しんどいのなんて、みんな知ってる。」
その言葉に。
陽向は俯いた。
「でもさっきのは違う。あんなのお前らしくない。」
「お前らしくってなに?私らしい私ってなに?しんどくても無理して笑う事?」
横溝琉嘉はため息を吐く。
「笑えなんて言ってない。」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「しんどければしんどいって喚くのがお前なんだよ。後輩に八つ当たりするのがお前らしくない。」
その言葉に。
「……っ」
陽向の喉が詰まる。
ぽろり、と。
大粒の涙が頬を伝った。
自分でも分かっていた。
雫は何も悪くない。
なぜあんな言い方をしてしまったのか。
なぜあんな視線を向けてしまったのか。
自分でも理解できない。
こんな自分が嫌だった。
何もかも上手くいかない自分が。
思い通りにならない毎日が。
もう全部、嫌だった。
「……自分でも……分かんないんだよ……っ」
声が震える。
「最近……全部が上手くいかなくて……っ」
嗚咽が混じる。
「もう……どうしたらいいのか……わからない…っ!」
涙が止まらなかった。
琉嘉は何も言わず、ただ陽向を見ていた。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
「一人で抱え込んでないで、吐き出せばいいだろ。」
静かな声だった。
「いつものお前らしく。」
陽向はぐしゃぐしゃになった顔のまま俯く。
「…ふ……っ…ぅ……っ」
肩が震える。
そして、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「…ぅわぁーん……指定校……落ちたぁ〜……」
「うん。あとは?」
琉嘉は頷く。
「……小論文…っ…書けなくなったぁ……っ」
「おぉ。そんで?」
相槌だけが返る。
その言葉に、陽向の瞳からさらに涙が溢れた。
「……後夜祭……っ」
声が掠れる。
「私が最後……台無しにしたぁぁぁ……!!」
叫ぶように吐き出した。
けれど琉嘉は即座に否定した。
「台無しになってねぇよ。ちゃんと大成功だっただろ。」
きっぱりと言う。
しかし、陽向は首を振る。
何度も何度も。
子供みたいに。
「やだ……っ」
嗚咽が漏れる。
「やだやだぁ……っ」
涙でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。
「ちゃんと最後まで……っ」
息が詰まる。
「みんなであんなに準備して……一生懸命作った後夜祭だったのに……っ」
震える指で胸元を握る。
「最後にちゃんと……閉会挨拶……したかったぁぁぁぁぁっ……!!」
夕焼け色の廊下に、その叫びが響いた。
その言葉には。
“あんな事、起きないで欲しかった。”
そんな想いが含まれていた。
閉会挨拶の原稿さえ、忘れていなければ。
あの時。
暗い教室での出来事さえ、目撃しなければ。
陽向の嗚咽と共に。
その想いが、濁流のように溢れ出た。
文化祭準備も。
後夜祭も。
夏からずっと駆け抜けてきた日々も。
全部ひっくるめて終わらせたかった。
何も見ないで。
何も知らない私のままで。
笑って。
自分の言葉で。
生徒会長として。
最後の一言を届けたかった。
「……そっか。」
横溝琉嘉はそれだけ言った。
慰めることも。
綺麗事を並べることもなかった。
ただ、その悔しさだけを受け止めるように。
陽向はとうとう堪えきれなくなった。
「……うわぁぁぁぁぁんっ……!!」
大号泣だった。
夕焼けの廊下に響くほど大きな泣き声。
生徒会長でも。
受験生でもなく。
ただの高校三年生の女の子の泣き声だった。




