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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第三章〜高3編〜【最終章】  作者: 波方 真季


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第143話 ここから始まる恋愛地獄


朔也と雫。

二人の熱で満たされる、三年二組の教室。


ダンス部のパフォーマンスに合わせて響く重低音。

窓の外から差し込むステージ照明。

校庭では生徒達が肩を組み、歓声を上げながら後夜祭を楽しんでいた。


その喧騒から、ほんの少しだけ離れた場所。


三年二組。

教室の入口。


廊下。


「……………………。」


扉の横の壁へ背中を預けたまま立ち尽くしながら。


両手で口元を覆い。


ただ呆然と廊下の床を見つめている。







陽向。







息が、出来ない。







胸が苦しい。

全身が金縛りに遭ったみたいに硬直していた。

頭の中は真っ白だった。

何も考えられない。

何も整理できない。


ただ─────



見てしまった。



その事実だけが、陽向の思考を停止させていた。


ダンス部の二曲目が始まっている。


校庭から流れ込むハウスミュージックのビート。

生徒達の歓声。

ステージを照らす眩しい光。

本来なら、この学校中が今、一番盛り上がっている時間のはずだった。


けれど。

その音は、陽向の耳には届かない。


世界から音が消えていた。


バクン。


バクン。


バクン。


耳の奥で、心臓だけが痛いほど大きく鳴っている。


呼吸をしなければいけないのに。

肺がうまく動かない。

喉が詰まる。

指先が震える。


その場へ崩れ落ちてしまいそうになる身体を、どうにか支えるように足元に力を込める。


胸の奥で、何かが大きく軋む音がした。


「……っ」


陽向は息を呑んだ。


鉛を流し込まれたように身体が重い。

指先は冷たく、足は思うように動かない。

それでも、その場に立ち尽くしていることだけは耐えられなかった。


逃げなきゃ。


何からなのかも分からないまま、陽向はふらつく足取りで歩き出した。

廊下を進む。

ようやく辿り着いた、自分のクラス。


三年四組。


文化祭も後夜祭も佳境を迎えた今、教室には誰もいない。


静かだった。

あまりにも静かで。

校庭から響く歓声だけが、遠い世界の出来事みたいに聞こえてくる。


陽向はぼんやりとした頭のまま、自分の席へ向かった。

何をしに来たのかさえ、一瞬わからなくなる。

ほとんど無意識のまま机の引き出しを開けた瞬間、そこに置かれた数枚の紙が目に入った。


閉会挨拶の原稿。


ダンス部のステージが終わったら。

生徒会長として、後夜祭の最後を締めくくるための原稿だった。


震える手で、それを取り出す。

その瞬間だった。

胸の奥へ、鋭い後悔が突き刺さった。





───どうして。


どうして私は。


この原稿を、こんな場所に忘れたんだろう。






「………ふ……っ……」


声にならない息が漏れる。


ぽろり。


涙が頬を伝った。


二つ隣の教室。




今も、あそこには───




脳裏へ浮かんだ光景に、全身の血の気が引いていく。


指先が冷たい。

寒い。

苦しい。


焼き付いた映像は何度も何度も脳裏で再生された。


ガタンッ!


突然、机へ腰をぶつけた。

陽向は我に返る。


もう嫌だった。

一秒でも早く。

一秒でも早く、この場所から離れたかった。


逃げるように教室を飛び出す。


昇降口へ向かうなら左の階段の方が近い。

それでも陽向は右へ曲がった。

三年ニ組の前を通れなかった。

どうしても。

今はもう、あの教室の前を歩くことが出来なかった。


階段へ飛び込む。

駆け下りる。

足元が見えない。

転びそうになりながら、それでも止まれない。


「……はぁ……っ、はぁ……っ……はぁ……っ……」


息が上手く吸えない。

喉が締まる。

胸が潰れそうに痛い。

涙で視界が滲む。

握り締めた原稿は、いつの間にかぐしゃぐしゃになっていた。


廊下を走る。

昇降口へ向かって。

ただ必死に。

何かから逃げるみたいに。


「……っ……」


ぐらぁっと、視界が揺れた。

世界が歪む。

足元がふらつく。

酸素が足りない。

息を吸っているはずなのに、全然入ってこない。


(…………やばい……)


分かっていた。

身体が覚えている。

何度も経験した、あの感覚。

胸の奥が凍り付く。


(……久々……来た……)


久しぶりだった。

けれど忘れるはずがない。





パニック発作。





「……はぁー……っ……はぁー……っ……はぁー……っ……」


昇降口へ辿り着いた瞬間だった。


力が抜けた。

陽向はその場へ崩れ落ちるように膝をつく。

片手を床へつく。

もう片方の手で胸を押さえた。

前屈みになりながら、必死に呼吸を整えようとする。


苦しい。


苦しい。


苦しい。


息が吸えない。

胸が痛い。

涙が止まらない。

ぽろぽろと零れ落ちる雫が床へ落ちていく。

嗚咽が漏れる。

抑えようとしても抑えられない。

喉の奥から込み上げてくる何かが、次から次へと溢れてくる。


どうして。

どうしてこんなに苦しいのか。

自分でも分からなかった。

ただ一つだけ確かなことがあった。


胸の奥で。

ずっと大切に守ってきた何かが。

音を立てて壊れ始めていた。


「…っ….なんで……」


そんなの、付き合ってるんだから。

二人は恋人同士なんだから。

あんなの、普通の事だ。

みんな誰しもが、そんなの当たり前みたいに。


心を落ち着かせるかのように。

自分に言い聞かせるみたいに、陽向は何度も何度も胸の中で繰り返した。


頭ではわかってる。


ちゃんとわかっているのに、どうしても胸の痛みだけが消えてくれない。


(………消えてよ…っ)


もう何ヶ月も前から、ずっと刺さったままの抜けない棘。


忙しく駆け回っていても。

生徒会のみんなと笑っていても。

クラスメイト達と馬鹿みたいに騒いでいても。


どれだけ目を背けても。

見ないふりしても。

何をしても。


胸の奥底の、どこかでずっと疼き続けていた違和感が。


ズキンッ、ズキンッ、と。


脈を打つみたいに痛む。

暴れるみたいに、胸の内側を叩いてくる。


痛い。

痛くて、たまらない。


陽向は胸を押さえていた手で、ぎゅっと拳を握った。


消えろ。

消えろ。

消えろ。


ドンッ、ドンッ、と。

拳で自分の胸を強く叩く。


「……消えてよっ!」





認めたくない。





そんなのあり得ない。

絶対なにかの間違いで。

きっと自分のバグかなにかで。


だって、十八年間。


家族みたいで。

兄弟みたいで。

空気みたいに、隣にいるのが当たり前で。


今さらお互い、恋愛対象になんてなるはずない。


私は今でも俊ちゃんが好きで。

朔也には彼女がいて。

それなのに。


私が朔也を好きになるなんて。





そんなの…….絶対…………ありえない………………





思考が遠のいていく。




視界の端から、少しずつ色が失われていくようだった。


昇降口の照明。

窓の向こうの夜空。

遠くで響く歓声。

その全てが、白い靄の向こうへ消えていく。


胸が苦しい。

息を吸っているはずなのに、空気が入ってこない。


「……はぁ……っ……はぁ……っ……」


震える指先で胸元を押さえる。


もう限界だった。

足に力が入らない。

視界が大きく揺れる。

世界が傾いた。


「……はぁーー…………はぁーー…………」


耳鳴りがする。

遠くで誰かが笑っている。

ダンス部の音楽が聞こえる。

後夜祭はまだ続いている。


けれど。

陽向には、もう何も届かなかった。


 


ドサッ───。


 


力が抜ける。

そのまま昇降口の床へ崩れ落ちた。

胸を押さえたまま。

涙の跡を頬に残したまま。


陽向の意識は、ゆっくりと闇の中へ沈んでいった。


 


────────。




その頃。


校庭では、ダンス部による最後のパフォーマンスが佳境を迎えていた。


鳴り響く音楽。

飛び交う歓声。

生徒達の熱気は最高潮に達している。


けれど、その裏側で。

生徒会役員達は異変に気付き始めていた。


「……あれ?」


閉会挨拶の時間が近付いている。

本来なら、とっくに戻っているはずの人物がいない。

生徒会長であり、この後夜祭の締めを任されている人間。


「陽向ちゃん、まだ来てない?」


相田桜子が不安そうに周囲を見回した。


「あいつ原稿取りに教室戻るのに何分かけてんだ!!」


その隣で、横溝琉嘉が頭を抱えていた。


「ちょっと私、教室見てくる!」


桜子は走り出す。

校庭を抜け。

昇降口へ向かって。


 

そして───。



「……陽向ちゃん!!?」


悲鳴にも似た声が響いた。

昇降口の床。

そこには、ぐったりと倒れ込んだ陽向の姿があった。


顔面蒼白。

肩で呼吸をしながら、視点は定まっていなかった。


「誰かーーー!!!!誰か来て!!」


桜子の叫び声が校庭へ響く。

一瞬で周囲が慌ただしくなる。


駆け寄る生徒。

飛び込んでくる教師達。


養護教諭が、陽向の状態を見て叫んだ。


「救急車!!急いで!!」


その頃にはもう。

ダンス部のパフォーマンスは既に終わっていた。


数分後────


大成功だったはずの後夜祭は、生徒会長・星野陽向の救急搬送という予想外の事態によって、一瞬にして騒然となった。


校庭を包んでいた熱気は消え去り、代わりに不安と戸惑いが生徒達の間を駆け巡る。


正門の前では、救急車の赤色灯が夜の校舎を照らしていた。


赤く、赤く。


規則的に点滅する光が、生徒達のざわめく顔を照らし出す。


「生徒会長倒れたってガチ!?」


「え、あれ救急車来てね?」


「なにあれやばくね?大丈夫なの……?」


不安そうな声が次々と上がる。

生徒達は正門や昇降口へ向かって押し寄せるように集まり始めていた。


「大丈夫なんで!みなさん校庭へ戻って下さい!」


「すみません!後夜祭中は校舎内立ち入り禁止なので、昇降口には入れません!」


生徒会役員達が必死に声を張り上げる。

押し寄せる生徒達を制止しながら、混乱を抑えようと奔走していた。


けれど、誰もが落ち着かない。


ついさっきまで笑っていた生徒会長が、突然倒れた。

文化祭を引っ張り、後夜祭を成功へ導いた中心人物。

その陽向が救急車で運ばれようとしている。


心配しない方が無理だった。

ざわめきは収まらない。

不安げな視線が何度も昇降口へ向けられる。


その時だった。


ガガッ──。


マイクの音が校庭へ響いた。

生徒達が一斉に振り返る。


ステージ上。

マイクを握っていたのは横溝琉嘉だった。


その表情は険しい。


《閉会するんで!ステージ前に集まって下さーい!》


低く通る声が、校庭全体へ響き渡る。

ざわついていた生徒達の動きが止まった。


《終了時間押してるんで!はい早く、急いでください》


いつものぶっきらぼうな口調。

けれど、その声には焦りと緊張が滲んでいた。


数秒の沈黙の後、生徒達は顔を見合わせる。


そして、ゆっくりと。

一人、また一人と。

ステージ前へ向かって歩き始めた。


本来ならば。

この後夜祭の最後を締めくくるのは、生徒会長である陽向の役目だった。


けれど今、その姿はない。

赤色灯だけが夜の校舎を照らし続けている。


誰もが胸の奥に不安を抱えたまま、生徒達は静かにステージ前へ集まっていった。


救急車のサイレンが夜の街へ響く。


担架へ乗せられた陽向は、酸素マスクを付けたまま目を閉じていた。

意識はある。

けれど呼吸は浅く、胸の痛みと動悸はまだ治まらない。


病院へ到着すると、すぐに診察室へ通された。


酸素濃度。

血圧。

脈拍。

心電図。

採血。


必要な検査が次々と行われる。

医師と看護師が慣れた様子で対応し、陽向はベッドへ横になった。


一時間ほど経った頃。


診察結果を確認した医師がカルテを閉じる。


「心電図も問題なし。酸素も安定してますね」


陽向は小さく頷いた。


「久しぶり?」


「……うーん…1年ぶりくらいですかね」


「無理したかな」


苦笑しながら医師が言う。


文化祭。

後夜祭。

受験。

生徒会。


色々なものが重なったことは、話を聞かなくても何となく伝わっていた。


しばらく安静にした後。


医師は改めて説明した。

不整脈の所見なし。

てんかん発作の可能性も低い。

低血糖症状も見られない。

今回の症状はパニック発作による過換気と強い自律神経反応で矛盾しない。


「大きな病気はなさそうですね」


その言葉に、付き添いで到着していた母親もほっと息を吐いた。


診察室の外。

母親は医師から改めて説明を受ける。


「久しぶりに発作が出ちゃった感じですね」


「ですよねぇ……」


母親も苦笑した。


「文化祭と受験でかなり忙しかったみたいで」


「環境要因は大きそうですね」


医師も穏やかに頷く。

深刻な空気ではなかった。

もちろん心配はしている。

けれど二人とも、この症状を知っていた。

だからこそ。


“また起きてしまった”


そんな認識に近かった。


「大変な時期だけど、まぁあんまり無理し過ぎないように気をつけて。」


「ありがとうございました。」


医師の言葉に、母親は頭を下げた。


夜十時。

病院の外へ出る。

昼間の熱気が嘘みたいに、夜風は少し冷たかった。


「歩ける?」


母親が尋ねる。


「うん。余裕」


陽向は小さく笑った。

胸の痛みも。

息苦しさも。


もうほとんど残っていない。


けれど。

胸の奥に残った別の痛みだけは、少しも消えていなかった。


自分で言い出して、自分で作り上げて、みんなと大成功に終わりたかった、後夜祭。


その最後を、自分が台無しにしてしまったのではないだろうか。


救急車の赤色灯。

後夜祭の歓声。


そして。

暗い教室で見てしまった光景。

思い出しかけて、陽向はそっと目を閉じる。


「あんた本当、自分のキャパ考えなさいよ。調子乗んのもいい加減にして」


そんな母親の声に俯きながら、陽向は夜の駐車場を歩き出した。


(後夜祭、最後どうなったか琉嘉に電話しよ)


生徒会のみんなに迷惑かけた。

きっと心配もしてる。


陽向はスマホを開いて、横溝琉嘉へ発信する。


こうして一騒動を経て、文化祭最後の夜は静かに終わりを迎えた。




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