第142話 明かりの灯る場所
そんな陽向と綾真の姿を。
校庭の人混みの中から、じっと見つめている人物がいた。
「………………。」
朔也の目つきは、鋭い。
軽音部の演奏が続いている。
ステージ前では、生徒達が音楽に合わせて手を振り上げ、歓声を上げている。
照明が夜の校庭を照らし、熱気と高揚感が渦を巻いていた。
けれど、朔也の視線だけは。
どうしても別の場所へ向いてしまう。
校庭の端。
体育館の方角。
少し人の少ない場所で、向かい合って立つ二人。
陽向と綾真。
「…………。」
胸の奥が、ざわつく。
もう関係ない。
何度もそう言い聞かせる。
自分にはもう雫がいるし、陽向が誰と話そうが。
誰と笑おうが。
誰と手を繋ごうが。
本来なら、自分が気にする理由なんてどこにもない。
それなのに、気付けばまた視線が向いている。
まるで磁石みたいに。
何度逸らしても。
何度見ないようにしても。
無意識のうちに、目が探してしまう。
「……はぁ…」
小さく息を吐く。
自分でも呆れる。
本当に。
いい加減にしてほしい。
そう思うのに。
綾真が、陽向へ一歩近付いた。
朔也の眉がぴくりと動く。
思った以上に至近距離。
夕暮れの校庭。
二人だけの空間みたいに見える距離。
何を話しているのかは聞こえない。
けれど真剣な顔をしていることだけはわかった。
ドクン。
心臓が鳴る。
胸の奥が嫌な音を立てる。
やめろ。
見るな。
どうせ見たってロクなことない。
頭では理解している。
それでも。
どうしても目が離せなかった。
その瞬間。
綾真が、そっと手を伸ばした。
「………っ!」
朔也の肩が強張る。
伸ばされた指先。
触れた先は、陽向の頬だった。
朔也の心拍数は、どんどん上昇していく。
気付けば、朔也の足先が無意識に向きを変えている。
考えるより先に身体が反応していた。
胸の奥が焦燥で焼ける。
駄目だ。
お前ら。
何してんだよ。
そんな感情が頭の中を駆け巡る。
そんな中。
綾真は、そのまま両手で陽向の頬を包み込んだ。
ドクンッ。
強く心臓が脈打つ。
喉の奥が焼けるように熱い。
次の瞬間には、朔也の足が動いていた。
一歩。
また一歩。
無意識だった。
視界が狭くなる。
しかし。
ビシッ!!
綾真の頭頂部へ、陽向の手刀が綺麗に炸裂する。
「………っ!」
数歩踏み出していた朔也の足は、そこで止まった。
綾真と陽向は顔を見合わせ、吹き出したように笑い始めた。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
まるで二人だけの世界みたいに。
(………く…っ…)
いちゃいちゃ…
いちゃいちゃ…
どうしても朔也の目には、そう見えてしまう。
二人だけの空気が出来上がっているその光景が。
ひどく胸に刺さった。
「……っ……」
奥歯を噛み締める。
自分で決めたはずだ。
もう終わりにするって。
陽向への想いは捨てるって。
雫と一緒に、前を向いて歩いていこうと。
そう決めたのは、自分なのに。
どうして。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
どうしてまだこんなにも、目で追ってしまうんだろう。
自分自身への苛立ちが込み上げる。
情けない。
本当に。
情けなくて、こんな自分が心底嫌になる。
「…………。」
朔也はゆっくりと目を伏せた。
そして。
(……もう………嫌だ。)
くるりと踵を返す。
二人の姿が視界に入らないように。
もう見なくて済むように。
逃げるみたいに。
背中では、軽音部の演奏と生徒達の歓声が夜空に響いている。
《ハンカチタオルTシャツなんでもいいから布まわせー!》
わあぁぁぁぁぁ─────
後夜祭の熱気と喧騒を背中へ置き去りにして。
一人。
昇降口の方へと足早に歩き出した。
夜風だけが。
妙に冷たく感じた。
交代制で校庭巡回をしていた生徒会役員達。
担当エリアを一通り見回り終えた雫は、次の当番の役員へ懐中電灯を手渡す。
「よろしくお願いします!」
雫は元気に言って、その場を離れた。
後夜祭は今まさに最高潮を迎えていた。
ステージでは軽音部の演奏が続いている。
激しいドラムの音。
ギターの音色。
ボーカルの歌声。
それに合わせて、生徒達の歓声が夜空へ弾けていた。
照明が校庭を照らし、文化祭の余韻と後夜祭の熱気が混ざり合っている。
雫は人混みの向こうへ視線を巡らせた。
自然と探しているのは、一人だけだった。
黒髪。
少し気怠そうな立ち姿。
人混みの中でも不思議と見つけられる、その姿。
けれど。
「……あれ。」
見当たらない。
さっきまで校庭にいたはずなのに。
雫はもう一度辺りを見回した。
ステージ前。
校庭の中央。
アーバンの周辺。
どこにもいない。
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
その時だった。
少し離れた場所に、見慣れた二人の姿を見つける。
「一ノ瀬先輩っ!」
雫は小走りで駆け寄った。
「あ、しぃちゃんお疲れっ♡」
咲は軽音部のステージで盛り上がっていた勢いそのままに、ぎゅうっと雫へ抱きつく。
「お疲れ様です!」
雫は思わず笑った。
その横では蒼太がペットボトルを片手に、ステージへ視線を向けている。
「雫お疲れ。」
「津堅先輩もお疲れ様です!」
軽く頭を下げてから、雫は周辺へと視線を泳がせながら。
「あの……朔也くん、どこかにいますか?」
咲は反射的に振り返る。
「朔也なら、そこに───」
言いかけて、言葉が止まった。
「あれ?消えた。」
蒼太もつられるように振り向く。
「ほんとだ。さっきまでそこにいたけどな。」
二人揃って周囲を見回す。
けれど、それらしい姿は見当たらない。
「トイレじゃね?すぐ戻ってくんだろ。」
蒼太は特に気にした様子もなく肩を竦めた。
「はい……」
雫は小さく頷いて、スマホを取り出した。
ロック画面に映る時刻を確認してから、慣れた手つきでトーク画面を開いた。
そして。
”今どこ?”
そう打ち込み、送信しようとして少しだけ指を止める。
それから文章を消した。
打ち直す。
”巡回終わったよー”
送信。
シュッ、と軽い音が鳴った。
送ったメッセージを見つめながら、雫は無意識に人混みの向こうへ視線を向ける。
軽音部の演奏は、まだ続いていた。
───────。
朔也は一人、三年二組の教室にいた。
電気は消えている暗い教室。
朔也は今、人混みの中にいる気分ではなかった。
窓の外から聞こえてくるのは、軽音部の演奏。
歓声。
手拍子。
誰かの笑い声。
校庭は今も熱狂の真っ只中にある。
その音を遠くに聞きながら、朔也は自分の席へ腰掛けていた。
暗い教室の中へ、校庭のステージ照明だけが窓から差し込んでいる。
青、赤、白。
色を変えながら揺れる光が、静まり返った教室の床を淡く照らしていた。
脳裏に焼きついているのは、先程の光景。
至近距離で、陽向の頬へ手を伸ばす綾真。
その直後に、楽しそうに二人で笑い合うその姿。
「……はぁ…」
小さく息を吐く。
胸の奥が重かった。
自分でも嫌になるくらい。
その直後。
(忘れない。)
あの日、図書室で聞いた陽向の言葉。
(例え誰が隣にいても…これからこの先、誰の手を取ろうとも…私は……)
誰もいない教室で、朔也の耳に木霊する。
(俊ちゃんとの恋だけは。絶対一生忘れない。)
忘れようとしているのに。
諦めようとしているのに。
陽向のことばかり考えてしまう。
「………忘れないとか……俺には言っといて何なんだよ……」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
藤崎俊輔にも。
鷹井綾真にも。
いつまでも嫉妬してしまうそんな自分が、情けなかった。
(…………消えろよ。)
消えろ。
消えろ。
消えろ。
未練という呪縛から、こんなにも逃れられないのであれば。
この陽向への想いごと、自分の存在すらも。
消えてしまいたい。
朔也の胸が、限界まで苦しくなった。
その時だった。
ポン。
静かな教室に通知音が響く。
朔也はポケットからスマホを取り出した。
画面に表示された名前を見た瞬間。
少しだけ表情が和らぐ。
”巡回終わったよー”
短いメッセージ。
張り詰めていた胸の奥が、ふっと緩む。
さっきまで胸の中を占めていた重たい感情が、少しだけ遠ざかった気がした。
「……。」
思わず小さく笑う。
そして朔也は立ち上がった。
窓際へ歩み寄る。
カラカラ───
窓を開けると、夜風が教室へ流れ込んできた。
ステージの照明。
校庭を埋める生徒達。
響き続ける音楽。
その中から、朔也は自然と一人の姿を探した。
すぐに見つかる。
校庭。
生徒会スタッフ証を首から下げた、小柄な姿。
朔也はスマホへ視線を落とす。
”うちのクラスの窓見て”
短く打ち込み、そのまま送信した。
数秒後。
雫がスマホを確認する。
そして。
ぱっと顔を上げた。
目が合う。
朔也は窓枠へ寄り掛かりながら、小さく手を振った。
すると。
「あっ!」
離れていても分かるくらい、雫の顔がぱあっと明るくなった。
まるで花が咲いたみたいな笑顔。
雫も大きく手を振り返してくる。
その無邪気な姿を見た瞬間、朔也の口元は自然と緩んでいた。
さっきまでの苦しさが嘘みたいに、心が少しだけ軽くなる。
本当に不思議だった。
「まったく…… 後夜祭中の校舎内は、トイレ以外立ち入り禁止!」
校庭で、雫が呆れたように頬を膨らませる。
次の瞬間。
雫は踵を返す。
そのまま昇降口へ向かって、小走りで駆け出した。
一直線に。
まるで、会いに来るのが当たり前みたいに。
朔也はその後ろ姿を見下ろしながら、小さく笑った。
夜風が吹く。
さっきまで冷たく感じていた風が、今は少しだけ心地良かった。
三年二組の扉が、静かに開いた。
ガラッ───。
「こらっ!」
暗い教室へ、弾むような声が響いた。
「今の時間は校舎内立ち入り禁止ですよっ!」
朔也は窓際の席へ腰掛けたまま、振り返る。
教室の入口には、生徒会スタッフ証を首から下げた雫が立っていた。
後夜祭の照明が窓から差し込み、彼女の髪を柔らかく照らしている。
その姿を見た瞬間。
朔也の表情が少しだけ緩んだ。
「悪い生徒を見つけて叱りに来たの?」
小さく笑って、朔也は椅子の背もたれへ身体を預ける。
「良い子の生徒会役員さん。」
そして口元を吊り上げながら、当たり前のように両腕を広げた。
雫はふっと笑う。
そして迷うことなく駆け出した。
数歩の距離。
そのまま朔也の腕の中へ飛び込む。
ぎゅうっ───────。
抱きついてくる温もり。
朔也は同時に雫の背中へ腕を回した。
抱きしめると、柔らかな髪が肩へ触れた。
腕の中に収まる小さな身体が、やけに愛おしかった。
雫は少し身体を離すと、朔也の顔を見下ろした。
「叱りますよ。悪い生徒を。」
「嬉しいな。どんなお仕置き?」
雫を見上げて、いたずらっぽく目を細めた。
そんな朔也に、雫はクスッと笑いながら髪を撫でる。
「どうやって懲らしめようかなぁ」
「キスがいいな」
朔也が即答すると、雫はそっと顔を近付ける。
朔也もすぐに顎を寄せて目を閉じた。
窓の外では、後夜祭の歓声が遠く響いている。
けれど今だけは。
二人にとって、その音さえ遠かった。
触れるだけの、短い口づけ。
それでも胸の奥が温かくなるような時間。
唇が離れる。
雫は少し照れたように笑った。
「……これじゃお仕置きにならないね。」
朔也も小さく笑う。
「雫も悪い子だね」
さっきまで胸の中を覆っていた重苦しい感情は、少しだけ薄れていた。
夜風が窓から吹き込む。
軽音部の演奏が終わりを迎える。
最後の音が夜空へ溶けていき、校庭を包んでいた熱狂も一度だけ落ち着いた。
ステージ上では、生徒達や先生達が慌ただしく機材撤収を始める。
次はダンス部。
その準備のために設けられた十分間のインターバル。
遠くから聞こえるのは機材を運ぶ音と、生徒達のざわめきだけだった。
三年二組の教室には、静寂が落ちていた。
窓の外では照明が揺れ、校庭には後夜祭を楽しむ生徒達の姿が広がっている。
朔也は窓枠へ背中を預けながら、隣の雫へ視線を向けた。
「校庭戻る?」
雫は窓枠にもたれながら外を見たまま、小さく首を横へ振る。
「ううん。まだいい。」
「ダンス部見ないの?」
その問いに、雫はくるりと隣の朔也に振り向いた。
そして。
「ここから見る。私、悪い子だから」
いたずらを企む子供みたいな笑顔が、パッと咲く。
その笑顔があまりにも可愛くて、朔也の表情からも柔らかい笑みがこぼれた。
雫はそんな朔也を見上げながら、少しだけ照れたように笑う。
「朔也くんと、2人がいい」
一気に。
胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
言葉にすると簡単なのに。
どうしてこの子が言うと、こんなにも真っ直ぐ胸へ届くんだろう。
張り詰めていた何かが、少しずつほどけていく。
先ほどまで自分を苦しめていた胸の痛みが、柔らかく溶け出していく。
朔也は小さく息を吐くと、雫の髪へ手を伸ばした。
さらりと指先を滑らせる。
柔らかな髪が夜風に揺れた。
「雫はほんと……」
自然と口元が緩む。
「……可愛いな」
雫の頬が、ふわりと赤く染まった。
可愛い。
その言葉は、朔也がいつも雫に言ってくれる言葉だった。
会うたびに。
笑うたびに。
照れるたびに。
口癖みたいに。
それなのに。
何度聞いても慣れない。
朔也の声で囁かれるその言葉は、いつだって雫の胸の奥を熱くした。
雫はさらに顔を赤くして、小さく笑う。
二人は並んで窓際へ寄り掛かった。
窓の外には後夜祭の景色が広がっている。
校庭のあちこちで輪になって騒ぐ生徒達。
写真を撮り合うグループ。
アーバンへ座り込んで話し込む生徒達。
どこを見ても楽しそうだった。
その光景を眺めながら、雫はふと口を開く。
「なんでここにいたの?」
朔也は視線を校庭へ向けたまま、肩を竦める。
「別に。誰かさん達のステージの大騒ぎに疲れたから逃げてきただけ。」
「酷いなぁ。一生懸命練習したのに!」
少し頬を膨らませる。
「ちゃんと見たよ。」
朔也は鼻で笑う。
そして少しだけ意地悪く続けた。
「安定の大人気ぶりもね。雫たん。」
雫は思わず吹き出した。
「わー、棘あるなぁ。」
呆れたように笑う。
「当たり前っしょ」
朔也は迷いなく答えた。
そして。
窓の外ではなく、隣の雫へ視線を向け、身体を傾ける。
少しだけ独占欲を滲ませた声音で。
「俺の雫なんだから。」
雫は目を瞬いた。
次の瞬間。
耳まで真っ赤になって、慌てて視線を逸らす。
夜風が吹く。
遠くでは、ダンス部の準備が進んでいる。
後夜祭の熱気はまだ続いていた。
けれど二人にとっては。
この静かな教室の時間の方が、ずっと特別だった。
その時。
「ギャハハハハーーー!!!」
一際騒がしい笑い声が、校庭中へ響き渡った。
後夜祭の賑やかな空間に負けないほど大きなその声に、朔也と雫は思わず同時に窓の外へ視線を向ける。
そこには─────。
「お前ら遅すぎねー!?」
「ったく二人で何してたんだよー!!」
「絶対一発かましてきただろー!」
「何もしてねぇよっ!!」
「綾真!童貞卒業おめでとうーーー!!」
「だから童貞じゃねーっつーんだよ!!」
「ギャハハハハー!!」
三年四組の集団が、校庭のアーバン付近で大騒ぎしている。
クラスメイトの飲み物を抱えた陽向と綾真が自販機から戻ってきた瞬間、爆発するようにその場が沸き起こっていた。
文化祭の高揚感そのままに肩を組み、好き勝手に騒ぐ三年四組の生徒達。
その中心には。
綾真と陽向がいた。
「だから違ぇっつってんだろ!」
綾真は呆れたように笑いながらも、どこか満更でもなさそうだった。
そんな綾真の隣で。
陽向も手を叩きながら笑っている。
「きゃははははっ!!」
肩を寄せ合うように並んで座り。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
二人だけの空気を纏いながら笑い合っていた。
その光景が視界へ飛び込んだ瞬間だった。
シャッ──────!!
勢いよくカーテンが閉められる。
窓の外の景色が、一瞬で遮断された。
「……っ」
閉じたカーテンが微かに揺れる。
光は遮られ、暗闇が二人を包む。
教室の中へ落ちる静寂。
あまりにも唐突な行動だった。
「朔也くん……?」
雫は思わず目を瞬く。
驚いたように朔也を見上げた。
けれど。
カーテンを掴んだままの朔也は、窓の向こうを見ない。
見ないようにしている。
そんな風に見えた。
雫の胸の奥が、小さくざわついた。
その瞬間。
グイッ────
朔也の腕が、強引に雫の身体を引き寄せる。
「………っ!」
次の瞬間には、唇が重なっていた。
後頭部へ回された手。
逃がさないようにきつく抱き締める腕。
その唇へ、強く押し当てるように。
雫の瞳が、一瞬だけ丸く見開かれた。
けれど──
「…………。」
朔也の強いキスを、受け止めるように。
雫は、そっと。
朔也の背中へ腕を回す。
ぎゅ…………
朔也の身体を、抱きしめ返す。
激しく続く、長いキス。
窓の外では、後夜祭の喧騒が続いている。
笑い声。
手を叩く音。
機材がぶつかる音。
その全てが遠かった。
雫の脳裏には、直前の光景が残っていた。
賑やかな声が響いて、窓の外へ視線を向けた先。
クラスメイトに冷やかされていた陽向と綾真。
楽しそうに笑い合う二人。
そして。
その光景を遮るようにカーテンを閉めた、朔也。
「…………。」
雫は、そっと朔也の唇から離れる。
朔也の背中を抱きしめたままで、静かにその顔を見上げた。
近い距離。
息が触れそうなほど近くにある瞳。
また、あの目をしている。
花火大会の夜。
公園のベンチに座って俯いて。
顔を上げたあの時と同じ。
悲しそうな目。
雫は、朔也の瞳を間近で見つめながら。
その頬へゆっくりと手を伸ばし。
柔らかい声でそっと囁く。
「……………あなたのその目が好き。」
手のひらで頬を包む親指で、目元に優しく触れる。
切れ長で。
その瞳の色は黒くて。
まるで奈落の闇へと沈んでいくかのような。
ゾクゾクするほどの深い愛。
「…………あなたのその髪が好き。」
雫は、朔也の髪を優しく耳にかける。
黒くて艶のある髪。
少しだけ癖があって。
強くてしっかりしてるのに。
指を通すと、思ったより柔らかい。
「…………あなたのその唇が好き。」
再び頬を包んだ親指で、ゆっくりと唇をなぞる。
私を“可愛い”と言ってくれる。
優しい言葉を囁いてくれる。
額に。
頬に。
唇に。
何度も優しいキスをくれる。
世界に二人しかいないような静寂の中で、雫の言葉だけが明確な輪郭を持って朔也の鼓膜に届く。
そして雫は、朔也の首へ腕を回した。
自らの愛の深淵へと、沈めていくように。
さらに。
ぐっと。
距離を詰めていく。
息が触れ合う距離。
雫は、真っ直ぐその瞳を見つめて、囁いた。
この深い愛に満ちた瞳が。
私の全てに堕ちた時。
私はどれほどの幸福を感じるのだろう。
「朔也くんの何もかも全てが…私は大好きで堪らない。」
カーテン越しに、校庭から広がるステージ照明の光がわずかに教室へ淡い薄明かりを落とす。
暗闇の中で雫の優しい微笑みを妖艶に浮かび上がらせていた。
「………っ」
ドクン。
胸がぎゅっと締めつけられて、涙が滲みそうになる。
熱い何かが、朔の腹の底から一気に競り上がる。
制御できない、どうしようもないほどの衝動が、濁流となって激しく込み上げる。
朔也は思考が、真っ白になった。
ガタンッ
衝動のままに、雫の唇を奪った。
その勢い余って、雫の細い腰が後ろの机に強くぶつかる。
痛む暇さえ与えないように、朔也は無我夢中で雫にキスをした。
自らの中に巣食う何かを、必死で振り払うように。
酸素を求めて激しく溺れるように。
光の届かない深い沼へと、二人で沈んでいくように。
何も考えられなくなるまで、思考を奪うように唇を重ねる。
閉じられたカーテンの向こう、後夜祭のステージでは、既にダンス部のパフォーマンスが始まっていた。
重低音のHIPHOPサウンドが校庭に激しく鳴り響き、闇夜の迫る校舎を微かに震わせている。
その教室内で。
世界からすべての音が消え去るほどに、朔也は全身の細胞で、雫という存在の全てを、縋りつくように求めていた。
何も考えたくない。
何も聞こえなくていい。
ただ、激しく。
唇。
頬。
首筋。
滑らかで、あまりにも柔らかなその白い肌に唇が触れていくたび、自分が自分でなくなっていくのが分かった。
嗅覚を容赦なく刺激する、彼女特有の甘い香りが、朔也の理性を麻痺させる。
雫は、絶対に離さないとばかりに強く、強くしがみつく。
朔也の首筋に触れる雫の指先が、まるで彼を底なしの深海へと誘う錨のように、朔也の身体をさらに深くへと引き摺り下ろしていく。
それは、朔也をどこへも行かせないための、そして自分ごと底の抜けた暗闇へと引き沈めるための、容赦のない抱擁だった。
抗うことなど、到底できそうにない。
そのすべてに溺れるように、ただ貪欲に、深く、深く。
永遠に続くかと思われるほど、長く、長く。
時間の概念さえ消失した暗がりの中で、二人は引き返せない領域へと踏み込んでいく。
朔也の脳内で。
辛うじて踏みとどまっていた理性の全てが今、ドロドロと溶け去っていた。




