第139話 あと数十センチの遠い距離
翌日。
放課後の生徒会室には、文化祭準備の慌ただしい空気が流れていた。
机の上には各クラスから提出された資料の山。
後夜祭関連の書類。
文化祭パンフレットの原稿。
役員達はそれぞれ手を動かしながら、次々と確認作業を進めている。
その中で、陽向はパンフレットのラフを眺めながら首を傾げた。
「文化祭のパンフってさー。過去の創立周年の時って、創立記念バージョンみたいな感じだったのかな?」
その声に、広報の加賀優音が顔を上げる。
「創立記念誌は別で制作してますからねぇ。文化祭パンフ自体は普通だったんじゃないですか?」
すると今度は書記の坂牧要が思い出したように口を開く。
「確か図書室の書庫に、過去の文化祭パンフ全部あった気がしますけど。」
──図書室。
その単語を聞いた瞬間。
陽向の心臓が、ほんの少しだけドキリと跳ねた。
「……図書室かぁ〜」
何気ない相槌を返しながらも、視線が僅かに泳ぐ。
その時。
「帰るついででいいんで、創立記念誌も借りてきて下さいよ。」
阿久津孝明が資料から顔を上げずに言った。
「えー、私?」
陽向が露骨に嫌そうな顔をする。
すると間髪入れず、横溝琉嘉の容赦ない声が飛んだ。
「そんくらいしか役に立たねぇんだからパシれよ生徒会長。」
「まったく酷い言い草だなぁ〜……」
ぶつくさ文句を言いながらも、陽向はスクールバッグを肩へ掛けて立ち上がった。
「じゃあ図書室寄って、そのまま帰るねー」
「よろしくお願いしまーす。」
「お疲れ様でーす。」
役員達の声を背中で聞きながら、生徒会室の扉へ向かう。
ガラッ。
扉を開いた瞬間、夕方の空気が頬を撫でた。
陽向は無意識に、小さく息を吐く。
(図書室……か…)
その言葉だけが、胸の奥に引っ掛かったままだった。
ガラッ───。
図書室の扉を開く。
ひんやりとした空気が頬を撫でた。
放課後の図書室は、相変わらず静かだった。
誰の声も。
何の音もない。
窓から差し込む夕陽だけが、長い影を本棚の間へ落としている。
いつも通りの場所。
何も変わらない空間。
陽向は、その静けさに胸がぎゅっと締め付けられた。
胸の痛みを押し殺すようにして、足早に書庫へ向かう。
生徒会室の喧騒。
文化祭準備の慌ただしさ。
受験のこと。
最近ずっと胸の奥を掻き乱している正体不明の感情。
静か過ぎるこの空間は、少しだけそこから距離を取れた気がしていた。
「文化祭パンフー……創立記念誌ー……」
本棚を見上げながら目的の資料を探す。
「あった。」
文化祭パンフレット。
創立記念誌。
必要な資料を抜き取り、手に取ったその時だった。
「……。」
陽向の視線が止まる。
すぐ隣の棚。
そこには年代ごとに並べられた歴代の卒業アルバムがあった。
背表紙に並ぶ年度。
そして、その中に見つける。
昨年度。
(もう置いてあるんだ……)
陽向は何気ない顔をしながら、その一冊を手に取った。
何気なく、そのまま書庫を出る。
書庫から一番近くにあった席へ腰を下ろした。
夕陽が机の上へ伸びている。
アルバムを机へ置く。
そして、ゆっくりと表紙を開いた。
パラッ。
ページを捲る。
見慣れた制服。
見慣れた校舎。
去年まで当たり前にいた先輩達。
文化祭。
体育祭。
修学旅行。
写真の中には、今ではもう会えない人達の笑顔が並んでいた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
懐かしい。
たった半年しか経っていないのに。
まるでずっと昔のことみたいだった。
そして。
陽向の指先は、最初から決まっていたみたいに迷わず進んでいく。
探している顔は一人だけだった。
ページを捲る。
また捲る。
そして。
ぴたりと指が止まった。
「…………。」
そこには、見慣れた柔らかい笑顔があった。
生徒一覧の個人写真。
(……卒アルって普通盛れないのに……)
陽向は思わず苦笑する。
それなのに。
どうしてこの人は。
(…なんでこんなに………かっこいいんだろ………)
机へ肘をつき。
そのまま腕を枕代わりにして顔を伏せる。
写真との距離が近くなる。
近付いたところで何も変わらないのに。
少しでも、この綺麗な顔を近くで見たかった。
夕陽に照らされたアルバムのページ。
写真の中の俊輔は、今にも「陽向。」と優しい声で笑いそうだった。
胸が痛い。
苦しい。
会いたい。
どうしようもなく。
会いたい。
「……俊ちゃん……」
その名前が、独り言みたいに零れ落ちた。
静かな図書室の中。
もうここにはいない。
もう二度と、この校舎で会うこともない。
それなのに。
写真の中の笑顔だけは、あの頃のままそこに残っていた。
窓の外では、文化祭準備をする生徒達の声が遠く聞こえている。
世界は前へ進んでいる。
文化祭も。
後夜祭も。
受験も。
新しい恋も。
みんな少しずつ前へ進んでいるのに。
陽向だけが。
写真の中の俊輔へ向かって、取り残されたみたいに小さく零した。
「……………会いたいよ……」
そして、少しの沈黙の後。
暗い底へと沈んでいく心を、どうにか繋ぎ止めるように。
バシッ
アルバムを閉じた。
そして、陽向はゆっくりと椅子から立ち上がる。
机の上には閉じられた卒業アルバム。
これ以上見ていたら。
きっとまた、前へ進めなくなってしまう。
陽向は小さく息を吐くと、その場から逃げるように窓際へ歩み寄った。
そして。
カラカラ───
図書室の窓を開け放つ。
途端に、少し熱を帯びた九月の風が吹き込んできた。
ふわり。
頬を撫でる風。
揺れるカーテン。
遠くから聞こえてくる運動部の掛け声。
文化祭準備をしている生徒達の笑い声。
どこかの教室から響く金槌の音。
生きている音だった。
校舎の中で、たくさんの人達が今を生きている音。
陽向は窓枠へ両肘を預けながら、静かに空を見上げた。
夕焼けだった。
オレンジ色に染まった空の向こう。
薄く滲んだ雲がゆっくりと流れていく。
綺麗だな、と。
ぼんやり思う。
吹き抜ける風が、優しく髪を揺らしていった。
一方、その頃───。
三年二組の教室では、文化祭準備が続いていた。
放課後の校舎は騒がしい。
段ボールを切る音。
ガムテープを引き出す音。
誰かの笑い声。
机を運ぶ音。
教室の後ろでは、クラスメイト達が大道具作りに追われている。
そんな教室内の喧騒を適当に聞き流しながら、朔也は逃げるように窓際のカーテンの中に隠れて過ごしていた。
窓枠へ頬杖をつく。
九月の風が開いた窓から吹き込んできた。
グラウンドではサッカー部が練習している。
遠くから吹奏楽部の音も聞こえた。
文化祭前独特の慌ただしさ。
けれど朔也の心は、どこか置いていかれたみたいに重かった。
「…………。」
最近ずっとそうだ。
雫といる時間は楽しい。
本当に。
素直で、可愛くて、健気で。
一緒にいると安心する。
けれど。
ふとした瞬間。
何でもない瞬間に、別の誰かが頭に浮かぶ。
無理やり忘れようとすると余計に浮かぶ。
だから考えないようにしている。
考えない。
見ない。
期待しない。
そう決めたはずなのに。
「……はぁ。」
小さな溜め息が漏れた。
その時だった。
何気なく視線を校舎の向こう側へ流す。
夕陽に照らされた棟。
開いた窓。
その窓際に。
見慣れたシルエットが立っていた。
「……ん?」
朔也の目が止まる。
長い時間をかけて身体へ染み付いた認識は、一瞬でその人物を判別した。
肩までの髪。
窓枠へ肘を預ける立ち方。
少し猫背気味の姿勢。
(……あれ…… ひな……?)
胸が、ざわりと波打つ。
間違いない。
窓にもたれ掛かるようにして、夕焼けを見上げている。
「…………。」
朔也の眉が僅かに寄る。
(あそこ…図書室じゃねぇの…?)
その瞬間。
あの時の光景が、一瞬にして蘇る。
(……俊ぢゃぁん……っ……会いだいよぉ……俊ぢゃん……っ……)
図書室で。
気を失いそうなほどの勢いで、狂ったように泣き叫んでいた、陽向。
胸の奥がざわざわする。
嫌な予感に近い感覚。
心のどこかが警鐘を鳴らしていた。
視線を逸らす。
見なかったことにしろ。
今の自分には関係ない。
自分には雫がいる。
もう。
そういう立場じゃない。
なのに。
再び視線が図書室へ戻ってしまう。
夕陽の中に立つ陽向。
その横顔が。
どうしようもなく寂しそうに見えた。
ドクン。
心臓が強く鳴る。
(……っ……)
奥歯を噛み締める。
やめろ。
行くな。
放っとけ。
頭の中では何度もそう言い聞かせる。
けれど。
身体は少しも言うことを聞いてくれなかった。
気付けば。
朔也は勢いよく立ち上がっていた。
ガタンッ───!
椅子が大きな音を立てる。
「うおっ!?」
「黒川!?」
「お前そんなとこに隠れてたのかよ」
クラスメイト達が数人振り返る。
朔也は教室の出口へ向かいながら叫んだ。
「悪ぃ!ちょっと抜ける!」
「はぁ!?」
「どこ行くんだよ!」
「すぐ戻る!」
バンッ!
勢いよく教室の扉を開ける。
廊下へ飛び出す。
走る。
走りながら、自分でも馬鹿げてる。
何やってんだ俺。
もう関係ないだろ。
放っとけよ。
そう思うのに。
足だけは止まらない。
階段を駆け下りる。
図書室へ続く廊下を曲がる。
胸がうるさい。
どうしても。
どうしても。
あの顔を放っておけなかった。
図書室の扉が見える。
夕陽に照らされた木製の扉。
朔也は息を切らしながら、その前で足を止めた。
そして。
ゆっくりと扉へ手を伸ばした。
ガラッ───。
静まり返った図書室へ、重い音が響いた。
陽向の肩がビクリと震えて、すぐさま振り返った。
「いつまでここで泣いてんの?」
窓から吹き込む風が、陽向の髪を揺らした。
夕焼けは少しずつ色を失い始めている。
陽向は窓枠に寄り掛かったまま答えた。
「別に……泣いてないし。」
掠れた声だった。
朔也は鼻で笑う。
「じゃあここで何してんの?」
「創立記念の資料取りに来ただけ。生徒会で必要だから。」
「だったらさっさと帰れよ。」
陽向は、思わず声が大きくなる。
「べ、別にいいじゃん!私がどこに居て、何してようが、朔也に関係ないじゃん!」
その瞬間。
空気が変わった。
朔也の視線が机へ落ちる。
そこには。
卒業アルバム。
そして。
年度の記載は昨年度。
「………。」
数秒の沈黙。
朔也は小さく息を吐いた。
「お前さ。」
低い声だった。
「最近鷹井綾真とやたら一緒にいるくせに、ここで藤崎俊輔のこと思い出してるわけ?」
陽向の肩が揺れる。
「お前の情緒どうなってんの?」
鋭く突き刺さる朔也の視線。
陽向は、唇を噛む。
「だからそれは…私なりに前に進もうとしてるんじゃん。」
“前に進む”。
その言葉を聞いた瞬間、朔也の胸の奥で何かが軋んだ。
藤崎俊輔が卒業して。
いなくなって。
その時は。
自分の方を見てくれると思っていた。
ずっと。
本当にずっと。
待っていた。
それなのに。
陽向が“前に進む”ために。
手を伸ばした先にいたその相手は。
俺じゃない。
胸の奥に沈め続けていた感情が、ゆっくりと黒く滲み出していく。
「その相手が。」
朔也の声がさらに低くなる。
「嫌がるお前を無理やり襲おうとしてた鷹井綾真なの?」
「っ……!」
陽向が顔を上げる。
「綾真は無理やり襲おうとしてないし!」
即座に否定する。
それが余計に朔也の神経を逆撫でした。
「じゃあなんで泣いてたわけ?」
「……。」
返せない。
陽向は黙る。
図星だからじゃない。
陽向は、あの日の自分を、朔也に説明できない。
けれど朔也には、そんなことわからない。
「泣きながら固まってるところを助けてやった俺のことは蹴飛ばして。」
自嘲するみたいに笑う。
「お前が手を取るのは鷹井綾真?」
陽向の胸が痛む。
朔也の顔が見れない。
「お前って、随分なやつだよな。」
朔也は笑った。
笑ったはずなのに。
その顔は、少しも笑えていなかった。
夕陽が沈んでいく。
図書室は少しずつ薄暗くなり。
二人の間に落ちた沈黙だけが。
重く。
どうしようもなく重く。
静まり返った空間に横たわっていた。
そして、長い沈黙のあと。
朔也は何かを諦めたように、口を開いた。
「………………もう忘れろよ。藤崎俊輔なんて。」
陽向の肩が震える。
閉じたままの卒業アルバムが、窓から差し込む夕陽を浴びている。
そこに写る笑顔。
もう届かない人。
もう帰ってこない人。
朔也は続けた。
「お前がここにいくら居たって、藤崎俊輔は現れない。」
低い声だった。
陽向の睫毛が揺れる。
朔也は奥歯を噛み締めた。
「藤崎俊輔は、もう居ねぇんだよっ!!」
ビリッと空気が張り詰めた。
その言葉は。
陽向を傷付けるためじゃない。
現実を突き付けるためでもない。
もう居ない。
だから。
もう終わりにしてほしい。
もう諦めてほしい。
もう。
俺を見てほしい。
そんな醜い願いが。
喉の奥で渦を巻いていた。
「………どうして……そんなこと言うの……?」
陽向の声が震える。
その直後、陽向の瞳から。
ツー…ッと涙が頬に伝った。
「わかってるよ……っ私だって……っ」
声が詰まる。
「そんなこと……言われなくたって……あんたの100倍わかってる……っ!」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、胸を押さえる。
堪えていたものが決壊する。
「もう会えないことも!帰ってこないことも!」
嗚咽が混じる。
「全部……全部わかってるよ……っ!!」
図書室に響く泣き声。
夕陽が滲む。
窓の外の景色も。
世界も。
全部。
涙でぼやけて見えた。
「………っ」
その瞬間だった。
朔也の胸の奥から、どうしようもなく熱いものが込み上げてくる。
こいつが泣くと。
胸のどこかが滅茶苦茶になる。
(……っ……泣かれると……っ)
抱きしめたくなる。
今すぐ。
その肩を掴んで。
こっちへ引き寄せて。
その涙を拭ってやりたくなる。
頭を撫でて。
大丈夫だって。
もう泣くなって。
そう言いたくなる。
脳裏に浮かぶ。
“だったら俺がいつも側にいるから。”
“これまでも辛い時は、ずっと俺が隣にいただろ。”
”寂しいんだったら、鷹井綾真なんかじゃなくて俺にしろよ。”
今すぐ抱きしめて、言いたい。
言ってしまいたい。
ずっと飲み込んできた言葉を。
全部。
全部。
ぶつけてしまいたい。
朔也の指先に力が籠る。
もし。
もし今。
そう言って。
お前が泣きながら、腕の中で頷いてくれたなら。
俺は、雫と────────。
「………………っ」
頭に浮かんだ考えに、自分自身が凍り付いた。
あんなに真っ直ぐな想いを向けてくれる女の子を。
あんなに健気で。
あんなに一生懸命で。
俺を幸せにしようとしてくれている子を。
陽向が振り向いた瞬間。
掌を返したみたいに。
切り捨てるのか。
胸の奥が鈍く痛んだ。
最低だ。
本当に最低だ。
朔也は自分でそれを、わかっていた。
しかし、泣いている陽向を前にすると。
その最低な願いが。
朔也の脳裏から、どうしても消えてくれなかった。
それでも。
それでも陽向が欲しかった。
十八年間。
ずっと。
ずっと欲しかった。
届かなかったものが。
傷ついて。
泣いて。
陽向が、従順である状態の今なら手に入るかもしれない。
今までのように。
きっと、抱きしめ返してきて。
震えながらも、この胸にしがみつくように泣き縋る。
そんな希望が。
胸の奥で狂ったように暴れていた。
朔也は、衝動に駆られるように。
陽向へと、ゆっくり腕を伸ばした。
あと少し。
あと少しだけで。
陽向の肩に、届く。
その時だった。
「忘れない。」
空気が止まった。
朔也の指先も。
呼吸も。
時間さえも。
陽向は俯いたまま、両手で涙を拭った。
「例え誰が隣にいても…これからこの先、誰の手を取ろうとも…私は……」
ぐしゃぐしゃになった顔。
赤くなった目。
震える肩。
それでも。
顔を上げた、その瞳だけは。
驚くほど真っ直ぐだった。
「俊ちゃんとの恋だけは。絶対一生忘れない。」
それは陽向の。
譲れない“永遠の恋”宣言。
「…………………。」
朔也の伸ばしかけていた腕が。
そっと、静かに下ろされた。
あと数十センチ。
その距離が。
どうしようもなく遠かった。
その手はもう。
陽向には届かない。
「…………わかった。」
掠れた声だった。
「……!」
陽向が顔を上げる。
何か言おうとしたのかもしれない。
けれど朔也はもう見なかった。
見たら、また手を伸ばしてしまう気がしたから。
踵を返す。
「勝手にしろ。」
ぶっきらぼうな言葉。
けれど。
本当は。
勝手になんてしてほしくなかった。
置いていかないでほしかった。
最後に、一度くらい。
俺を選んでほしかった。
ビシャン─────
図書室の扉が閉まる音が、室内に響いた。
夕暮れの静寂が戻る。
「………っ」
陽向の瞳から再び涙が溢れた。
ぽろり。
ぽろり。
堪えていた何かが決壊する。
「…なんで……っ…いつもみたいに………」
涙で視界が滲む。
扉が見えない。
夕陽も見えない。
私がどんなに反抗しても。
どんなに突き放しても。
どんなに酷いことを言っても。
あなただけは。
そんなのお構いなしだったじゃん。
高一の頃の、ふとした記憶が蘇る。
(早くいなくなれ…消えろ…!….消えろ…)
あの時。
必死で部屋から追い出そうと、錯乱状態であなたの背中をグイグイ押した。
(俺は、いるよ。)
(………っ!)
抱きしめてくれた、あの温もり。
張り詰めていたものが、一瞬にしてほどけていくような、安心感。
(俺がいる。怖くても…不安でも……お前の側に……絶対俺が、必ずいる。)
勝手に隣にいて。
勝手に世話焼いて。
勝手に助けて。
勝手に許して。
ずっと。
そうだったじゃん。
「…抱きしめてくれないんだよ…っ……バカ…」
今までみたいに、縋りつきたかった。
温かい、あなたのその腕の温もりに。
安心させてもらいたかった。
窓から吹き込む風が冷たい。
胸の奥が痛い。
苦しい。
寂しい。
どうしてこんなに苦しいのか。
まだわからない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
あなたが心配する子も。
あなたがお節介を焼く子も。
放課後を一緒に過ごす子も。
泣いた時に抱きしめてあげる子も。
もう。
私じゃない。
あなたの隣にいるんだもんね。
夕陽に染まる図書室で。
陽向はひとり。
誰にも聞こえない声で泣き続けていた。
図書室から、遠ざかっていく朔也。
閉じた扉の向こうへ消えていく足音。
一歩。
また一歩。
その音が遠ざかるたびに。
二人の距離まで離れていくような気がした。
陽向と朔也。
十八年間続いた二人の関係は。
ずっと同じ場所に立っているようでいて。
本当は少しずつ変わり続けていた。
幼馴染。
家族みたいな存在。
親友。
腐れ縁。
そのどれでもあって。
そのどれでも足りなかった。
けれど。
人は近すぎるものほど見えなくなる。
当たり前に隣にいる存在ほど。
失うまで、その大切さに気付けない。
もしも。
あと少しだけ早く。
もしも。
あと少しだけ勇気があって。
あと、ほんの一歩。
歩み寄れていたなら。
あと、ほんの数十センチ。
近付けていたなら。
あと、ほんの少しだけ。
お互いが、自分の気持ちに素直になれていたなら。
二人は違う未来を歩いていけたのかもしれない。
夕暮れの図書室で。
二人の想いは、あとほんの数十センチ届かないまま。
静かにすれ違っていく。
まるで。
沈みゆく夕陽が、二人の背中を別々の方向へ押していくように。




