第138話 思いやりと、重い槍
そして、二学期最初の生徒会役員会議の日は訪れた。
九月上旬。
夏休みが終わったばかりだというのに、校内はすでに文化祭一色だった。
廊下には各クラスが作り始めたポスターの下書き。
昇降口には文化祭までの日数を示すカウントダウンボード。
放課後になると、教室のあちこちから木材を運ぶ音や、段ボールを切る音が聞こえてくる。
文化祭本番まで、残り三週間弱。
今の生徒会に求められているのは華やかな企画会議ではない。
提出物の回収。
トラブル処理。
先生との調整。
締切を守らない生徒達の尻拭い。
そして今年は、そこにもう一つ。
創立五十周年記念企画────後夜祭。
文化祭終了後に初めて行われるその行事は、今や生徒会の中で最も重たい案件になっていた。
ステージ出演団体の最終確認。
軽音部とダンス部のリハーサル時間調整。
照明と音響機材の使用申請。
終了時刻の厳守。
近隣への騒音配慮。
雨天時の体育館移動案。
保護者・卒業生の立ち入り可否。
警備配置。
片付け動線。
巡回担当。
夢みたいな企画は、実現が近づけば近づくほど、急速に現実の事務作業へ姿を変えていた。
ガラッ。
「おっつー!」
陽向はいつもの調子で、相田桜子と一緒に生徒会室の扉を開いた。
「お疲れ様です!」
「おつかれー」
「会長お疲れーっす」
役員達から声が返ってくる。
いつもと変わらない光景。
けれど。
陽向の視線が雫と合った瞬間。
ざわ……。
胸の奥が、小さく波打った。
その違和感を振り払うように、陽向はパッと表情を明るくすると、雫の元へ駆け寄った。
「しぃちゃん、おめでとっ!」
雫は嬉しそうに、花が咲くみたいに微笑んだ。
「星野先輩……ありがとうございます!」
その笑顔を見た瞬間、陽向は無意識に胸を撫で下ろしていた。
私、ちゃんと笑えてる。
雫は、少し照れたように両手でファイルを抱え直す。
「星野先輩のおかげです。ずっと背中を押してくれたから……星野先輩がいてくれなかったら、私は何も出来ませんでした」
「……そっか。それなら私も嬉しいよ」
陽向は静かに微笑む。
それでも、なぜ胸の奥に小さな棘が残るのか。
陽向には、まだわからなかった。
「……これからも色々ご相談に乗って───」
「あ、琉嘉ー!」
雫の言葉を遮るように、陽向は振り返った。
副会長席で資料を捲っていた横溝琉嘉が顔を上げる。
「各クラスの備品リストって全部揃った?」
「あぁ、来てるよ。つーかなんでお前が昨日のうちにチェックしねーんだよ!本来会長の仕事だろうが!」
「するするー!どれ、ちょっと全部見してみ?」
「今かよ!もう会議始まんだろっ!」
琉嘉の怒号が生徒会室へ飛ぶと、役員達が小さく笑った。
陽向は笑いながら、ファイルをぱらぱらとめくる。
その様子を、雫は目で追っていた。
「………?」
胸の奥に、ほんの少しだけ違和感が残る。
「そー言えば、文化祭パンフのクラス紹介って全部集まった?」
「お前それ…先週確認しろって言ってただろ。」
「え、言ってたっけ?」
「言っただろ!!始業式の日!!」
「えーあの日ほかにも色々言われ過ぎて覚えてないよー」
「そんで後夜祭の軽音。尺の時間揉めてたやつは納めたのかよ」
「あ。」
「っざけんな!!!」
雫は思わず、クスッと笑った。
(忙しいだけか…会長だもんね。)
その時。
ガラッ────
「全員来てるかー。会議始めるぞー」
顧問の餅田先生が生徒会室の扉を開く。
陽向は立ち上がり、役員達を見渡した。
いつもの生徒会室。
いつものメンバー。
けれど、二学期の空気はもう一学期とは違う。
文化祭。
受験。
新しい恋。
変わってしまった距離。
変わらないふりをしている自分。
「あれ、もっちー!髪めっちゃ短くなったじゃん!イケメンになってる!!」
「あはは…そうか?久しぶりにここまで切ったんだよ」
「イメチェン成功じゃん!」
その全部を抱えたまま、陽向は笑った。
会議が始まる。
文化祭へ向けて、二学期が動き出す。
けれどその裏側で。
それぞれの心もまた、静かに別の方向へ動き始めていた。
その日の業務を終え、生徒会室を出た陽向は、相田桜子と並んで昇降口へ向かっていた。
九月とはいえ、まだ夕方の空気には夏の熱が残っている。
窓の外では、文化祭準備をしている生徒達の声が聞こえていた。
運動部の掛け声。
木材を運ぶ音。
校庭を吹き抜ける風。
慌ただしい毎日の中で、気付けば放課後はあっという間に過ぎていく。
「あー疲れたぁ〜」
陽向は肩を回しながら大きく伸びをした。
「会長様は大変だね。」
桜子が笑う。
そんな他愛もない会話をしながら昇降口へ差しかかった、その時だった。
「あ……」
視界の先。
昇降口の柱へ軽く背中を預けながら、スマホへ視線を落としている男子生徒がいた。
見慣れた黒髪。
見慣れた立ち姿。
制服の着崩し方まで、見慣れている。
陽向の足が、止まった。
「え、もしかして待ってたの?」
何気なく口から出た言葉。
朔也は顔を上げる。
「あぁ。進路面談だったからついでに。」
「あ、そ。」
陽向は何でもない顔で返し、そのまま下駄箱へ向かう。
靴を履き替えながら、なぜか胸の奥が少しだけ緩んでいくのを感じていた。
その瞬間。
────「朔也くん!」
弾けるような声が廊下へ響く。
パタパタッと軽やかな足音。
振り向くより早く、陽向には誰だかわかった。
「面談、結構早く終わったの?」
「いや?今さっき終わったとこだよ」
陽向の指先が止まる。
胸の奥が、ざわりと波立った。
ゆっくり顔を上げる。
そこには当たり前みたいに朔也の隣へ駆け寄る雫がいた。
「……っ」
全身から冷たい汗が滲んだ気がした。
(……うわ……)
喉の奥が詰まる。
(私……)
勘違いした。
朔也が待っている。
その事実だけで、当然みたいに。
当たり前みたいに、自分を待っているんだと思った。
十八年間。
長年の癖みたいに、隣にいた。
それが普通だった。
だから考えるより先に。
思考回路の癖のように、身体が勝手にそう判断してしまった。
(…最悪……)
胸の奥が妙に騒がしい。
恥ずかしい。
情けない。
なんでそんな勘違いしたんだろう。
「あ、星野先輩!相田先輩!お疲れ様です!」
雫が笑う。
陽向も慌てて笑顔を作った。
「あ、お疲れー」
ちゃんと笑えているだろうか。
変じゃないだろうか。
そんな事を考えてしまう自分が、もっと嫌だった。
「雫も履き替えといで。」
「うん!朔也くん、先輩達と先歩いてていいよ」
「いや待ってる」
「わかった!即効で行ってくる!」
雫は笑いながら一年生の下駄箱へ走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、陽向は小さく息を吐く。
あまりにも自然だった。
付き合っている恋人同士の距離感。
いつの間にか、自分の知らなかった二人の一面。
それを目の前で見せられている気がして。
胸の奥が、少しだけ落ち着かなかった。
「黒川くん、可愛くて仕方ないでしょ。」
桜子が笑いながら言う。
朔也は一瞬だけ、チラッと陽向へ視線を向けた。
「雫は素直で、健気だからな。」
淡々とした声。
何でもない返事。
なのに。
その言葉が妙に胸へ引っ掛かった。
陽向は思わず口を開いていた。
「朔也には勿体ないんじゃない?あんなに可愛くて良い子が浮気なんてされたらめちゃくちゃ可哀想。」
「は?しねぇから。」
「どーだかね。前科ありすぎ。」
空気が、わずかにピリッと張り詰めた。
その時。
「お待たせしましたっ!」
雫が戻ってきた。
凍りかけた空気は、一瞬で霧散する。
陽向は胸の奥へ残った小さな棘から目を逸らすように、明るく笑った。
「おし、帰るかー!」
「はいっ!」
陽向の明るい声。
雫の嬉しそうな笑顔。
その時だった。
相田桜子がスマホを取り出し、時刻を確認する。
「あっ、やば。」
次の瞬間には顔色が変わっていた。
「私、予備校の時間押しちゃってる!ごめん、先行くね!」
「え!そーなの?じゃあ急ぎな!」
陽向が目を丸くする。
「うん、ばいばーい!」
「先輩お疲れ様でしたー!」
相田桜子は、慌ただしく手を振るとそのまま駆け出して行き、雫の元気な声が後ろから追いかけた。
軽快な足音が遠ざかっていく。
夕方の校舎に、少しだけ静寂が落ちた。
そして自然な流れで。
朔也と雫がアプローチ広場へ向かって歩き出す。
その後ろ姿を見た瞬間だった。
陽向の足が、動かなかった。
「…………。」
今まで当たり前みたいについて行っていたはずなのに。
駅まで一緒に帰ることなんて珍しくもなかった。
胸の奥がざわざわする。
夕陽に照らされた二人の背中。
並んで歩く距離。
自然に交わされる会話。
その光景を見ているだけで、妙に居心地が悪かった。
「星野先輩……?」
雫が不思議そうに振り返る。
陽向はハッとした。
そして咄嗟に。
「あー!私、やり残した締め切りの業務思い出したわ!」
パンッと手を叩いた。
我ながら雑な嘘だった。
けれど雫は疑いもせず目を丸くする。
「えー!またですかぁ?」
「いやー、すっかり忘れてたー!あははー!」
陽向は笑う。
けれど胸の奥では、自分自身への戸惑いが膨らんでいく。
「終わります?手伝いましょうか?」
「大丈夫大丈夫!印鑑つくだけだから!」
「まったくもー。」
雫は困ったように笑う。
「星野先輩は本当にうっかりが多いんですから。」
その言葉に、陽向も笑った。
「それなー。あぶねーあぶねー」
軽く返しながら。
胸の奥では別の声が響いていた。
(どー考えても、私お邪魔虫じゃん!!)
「じゃあ戻るわ!ごめんねー!」
「はい!お疲れ様です!」
雫はいつも通り明るく手を振った。
陽向も笑顔で振り返して踵を返した。
廊下へ戻る。
コツ、コツ、と上履きの音だけが静かに響く。
背中へ向けられていた視線が消えた頃。
陽向はゆっくり息を吐いた。
窓の外では、九月の夕陽が校庭を橙色に染めている。
遠くから聞こえる運動部の声。
文化祭準備をしている生徒達の笑い声。
いつもと何も変わらない放課後。
それなのに。
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
せっかく付き合えたんだから。
放課後くらい二人で帰りたいに決まってる。
そう思いながら。
陽向は再び校舎の中へ戻っていった。
一方───。
陽向が踵を返し、校舎の中へ消えていく背中を見送っていた雫と朔也。
朔也の胸の奥だけが、妙にざわついていた。
“ 朔也には勿体ないんじゃない?あんなに可愛くて良い子が浮気なんてされたらめちゃくちゃ可哀想。”
(………く……っ…)
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
陽向の背中へ送る視線が、無意識に鋭くなっていた。
その直後に浮かぶのは。
“ いやー、すっかり忘れてたー!あははー!”
あの屈託のない笑顔。
まるで何も感じていないみたいな。
何も変わっていないみたいな。
いつも通りの笑顔。
朔也の指先へ、ぎゅっと力がこもる。
(…ノーダメージかよ…っ)
頭ではわかっている。
自分に彼女が出来たからといって。
あいつが傷付くはずなんてない。
困る理由も。
寂しがる理由も。
嫉妬する理由も。
ひとつもない。
わかっているのに。
朔也の胸の奥に黒い感情が滲んだ。
その時。
「…朔也くん…?」
隣から聞こえた声に、ハッと我に返る。
見上げてきた雫の瞳には、不安そうな色が滲んでいた。
今の自分の顔は、きっとあまり良い顔をしていなかったのだろう。
「あ…」
朔也は慌てて表情を緩める。
「んじゃ行くか。」
いつものように、何でもないように。
口元へ笑みを貼り付けた。
「うん。」
雫は気付かないふりをするみたいに、柔らかく微笑んだ。
そして二人は、並んで駅へ歩き出す。
「…………。」
どこか、なんとなく重たい空気が出ている朔也の様子。
いつもみたいに軽口を叩くわけでもなく。
雫をからかうわけでもなく。
雫にはそれが、わかっていた。
(…星野先輩と……帰りたかったんだろうな………)
胸の奥が、少しだけ痛む。
昇降口から走り去る彼女の背中を見送る時に。
ほんの一瞬だけ見えた横顔は、あまりにも寂しそうだった。
わかっている。
本当はまだ、星野先輩が好きなことくらい。
雫は、ぐっと唇を噛み締める。
それでも、俯かなかった。
それでも。
私の手を取ってくれたから。
苦しくても。
傷付いても。
前へ進もうとしているから。
叶わない恋を終わらせようとしているから。
そんな中で、私を選んでくれたから。
私は、あなたの為に。
あなたの、誰よりも大切な存在になりたいから。
あなたが心から、笑えるようになるまで。
あなたのその手を、離したくない。
ぎゅっ
雫はそっと、朔也の手を繋いだ。
「……!」
朔也は、今ここに引き戻されたみたいに、雫を見た。
雫はそんな朔也へ、小さく笑いかける。
「朔也くん、このあと忙しい?」
「え?いや特に。」
雫の瞳が少しだけ明るくなる。
「私、前に朔也くんが言ってたオムライスやさんがずっと気になってるの」
「あぁ、いいよ。行こっか?」
「本当っ!?嬉しいっ!!」
雫の顔がぱぁっと明るくなった。
朔也は吊られるように、思わず笑う。
「あはは、そんなオムライス好きなの?」
「ううん、違うの」
雫は首を横へ振った。
夕陽が彼女の横顔を優しく照らしている。
「朔也くんのことが好きなの!だから、1秒でも長く一緒に居られるのが嬉しいっ!」
少し照れながら。
けれど誤魔化さず。
無邪気な笑顔で、真っ直ぐに言った。
「………っ」
朔也の胸が、ドクンッと鳴った。
言葉を失う。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
陽向を思い出して苦しくなっていた場所へ。
まるで温かい毛布を掛けられたみたいに。
優しい熱が広がっていく。
(癒されるわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜)
目の前には、こんなにも真っ直ぐに。
こんなにも大切に。
自分を想ってくれる人がいるのに。
胸の奥が熱い。
泣きそうになるくらい、温かかった。
そして次の瞬間。
ぎゅううぅぅ〜〜〜〜っ───。
思わず、朔也は雫を抱きしめていた。
「…っ!?!?」
突然のことに雫が固まる。
けれど朔也は離さない。
抱きしめたまま、額を肩へ押し付けた。
「……雫……ありがとう……」
力の抜けた声。
本音だった。
涙が滲みそうになるくらい、心がほどけていく。
雫は一瞬ぽかんとして。
それから顔を真っ赤にしながら。
「…っ…こちらこそだよ…っ」
そっと。
そっと。
朔也の背中へ腕を回した。
夕焼け空の下。
二人の影が、長く歩道へ伸びていた。




