第136話 いつも通りの日常の、今まで通りじゃない日常
数日後。
陽向は、夏期講習の帰りに綾真と駅前のファミレスで課題を広げていた。
志望理由書。
活動報告書。
小論文の構成メモ。
テーブルの上に散らばるプリントを前に、二人でああでもない、こうでもないと頭を抱えながら、時々くだらない話で笑った。
花火大会の夜以降、綾真との距離は、少しだけ変わった。
友達以上。
恋人未満。
九対一。
その奇妙な割合は、思ったよりも居心地が悪くなかった。
優しくされても、重すぎない。
好意を向けられても、逃げたくなるほどではない。
むしろ、綾真の真っ直ぐさは、受験と過去の恋に押し潰されそうになっていた陽向の心を、少しだけ軽くしてくれていた。
それでも。
夜。
キッ─────
帰宅し、自宅前で自転車のブレーキを握った瞬間。
陽向の視線は、無意識に隣家へ向かっていた。
見慣れた玄関。
見慣れた塀。
見慣れた駐輪スペース。
「…………。」
陽向は、自転車に跨ったまま、しばらくその場所を見つめた。
(……原付ない……フーデリかな……)
夜風が、ぬるく頬を撫でていく。
夏の湿った匂い。
遠くで鳴く虫の声。
住宅街のどこかから漏れるテレビの音。
何も変わらない、いつもの夜だった。
けれど、隣家だけが。
そこにあるのに、妙に遠かった。
花火大会の日以来、朔也とは顔を合わせていない。
いつもなら、なんでもない顔でインターホンを押していた。
雑な理由で、いくらでも隣の家へ行けた。
行くのに、理由なんていらなかった。
十八年、ずっとそうだった。
なのに今は。
指先が、動かない。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
────誤りたい。
あの時、公園で言ってしまったこと。
(余計な事すんな!!これは私の恋愛!!お前が口出ししてくんな!!)
あの言葉が、何度も胸の奥で反響する。
朔也は、自分を助けてくれた。
あの瞬間、完全に自分を見失いかけていた時、現実へ引き戻してくれた。
綾真を傷つけるところだった。
自分自身も、もっと取り返しのつかない場所へ行ってしまうところだった。
それを止めてくれたのは、朔也だった。
だから本当は。
怒るんじゃなくて。
蹴るんじゃなくて。
突き放すんじゃなくて。
ちゃんと、お礼を言うべきだった。
助けてくれて、ありがとうって。
ひどいこと言って、ごめんって。
そう、言えばいいだけなのに。
(……な……なんで……)
なんで、こんなに緊張するんだろう。
これまで、こんなことは何度もあったはず。
喧嘩して。
理不尽をぶつけ合って。
わがままを言い合って。
腹が立って。
言い過ぎて。
それでも翌日には、何事もなかったみたいに顔を合わせて。
気まぐれにどちらかが雑に謝って。
たまにどちらかが雑に許して。
また、くだらないことで笑っていた。
それが、ずっと自分達だった。
家族みたいで。
兄弟みたいで。
腐れ縁で。
空気みたいで。
近すぎて、意識する必要なんてなかった相手。
それなのに。
(今更……意識することなんてあるか……?)
自分でもわからない。
わからないのに、胸だけが勝手に反応する。
陽向は、自転車を押して自宅の駐輪場へ向かった。
タイヤが小さく砂利を踏む音が、夜の静けさの中にやけに大きく響く。
カタン、とスタンドを立てる。
その音に紛れるように、脳裏へあの声が蘇った。
(おい。何してんだよ)
数年前より更に低くて。
鋭くて。
怒っていて。
でも、確かに自分を引き戻してくれた声。
綾真へ向かって傾きかけていた意識を、強引に現実へと救い出してくれた声。
高くなった身長。
広くなった肩幅。
大人みたいな立ち姿。
(こいつはまだ……藤崎先輩が好きなんだよ!)
胸の奥が、ドクンと鳴る。
そうだ。
その通りだ。
それは当然のことで、変わらない。
変えられない。
だから、朔也の言葉は間違っていない。
間違っていないはずなのに。
(……あの時………)
あの時だった。
朔也の口からそれを言われた時に。
どうしようもないほどの苛立ちが込み上げて。
思わず衝動的に蹴り飛ばして。
“口出しするな”って言ったんだ。
(私は…………)
それを、朔也に言われたく………なかった………?
トクン。
心臓が、小さく跳ねた。
(……なんで……)
陽向は、胸元をそっと押さえた。
トクン。
トクン。
朔也の声を思い出すと。
朔也の顔を思い浮かべると。
怒った顔。
呆れた顔。
雑に笑う顔。
自分を庇うように前へ出た背中。
胸の奥が、落ち着かなくなる。
俊ちゃんを思い出した時の胸の温かさや、切なくて壊れそうな痛みとは違う。
もっと近くて。
もっと熱くて。
もっと厄介で。
説明のつかない違和感が、心臓の裏側を叩いてくる。
(……なんで……朔也なんかに……)
陽向は、ぎゅっと拳を握った。
朔也なんかに。
ずっと隣にいた。
何でも知っている。
何度も喧嘩した。
変顔も見た。
寝癖も見た。
上裸くらい、昔なら何とも思わなかった。
そんな相手なのに。
どうして今さら。
こんなに、会うのが怖いんだろう。
どうして今さら。
謝るだけのことが、こんなに難しいんだろう。
どうして今さら。
朔也のことを考えるだけで。
胸が、こんなにうるさいんだろう。
「…………。」
陽向は、もう一度だけ隣家を見上げた。
二階の窓は暗い。
原付もない。
そこに朔也はいない。
その事実に、少しだけほっとした。
そして同時に。
少しだけ、寂しいと思ってしまった。
その感情に気づいた瞬間、陽向は慌てて視線を逸らす。
「…ガチで意味がわからん……」
小さく呟いた声は、夏の夜風に溶けて消えた。
陽向は逃げるように玄関へ向かう。
けれど胸の奥では、まだ。
トクン。
トクン。
トクン。
知らない音が、鳴り続けていた。
────────。
そして、あっという間に新学期がやって来た。
夏休みの終盤は、勉強と推薦課題に取り組み、ほとんど引きこもるように過ごしていた。
机に向かう毎日。
受験生らしいと言えば聞こえはいいが、実際は締切に追われながら必死に書類と格闘していただけだ。
「……あー……」
陽向はスクールバッグへ教科書を詰め込みながら、大きく伸びをした。
(なんか……ぼーっとするわー……)
夏休みモードから抜け切らない頭が重い。
まだ眠い。
まだ家にいたい。
できれば二度寝したい。
そんな怠い身体を無理やり動かしながら、最後の荷物を鞄へ押し込んだ、その時だった。
───ピンポーン。
聞き慣れたインターホンの音が家の中へ響く。
陽向の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
そして。
気付けば胸の奥が、少しだけほっとしていた。
「……。」
自分でも理由はわからない。
けれど、その音を聞いただけで肩の力が抜ける。
陽向は小さく息を吐くと、玄関へ向かった。
「ふぁ〜……」
大きな欠伸をしながら扉を開ける。
朝の光の中。
そこには、見慣れた姿が立っていた。
「新学期の朝から寝ぼけた顔してんじゃねぇよ」
呆れたような声。
低くて。
雑で。
聞き慣れた声。
「新学期だから寝ぼけた顔になるんだよ」
「休み中の生活が乱れてるからそうなるんだろ」
「あ、スマホない。だる。」
陽向は悪びれもせず踵を返す。
そのまま再び家の中へ消えていった。
玄関先に取り残された朔也は数秒固まり、それから大きく息を吐く。
そして。
「……ちっ…」
盛大な舌打ちが朝の住宅街へ響いた。
呆れた様子とは裏腹に。
朔也は当たり前のように、その場で陽向を待っていた。
二人は電車に揺られていた。
窓の外を流れていく街並み。
夏の終わりを感じさせる、少しだけ柔らかな日差し。
「お前、課題終わったの?」
「まぁ一応……だいぶギリギリ。」
「やるじゃん。」
「そっちは? 模試の結果足りた?」
「まぁ、ギリ。」
そんな他愛もない会話。
受験生になってからは、なぜか自然にこういう話ばかり。
「はぁ〜……」
陽向は小さく溜め息をつき、窓の外へ視線を投げた。
受験は、思っていたよりずっと重い。
毎日やることがある。
終わらない課題。
迫る締切。
将来への不安。
それだけで精一杯なのに。
ふと、一年前のことを思い出した。
彼はきっと、もっと大変だった。
海外進学という高い壁。
受験勉強。
生徒会長としての仕事。
海外への引っ越し準備。
数え切れない手続き。
次期経営者というプレッシャー。
今の自分なんかより、ずっと。
それなのに。
陽向は、そっと目を伏せた。
あの頃の自分は。
そんな彼に向かって、もっと自分との時間を作れとキレ散らかしていた。
受験生の彼氏に。
必死に未来と戦っていた人に。
今ならわかる。
どれだけ余裕がなかったのか。
どれだけ苦しかったのか。
(……ごめんね……俊ちゃん……)
あの頃の自分を、殴ってやりたい。
いつものように、俊輔への愛しさと切なさと寂しさで胸の奥が痛んだ。
その時だった。
不意に脳裏へ蘇る。
あの日の声。
(こいつはまだ……藤崎先輩が好きなんだよ!)
朔也の声。
花火大会の夜。
怒ったような。
苦しそうな。
あの顔。
「…………。」
陽向は小さく息を吐いた。
そうだ。
謝らないと。
あの時。
助けてくれたのに。
止めてくれたのに。
酷いことを言ったこと、ちゃんと謝らなきゃ。
そう思いながら、隣に座る朔也へそっと視線を向ける。
「…………。」
言葉が出てこない。
十八年も一緒にいた相手なのに。
どうしてこんなに緊張するんだろう。
(なんて……言おうかな………)
そんなことを考えた、その時だった。
ポン。
小さな通知音。
朔也のスマホが震える。
「…………」
朔也は無言で画面を開いた。
視線が落ちる。
指先が素早く動く。
数秒後。
また通知。
再び指先が動く。
また通知。
また返信。
誰かとLINEのラリーをしているのがわかる。
(未読マンのくせに…珍しいな……)
そう思った瞬間。
朔也が不意に口を開いた。
「駅着いたら俺ちょっと改札にいなきゃいけないから先行っててくんね?」
「え?なんで?」
その直後だった。
朔也はスマホに視線を落としたまま、あまりにも自然な口調で言った。
「俺、雫と付き合ったんだよね。こっち先着くっぽいから待ってるわ」
陽向の思考が止まる。
一拍遅れて。
「はっ!!!??? まじ!!!???」
車内へ響きそうな勢いで叫んだ。
「うっせーな。電車ででけぇ声出すなよ。」
朔也が眉をしかめる。
「え!? いつ!?!?」
「花火大会の日。」
「はっ!?」
再び固まる。
花火大会の日。
つまり。
あの日。
「別にそんな驚くことでもねーだろ。お前だって“いい感じ”っつってたんだから。」
その言葉を聞いた瞬間。
陽向の胸の奥で。
説明のつかない何かが。
小さくざわりと音を立てた。
(……あれ……………?)
「ま、まぁ…確かに。」
陽向は曖昧に頷いた。
ずっと応援していた。
雫の恋を知っていたし。
相談にも乗った。
二人のLINEを繋いだのも自分だ。
花火大会へ行くきっかけを作ったのも自分。
なのに。
どうしてだろう。
胸の奥が、少しだけ重たい。
「…………良かったじゃん。おめでとう。」
こぼれた声は。
自分でも驚くほど静かだった。
「……。」
朔也は一瞬だけ陽向を見る。
その時。
ポン。
再び通知音が鳴る。
朔也の視線が落ちる。
指先が動く。
陽向は、その様子を何となく眺めていた。
楽しそう、というわけでもない。
浮かれているわけでもない。
けれど。
当たり前みたいに連絡を取り合う、その姿は。
確かに彼氏だった。
(…………。)
陽向は、ふいにそこから視線を逸らした。
窓の外へ目を向ける。
流れていく街並み。
住宅街。
信号。
歩道橋。
見慣れた景色が次々と後ろへ流れていく。
なのに。
胸の奥だけが、妙に落ち着かなかった。
ちく…
小さく心臓が鳴る。
理由はわからない。
わかりたくもなかった。
結局。
公園での出来事について、伝えたかった言葉は何ひとつ言えないまま。
ただ。
朔也のスマホへ届く通知音だけが。
やけに耳に残った。




