第135話 新しい明日へ
朔也と雫が残された公園には、静寂が落ちていた。
さっきまで夜空を震わせていた花火の余韻も、遠くの人波のざわめきも、今はどこか膜の向こう側みたいに遠い。
「……ちっ……あのクソ女……!」
蹴られた脇腹が、地味に痛む。
派手に転がされた痛みよりも、胸の奥に残った言葉の方が、ずっと鋭かった。
朔也は吐き捨てるように呟きながら、どうにもならない苛立ちを抱えたまま、近くのベンチへ乱暴に腰を下ろした。
ギシ、と古びたベンチが小さく軋む。
夜風が吹く。
ぬるい夏の風の中に、火薬の匂いがかすかに混じっていた。
朔也は片肘を膝へ乗せ、俯いたまま拳を握り締める。
怒りに震えた息をつく。
頭の中で、何度も陽向の声が反響していた。
(余計な事すんな!!これは私の恋愛!!お前が口出ししてくんな!!)
余計な事………?
余計な事だったのか?
あのまま止めてなかったらどうなってた。
泣いてたくせに。
混乱してたくせに。
完全に動けなくなってたじゃねぇか。
俺が来なかったら。
俺が口出さなかったら。
あのまま────。
「………っ」
朔也は、ぎゅっと拳を握りしめた。
それすらも。
あいつにとっては、所詮“余計な事”なんだ。
俺の十八年間の想いも。
心配も。
焦りも。
苛立ちも。
思いやりも。
お前を守ってやりたかった、気持ちも。
全部。
“これは私の恋愛”
たとえ、お前が泣いていても。
たとえ、傷つきそうになっていても。
たとえ、目の前で壊れそうになっていても。
俺は、ただの幼馴染で。
部外者で。
邪魔者で。
お前の恋愛に触れる資格なんて、最初から持ってないんだな。
喉の奥が焼けるように痛い。
悔しいのか、悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからなかった。
なぁ。
お前の“恋愛”に。
俺が介入していい隙間は。
1ミリだってないんだな。
ひな。
ただ、胸が苦しかった。
その時。
「黒川先輩……大丈夫ですか……?」
小さな声が、静かな公園へ落ちた。
ハッとして顔を上げる。
視線の先にいたのは、雫だった。
浴衣の裾を気にしながら、そっと膝を折り曲げてしゃがみ込んでいる。
大きな瞳が、不安そうにこちらを覗き込んでいた。
花火大会のために結い上げた髪。
白地に藤色の花柄の浴衣。
淡い桜色の帯。
さっきまで、自分の隣で嬉しそうに笑っていた女の子。
その瞳が、今はまるで傷ついた小動物みたいに潤んで揺れている。
雫の手には、ビニール越しに覗く赤い艶が街灯の光を受けて光る───
りんご飴の袋。
「怪我は、してないですか?」
「……っ」
優しい声。
その言葉に、朔也の瞳が微かに揺れる。
夜風が吹いた。
花火の煙を含んだ夏の匂いが、公園の中を静かに流れていく。
雫はしゃがみ込んだまま、そっと朔也を見つめていた。
あなたの瞳は、悲しそうで。
苦しそうで。
辛そうで。
痛そうで。
今、私の姿を映しているその傷ついた瞳は。
星野先輩しか見ていない。
わかってる。
そんな事くらい。
前からずっと、わかってる。
だから、あなたの今抱えているその苦しみが。
私には痛いほどにわかるんだ。
それでも、あなたが好きだから。
例えあなたの心の中にいる人が。
私じゃなくても。
私もあなたと同じで。
苦しいくらいに。
あなたの事が好き。
「なんで……」
掠れて零れた朔也の声は、小さかった。
「…お前が泣きそうなの…?」
少しだけ笑いながら。
悲しい目をしていた。
「先輩が…泣きそうだからです。」
そして。
真っ直ぐに言った。
「私の大切な人が………悲しんでるから。」
その瞬間。
「………っ」
朔也の胸の奥で、何かが大きく揺れた。
必死に押さえ込んでいた感情へ、そっと触れられたみたいに。
誰にも言えなかった。
誰にも見せなかった。
情けなくて。
惨めで。
この、どうしようもなく苦しい気持ち。
それを。
雫が包み込んでくれるようだった。
喉が熱い。
胸が苦しい。
泣きたいわけじゃない。
なのに。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
「……なんで……お前は…」
掠れた声が落ちる。
「……そんなに……素直なんだよ……」
もしも。
こんな風に。
ひなが。
そんな事を思ってしまう自分が、心底嫌になる。
「私は、黒川先輩の事好きです。」
例え、あなたが他の人を見ていても。
ほんの少しだけ。
せめて今だけ。
たった一瞬だけでもいいから。
「あなたの彼女になるのが、私の夢。」
私の事を………見て。
「…………。」
時間が、止まったようだった。
その言葉は。
あまりにも綺麗だった。
見返りも。
駆け引きも。
打算もない。
ただ好きだから。
それだけで届けられた想い。
朔也はしばらく何も言えなかった。
こんなも綺麗な想いを。
こんな風に向けられた事が、これまで一度でもあっただろうか。
こんなにも、健気に。
こんなにも、ひたむきに。
こんな自分を、こんな風に見てくれる人がいただろうか。
朔也の喉の奥から、溜まらない何かが込み上げる。
その素直さが。
真っ直ぐさが。
純粋さが。
真っ暗な世界に、静かに差し込む光のようだった。
もし。
雫みたいな子を好きになれたなら。
どれだけ幸せになれるだろう。
どれだけ楽になれるだろう。
どれだけ救われるだろう。
長い沈黙のあと。
朔也は小さく息を吐いた。
そして。
静かに口を開く。
「……………いいよ。」
「……….え?」
雫は思わず目を瞬かせる。
「いいよって……なにがですか?」
頭の処理が、完全に追いついていない。
「いいよっつったら付き合っていいよって事だろーが!」
「はいぃっ!?」
思わずガバッと勢いよく立ち上がる。
雫の脳は、一瞬でパニックとなる。
「え、夢?」
「夢じゃねぇわ!」
自分でムニッと頬を引っ張る雫に、朔也の声が飛んだ。
「あの….私が誰だかわかってますか?」
朔也は雫の混乱ぶりに、呆れたように笑った。
「小野雫だろ」
朔也もベンチから立ち上がる。
そして雫の頭に、ポンと。
優しく手を乗せてから、穏やかに笑った。
「今日から俺の彼女は小野雫!」
雫の瞳が大きく揺れる。
涙に滲んで潤んだ瞳が、信じられないみたいに戸惑いながら、こちらを見上げている。
その姿を見ながら。
朔也はまた、優しく笑った。
この子となら。
この痛みを忘れられるかもしれない。
この苦しみを終わらせられるかもしれない。
陽向を想い続けた十八年間。
届かなかった恋。
報われなかった願い。
全部から、解放されて。
伸ばしたその手が。
きっと自分を暗闇から救ってくれる。
きっと前へ進んでいける。
新しい明日へ。
新しい恋へ。
その後───。
雫は涙が落ちつくと、呼吸を整えた。
「あの…これ。」
手に下げていたビニール袋を持ち上げ、朔也へと差し出した。
「落ちちゃいましたが、袋に入ってるので中は全然無傷ですよ。」
朔也が視線を向ける。
白い袋の中には、大きなりんご飴がひとつ。
「…………。」
朔也は何も言わず、その袋を受け取る。
指先に伝わる重み。
そして。
朔也は静かに踵を返した。
数歩先。
ベンチ脇に置かれたゴミ箱へ歩み寄る。
───ゴンッ!
鈍い音を立てて、袋ごとゴミ箱へ投げ捨てた。
そして、暗い瞳でゴミ箱の中を見下ろしている。
「もういらねぇだろ。落ちたんだから。」
その声は低く、温度はなかった。
陽向が、朔也へ対する気持ちの違和感についての正体に気づきかけていた同じ時系列の裏側で。
公園のゴミ箱の中では。
袋の外側は汚れて。
もうダメに見えるそのビニール袋の中に。
無傷で。
赤く輝く飴に亀裂のひとつも入っていない。
壊れていないりんご飴が。
街灯の下、ビニール越しの光に照らされて艶めいていた。
────────。
公園から出た帰り道。
陽向と綾真は、思わず同時に足を止めていた。
「うわ、やば。」
「これ何メートルあんの?」
駅へ続く歩道は、人で埋め尽くされていた。
花火を見終えた人々の列は遥か先まで続き、提灯の灯りと街灯の明かりの下でゆっくりとうねっている。
祭りの余韻。
笑い声。
遠ざかる屋台の音。
夏の終わりを惜しむみたいな空気が、夜の街を包んでいた。
「陽向がいけそうなら……」
綾真はそう言いながら、陽向と繋いでいる手へ少しだけ力を込めた。
「このまま、隣駅まで歩こうか……」
本当は。
この手を離したくない。
この時間を終わらせたくない。
陽向が隣にいる。
こうして手を繋いでいる。
それだけで胸がいっぱいだった。
まだ。
もう少しだけ。
離れたくない。
「うん。そうだね」
柔らかな返事。
その声だけで、綾真の胸が少し熱くなる。
二人は人混みを避けるように、ゆっくり歩き始めた。
夜風が吹く。
花火の煙を少しだけ残した夏の匂いが、二人の間を通り過ぎていく。
綾真は繋いだ手を見下ろした。
柔らかい。
温かい。
ちゃんと繋がっている。
夢みたいだった。
数時間前。
星野家の玄関を開けてもらった時には、こんな未来は想像もしていなかった。
告白した。
抱きしめた。
抱きしめ返された。
手を繋いで歩いている。
胸の奥が何度も何度も高鳴る。
けれど。
同時に、小さな引っ掛かりも残っていた。
(…結局………ちゃんと返事聞けてねぇんだよな……)
あと、一歩だったのに。
本当にあと一歩だったのに。
脳裏に浮かぶのは、公園へ現れたあの憎き幼馴染の顔。
(黒川朔也……)
思わず眉間へ皺が寄る。
毎回だ。
本当に毎回。
ここぞというタイミングで現れる。
高一の頃からずっとそうだった。
彼女と良い雰囲気になると、必ずと言っていいほど立ちはだかる。
(今日の包囲網、完全停止してなかったのかよ!)
心の中で、大きく舌打ちをする。
あの異常な独占欲。
あの異常な保護欲。
どこから湧いて出てくるのか、やたらと精度の高すぎる執着レーダー。
もはや幼馴染の域を超えている。
でも。
綾真の口元は少しずつ緩んでいく。
さっき告白した後。
陽向は確かに抱きしめ返してくれた。
あの腕の感触は幻じゃない。
夢でもない。
あの時、陽向は泣きながらも自分の背中へ腕を回してくれた。
黒川朔也が来なかったら。
あのまま。
唇だって重なっていた。
そう思うだけで心臓がうるさい。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
今だってこうして。
手を繋いで、隣を一緒に歩いてくれている。
だから。
きっと。
きっともう。
これまでの関係じゃない。
こんなのもう。
これまで通りの“友達”なんかじゃない。
胸の奥で、小さな期待が膨らんでいく。
綾真は一度だけ深く息を吸う。
夜空には、花火の煙がまだ薄く残っていた。
終わったはずの夏祭りの余韻が、二人の背中を押しているようだった。
そして。
綾真は意を決して口を開いた。
「あのさ……陽向。」
「……綾真。」
返事の代わりに、今度は陽向から名前を呼ばれた。
「ん?」
綾真は反射的に顔を向ける。
陽向は少しだけ俯いていた。
街灯の灯りが横顔を淡く照らしている。
さっきまで花火を見て笑っていた顔とは少し違う。
どこか迷うような。
何かを決意したような。
そんな表情だった。
夜風が吹く。
まとめた髪から零れた後れ毛が、頬の横でふわりと揺れた。
「……………高1の時の告白、本気にしなくてごめん。」
綾真の心臓が小さく跳ねた。
「あぁ…いいよ別に」
あの時の事を思い出すように、少し笑った。
「綾真がそんなに長い間好きでいてくれてたなんて微塵も思ってなかったから……これまでずっと、気づけなくてごめん。」
陽向は、申し訳なさそうに俯いた。
「それは俺も……ちゃんと伝えようとしてこなかったから。」
本当は何度も伝えたかった。
けれど怖かった。
今の関係が壊れるのが。
陽向は立ち止まることなく続けた。
「でも…………綾真のその気持ちが、普通に嬉しかった。」
その言葉は。
真っ直ぐ綾真の胸へ届いた。
ドクン。
心臓が鳴る。
嬉しかった。
その一言だけで。
胸が苦しくなるくらい。
救われた気がした。
好きな人に。
自分の想いを否定されなかった。
それだけで。
何年も抱え続けた恋が報われたような気がした。
「…〜〜〜〜〜っ………」
綾真は思わず俯く。
嬉しい。
嬉しすぎて。
笑いそうになる。
泣きそうになる。
もしかしたら。
もしかしたら。
そんな期待が。
胸の中でどんどん膨らんでいく。
けれど。
次の瞬間だった。
陽向は静かに息を吸った。
そして。
まるで自分自身へ言い聞かせるみたいに。
ゆっくりと口を開く。
「でも……」
その一言で。
綾真の胸が嫌な音を立てた。
嫌な予感だった。
本能みたいなものだった。
人は本当に大事な瞬間だけ。
言葉になる前にわかってしまうことがある。
「私……藤崎先輩が好きなんだ。」
陽向は足を止めなかった。
ただ前を向いたまま。
静かに言った。
残酷なほど、優しく。
綾真の足が、思わず止まりそうになる。
胸の奥が痛い。
痛いけれど。
だけど、諦められなかった。
「…もう恋はしないの?」
綾真は、静かに言った。
「いやぁ…無理な気がする。」
「でも…藤崎先輩とはもう会えないんでしょ?」
「うん。二度と。」
陽向は少しだけ視線を落とした。
その返事は驚くほど静かだった。
その答えを聞いて、綾真の胸の奥で何かが決まった。
「だったら待つわ。」
「え…?」
綾真はそこで、足を止めた。
陽向が目を見開く。
綾真は笑わなかった。
冗談じゃないから。
今だけは。
ちゃんと伝えたかった。
「陽向が好きになってくれるまで、俺は待つ。」
諦めない。
今すぐじゃなくていい。
今日じゃなくてもいい。
だけど、まだ。
終わらせない。
陽向の瞳が揺れた。
戸惑い。
驚き。
そして少しだけ切なそうな色。
それでも綾真は続ける。
「だから、ほんの少しだけでいい。」
そして、綾真は笑った。
いつもの綾真みたいに。
重くなり過ぎないように。
陽向が困らないように。
「ちょっとだけ、“友達”以上にしてくんね?」
陽向が固まった。
数秒。
本当に数秒。
言葉を失ったみたいに瞬きを繰り返す。
「彼氏候補(仮)てきな。」
綾真の言葉に、陽向は思わず吹き出しそうになる。
けれど次の瞬間。
ぶんぶんと首を横に振った。
「だ、だめだよ!そんなの…」
慌てたように首を振った。
胸の奥がきゅっと痛む。
「寂しさとか、しんどさとか……そーゆうのを……絶対 綾真の気持ちに甘えちゃうから。」
先ほどの瞬間が過ぎる。
あんなふうに、綾真の気持ちを利用しようとした自分。
その後悔が、蘇る。
わかっている。
綾真が優しいこと。
自分を大切にしてくれること。
だからこそ怖かった。
今の自分は弱い。
弱いから。
その優しさに寄りかかってしまう。
「陽向の寂しさを埋められるなら、俺はその方がいい。」
綾真は迷わなかった。
一秒も。
迷わなかった。
「藤崎先輩の代わりなんて…俺じゃ到底役不足なんだけど。」
真っ直ぐだった。
誤魔化さなかった。
逃げなかった。
「陽向が寂しい時も、しんどい時も、泣きたい時も。」
一歩だけ近付く。
夜風が吹く。
街灯の灯りが揺れる。
陽向の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「絶対俺が、側にいるから。」
その言葉は。
夜の静けさの中で。
不思議なくらい真っ直ぐ届いた。
陽向は何も言えなかった。
胸の奥が少し熱い。
優しくて。
真っ直ぐで。
あまりにも胸を打つ言葉だった。
そして。
綾真は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「友達9、恋人1くらいの割合でいいから、そうしてよ。」
陽向は堪えきれないように、クスッと小さく笑った。
困ったように。
呆れたように。
でも少しだけ嬉しそうに。
「まぁ…わかったよ。」
「まじで!?」
綾真の目が見開かれる。
「9対1ね?」
「よっしゃああぁぁぁーー!!!」
綾真の声が夜道へ響いた。
両拳を突き上げる。
「てことは、友達以上恋人未満!?」
「だから…1割ね?」
「え、彼氏候補(仮)!!??」
陽向は、一瞬だけ瞳を夜空へ向けた後。
「まぁ。一応。」
コテッと首を傾げて笑った。
その照れたような笑顔が、しんどいくらいに可愛くて。
「うりゃあああぁぁぁぁーーーーーっっっ!!!」
綾真は夜空へ向かって叫んだ。
住宅街に響く歓喜の雄叫び。
そのあまりの騒がしさに。
陽向はとうとう手を叩きながら爆笑した。
さっきまで泣いていたことも。
苦しかったことも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
忘れられるくらいに。
「夏休み中何回会える!!??」
「受験生だよー?」
「一緒に課題やろう!!」
「いいよ。」
「え!?いいの!!??」
「志望理由書と活動報告書手伝ってね?」
「やるやる!!!家行っていい?」
「……………。」
「いや黙んのかいっ!!」
「あはははっ!」
新しい二人の。
新しい明日が、スタートする。
綾真は、三年目に及ぶ長い片想いを経て。
ここに来てようやく、悲願の“友達”枠突破をついに果たした。




