第133話 それぞれの、大輪の恋が打ち上がる
一方。
綾真が星野家を訪れていた、その時間帯──。
花火大会の会場は、すっかり夏祭りの熱気に包まれていた。
提灯の灯り。
焼きそばの香り。
遠くから聞こえてくる祭囃子。
浴衣姿の子供達が走り回り、カップルが笑いながら歩き、時折どこかで歓声が上がる。
そんな賑わいの中を歩きながら、雫は不意に目を輝かせた。
「あっ、先輩!」
ピタリ、と足を止める。
「あそこのスーパーボールすくい見て下さい!ピカピカ光ってるやついっぱい流れてます!」
指差した先には、色とりどりのスーパーボールが浮かぶ大きな水槽。
中にはLEDで光るものまで混ざっていて、暗くなり始めた夕暮れの中で宝石みたいにキラキラ輝いていた。
「出来んの?スーパーボールすくい。」
朔也が半信半疑で聞く。
「私、結構得意なんですよっ!ちゃんとコツ知ってるんで!」
雫は得意げに胸を張った。
そのまま屋台へ駆け寄ると、おじさんからポイとお椀を受け取った。
二人は並んで水槽の前へしゃがみ込む。
水面には大小様々なスーパーボール。
金魚みたいに流れていく光るボールを見つめながら、雫は真剣な顔になる。
「えー…どれにしよっかなぁ……」
瞳はキラキラ。
完全に夢中だった。
その横顔を見ながら、朔也は思う。
(子供かよ……)
高校生とは思えないくらい無邪気だった。
緊張していると思ったら、今は完全にスーパーボールへ全力である。
そんなところが、なんだか可愛いかった。
やがて雫は狙いを定める。
お椀を構え。
そーっとポイを水面へ近付けた。
その瞬間。
スル……
浴衣の袖が滑り落ちる。
白地に藤色の花柄が描かれた長い袖。
その先端が、水面へ触れようとしていた。
「おい!」
反射だった。
朔也は思わず手を伸ばす。
ひょい、と袖を持ち上げる。
「ついてんぞ!袖。」
呆れた声。
雫が咄嗟に振り向いた。
「あっ….すいません!」
雫は、慌てて水槽から身体を引く。
朔也は小さく息を吐く。
「はぁ……」
次の瞬間。
ふわり───
朔也の腕が、雫の背中側へ回った。
時間が、止まった気がした。
右手で右袖。
左手で左袖。
その両方を、水に落ちないよう持ち上げるように。
彼の腕が、自分の背中側へ回っている。
起きた出来事を。
一瞬、理解出来なかった。
まるで。
後ろから抱き込まれたみたいな距離だった。
ドクン。
心臓が跳ねる。
祭りの喧騒が遠くなる。
屋台の声も。
子供達の笑い声も。
祭囃子も。
全部、遠くへ消えていく。
近い。
浴衣越しに伝わる体温。
ふわりと届く柔軟剤の香り。
耳のすぐ近くに、彼の気配がある。
呼吸を忘れる。
動けない。
心臓だけが、うるさい。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
そして。
耳元へ。
低い声が、ぽつりと落ちた。
「……袖。持っててやるから。」
(キャーーーーーーー!!!!)
その瞬間。
雫の世界が、真っ白になった。
そして朔也は、まるで当たり前みたいに言った。
「ほら。さっさとやっちゃえよ。」
何でもないみたいな声。
そこに照れも。
下心も。
特別な意味もない。
ただ純粋に。
浴衣が濡れないように。
それだけの理由。
その優しさが。
その無意識さが。
どうしようもなく嬉しかった。
(…ち………近い……やばい………)
心臓がうるさい。
さっきから全然落ち着いてくれない。
けれど朔也は気付かない。
雫が今、自分のせいでまともに息も出来なくなっていることなんて。
きっと少しも知らない。
祭りの喧騒の中。
スーパーボールの揺れる水面が、提灯の光を映してキラキラと輝いていた。
スーパーボールすくいを終えた二人は、そのまま賑やかな屋台通りを進んだ。
提灯の灯りが揺れる夜。
祭囃子が遠くから聞こえてくる。
雫の手には、LEDがピカピカ光るスーパーボール。
それを嬉しそうに眺める横顔。
「これは先輩との思い出のスーパーボール(大事件)だから…一生の宝物ですっ!」
朔也へ向けて、無邪気な笑顔がキラキラと弾ける。
その純度100%の輝きに、朔也の表情は思わず解けた。
(……ほんと………素直だな…………)
胸の奥へ、じんわりと温かいものが広がっていく。
この子といると、不思議と肩の力が抜ける。
沈んでいた気持ちまで、少しずつ軽くなっていくような気がした。
朔也は小さく息を吐きながら視線を前へ向ける。
その時だった。
“フルーツ飴”
その屋台の文字が視界に飛び込む。
そこへ近づくにつれ、並んでいる飴が次々とと目に入った。
りんご。
いちご。
みかん。
マスカット。
そして脳裏に浮かぶ。
フルーツ飴が大好物な、その人物の顔。
(りんごは外せないっしょ。もう一個どうしようかなー)
幼い頃から。
毎年祭りに来る度、必ずフルーツ飴の屋台を真っ先に探していた。
(朔也はいちごとマスカットだったらどっちがいい?)
(お前が食うのになんで俺に聞くんだよ!)
(参考までにだよぉー)
無意識に。
並んで刺さっているフルーツ飴の前で足が止まっていた。
「…先輩?」
隣から雫の声が聞こえる。
けれど朔也は、返事をしなかった。
提灯の光に照らされたりんご飴を見つめる。
(…今頃……家で漫画でも読んでんのかな…)
そして。
少しの沈黙のあと。
「りんご飴ひとつ下さい。持ち帰りで。」
気付けば、そう口にしていた。
店主が「はいよ」と笑いながら、大きなりんご飴を白いビニール袋へ入れてくれる。
受け取ったりんご飴は、ずしりと重かった。
「先輩って、りんご飴とか食べるんですね!」
雫が意外そうに目を丸くする。
朔也は首を横へ振った。
「いや。家のお土産。」
何でもないような顔で答える。
「えっ!家にですか?先輩ってほんと優しいですね!」
その言葉に、朔也は少しだけ視線を逸らした。
ただ。
毎年当たり前みたいに隣でりんご飴を食べていた誰かを思い出しただけだ。
提灯の灯りが揺れる。
祭囃子が流れる。
人混みの向こうでは、花火開始を待つ歓声が少しずつ大きくなっていた。
「もうすぐ六時半か。」
提灯の灯りが少しずつ濃くなり始めた空を見上げて。スマホの時計に視線を落とした朔也が呟く。
「そろそろどっかで落ち着くか。」
「はい!」
雫は嬉しそうに頷いた。
七時から打ち上がる花火を見るため、二人は屋台通りを後にする。
けれど、花火の時間が近付くにつれて、人の流れはますます増えていた。
観覧場所へ向かう道は、人、人、人。
浴衣姿の家族連れ。
肩を並べる恋人達。
はしゃぎながら走る子供達。
熱気を帯びた人波が、絶え間なく押し寄せてくる。
その時だった。
「……きゃっ!」
小柄な雫の身体が、人の流れに押されてふらりと揺れた。
その小さな身体は簡単に人混みへ飲み込まれそうになる。
その瞬間。
「雫!」
ガシッ───。
強い力で、手首を掴まれた。
「……っ!」
反射的に振り返る。
そこには、少し眉を寄せた朔也がいた。
人混みのざわめきの中。
朔也は掴んだ手首を離さないまま、どこか困ったように声を張った。
「この辺、人多いから!ごめんけど、手繋ぐよ。」
その言葉に。
雫の心臓が、大きく跳ねた。
ドクンッ───。
その直後。
ぎゅっ…
朔也の大きな掌が。
雫の小さな掌を包み込んだ。
熱い。
繋がれた手が。
胸の奥が。
全部。
「す、すいません……」
どうにかそう返すのが精一杯だった。
けれど本当は。
(……全然……ごめんじゃないです〜〜〜〜……)
そう思ってしまう自分がいた。
人混みの中。
しっかりと握られた手は、思っていたよりもずっと大きくて。
ずっと温かかった。
離れないように。
見失わないように。
まるで当然みたいに繋がれたその手が、どうしようもなく嬉しい。
「お前がこんなとこで迷子になったら詰むだろ。」
朔也は呆れたように言う。
けれどその声は、どこか優しかった。
人波が押し寄せるたびに。
朔也は雫の肩へそっと手を添える。
ぶつかりそうになる人から庇うように。
危なくないように。
何度も。
何度も。
自分の胸元へ引き寄せた。
その度に、ふわりと届く柔軟剤の香り。
すぐ近くに感じる体温。
耳元を掠める低い声。
花火が始まる前だというのに。
雫の心臓は、火薬が破裂しそうなくらい暴れていた。
時刻は、いよいよ夜七時。
ド――――――ーーーーーンッッッ!!!!!!!
夜空を震わせる轟音と共に、一発目の花火が盛大に打ち上がった。
黒く染まり始めた空へ、大輪の光が咲く。
赤。
青。
金。
幾重にも重なった光の花弁が、夏の夜空いっぱいに広がった瞬間。
わあぁぁぁっ─────
街中から歓声が湧き上がる。
駅前の人混み。
屋台通りを歩いていた人々。
信号待ちをしていた家族連れ。
誰もが思わず足を止め、夜空を見上げていた。
花火の光が、人々の顔を一瞬だけ照らし出す。
「あ、上がったわ。」
「やばーーーー!!エモーーーー!!」
駅から出たばかりの二人。
綾真が呟くと、陽向が立ち止まる。
その声には、子供みたいな高揚が混じっていた。
次の瞬間には、もうスマホを掲げている。
夜空へ向けられたレンズ。
夢中でシャッターを切る指先。
まるで花火そのものより、その瞬間を捕まえることに必死な子供みたいだった。
綾真は思わず笑ってしまう。
本当に変わらない。
高一の頃から。
ずっと。
ドォォォォォン!!
二発目の花火が咲く。
その光が陽向の横顔を照らした。
まとめた髪。
夜風に揺れる後れ毛。
花火を映した瞳。
その一瞬が、やけに綺麗だった。
「あのさ…もうちょい落ちついたとこで見ない…?」
綾真は少し苦笑しながら言う。
「え?」
陽向はようやくスマホから顔を上げた。
周囲には人だらけ。
立ち止まる人の波で駅前は大混雑になっている。
「確かに。」
ようやく現実へ戻ってきたらしい。
「屋台の通り人多いから、裏道から行くか。」
「おけー!」
返事だけは異常に早い。
二人は人混みから少し離れた脇道へ入った。
夜風が吹く。
屋台の賑わいは少し遠ざかり。
代わりに聞こえるのは、蝉の残した夏の余韻と、遠くで響く花火の音。
ドォォォォォン───。
空が光る。
建物の隙間から、大輪の花が次々と咲いていく。
夜道を肩を並べて歩く。
それだけなのに。
綾真の胸は、ずっと落ち着かなかった。
だって。
こんな未来は、もう来ないと思っていたから。
自分の恋は、終わったと思っていた。
なのに今。
隣には彼女がいる。
いつも通り騒がしくて。
いつも通り自由で。
いつも通り振り回される。
それなのに。
胸の奥だけは、あの頃よりずっと苦しかった。
やがて。
細い路地を抜けた先に、小さな公園が現れた。
ブランコが二つ。
小さな滑り台。
古びたベンチ。
住宅街の片隅にある、静かな公園だった。
「ここ人少なくて良さげじゃない!?」
陽向は目を輝かせる。
次の瞬間には、公園へ駆け込んでいた。
本当に躊躇がない。
綾真はその背中を見つめながら、小さく笑った。
好きになった理由。
無邪気で。
真っ直ぐで。
自由で。
目を離したらどこかへ走っていってしまいそうで。
そんなところが、大好きだった。
そして二人はベンチへ腰を下ろした。
ドォォォォォン!!!!
夜空に大輪の花が咲く。
パラパラパラパラ……
光の粒が、流れ星みたいに降り注いだ。
「うわぁ……」
陽向は小さく息を漏らした。
その瞳には花火が映っている。
頬には柔らかな光が揺れている。
夢中だった。
本当に幸せそうだった。
綾真は、その横顔から目を離せなくなる。
花火なんて、正直どうでもよかった。
隣にいるのが彼女だから。
それだけで充分だった。
今。
こうして隣にいる。
花火の光が夜空を染めるたび。
陽向の横顔が明るくなったり、影になったりする。
その一瞬一瞬が愛おしかった。
あそこで迷わず走って、本当に良かった。
諦めないで、良かった。
綾真はそっと夜空を見上げる。
大輪の花火が、静かな公園の上で音を立てて咲き続けていた。
時刻は七時四十分。
花火は後半からフィナーレを迎える前に、5分前後の調整時間へと入る。
それまで夜空を震わせ続けていた轟音が途切れ、辺りには不思議な静けさが広がる。
さっきまで光の花が咲いていた空は、今はただ深い藍色を湛えていた。
ベンチに並んで座る二人の頭上を、ぬるい夏の風が通り過ぎていく。
「てか屋台行けなかったねー」
陽向が少し残念そうに呟いた。
綾真は隣で苦笑する。
「お前が支度に時間かかりすぎなんだよ」
「りんご飴食べたかったなー」
「おい……」
誰のせいでそうなったんだ。
喉元まで出かかった言葉を、綾真は飲み込む。
遠くで聞こえるざわめき。
屋台から流れてくる祭囃子。
誰かの笑い声。
その全てが、どこか遠い。
綾真はふと、隣の横顔を見た。
花火の残光が消えた夜空を眺めている。
その横顔は、どこか穏やかだった。
「…………なんで家いたの?」
不意に問いが零れた。
「黒川が女と行ったからって、星野は一緒に行けるやついくらでも居ただろ?」
綾真は視線を陽向へ向けて、少し声が強くなる。
「つーか俺だって誘ってたんだから!まずは俺に連絡してくんのが筋だろ!」
「え?あれギャグでしょ?」
「ギャグじゃねーよ………」
相変わらずだ。
こいつは本当に、恐ろしいほど鈍感だ。
綾真の溜め息が夜風に溶ける。
陽向はそんな事など少しも気付かず、あっけらかんと肩を竦めた。
「別に。小論文仕上げたかったし、なんかだるいからいっかーと思っちゃった。一応受験生だし!」
「え、活動報告書は終わったの?」
「終わってない。それ一旦後回し!」
「終わってねーのかよ!」
綾真は思わず声を上げた。
陽向は続ける
「つーかあれさぁ、高校三年間で頑張ったこと書けって。生徒会も行事も全部書かなきゃじゃん?文字数足りなくて、端的に纏めてってみゆき先生簡単に言うけどさぁ…まじ無理。」
「俺逆。」
「え?」
「文字数全然足りない。」
「なんで!?」
「体育祭とか部活しか書いてねぇから。」
「あははっ!綾真それ絶対あるわ!」
陽向は手を叩いて爆笑した。
「みゆきちゃんにも言われたわ。もっと学校生活全体で書けって。」
綾真は苦笑する。
「私も言われた。」
「マジで?」
「うん。生徒会ばっか書くなって。」
「それは書くだろ。」
「書くよねぇ!?」
二人同時に笑った。
その後も会話は盛り上がる。
「てか志望理由書どこまでいった?」
「あれは終わった。」
陽向が聞くと、綾真は少し得意げだった。
「ガチ?」
「一応。もう三稿目。」
「はぁ!?」
陽向が驚く。
「早っ。」
「みゆきちゃんに二回突き返された。」
「あーーー。」
陽向は納得した。
「私も先月返された。」
「なんて?」
「将来像が弱いって。」
「あーね。俺もそれ苦戦した。」
綾真は即答する。
「なんなんだろね。」
「知らん。教師になりたいって書いてんのに。」
「私は文章に関わりたいって書いてんのに。」
「もっと具体的にだって。」
「それな。」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に。
「「わからん。」」
思わず吹き出した。
同じ文系クラス。
同じ担任。
同じ推薦課題。
同じタスク。
同じ悩み。
理系クラスの友人達とは分かち合えない気持ちを共有出来る存在が、受験に追い詰められていた陽向の心をほんの少し軽くした。




