第129話 一方通行の矢印
「……好きな人は、いますか?」
その瞬間。
フッと。
陽向の瞳が、微かに揺れた。
まるで、不意打ちで胸の奥へ触れられたみたいに。
雫は、その小さな変化を見逃さなかった。
「…………。」
陽向は、賑やかな店内の空気からほんの少しだけ切り離されたみたいに、静かに視線を落とす。
長い睫毛が影を落とした。
そして。
そっと、ストローへ手を伸ばす。
氷が、カラン……と小さく鳴った。
その横顔が。
どうしようもなく、苦しそうで。
切なそうで。
雫の胸が、ざわ……っと嫌な音を立てる。
…………嫌。
どうしてそんな顔をするの。
どうして。
そんなに悲しそうな目をするの。
お願いだから。
違うって、言って。
そう願っているのに。
陽向の沈黙が、余計に怖かった。
やがて。
陽向の唇が、静かに開かれる。
「……私も、しぃちゃんと同じだよ。」
ズキンッ──────
胸の奥を、鋭い何かが貫いた。
「………っ」
息が、止まる。
頭の中が、真っ白になる。
一番聞きたくなかった答え。
やっぱり。
そうだったんだ。
雫は、視界がぐらりと揺れる感覚を覚えた。
心臓が、痛い。
さっきまで甘かったケーキの香りが、急に気持ち悪くなる。
喉が、うまく息を通してくれない。
どうしよう。
ちゃんと笑わなきゃ。
なのに。
頭の奥では、ぐるぐると黒い感情が渦を巻いていた。
やだ。
嫌だ。
取られたくない。
好きにならないで。
黒川先輩を、見ないで。
そんな醜い感情が、胸の奥から溢れそうになる。
けれど。
そんな事、思いたくなかった。
だって、自分は。
星野先輩の事も、大好きだから。
優しくて。
真っ直ぐで。
眩しくて。
こんなにも素敵な人が、黒川先輩に好かれる理由なんて、痛いほどわかってしまうから。
だから余計に、苦しかった。
そして陽向は───静かに、笑った。
その笑顔は。
幸せそうなのに。
どうしてか、泣きそうなくらい切なかった。
そして。
「私も一年生の時、先輩に恋をした。」
静かに落とされたその言葉に。
「………!?」
雫は、俯いていた顔をハッと上げた。
「……え……先輩……?」
「うん。だからしぃちゃん見てると、その頃の自分を見てるみたいで、つい応援したくなるんだよね。」
陽向は、懐かしいものを見るみたいに目を細めた。
「入学式の翌日に、図書室で一目惚れしたの。それで二年間、ずっと好きだったんだけど……今年卒業しちゃったんだ。」
一瞬、雫の思考が止まった。
胸の奥で張り詰めていたものが、ゆっくり緩んでいく。
さっきまで頭の中を占めていた不安と恐怖。
それが、少しずつ形を変えていく。
「……なんだあぁ〜……」
全身から、どっと力が抜けた。
雫は思わず、テーブルへ突っ伏しそうになる。
「一瞬、星野先輩も黒川先輩が好きなのかと捉えちゃって……ガチで焦っちゃいましたよー!」
「は?朔也?んなわけないじゃん。」
陽向は、すぐにケロッと否定した。
さっきまで雫の心を地獄まで突き落としていた不安など、本人は露ほども知らない。
陽向は、普通にジュースを一口飲んでいる。
「……告白とかしなかったんですか?」
「あ、普通に付き合ってたの!高2の1年間。」
「えっ!そうなんですか!?」
今度は、別の意味で驚いた。
憧れの先輩。
二年間好きだった人。
その人と、一年間付き合っていた。
それはまるで、雫にとって夢みたいな話だった。
「え、今は……?」
そう聞いた瞬間。
陽向の表情が、ほんの少しだけ柔らかく沈んだ。
「海外の大学に進学して、引っ越しちゃったから。別れちゃったんだ。」
困ったように笑う。
その笑顔は明るいのに、どこか寂しかった。
雫は、そっと息を呑む。
「今でも………好きなんですか?」
その問いに。
陽向は、迷わなかった。
静かに。
けれど、とても確かな声で。
「うん。大好き。多分……ずっと。」
その瞬間、雫は理解した。
朔也の恋が、報われない理由を。
あんなに毎日一緒にいるのに。
十八年も隣にいるのに。
誰より近くで、星野先輩を見ているのに。
星野先輩の心の中には、まだ別の人がいる。
もう近くにはいない人。
もう同じ校舎にはいない人。
それでも、今もなおこの人の奥深くで息をしている人。
黒川先輩の視線が、どれだけ星野先輩へ向いていても。
星野先輩の視線は、まだ過去の恋へ向いたまま。
そう思った瞬間。
雫の胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
それは、少しだけ安心で。
少しだけ罪悪感で。
そして、どうしようもなく切ない痛みだった。
「……どんな人だったんですか?星野先輩の好きな人。」
雫がそう尋ねると、陽向の表情が少しだけ明るくなった。
「優しくて、完璧で、二次元から出てきたみたいに綺麗な顔で。」
陽向は、指先でグラスの水滴をなぞりながら、照れくさそうに笑う。
「去年の生徒会長だったんだ。」
「え!?よく生徒会室で話題に出てくる、あの藤崎先輩ですか!?」
「あ、そうそう。」
「えぇぇーー!!すご!さすが星野先輩ですね!!」
「でしょーん?」
少し得意げに笑う陽向。その顔は、まるで今も彼を誇りに思っているみたいだった。
「なんかバド部の先輩達の話題でも色々凄くて、校内でも伝説みたいになってません?」
「そーなの?でも女子から爆モテで凄かったんだよ、俊ちゃんは。」
陽向は、懐かしそうに笑う。
「まーだから今考えてみると……」
そこで、言葉が一度止まった。
窓の外では、夕暮れの空が少しずつ青から藍へ変わり始めている。
ガラスに映った陽向の横顔は、どこか遠い場所を見ているみたいだった。
そして頬杖をつきながら、ぽつりと。
「……本当………奇跡みたいな恋だったな………」
そう呟いた。
その表情は、本当に幸せそうで。
そして、悲しそうだった。
好きな人の好きな人の、そのまた好きな人。
恋の矢印は、こうやってどこまでも果てしなく続いていて。
誰かが誰かを想い、その誰かは、また別の誰かを想っている。
届かない想い。
言えない想い。
終わったはずなのに、まだ胸の中で続いている想い。
それでも。
きっと、どこかで。
たくさんの一方通行の矢印は、いつか誰かのところで重なって。
必ず往復の矢印になる。
雫は、膝の上でそっと指先を握り締めた。
黒川先輩の叶わない恋の矢印を。
いつか、往復矢印に変えてみせる事が出来たなら。
黒川先輩は、長年抱え続けてきた一方通行の苦しみから報われる。
そのためには。
まず、自分の想いを諦めない。
怖くても。
苦しくても。
星野先輩が大切でも。
黒川先輩の心の中に、まだこの人がいても。
それでも。
好きになってしまったこの気持ちだけは、もうなかったことに出来ない。
「因みに、写真とかってありますか?」
雫が少しだけ身を乗り出して聞くと、陽向はパッと顔を明るくした。
「あるよー!イケメン過ぎてぶっ飛ぶよ!」
「えー、見たい見たい!」
「待ってねー、えっとぉ……」
陽向は楽しそうにスマホを取り出し、アルバムを開き始める。
テーブルには、再びはしゃぐ二人の声が落ちていく。
けれど雫の胸の奥には、さっきまでとは違う熱が灯っていた。
────────。
店を出た二人は、駅構内を並んで歩いていた。
外はもう、すっかり夜の色を深めていた。
改札へ向かう人の流れ。
会社帰りの大人達。
部活帰りの高校生。
駅構内には、夏休みに入ったばかりの浮ついた空気がまだ微かに残っている。
そんな雑踏の中で。
ふと、陽向の視界に大きな広告が飛び込んできた。
駅の壁一面に貼られた、鮮やかなポスター。
夜空いっぱいに咲く大輪の花火。
夏の匂いが、その一枚から溢れ出してくるみたいだった。
『納涼花火大会』
陽向は、思わず足を止めた。
「もう今週末か!花火大会」
弾むような声。
すると、隣で同じポスターを見上げていた雫が、そっと口を開いた。
「去年は……藤崎先輩と行ったんですか?」
「うん。もちろん!」
陽向は、すぐに笑った。
迷いのない、明るい声だった。
けれど、その胸の奥には。
ほんの少しだけ、去年の夜がよぎっていた。
人混みの中で繋いだ手。
花火の光に照らされた俊輔の横顔。
耳元へ落ちた優しい声。
夏の夜風。
浴衣の袖。
胸が苦しくなるほど、幸せだった時間。
「へぇ……」
雫は、小さく息を漏らす。
ポスターの中の花火を見つめながら。
どこか夢を見るように、ぽつりと呟いた。
「好きな先輩と花火大会なんて……夢みたいだなぁ〜」
その瞬間。
ざわ……。
陽向の胸の奥が、微かに揺れた。
今、隣で花火大会の広告を見上げているこの子は。
頬を少し赤くして。
瞳をキラキラさせながら。
心の底から、そんな夏を夢見ている。
好きな先輩と。
並んで歩いて。
花火を見上げて。
人混みの中で、少しだけ近づいて。
そんな、恋する女の子なら誰だって一度は憧れてしまうような夜を。
そして。
その“好きな先輩”は。
自分が、今年一緒に花火大会へ行く相手だ。
そんなの、おかしい。
ここで黙って、私が朔也と花火大会に行ったら?
もしこの子が、その事を後から知ったら?
私はこの子に、応援したいと言っておきながら?
だってそんなの、どう考えてもおかしい。
陽向は、考え込むようにほんの一瞬だけ言葉を失った。
胸の奥に、説明のつかない感覚が滲む。
罪悪感とも違う。
嫉妬とも違う。
焦りとも、違う。
雫は、何も知らない顔でポスターを見上げている。
陽向は、咄嗟に笑った。
「…さ……誘ってみたら?」
少しだけ声が上擦った。
言いながら、自分でも少しだけ胸がざわついていた。
「え……?」
雫が、ぱちりと瞬きをして陽向を見る。
「む、無理です無理です!そんなの…もし断わられたら、立ち直れないですよ!」
ぶんぶんっと首を振る姿は、本気で怯えているみたいだった。
好きな人を誘う。
たったそれだけの事なのに。
恋をしている人間にとって、それはとても恐ろしくて、勇気のいる事だ。
誘えなかったら。
それで朔也が誰と花火大会へ行くのかなんて。
そこはもう、誘えなかった自分の責任だ。
「………流石に、先輩を誘うとなるとハードル高いか。」
自分も、一年生の頃はそうだった。
図書室で。
好きな先輩と、同じ空間にいられるだけで心臓が破裂しそうだった。
本を読むふりをしながら、視線を盗んで。
声を掛けられるだけで嬉しくて。
名前を呼ばれるだけで、その日一日幸せになれた。
そんな時期に。
“花火大会、一緒に行きませんか”なんて。
自分から言えるわけがなかった。
夏休みの、あの頃。
図書室へ通うだけで精一杯だった自分を思い出す。
この子もきっと、朔也を花火大会へ誘うだなんて。
そんな勇気は、多分ない。
陽向は無意識に、胸を撫で下ろしかけた。
────その瞬間。
「でも……」
雫が、ぽそりと呟いた。
そして、ぎゅっ…と両手で小さく拳を握り、気合いを入れるみたいにガッポーズをした。
「玉砕覚悟で、特攻してみますっ!」
「…!」
陽向の瞳が僅かに揺れた。
花火大会の広告を見上げながら、雫のその瞳には強い意志が宿っている。
「…緊張するし…断られたらどうしようって…めっちゃ怖いけど………」
声は少し震えている。
それでも。
逃げないように。
自分の恋から目を逸らさないように。
雫は、ちゃんと前を向いていた。
そして。
陽向へ向かって、キラキラした笑顔を向けた。
「星野先輩と藤崎先輩みたいになりたいから!」
その瞬間。
陽向の胸が、ドクンッ…と大きく鳴った。
これは……………………朔也を断るしかない。
胸が僅かに、ちく…と痛む。
(いやいや、ちくってなんやねん!!)
思わず頭の中で、自分へツッコミを入れる。
そもそも朔也も、私なんかと行くより可愛い女の子と行きたいに決まってるし。
なんなら、何気に二人は今ちょっといい感じだし。
これは朔也にとって、三年目に突っ込んでいる非リア人生から悲願の脱出チャンスだし。
しかも相手は、この子。
最上級に可愛くて。
素直で。
頑張り屋で。
健気で。
そんなの誘われたら多分即答でOK一択だし。
むしろ、断る理由ある?
絶対、その方がいい。
確実にこっちの方がいいに決まってる。
「……………きっと。多分行けると思うよ。」
雫へ、その言葉を口にした直後。
(花火大会、行こうか!)
脳裏へ、不意に蘇る。
(…………え?)
(今年はお前もぼっちだし!一緒に行く相手いなくて可哀想だから、仕方なく俺が一緒に行ってやるよ!)
(……うんっ!)
(2年連続ぼっちの可哀想な朔也くんのために。仕方なく!私が一緒に行ってやるか!)
あの日。
夜の公園で交わした約束を。
果たせない。
そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。




