第127話 まさかまさかの大逆転?
店内には、放課後の学生達の賑やかな声が広がっている。
冷房の効いたファミレス。
テーブルの上にはドリンクバーから飲み物を入れてきたグラスと、注文を終えたメニュー表。
真正面には、黒川朔也。
「生徒会どう?慣れた?」
料理を待つ間、向かいの席で頬杖をついた朔也が何気なく聞いた。
「あ、え?」
(…ま……まじで2人っきりだぁ〜………)
雫は、内心ずっと大混乱だった。
机一枚挟んだだけで距離が近い。
気怠そうに椅子へ座る姿。
何気なく前髪をかき上げる指。
ぼんやりメニューを眺める横顔。
「今年の書記は、二人とも新役員なんでしょ?」
全部が素敵に見え過ぎる。
(…幸せ過ぎて……死んじゃうかも……。)
そんな雫の心境なんて知るはずもなく、朔也はテーブルに頬杖をついたまま続けた。
「となると一年でも普通に仕事量多いだろ」
雫は、少し目を丸くした。
まさか、そんな風に気にかけられると思っていなかった。
その事実だけで、胸が落ち着かなかった。
「あ、えっと…最初は凄く緊張してて…戸惑う事も多かったんですけど……」
雫は慌てて意識を会話へ戻した。
「皆さん優しいので、楽しいです。」
「ふーん……優しいかぁ」
朔也が、半目になる。
「俺と同じクラスの横溝は毎日ひなにキレてるけどな」
「あれは……まぁ……」
雫は思わず苦笑した。
「でも、副会長凄いです。本当に仕事出来ますし。」
「みたいだな。」
「あと会長も凄いです。みんなを引っ張ってくれて……」
「ひなは勢いだけだろ」
「そんなことないです!」
雫が即答する。
「星野先輩がする発言は、いつも場への影響力が凄いんです。役員同士で意見が割れたり、まとまりが悪くなったときなんか、星野先輩が“私がこうしたいからこうする!”ってビシッと言うと、なんでか自然に纏まるんです。」
「へぇ…大丈夫なの?それで。」
「根拠はない事が多いんですけど…」
雫は、少し笑った。
「何故か不思議と。“この人がそうしたいなら、それについて行くしかない”みたいな、雰囲気があるんです。聖陵国際の生徒会は。」
「新興宗教…?」
「あははっ!」
雫は、思わず吹き出した。
「まぁ何だかんだ言ってみんな、星野陽向信者なんだと思いますよ!」
「でもこの前、あいつが家で横溝と電話してて、“スケジュール見るねー!”って言いながらスマホがないスマホがないって探してて」
朔也は、呆れたように肩を竦める。
「お前は今なにで横溝と電話してんだ!って後ろから殴ってやったけどね」
「あははっ……星野先輩らしい……!」
雫は手を叩きながら、弾けるように笑った。
笑いながらも、胸の中には不思議な温かさが広がっていた。
「星野先輩って…普段鈍感で、おっちょこちょいなのに…」
雫は、少し考えるように視線を落とした。
「何故か“結局みんなが本当は欲しかった結論”を無意識に嗅ぎ当ててるような気がするんです。だから、理性的な正論で揉めてる生徒会の先輩達が最終的に“その結論が一番しっくりくるわ”ってなるんじゃないかな……」
「へぇ……自分の分析は壊滅的なのにな。」
朔也がぽつりと呟く。
「それは……自分を客観視するのって、難しいんじゃないですか?」
雫は、柔らかく続けた。
「他人の本質だって、星野先輩は分析って言うよりは……勘?みたいな感じで、本人も説明は出来てないんですよ」
その言葉に、朔也はふと視線をテーブルへ落とした。
(他人のことは見抜くのに……自分ごとには鈍感….か。)
その言葉が、妙に胸の奥へ引っかかった。
「だからいつも自己中で押し通す形なんですけど。でもみんな“まいっか”って、不思議となるんですよねぇ。」
雫がそう言って笑う。
その笑顔を見ながら、朔也も少し口元を緩める。
「なんだかんだ慕われてんだな…あいつは。」
「私もガッツリ、星野先輩信者ですから!」
そう言って、ぱっと笑う。
その瞬間。
朔也が、少しだけ目を細めた。
呆れているようで。
でも、どこか優しい。
昔からずっと見てきた、大切な相手の話をしている時の顔。
雫の胸が、ちくりと痛んだ。
(ほんと…柔らかい顔………するんだよな………)
十八年。
その時間が、いつも二人の会話の端々から滲んでいる。
知らないエピソード。
積み重ねてきた日常。
当たり前みたいに共有している記憶。
そこへ少しだけ、胸が痛む。
けれど。
「……でも」
雫は、そっと口を開く。
「…黒川先輩は、星野先輩のこと話す時ちょっと容赦ないですよね……」
「抜けてるからな、あいつは。」
「ふふっ。」
雫は、小さく笑った。
その時、注文した料理が運ばれてくる。
ジュウジュウ音を立てるハンバーグ。
湯気の立つオムライス。
「うわ、オムライス美味そう。」
雫の前に置かれた皿を見て、朔也が呟いた。
「黒川先輩、オムライス好きなんですか?」
「好き。ひなん家のオムライスとか特に。」
「えっ…」
「あいつのママ、飯めちゃくちゃ美味い。」
その瞬間。
また、自然に出てきた“ひな”。
雫は、一瞬だけ視線を落とした。
仕方ない。
そんなこと、わかってる。
黒川先輩の中には、いつも星野先輩がいる。
会話の端にも。
思い出の中にも。
何気ない日常の中にも。
それでも。
今、自分はここにいる。
向かい合って。
同じテーブルで。
一緒にご飯を食べて。
同じ時間を過ごしている。
それだけで、充分嬉しかった。
「……じゃあ、今度おいしいオムライス屋さんあったら、教えてください」
雫は、少しだけ勇気を出して言った。
朔也は、何でもないみたいに顔を上げる。
「いいよ。駅の反対側に一個うまいとこあるから今度連れてったげるよ。」
「え……っ」
胸の奥が、また甘く鳴った。
「はい…っ!」
窓の外では、夕暮れの街へ少しずつ夜が降り始めていた。
終業式前の放課後。
ほんの小さな時間。
きっと朔也にとっては、なんでもない寄り道。
それでも雫にとっては。
この先、何度も思い出してしまうような。
忘れられない、夏の始まりだった。
────────。
ファミレスを出ると、街はすっかり夜へ沈んでいた。
昼間の熱をまだ少し残したアスファルト。
駅前には、仕事帰りの人々や学生達が行き交い、コンビニの灯りが湿った夜風の中へ白く滲んでいる。
そんな中。
「あれ。」
先に改札の表示へ気づいたのは朔也だった。
駅構内へ入った瞬間、ざわついた空気が二人を包む。改札前には人だかりが出来ていて、電光掲示板には赤い文字が点滅していた。
「あー……システム障害の影響により、運転見合わせ?」
朔也が眉を寄せながら表示を読み上げる。
「復帰の目処なし……」
雫も、その文字を見上げながら小さく呟いた。
駅員へ詰め寄る人。
スマホで誰かへ連絡を取っている社会人。
溜め息混じりの声。
さっきまでの穏やかな空気が、一気に現実へ引き戻される。
「なにこれ、何時からこんな事になってんの?」
「20時15分って書いてありますね……」
「さっきじゃん。案外すぐ復活しないの?」
「まぁ……“目処なし”って書いてあるので何とも……」
雫が不安そうに答えると、朔也は「うわぁ……」とでも言いたげに頭を掻いた。
「まじかー。どうする?」
「黒川先輩、気にしないで帰っちゃって下さい!先輩が使ってる路線の方は普通に動いてますし、障害起きてるのこっちの路線だけみたいなんで」
雫は慌ててそう言った。
けれど。
「いやー、そーゆうわけにはいかないっしょ……」
朔也は、当然みたいに返した。
こんな夜に。
後輩の女の子を一人で放り出すなんてそんな白状な事を出来るわけがない。
朔也はスマホを開きながら問いかける。
「迂回ルートないの?家どこ?」
「えっと────」
それに雫が答えると、朔也は手慣れた仕草で真剣にスマホを操作する。
駅前の灯りが、その横顔を淡く照らしている。
思わず見惚れてしまいそうになり、雫は慌てて視線をそらした。
そして朔也はスマホ画面を雫に見せながら、器用に地図を拡大していく。
「ちょっと歩くけど……雫の家の近くまで行くバスが出てるっちゃ、出てるな。」
「ほんとですか!?」
ぱっと雫の顔が明るくなる。
「あぁ……ここからこんな感じでマップ見ながら、ここのバス停まで歩いて行って……」
朔也はスマホ画面を操作しながら説明する。
雫は、真剣な顔でその地図を覗き込んだ。
けれど。
「このバス停からは、雫んちの方向には行かないバスも出てるから、間違えて乗っちゃうと、とんでもねぇところに連れてかれちゃうから……」
その瞬間。
雫の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「ちゃんとこの行き先のバスに間違いなく乗んないと帰れねぇから気をつけろよ」
朔也は説明を続けながら、ふと顔を上げた。
そして、固まる。
「…………。」
目の前には。
ボーーーーーーーーーーン。
まるで世界の終わりを告げられたみたいな顔で、完全に思考停止している雫がいた。
瞳が虚無。
魂が半分抜けている。
(………………駄目だ。)
そこで朔也は、ようやく思い出した。
雫が、致命的レベルの方向音痴だった事を。
以前、バトミントン部へ向かう途中に校内で迷子になりかけていた。
剣道大会の日は何故か駅から来たはずなのに真反対の方角で見つけたとひなが言っていた。
極め付けには、先ほどファミレスから出た瞬間に駅とは反対方向へ歩いていった。
この、小動物みたいなポンコツ後輩。
「そ、そのバス停って……けけけ、結構……遠いですかぁ……?」
もはや雫の声は震えていて、呂律すら怪しかった。
目にはうっすら涙まで浮かび始めている。
「まぁ……結構……15分くらい……?」
チーーーーーーーーーーン。
雫の脳内で、静かに鐘が鳴った。
夜。
知らないバス停への遠い道のり。
複雑なバス。
乗り間違えたら知らない場所。
方向音痴にとって、それはもう“死”と同義だった。
雫は、真っ白になった頭のまま、ふら……っとその場で揺れる。
「おい、大丈夫かよ!」
朔也が思わず腕を掴む。
その瞬間。
「……だ、だだだ……!だ、大丈夫です!多分……っ辿り着けるはず……き、きっと……なので……あの……あとは……こ、こここ、これで……」
雫は、完全に混乱していた。
声は震え。
言葉は絡まり。
視線は泳ぎっぱなし。
まるで、崖っぷちへ追い詰められた小動物。
今にも「もう駄目です」と白旗を振りそうな顔なのに、必死に“迷惑かけません”だけは貫こうとしている。
その姿に、朔也は思わず額へ手を当てた。
「……お前さ。」
深ぁ〜〜〜〜い溜め息。
「今、自分が“一人で帰れます”って顔してると思う?」
「…………。」
雫は、ぴたりと固まった。
夜の駅前。
人通りの多いロータリーの灯り
行き交う人々のざわめき。
その真ん中で。
雫だけが、まるで“遭難宣告”を受けたみたいな顔をしている。
目はうっすら涙目。
肩は小さく縮こまり。
スマホを握る手まで、心なしか震えていた。
その姿が、あまりにも情けなくて。
あまりにも“助けて下さい”オーラ全開で。
(…面倒くせぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜)
朔也は、とうとう観念したみたいに夜空を仰いだ。
湿った夜風が、前髪をさらりと揺らしていく。
「……はぁ…………しゃーねぇなぁ……。」
もしこのまま別れて。
迷子になったら。
知らない場所へ行ってしまったら。
ましてや、この最強のビジュアル。
男受け抜群の完璧なパーツ配置。
柔らかそうな黒髪。
守ってあげたくなるような小柄な身体。
見るからに“危なっかしい女の子”そのもの。
こんなのを夜道へ一人で放流したら。
100%、声を掛けられる。
最悪、厄介事に巻き込まれる。
そんな未来が容易に想像出来てしまって、余計に頭が痛かった。
「バス停までな!」
朔也はそう言いながら、駅構内から踵を返した。
「ちゃんと方向合ってるバスに乗せるから。停留所降りたらもう家の近所なんだから、そこからは自力で帰れよ!」
その背中を、雫は慌てて追いかける。
「えぇっ!!そんな申し訳ないですよ!!そのあと黒川先輩、また駅戻るんですか!?」
「そんなんしゃーねぇだろ」
「でも……そんなご迷惑おかけ出来ないですよ!いくらなんでも!」
焦った声。
本気で申し訳なさそうにする雫へ。
ビシッ!
「いたっ!」
振り向き様に朔也のデコピンが、綺麗に額へ炸裂した。
雫は思わず両手で額を押さえる。
涙目で見上げる雫へ。
朔也は、呆れたみたいに腰へ手を当てた。
「あのさ。前にも言ったけど。」
夜の駅前の灯りが、その横顔を照らしている。
少し気怠そうで。
でも、どこか真剣な目。
そして。
「自分がどんだけ最強に可愛いか、もっとちゃんと自覚した方がいいよ?」
「…………っ」
その瞬間。
“最強に可愛い”
雫の心臓を、その言葉が真正面から撃ち抜いた。
ドクンッ───
胸の奥が、痛いくらいに跳ね上がる。
夜風が吹く。
人の話し声も。
電車のアナウンスも。
車の走る音も。
全部、一瞬遠くなった気がした。
(……もう…………駄目だ…………)
こんなの………落ちない女の子っている…………?
望まない方が無理。
期待しない方が無理。
あなたの言う“可愛い”は。
いつだって。
軽くなくて。
適当じゃなくて。
茶化してるわけでもなくて。
なんの曇りもなくて。
驚くほど真っ直ぐで。
まるで、“本当にそう思ってる”みたいな顔で言うから。
そのたびに。
胸の奥を、ぐしゃぐしゃに掻き乱される。
後輩だから。
わかってる。
わかってるのに。
それでも。
その瞳の中に。
ほんの少しでも。
“女の子としての可愛い”が混ざってるんじゃないかって。
どうしても、信じたくなってしまう。
ねぇ。
それって、どういう意味ですか。
あなたの目には。
ちゃんと私は、“女の子”として映っていますか。
雫は、熱を持った頬を誤魔化すみたいに俯いた。
けれど、うるさく鳴り続ける心臓だけは、どうしても隠せない。
夜風が、二人の間をふわりと通り抜けていく。
駅前の喧騒の中。
雫の胸は、どうしようもなく騒がしくなっていた。
朔也は、スマホのマップを片手に、薄暗い住宅街の曲がり角で足を止めた。
「あー……ここの住宅街抜けた先の大通りだな。」
画面へ落としていた視線を上げる。
駅前の明るさから離れるにつれて、街の空気は急激に静けさを増していた。
細い路地。
等間隔に並ぶ街灯は、ところどころ頼りなく瞬いている。
昼間の熱を残したアスファルトからは、むわりとした湿った空気が立ち上っていた。
遠くで車の走る音が小さく響く。
けれど、この住宅街の中にはほとんど人影がない。
夏の夜特有の、生ぬるい静けさだった。
「……わぁ……この辺めっちゃ暗いですね……」
雫が、不安そうに辺りを見回しながら小さく呟く。
その声は、夜の空気へ溶けるみたいに頼りなかった。
「あぁ、まぁ脇道入るとこんなもんだろ。」
対照的に、朔也はあっさりしている。
片手でスマホを弄りながら、特に警戒した様子もなく歩みを進めていく。
けれど、内心では。
(……こんな道、一人で歩かせなくて正解だったな…)
暗い住宅街。
人気のない夜道。
もし男が雫に目をつけて、後をつけていって接触するとしたら───こういう場所だ。
小柄で。
隙だらけで。
見るからに“守られて育ってきた女の子”という雰囲気。
しかもこの子は、自分で思ってる以上にかなり可愛い。
「…黒川先輩いなかったら…私この道で確実に詰んでました。」
雫が、本気で怯えたみたいに言った。
「だな。夏は変なのも多いから……」
朔也が少し真面目な声で返しかけた、その瞬間。
「こんなとこでオバケ出てきたら終わりでしたよ。」
「だからオバケは出ねぇんだよっ!!!」
住宅街へ、朔也のツッコミが綺麗に響いた。
(な……なんなんだよ……こいつは……っ)
脳裏へ蘇るのは、少し前。
陽向と二人で焼肉店へ行った時のアルバイトについての会話。
(でもフーデリは…夜とかちょっと怖いかも。暗い夜道とか…人気のないマンションとかエレベーターとか)
(まぁ、確かに。若い女の子にはちょっとリスクが……)
(絶対オバケ出るもん)
(出るかーーー!!!)
あの時と、まるっきり同じ流れだった。
方向音痴のポンコツ具合といい。
妙なところでズレた思考回路といい。
天然すぎる無自覚な危なっかしさといい。
なんだか、無性に。
(こいつ……星野陽向みを感じる…………。)
じわ……っと、こめかみへ嫌な汗が滲む。
やめてくれ。
あんな手の掛かる生き物、ひとりで充分なんだよ。
(……まぁ、この子は健気で謙虚だし、暴力も飛んでこねぇけど。)
そう思った瞬間。自然と、小さな溜め息が零れた。
すると。
「……黒川先輩………」
「ん?」
雫が、もじ……っと視線を泳がせる。
「…………。」
「どした?」
少しの沈黙。
そして雫は、消え入りそうな声で言った。
「……腕………捕まっててもいいですか……」
俯きながら、その様子は、どこまでも遠慮がちな仕草。
「………えーと…………怖いの?」
「………まぁ……そうですね……ちょっと……」
───パアァァァッ。
その瞬間。
朔也の心へ、後光みたいな光が差した。
(……なんて…………素直なんだ…………。)
怖い。
だから頼る。
不安。
だから助けてって言う。
変な強がりも。
意味不明な意地も張らず。
ちゃんと「怖いです」って言える。
まるで、陽向から現在進行形で受けている強がりの暴力から、魂が浄化されていくみたいだった。
(……ひなにもこれくらいの可愛げがあったらな…………。)
脳裏に浮かぶのは。
図書室でボロボロに泣き崩れていた翌日に。
何事もなかったかのように振る舞う陽向の姿。
朔也の乾いてカラカラに干からびた心に湧き出たオアシスのように、水が染み渡る。
「……はい、いいよ。」
朔也は、観念したみたいに片腕を差し出した。
雫は、そろ……っと遠慮がちにその腕へ触れる。
ぎゅっ。
小さな手が、不安を誤魔化すみたいにしっかり掴んできた。
「…………。」
柔らかい感触。
制服越しに伝わる体温。
触れた部分から、微かに緊張が伝わってくる。
雫は俯いたまま、耳まで真っ赤だった。
一方で朔也は、そんな雫を見下ろしながら、妙に複雑な顔になる。
(……なんだこの……感覚は……。)
放っておけない。
危なっかしい。
目を離した瞬間、知らない道へ迷い込んでそう。
夜の住宅街を歩く二人の影が、街灯に照らされ長く伸びる。
その横で雫は、必死だった。
心臓がうるさい。
触れている腕。
近すぎる距離。
歩幅を合わせてくれる優しさ。
全部が夢みたいで。
この夜道が、ずっと終わらなければいいのにと。
胸の奥で、こっそり願ってしまう。
夏の湿った夜風が、静かに二人の間を通り抜けていった。




