第126話 その勇気が、この夏を変えていく
そして翌日。
陽向は、何事もなかったような顔で、朔也の前で笑っていた。
昨日図書室で、あれだけ泣いていた姿を見たのに。
朝の光の中で。
いつものように。
何でもないみたいに。
その笑顔が、朔也には余計に苦しかった。
こんなにずっと一緒にいたのに。
好きな食べ物も。
嫌いな教科も。
眠い時の顔も。
怒った時の声も。
嬉しいことも、辛いことも、苦手なことも、たぶん誰より知っている。
お互いが、誰よりも近い存在なのに。
その変わらない笑顔が。
まるで、その場所へは“踏み込めない領域”として、はっきりと境界線を引かれているようで。
陽向の心の壁が、どうしようもないほど、痛かった。
ついに一学期も残すところ明日の終業式のみ、となった通常授業、最終日。
朔也と陽向は下校するため靴を履き替え、いつも通り並んで昇降口を出た。
肩を並べてアプローチ広場へ向かう。
蝉の声が、遠くでかすかに鳴き始めていた。
本格的な夏が、もう始まっていた。
「…暑っつ〜……太陽ガチで仕事してんじゃん」
陽向が、手のひらで顔を仰ぎながらぼやく。
「明後日から夏休みなんだから当たり前だろ」
「夏休みは嬉しいけど暑いの無理〜」
「一生エアコンの中住んでろ」
そんな、いつも通りのくだらない会話。
けれど朔也は、どこかで少しだけ息苦しさを覚えていた。
図書室の泣き声を知っている自分と、何も知らずに平気なふりで笑う陽向。
その間にある小さなズレが、ずっと胸の奥へ引っかかっている。
その時だった。
「あ、しぃちゃん!」
陽向が、ぱっと顔を上げる。
正門へ続く道の少し先。
下校中の生徒達の流れの中に、小野雫の姿があった。両手でスクールバッグを持ち、少し控えめな歩幅で歩いている。
声をかけられた雫が、はっと顔を上げた。
「星野先輩!」
そして次の瞬間、陽向の隣にいる人物に気づき、表情が一瞬だけ揺れる。
「……と、黒川先輩……!」
その声が、わずかに跳ねた。
胸が、ドキッと鳴る。
自分でもわかるくらい、頬へ熱が集まる。
雫は、一緒に歩いていた同級生達の輪へ「みんなまた明日ねー!」と手を振って、陽向と朔也の元へ駆け寄ってきた。
「ねーねー、この前しぃちゃんに教えて貰った小説、めっちゃ面白かったー!」
陽向はそんな雫の内心など知らず、屈託なく笑いかけた。
「え、もう全部読んだんですか?」
雫の顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!最初、表紙見た時はもっと重いやつかと思ったんだけど、読んだらめっちゃ良かった!あの主人公、最初おとなしそうなのに途中から急に覚醒するじゃん?あそこ好き!」
「わかります!あそこから一気に面白くなるんです!」
自然な流れで、三人は肩を並べて正門へ歩き出した。
陽向が真ん中、その隣に朔也、反対側に雫。
きゃいきゃい盛り上がる二人の横で、朔也は呆れたみたいに溜め息をつく。
「お前、受験生なんだから本とか漫画ばっか読んでねぇで多少受験対策しろよな」
「してるよ!小休止でリフレッシュのために読んでるの」
「小休止で読める文章量と日数じゃない気がするんですけど……」
陽向はが悪びれもなく胸を張ると、雫が少し困ったように苦笑する。
「ほら、雫がこー言ってんぞ。夏休み中は本も漫画もゲームも禁止だなこれ」
「えっ!!無理!!」
「夏を制するものは、受験を制する!!」
朔也が教師みたいな口調で偉そうに言うと、雫は思わずクスッと吹き出した。
午後の陽射しが、三人の影を長く伸ばしている。
その穏やかな下校風景を、突如として。
破壊する音がした。
ドドドドドドドドドド──────ッ!!!
背後から、異様な勢いで迫ってくる足音。
地面を蹴る音が、まるで暴走列車みたいな勢いで近づいてくる。
「ゴルァァァァ!! 星野ォォォォーーーーーッ!!!!」
校舎中へ響き渡りそうな怒号。
三人は、同時に振り返った。
「琉嘉!?」
「横溝副会長!?」
陽向と雫の声が重なる。
視線の先には、鬼の形相で全力疾走してくる横溝琉嘉がいた。
制服の裾を翻し、髪を乱し、完全に怒りの化身みたいな勢いでこちらへ向かってくる。
陽向の顔から、血の気が引いた。
「……あ」
何かを思い出した顔だった。
次の瞬間。
ガシッ!!
横溝琉嘉の手が、後ろから陽向の首根っこを見事に掴み上げた。
「ぎゃっ!」
「なにしれっと帰ろうとしてんだお前!!」
低い声。
地獄の底から響くみたいな声音だった。
陽向は、首根っこを掴まれた猫みたいに固まる。
「え、えーっと……」
「会長チェックの書類どんだけ溜め込んでるかわかってんのか!?明日で一学期終わるっつーのに、どーするつもりだてめぇ!! あぁ!?」
その怒号が、アプローチ広場へ炸裂した。
近くを歩いていた生徒達が、一斉に振り返る。
雫はびくっと肩を跳ねさせ、朔也は「あーあ」とでも言いたげに眉を寄せた。
陽向は、ぎこちなく笑った。
「いやぁ……その……明日の朝イチで……?」
「朝イチで終わる量じゃねぇんだよ!!」
「で、ですよねー……」
「夏休み前提出の確認書類、行事報告書、二学期引き継ぎ案、文化祭実行委員会の仮承認、後夜祭企画書、後夜祭実施申請書、後夜祭安全管理計画書、後夜祭予算案!!全部お前のチェック待ちだぞ!!」」
「うわ、いっぱいある」
「他人事みたいに言うな!!」
琉嘉の怒りは止まらない。陽向は完全に逃げ場を失っていた。
「ただでさえ俺と阿久津で書類に全部目通して、役員達に修正するところ修正させた状態でお前んとこ持ってかせてんだぞ!!お前は目だけ通して印鑑つくだけ!!ただそれだけなんだぞ!!」
「いや、どんだけ甘やかされてんだ」
「トラブル未然防止策なんです」
横から朔也が冷静に突っ込むと、雫は苦笑しながらそれに答えた。
「それすらも出来ねーなら生徒会長クビにすんぞ!!」
「えー…クビにされる生徒会長なんて…聞いたことないよ…」
「お前が仕事しねぇからだろうが!!」
陽向の抗議を、一刀両断。
横溝琉嘉の怒りはなおも止まらない。
「というわけで今から生徒会室強制収監だ!!」
「えぇぇぇぇぇーーーーーー!!」
陽向の絶叫が、夏休み目前の校舎へ高らかに響き渡った。
「お前はもう俺に印鑑渡しとけ!!」
「印鑑1個しか持ってないよー」
「“星野”の印鑑くらい100均に売ってんだろ!!」
「意外とないよ?」
「作れバカヤロー!!」
陽向は、そのまま琉嘉に首根っこを掴まれながら、ずるずると校舎へ連行されていく。
それを見て、朔也は思わず小さく溜め息をついた。
「あんなポンコツ生徒会長じゃ……横溝も大変だな」
「あれはあれで、あの二人はあれがコミニュケーションなんですよ。」
雫が小さく笑いながら答えた。
生徒会長と副会長。
それは、もっと厳かで、近寄りがたい関係なのかと思っていたけれど。
実際は、怒鳴って、掴まえて、引きずって。
それでもどこか温かい。
この人達は、こうして一学期を走ってきた。
二人の声が、遠ざかって。
朔也と雫だけがアプローチ広場に残される。
急に静かになった空気の中で、雫はそっと隣を見上げた。
何かを抱えている顔だった。
星野先輩を見つめる黒川先輩の目は、いつも少しだけ複雑だ。
怒っているようで。
呆れているようで。
でも、それだけじゃない。
もっと深くて。
もっと苦しいものがある。
雫は先日聞いてしまった言葉を思い出す。
(ったってお前、18年も拗らせてる片想いだろ?そんな相手と変顔合戦してる場合じゃねーだろ!)
胸の奥が、小さく痛んだ。
それでも。
隣に立てるこの一瞬が、嬉しいと思ってしまう。
「……黒川先輩」
「ん?」
朔也が、ゆっくり視線を向ける。
雫は、少しだけ勇気を出すみたいに唇を開いた。
「駅まで一緒に行っていいですか?」
ほんの少しの沈黙。
雫の心臓が、ドクンと跳ねる。
すると朔也は、何でもないみたいに肩を竦めた。
「同じ駅行くのに、ここで“そんじゃ。”っておかしいだろ」
「………っ!」
その瞬間。
胸が、きゅう……っと甘く締め付けられた。
まるで、“一緒に行くのが当たり前”みたいな言い方。
(なんでこんないちいち……刺してくるんだろ……)
雫は、慌てて俯いた。
頬が熱い。
ただ駅まで一緒に帰るだけ。
たったそれだけなのに。
この人は、どうしてこんなにも自然に、人の心を掴んでくるんだろう。
夕陽のアプローチ広場を、二人は並んで歩き出す。
夏休み目前の、通常授業最後の日。
それぞれの想いを胸へ抱えたまま。
季節だけが、ゆっくりと次へ進もうとしていた。
駅へ近づくにつれ、夕方の空気が少しずつ変わっていく。
熱を含んだ風。
アスファルトの匂い。
踏切の警報音。
遠くから聞こえる電車の走行音。
制服姿の学生達が、笑いながら改札へ吸い込まれていく。
その流れの中で。
雫は、隣を歩く朔也の横顔を、そっと盗み見た。
西日に照らされた横顔。
少し気怠そうな目。
歩くたび揺れる前髪。
その姿を見つめた瞬間。
ふいに、胸の奥へ小さな寂しさが込み上げた。
(……このまま今日別れたら……)
明日で、一学期は終わる。
夏休みが始まれば、学校で頻繁に顔を合わせる事もなくなる。
登下校で偶然会う事も。
廊下ですれ違う事も。
放課後、星野先輩になんとなく誘って貰って。
一ノ瀬先輩や津堅先輩達とみんなで一緒に寄り道する事も。
全部、暫くの間出来なくなる。
(……もう、新学期まで会えないのかな……)
そう思った瞬間。
胸の奥が、きゅう……っと苦しくなった。
もっと近づきたい。
ほんの少しだけでもいいから。
例え、黒川先輩の心の中に別の誰かがいるとしても。
あと少しだけ。
あと少しだけでも、自分を見てほしい。
その時だった。
(今度、ご飯とか誘ってみたらー?)
剣道大会の日。
会場の入り口へ向かう途中で、陽向が笑いながら言った言葉が、ふいに耳の奥へ蘇る。
雫は、肩へ掛けたスクールバッグの紐をぎゅっと握り締めた。
指先が、小さく震えている。
心臓が、うるさい。
でも。
今、言わなかったら。
このまま夏休みへ入ってしまったら。
きっと、自分は後悔する。
「く、黒川先輩……!」
気づけば、声が出ていた。
「ん?」
自然体な視線が、こちらを向く。
その瞬間。
ドクン、と大きく胸が跳ねた。
ちゃんと目が合うだけで、息が詰まりそうになる。
「このあとって、お時間ありますか……!」
声が少し裏返る。
朔也は、キョトンと目を瞬かせた。
「このあとって……今から?」
「は、はい!」
雫は、勢いよく頷く。
胸の奥で、鼓動だけが暴れていた。
断られたらどうしよう。
変に思われたらどうしよう。
そんな不安が、頭の中をぐるぐる回る。
けれど、もう止まれなかった。
「まぁ……別にあるけど」
その返事に、雫の胸が少しだけ軽くなる。
「あの……」
ゴクリ、と小さく唾を飲み込む。
「なにか……ご、ご飯奢らせて下さい!!」
「はっ!?」
思わず飛び出した予想外の言葉に、朔也の声が綺麗に裏返った。
「なんで俺が後輩に奢られなきゃなんねーんだよ」
「いやっ……あの……!」
雫は慌てて手を振る。
顔が熱い。
恥ずかしい。
消えたい。
それでも。
ちゃんと伝えたかった。
「お礼が……したくて。」
そして、雫は真っ直ぐ朔也を見上げた。
西日が、黒い瞳の奥で小さく揺れる。
「私、黒川先輩に初めて出会った日……困ってるところを助けて貰ったのに、ちゃんとお礼も言えてなくて。」
「え?あぁ……いいのにそんなん」
「良くないです。」
その言葉だけは、はっきり言えた。
胸の奥から、真っ直ぐ出てきた声だった。
「私はあの時……凄く嬉しかったから……」
雫は、小さく息を吸う。
あの日を思い出す。
知らない男の子に囲まれて。
心細くて。
怖くくて。
不安でいっぱいだった自分。
そんな時に、私を助け出してくれた人。
「その日剣道部に仮入部して、その後生徒会に入って……黒川先輩や星野先輩と仲良くさせて貰えて……」
雫は、少しだけ微笑んだ。
「今が毎日楽しいのは、黒川先輩が。そのきっかけをくれたからなんです。」
その言葉は、とても静かだった。
でも、ちゃんと本音だった。
「ずっとそのお礼がしたかったんですけど……どうしたらいいかもわからなくて……こんなに遅くなっちゃって、すみません」
ペコリ、と深く頭を下げる。
その姿を見ながら、朔也はじわりとこめかみへ汗が滲むのを感じていた。
(……り……律儀すぎないか……)
ただの気まぐれだった。
というか、むしろ蒼太に言われて仕方なく。
別に、そんな大した事をしたつもりじゃない。
なんなら面倒くさいくらいに思ってた。
なのに。
目の前の後輩は、まるで大事な恩みたいに抱えていた。
「それはわかったけど……流石に一年に奢らせるのはちょっと気が引けるわ」
「えっ……!!」
雫の表情が、目に見えて曇る。
「あ……そ、そうですよね……」
シュン……と肩が落ちた。
さっきまで少しだけ輝いていた瞳が、一気に萎んでいく。
「いきなりそんな……ご飯とか言われても……嫌ですよね……」
見るからに落ち込んでいる。
「……あー……すみません……なんか……困らせちゃって……」
雫は、ぎゅっとバッグの紐を握り締めた。
「私……本当、嫌だな……なにしてんだろ……」
その瞬間。
朔也の胸の奥が、ざわざわと落ち着かなく騒ぎ始めた。
(……なんだ……これ……。)
ものすごーく、罪悪感。
まるで、自分がとてつもなく最低な人間にでもなった気分だった。
この、小さく震える空気。
怒られて怯えている小動物みたいな、弱々しいオーラ。
“ごめんなさい”と言いながら、自分を小さく畳んでいく感じ。
それが、妙に胸へ刺さる。
(いやいやいや……なんで俺が悪者みたいになってんだよ……!)
頭の中ではそう思うのに。
目の前の雫があまりにも本気で落ち込んでいて。
ついに。
ボキッ。
朔也の心が、音を立てて折れた。
「い、嫌とかじゃねぇよ!」
雫が、はっと顔を上げる。
その瞳は、泣きそうなくらい潤んでいた。
う………っ。
心臓を、ぎゅっと握り潰されたみたいな感覚。
「奢られるわけにはいかねぇけど……今から飯食いに行くくらいは全然いいよ……」
「えっ!!!本当ですかっ!?」
ぱぁぁぁぁっ───
一瞬で、雫の顔が明るくなる。
太陽より眩しいくらい、嬉しそうだった。
その変化に、朔也は思わず「うわっ……」と気圧される。
(感情全部、顔に出るタイプ……誰かさんと同じかよ………)
その様子が、いつも側にいる、誰よりも身近な存在と重なる。
朔也は、小さく息を吐いた。
そして、観念したみたいに踵を返す。
「行くぞ」
そのまま、飲食店の並ぶ大通りの方へ歩き出した。
「あ、でも……それじゃお礼になりませんよね!?」
雫は慌てて、その後ろを小走りで追いかける。
すると。
「いや?」
朔也が、ふっと振り返った。
西日を背負ったその顔には、悪戯っぽい無邪気な笑み。
「可愛い女の子とメシいけるだけで、充分ご褒美っ!」
「………っ!!」
きゅううぅぅぅぅ───────
胸が、一気に締め付けられた。
熱い。
痛い。
苦しい。
顔が、どうしようもないくらい熱を持つ。
こんなの、きっと冗談だ。
軽口。
気遣い。
何気ない一言。
黒川先輩にとっては、たぶん深い意味なんてない。
わかってる。
ちゃんと、わかってるのに。
それでも。
どうしようもないくらい、嬉しかった。
夕暮れ色の帰り道。
胸の奥だけが、夏の始まりみたいに熱を帯びていた。




