第125話 夢は今も、巡りて
「あれ、ひなは?」
帰りのホームルームが終わると同時に、朔也はいつも通り三年四組の教室の入口へ顔を出した。
廊下には放課後のざわめきが広がっている。
部活へ向かう生徒。
友達同士で放課後の予定を話しながら騒ぐ声。
夏休み目前の浮ついた空気。
その中で、朔也は当然のように教室の奥を見た。
陽向の席。
けれど、そこに陽向はいなかった。
「あー陽向?」
近くにいたクラスメイトの女子が、机の上を片付けながら何気なく答える。
「なんか図書室に本返しに行ってくるーって消えたよ」
「え……」
その瞬間。
朔也の表情が、固まった。
「図書室……?」
自分でも驚くくらい、声が低く掠れた。
女子は、ケロッとした顔で首を傾げる。
「なに、どうしたの?」
その問いかけに、朔也は答えなかった。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
血の気が、すっと引いていく。
図書室。
その単語だけで、朔也の中にあった何かが一気に警鐘を鳴らし始める。
「……っ」
次の瞬間。
朔也は、踵を返して走り出していた。
廊下を駆け抜ける。
午後の光が窓から斜めに差し込んで、床の上に長い影を落としている。
その影を踏み潰すみたいに、朔也は階段へ向かった。
心臓が、嫌な速度で鳴っている。
朔也は知っていた。
小学校の頃から、中学の頃から。
ずっと陽向にとって図書室が、ただの“本を読む場所”ではなかったことを。
教室に居場所がなかった頃。
誰とも目を合わせられなかった頃。
休み時間になるたび、逃げるように向かっていた場所。
陽向が自分を世界から切り離して、それでもどうにか息をしていた場所。
そして高校に入ってからは。
藤崎俊輔と出会い。
恋に落ち。
笑って。
泣いて。
何度も時間を重ねていた。
ニ年分の恋を、丸ごと置いてきた場所。
俊輔と別れてから、陽向が一度もそこへ行っていないことも朔也は知っていた。
それが、何を意味しているのかという事も。
あいつは、何も言わなかった。
いつものように笑って。
騒いで。
生徒会長になって。
剣道大会では身を乗り出して応援して。
花火大会の誘いには、あっけらかんと笑って頷いた。
でも。
本当はずっと、避けていた。
図書室だけは。
その扉を開けた瞬間、何が起きるのか。
きっとあいつ自身が一番わかっていたから。
「……っあいつ…大丈夫なのかよ…!」
朔也は、奥歯を噛み締めた。
なんで一人で行ったんだよ。
なんで誰にも言わねぇんだよ。
なんで。
そう思うたびに、胸の奥が焦げるみたいに熱くなる。
階段を駆け上がる。
踊り場で、すれ違った下級生が驚いたように道を開けた。
朔也はそれすら視界に入らないまま、図書室へ続く廊下へ飛び出した。
放課後の校舎の端。
そこだけ、やけに静かだった。
さっきまで耳に届いていた教室のざわめきが、急に遠のく。
廊下の奥にある木製の扉。
見慣れているはずなのに、今はまるで別の世界への入口みたいに見えた。
朔也は、息を切らしたまま図書室の前で足を止めた。
「……ひな……っ」
小さく名前を呼びかけながら、扉へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
「……っあぁ……っ……ぐす……っ……ぅうああぁぁぁぁぁぁーーーーーー……っ」
中から聞こえてきた声に、朔也の全身が凍りついた。
指先が、扉に触れる直前で止まる。
それは、泣き声なんてものじゃなかった。
悲鳴だった。
胸の奥を引き裂かれて、どうしようもなくなった人間が、最後に零してしまうような声。
喉が潰れるほど、感情を押し殺そうとして。
それでも堪えきれずに溢れ出してしまった、壊れたような嗚咽。
「……っ」
朔也は、息を呑んだ。
心臓を、鋭い刃で真っ直ぐ刺し抜かれたみたいだった。
痛い。
痛い。
痛い。
こんな声、聞いたことがなかった。
過去に、陽向が自分の部屋で泣き疲れて、声も出せなくなっていた夜。
目を真っ赤にして俯いていたあの時。
今の声はそれよりずっと強烈だった。
もっと剥き出しで。
もっと痛くて。
もっと、衝撃的だった。
(……なんだよ……これ……)
朔也は、扉の前に立ったまま動けなかった。
開ければいい。
中へ入ればいい。
抱きしめて、「大丈夫だ」と言えばいい。
今までなら、ずっとそうしていた。
泣いている陽向の隣に座って。
気が済むまでそばにいてやればよかった。
でも今は。
違う。
この涙は、自分のための涙じゃない。
この図書室で、あいつが呼んでいるのは。
求めているのは。
抱きしめてほしいと泣いている相手は。
自分じゃない。
「……っ……」
扉へ伸ばしかけた手が、震えた。
中から、また嗚咽が漏れる。
「……俊ぢゃん……っ……うあぁぁーーー……俊ぢゃぁん……っ……」
その名前が聞こえた瞬間。
朔也の胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れた。
藤崎俊輔。
わかっていた。
わかっていたはずだった。
ひながまだ、あいつを好きなこと。
忘れていないこと。
忘れられるわけがないこと。
頭では、何度も理解していた。
それでも。
夕焼けの帰り道で、ぎゅっと手を繋いで照れながらも「ありがとう」と言ってくれた時。
夜の公園で、陽向が「かっこよかった」と真っ直ぐ言ってくれた時。
花火大会へ行くと笑ってくれた時。
部屋で上裸を見て真っ赤になって逃げ出した時。
もしかしたら。
ほんの少しだけ。
自分の方へ、あいつの心が傾き始めたんじゃないかと。
そう、思ってしまっていた。
「……っくそ……」
朔也は、唇を噛んだ。
馬鹿だ。
何を勘違いしていたんだ。
あいつの中には、まだこんなにも藤崎俊輔がいる。
こんなにも深く。
こんなにも痛く。
こんなにも鮮明に。
自分が差し込める隙間なんて、どこにもないみたいに。
……っ」
朔也は、扉の前で息を呑んだ。
扉一枚向こうから響いてくる嗚咽が、肺の奥へ冷たい刃みたいに突き刺さる。
(…あいつ………全然だめじゃねぇかよ……!)
時間が解決なんて、そんなぬるい話じゃない。
笑っていたのも。
騒いでいたのも。
いつも通りに見えていたのも。
全部、無理矢理だった。
そうやって走り続けていないと。
止まった瞬間、全部崩れてしまうから。
だからあいつはずっと、走り続けてた。
図書室という、“思い出そのもの”から逃げながら。
けれど。
たった一歩踏み込んだだけで。
こんなにも簡単に壊れてしまうくらい。
まだ、藤崎俊輔が生きている。
朔也は、ぎり……っと奥歯を噛み締めた。
なんだよ、それ。
強すぎるだろ。
なんなんだよ、あいつ。
卒業して。
もう学校にも居なくて。
日本にも居なくて。
触れる事すら出来ないのに。
それでもなお。
ひなの世界の中心へ、こんなにも巨大に居座り続けている。
なんて強大で。
なんて強固で。
あまりにも高くそびえ立つ。
壁。
(…藤崎俊輔………………めちゃくちゃでかいじゃん…………。)
どう足掻いても越えられない、高い壁。
何年一緒に居ようが。
朔也がどれだけ近くに居ようが。
どれだけ陽向を想っていようが。
その全部をまとめて覆してしまうくらい、圧倒的な壁。
厄介なのは。
陽向自身が、まだその壁の内側から出てきていないことだった。
こんな状態で。
一体あいつが、誰を好きになれると言うのだろう。
(…こんなの……無理だろ………)
自分を?
他の誰かを?
無理だ。
こんなの。
まだ何もかも終わっていない。
あいつの中では。
あの恋は、まだずっと続いている。
朔也は、扉の前で立ち尽くした。
手を伸ばせば、陽向はそこにいる。
ほんの数センチ向こうで、泣き崩れている。
なのに。
遠かった。
十八年、隣にいたはずなのに。
誰より近くにいたはずなのに。
今この瞬間の陽向は、どうしようもなく遠かった。
「……ひな……。」
名前を呼んだ声は、ほとんど音にならなかった。
慰めたい。
抱きしめたい。
泣き止ませたい。
そう思うのに。
足が、動かない。
もし今ここで扉を開けても。
あいつが欲しいのは、自分じゃない。
ひなが泣きながら求めているのは。
“藤崎俊輔”だ。
扉の向こうで、陽向の嗚咽だけが続いている。
胸の奥が、ぐしゃりと軋む。
苦しかった。
嫉妬とか。
悔しいとか。
そんな単純な言葉じゃ、全然足りない。
ただ、痛かった。
自分では届かない場所へ向かって。陽向の心が、必死に手を伸ばしている。
その現実が。
どうしようもなく、痛かった。
放課後の図書室。
西日の差し込む静かな場所。
かつて陽向が、恋をしていた場所。
その扉一枚を隔てて。
朔也は初めて、はっきりと思い知らされた。
剣道でどれだけ強くなっても。
何年そばにいても。
どれだけ陽向を守ってきたつもりでも。
藤崎俊輔が残していった場所には、まだ踏み込めない。
まだ、自分は。
陽向のその涙に、手を伸ばす資格すら持っていないのだと。
「…………」
朔也は、扉へ触れていた手を、ゆっくり下ろした。
そして、扉一枚向こうで、耳を塞ぎたくなるほどの壊れそうな泣き声を背中に受けながら。
まるで魂が抜け落ちたような瞳で、そのまま静かに踵を返した。
図書室の前から離れ、静かな廊下を歩いていく。
泣き崩れる陽向の声に、胸を抉られながら。
何も出来ないまま。
ただ。
その場を離れる事をしか、出来なかった。
────────。
時刻は、間もなく最終下校を告げる午後六時。
夏休み目前のこの時期は、まだ空が完全には暮れきらない。
西へ傾いた陽射しだけが、ゆっくり色を変えながら校舎を包み込んでいた。
放課後の図書室。
窓から差し込む柔らかな陽射しは、床へ長い影を落とし、静かな室内には、紙とインクの匂いが満ちていた。
陽向は、窓を開け放ったまま、その窓枠へ肘をついて寄りかかっていた。
夏の風が、ふわりと制服の袖を揺らす。
泣き腫らした瞼へ触れる風は少しだけ冷たくて、それが余計に胸の奥を締め付けた。
遠くから聞こえるのは、部活動を終えた生徒達の笑い声。
グラウンドを走る掛け声。
昇降口へ向かう足音。
みんな、当たり前みたいに今日を終えて帰っていく。
けれど陽向だけは。
まだ、この場所から動けずにいた。
その景色を見つめながら。
陽向は、ふいに小さく唇を動かした。
「………うーさーぎー……おーいし………かーのーやーまー…………」
掠れた歌声が、静かな図書室へ溶けていく。
童謡、“ふるさと”。
あの日。
俊輔と最後に、この図書室で過ごした時。
名残り惜しみながらも、最終下校の午後六時を迎えた、少し後。
この歌を口ずさんでいた。
俊輔の膝の上へ座りながら。
抱きしめられながら。
二人で、遠くの空を見つめながら。
(……どうして、ふるさと?)
優しく問いかけてきた俊輔の声まで、今も耳の奥へ鮮明に残っている。
(……私は……俊ちゃんのふるさとになれたら嬉しいなって……思って……)
あの時、自分は笑えていただろうか。
ちゃんと。
泣きそうにならずに。
笑えていただろうか。
陽向は、窓枠を握る指先へそっと力を込めた。
あの日の俊輔の体温を思い出す。
抱きしめてくれた腕。
頬へ触れた指先。
泣きそうなくらい優しかった目。
そして。
(陽向の全部を、忘れない。)
あの声。
(……忘れないで………俊ちゃんとの全部が、私の一生の宝物だから……)
そして私は、“ずーっと、ずっと、大好きだよ”と言って。
あなたに、キスをした。
そしてあなたは、泣きながらも優しい顔で、何度もキスをしてくれた。
唇へ残った熱。
頬へ触れた指先。
抱きしめられた腕の強さ。
何もかも、まだ昨日のことみたいに思い出せてしまう。
今すぐ、この扉が開いて。
『陽向』って、あの声で呼びながら彼が現れる気がしてしまう。
そんなわけ、ないのに。
陽向は、目を閉じた。
時計の針が、巻き戻ればいいのにと思った。
この夕陽も。
この風も。
この歌も。
全部が、あの日へ繋がっている気がして。
もし願えば。
もし強く想えば。
次に、パッと目を開いたその瞬間に。
またあの時間へ戻れるんじゃないかって。
馬鹿みたいに、本気で思ってしまう。
もし、この図書室の時計を巻き戻せるなら。
もう一度だけ。
あの日へ帰れるなら。
彼の膝の上で。
あの腕に抱きしめられながら。
同じ夕焼け空を見て。
同じ歌を、歌いたかった。
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
陽向は、縋るみたいに歌った。
「…………ゆーめーはー……いーまーもー……めーぐーりーてー…………」
夢は今も巡りて。
忘れがたき故郷。
忘れたいわけじゃない。
でも。
忘れられないことが、こんなにも苦しい。
静かに零れた歌声は、夏の風に攫われるみたいに消えていく。
図書室には、もう誰もいない。
なのに。
何もかもが、あの日のまま。
まるで、この図書室だけが。
まだ二人の恋を終わらせずに、静かに抱え続けているみたいだった。




