第124話 誰もいない図書室
そして、後日。
窓の外では、夏休み目前の強い日差しが校舎を白く照らしている。
エアコンの風にカーテンがふわりと揺れ、教室のあちこちからは、テスト返却の点数に一喜一憂する声が飛び交っていた。
「星野さーん」
帰りのホームルーム前のざわついた教室で、不意に名前を呼ばれた。
陽向は、机へ頬杖をついたまま顔を上げる。
そこに立っていたのは、クラスの図書委員の女子だった。
手には、貸出し管理用のクリップボード。
「昨年度からの貸出し図書で、未返却になってる本ないかな?」
「え……?」
陽向は、一瞬きょとんとした。
けれど次の瞬間、胸の奥がヒュッ…と小さく冷える。
「あ、あるかも。」
図書委員は、困ったように笑った。
「夏休み入る前に、返却しておいてくれると助かる!」
「あー…おけ!ごめんねー、すっかり忘れてて」
慌てて笑って返す。
いつもの調子で。
「ううん、よろしくー」
軽く手を振りながら、図書委員の女子は別のクラスメイトの元へ向かっていった。
その背中を見送ったあと。
陽向の表情から、ふっと笑顔が消える。
「…………図書室……か……」
ぽつり、と落ちた声は、思ったよりずっと小さかった。
騒がしい教室。
友達同士の笑い声。
そんな日常の真ん中で。
陽向だけ、少し遠い場所へ取り残されたみたいになる。
図書室。
その単語を聞いただけで、胸の奥がじわりと熱を持つ。
思い出してしまう。
放課後の西日。
静かな空気。
紙の匂い。
そして。
(陽向、おいで。)
あの優しい笑顔と。
柔らかい声。
卒業式の、前日。
俊輔と二人で過ごした、最後の図書室。
あの日以来、陽向は一度も図書室へ行っていなかった。
行けなかった。
あの場所はあまりにも。
思い出が、多すぎる。
いつも彼の膝の上に座っていた、窓際の席。
放課後のオレンジ色の光。
小さな囁き声。
ふと目が合った時に笑ってくれた顔。
全部、全部。
あそこに置いてきたみたいだった。
だから、ずっと行けなくて。
足を踏み入れた瞬間。
全部、鮮明に蘇ってしまいそうで。
陽向は、無意識にぎゅっと制服のスカートを握った。
(……仕方ない。腹括るか。)
逃げ続けるわけにもいかない。
ただ本を返すだけ。
貸出し管理表にサインして。
返却ボックスへ投函して。
それで終わり。
そう、自分へ言い聞かせる。
(……一瞬だけ。)
胸の奥が、じわりと痛む。
その時、ふと。
別の疑問が脳裏へ浮かぶ。
(……そう言えば……)
陽向の眉が、ぴくりと動いた。
(借りた本って……どこにあんだ?)
静かだった感傷が、一瞬で現実に引き戻される。
俊ちゃんと付き合っていた頃に借りた本……。
本を借りたその直後から今日まで色んな事が山程ありすぎて。
記憶が、ない。
「……やば。」
ぽつり、と呟く。
次の瞬間。
ガタッ!!
陽向は勢いよく立ち上がった。
「どこいったーーーーーー!?!?」
三年四組へ、盛大な絶叫が響き渡った。
陽向は帰宅すると、そのまま自室へ駆け込んだ。
ベッドの上へ鞄をひっくり返し、本棚を漁り、机の引き出しを開け、クローゼットの中まで覗き込む。
プリントの雪崩。
ぐしゃぐしゃのノート。
いつのかわからないヘアゴム。
失くしたと思っていたリップ。
部屋の中が、みるみる荒れていく。
けれど数分後。
「あ。」
拍子抜けするほど、あっさりと見つかった。
机の端へ積み上がっていた参考書の下。
半分くらい紙袋へ埋もれるみたいな状態で、その本は静かに挟まっていた。
「……なんだここかぁ……」
陽向は、その本をそっと持ち上げた。
表紙へ触れた瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
図書室。
俊輔。
放課後。
夕焼け。
あの場所へ続く記憶が、ぱらぱらと脳裏をめくれていく。
陽向は、小さく唇を噛んだ。
────────。
そして翌日。
陽向は放課後一人、図書室の前へ立っていた。
「…………。」
目の前には、見慣れているはずの木製の扉。
毎日のように通った場所。
俊輔と出会って。
恋に落ちて。
泣いて。
笑って。
抱きしめられて。
あの頃の全部が、ここにある。
放課後の西日。
静かな空気。
紙の匂い。
ページを捲る音。
優しく名前を呼ぶ声。
何もかも。
まるで、この扉の向こう側へ置き去りにされたままだった。
陽向の喉が、小さく鳴る。
指先が、少し震えていた。
怖い。
扉を開けた瞬間。
全部、鮮明に蘇ってしまいそうで。
忘れたいわけじゃない。
でも、思い出すたび胸が苦しくなる。
陽向は一度だけ深く息を吸った。
胸いっぱいへ、ゆっくり空気を入れる。
そして。
そっと、扉へ手を掛けた。
ガラッ───
(陽向……!)
──────。
一瞬。
いつも。
本へ落としていた視線をぱっと上げながらこちらを見て、嬉しそうに弾む声。
あの頃扉を開いた瞬間に、いつも耳に落ちてきた声が聞こえた。
それがあまりにも鮮明で。
本当に、そこにいた気がした。
けれど。
「…………。」
返ってきたのは、静寂だった。
シン……と静まり返る図書室。
本棚の隙間を抜けるエアコンの風。
光に照らされた木の机。
積み上げられた本。
そこには、もう誰もいない。
ただ変わらず。
紙の匂いと。
インクの匂いだけが、静かに残っていた。
「……っ」
胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
息をするたび、奥が痛む。
陽向は、小さく頭を振った。
駄目だ。
ここで立ち止まったら、きっと動けなくなる。
いつまで経っても、前に進めない。
陽向は、自分へ言い聞かせるみたいに唇を引き結ぶと、そのまま足早にカウンターへ向かった。
歩くたび、床が小さく軋む。
その音だけが、やけに大きく耳へ響いた。
貸し出し管理表を開く。
ペンを持つ指先へ、じんわり力が入る。
そして陽向は。
静かな図書室の中で、そっとペン先を落とした。
その瞬間だった。
“3ー5 藤崎俊輔”
「………っ!」
視界が、止まった。
管理表の上部へ並ぶ文字。
自分の名前。
俊輔の名前。
また、自分の名前。
何個も何個も。
交互に重なっている。
貸出し日。
返却日。
本のタイトル。
そこには、確かに二人が居た時間が残っていた。
いつも見ていた、綺麗な字。
止め、払い、跳ね。
丁寧なのに、どこか柔らかい筆跡。
ノートへ書かれた解説も。
付箋のメモも。
プリントの端へ添えられた小さな一言も。
全部この、俊輔の字だった。
「…………。」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
まるで。
この貸出し管理表そのものが、“あの頃”の痕跡だった。
図書室だけが、まだあの頃から時を止めてしまっているみたいだった。
陽向の喉が、小さく震える。
息が苦しい。
それなのに。
無意識だった。
スッ…と。
吸い寄せられるみたいに、指先を伸ばしていた。
愛おしむように。
求めるように。
そっと、“藤崎俊輔”の文字をなぞる。
紙越しに触れたその瞬間。
指先へ、彼の温もりが伝わった気がした。
「……っ」
胸の奥から、一気に何かが込み上げる。
視界が、じわりと滲む。
陽向は、ぎゅっと唇を噛んだ。
そして。
ガリッ───!!
半ば逃げるみたいに、返却サインを乱暴に書き殴る。
パタンッ!!!
想いごと閉じ込めるみたいに、勢いよく管理表を閉じる。
陽向は、そのまま本を掴んだ。
逃げるように。
返却ポストへ向かって、足早に歩き出した。
全ての想いを無理矢理押し込めるように。
ガコンッ
返却ポストに本を入れる。
これで終わり。
ここからすぐ帰る。
……はずだった。
それなのに。
『陽向。』
背後から、あまりにもはっきりと、鮮明に落ちた声。
陽向は思わず、ハッと振り返る。
視線が西日の差し込む、あの場所へ向いた。
窓際の席。
“そこにいるはずがない” とわかっているのに。
俊輔は────
(陽向……おいで。)
優しい声が、脳の奥で響いた。
いつもの席で、陽向を見て、笑って、両手を広げて。
────────。
次の瞬間、幻はふっと消えた。
放課後の柔らかな光に照らされた、空の席だけが残った。
「…………。」
陽向は、気づいたら“そこ”へ向かっていた。
吸い込まれるように。
見えない糸に、引かれるように。
俊輔がいつも座っていた窓際の席。
コツ……コツ……
床を踏む足音だけが、小さく響く。
陽向は、ゆっくりその机の前へ立った。
そして。
スーッ………
そっと、指先で机の端をなぞる。
さらりと触れた木の感触が、泣きたくなるほど優しかった。
(………………俊……ちゃん……)
胸がきゅうっと苦しくなる。
机の上に置かれていた、俊輔の好きだった本。
ページを捲る時、少しだけ指先を滑らせる癖。
陽向が隣へ座ると、少しだけ身体を横へ向けてくれる仕草。
当然みたいに、自分を膝の上へ乗せる腕。
抱きしめられながら、ゆら……ゆら……と左右へ揺れる感覚。
髪へ触れる指。
鼻を掠める柔らかな彼の香り。
耳元へ落ちる優しい声。
すべてが、あまりにも、鮮明に蘇る。
「…………。」
そのまま陽向は、ゆっくり図書室全体を見渡した。
読書コーナー。
奥の本棚。
窓際の陽の差す場所。
書庫の入口の影。
そこかしこに——
ふたりの“確かにあった日常” が浮かぶ。
笑い声。
語り合った物語。
本を選びながら交わした小さな会話。
ぎゅっと抱きしめてくれたぬくもり。
目に映る全てが。
空気の温度も。
紙の匂いも。
光の色さえも。
全部が、俊輔の存在を呼び覚ましてしまう。
「…………………会い……たい……………」
掠れた声が、喉の奥で震えた。
息を吸うたび、胸の奥が痛い。
立っていられなかった。
陽向は、縋りつくみたいに机へ両手をつき、そのまま力が抜けたように崩れ落ちる。
ガタ……っ
椅子が小さく揺れる音が、静まり返った図書室へ響いた。
ぽた、……ぽた……
堪えきれなくなった涙が、机の上へ落ちていく。
木目の上へ滲んだ雫が、西日に照らされて小さく光った。
「……俊ちゃん……っ……会いたいよ……っ」
声が、ぐしゃぐしゃだった。
もう無理だった。
ずっと目を逸らしてきたのに。
毎日夢中で走り続けて、飲み込まれないようにしてきたのに。
この場所は。
あなたとの全てがが始まった場所で。
全てが終わってしまった場所だから。
その“小さな世界”の全てが。
まるで走馬灯みたいに、俊輔との記憶を陽向へ突きつけてくる。
(…………意表をつく子だなぁ……)
初めて、笑ってくれた日。
(……君は……毎日必ずここに居るんだね)
静かで、優しい声。
(星野さんは、このあと……夏休み期間中も図書室来る?)
少しだけ緊張したみたいな表情。
(……また……図書室に来てくれないかな……)
嬉しそうに細められた目。
(………僕達は……逃げ込んだ場所が、同じだったんだね。)
あの時。
誰にも言えなかった孤独を。
初めてわかり合えた気がした。
(……それで……また星野さんが……図書室に来られなくなったら………寂しい……し……)
不安そうに揺れた声。
(1年間………僕の彼女に……なって下さい…)
震えていた指先。
真っ赤だった耳。
(……陽向は……僕の事………彼氏だと思ってくれてないの……?)
拗ねたみたいな目。
(いっぱい甘えていいでしょ?今は2人なんだから!)
抱きしめられた温もり。
(陽向をいつも想ってる。会長でいても、受験生でいても。忙しい時でも、必ず陽向は僕の頭と心にずっといる。)
耳元へ落ちた、愛おしそうな声。
(僕の目には、陽向が誰よりも眩しい。)
優しく髪を撫でる手。
(陽向の全部を、忘れない。)
夕焼け色の図書室。
(明るい声も、元気な笑顔も、不器用だけど誰よりも真っ直ぐなところも………いつまでもずっと思い出す。)
最後に見た、あの泣きそうな笑顔。
胸が、壊れそうだった。
忘れられるわけがない。
忘れたくなんか、ない。
あなたを初めて見つけた時の衝撃も。
近づいていくたび胸がざわついたことも。
“彼女”になれた日の嬉しさも。
抱きしめられるたび、心臓が苦しくなるほど幸せだったことも。
喧嘩した時、心の痛みで泣いたことも。
全部。
全部。
まだこの胸の中へ残っている。
最後に過ごした、あの日。
唇へ触れたキスの熱まで。
忘れられない。
この胸に。
この身体に。
この唇に。
まるで焼き付いてしまったみたいに。
何もかも、まだ鮮明だった。
「……っ……」
陽向は、震える指先で自分の唇をそっと押さえた。
苦しい。
会いたい。
声が聞きたい。
抱きしめてほしい。
頭を撫でてほしい。
キスしてほしい。
もう一度だけでいいから。
優しく笑って、“陽向”って呼んでほしい。
たった一日でいい。
ほんの一瞬だけでもいい。
もし。
もし、この図書室の時計を。
あの頃へ戻せるのなら。
陽向は、もう一度。
何度でも、この恋へ落ちてしまう気がした。
その瞬間。
胸の奥で、ずっと張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
「……っ……」
堪えていた涙が、一気に溢れ出して止まらなくなった。
止めようとしても、もう駄目だった。
一度崩れてしまった感情は、どうしても押さえ込めない。
「……どう……して……っ」
あなたは、もう居ないのに。
もう二度と、会えないのに。
どうしてこの場所で、こんなにも鮮明に。
私の名前を何度も呼ぶの。
どうして、まだこんなに。
私の心を掴まえたまま、離してくれないの。
机も。
椅子も。
床へ落ちる夕陽の色も。
風に揺れるカーテンさえも。
何もかも見渡す限り、どこを見ても。
その全部に。
俊輔の気配が、焼き付いて離れなかった。
「……っ……ぅ……」
喉の奥が、ぐしゃぐしゃに痛い。
息を吸うたび、胸の奥が軋む。
「……う……っぐ……ふぅ……っ……ぅう……」
涙が止まらない。
まるで、ずっと無理矢理閉じ込めていた感情の堰が、一気に壊れてしまったみたいに。
会いたい。
俊ちゃんに、会いたい。
「……俊ぢゃん……っ……」
掠れた呼び声が、ぽろりと零れる。
「……俊ぢゃぁん……っ……会いだいよぉ……俊ぢゃん……っ……」
声が聞きたい。
優しく頭を撫でてほしい。
“陽向”って、あの声で呼んでほしい。
どうか、お願い。
もう一度だけでいい。
もう一度だけ。
あの温かい腕の中へ、抱きしめてほしい。
「……っあぁ……っ……ぐす……っ……ぅうああぁぁぁぁぁぁーーーーーー……っ」
陽向は、机へ顔を伏せたまま泣き崩れた。
縋りつくように。
壊れるように。
誰もいない放課後の図書室。
西日の差し込む静かな空間へ、押し殺せなかった嗚咽だけが響く。
窓の外では、夏の風が木々を揺らしている。
世界は変わらず、静かに夕暮れへ向かっていくのに。
陽向の時間だけが。
まだ、あの日の図書室へ取り残されたままだった。




