第122話 政経の乱、恋愛前線大帰還
「おい奴隷。下の冷蔵庫にコーラが入ってるから、グラスに氷入れて注いで持ってこい。」
机に肘をついたまま、朔也が横柄に言った。
「はい!承知しました!」
陽向は勢いよくシュバッと立ち上がった。
椅子の脚が軽く床を擦る音。
ぱたぱたと部屋を飛び出していく足音。
朔也の家のキッチンに到着し、冷蔵庫を開けるとひんやりした冷気が頬に触れた。
炭酸飲料のペットボトルを取り出し、グラスに氷を落とす。
カラン、カラン。
透明な音がやけに響く。
その音を聞きながら、陽向はさっきから妙に落ち着かない自分に気付いていた。
こんなふうに朔也の部屋で、二人きりで長く過ごすのは久しぶりだった。
高二の一年間。
俊輔の嫉妬は想像以上に激しく、陽向は男子との距離感にずっと気を遣っていた。
もちろん幼馴染である朔也とも以前みたいには接していなかったし、あまり部屋にも行かないようにしていた。
だからだろうか。
久々に近くにいる朔也が、少しだけ知らない人みたいに見える。
そして。
「先生!お待たせしました!」
部屋へ戻ると、陽向は朔也の側にグラスを置いた。
氷の入ったコーラが、しゅわしゅわと小さな音を立てている。
「じゃ、続きからな。えーっとGDPっつーのは…」
シャープペンの先が、問題文を軽く叩く。
陽向も隣から身を乗り出し、その文字を追った。
「"その国がどれだけ経済活動したか”の合計。まー簡単に言うと、"みんなでどれだけ働いて、お金動いたか。”」
淡々と、朔也の声に耳を傾ける。
「国民が沢山働けば、沢山お金を稼げるだろ?沢山お金を稼いだら、そのぶん色んなモン買ったり、食ったり、遊んだり、金を使うだろ?そうなれば……」
ふと。
陽向の視線が問題集から逸れる。
無意識だった。
気付けば、すぐ隣にいる朔也の横顔を見ていた。
「それが“経済が回ってる”=景気良いなーって判断されて、GDPが“上がった”って言われる。逆に……」
高一の頃より、輪郭が少しシャープになっている。
伏せられた睫毛。
ペンを持つ指の骨ばった形。
喋るたびにわずかに動く喉仏。
気付けば、身長も中学の頃よりかなり伸びている。
肩幅も、前はもっと細かった気がする。
──男子って、こんな短期間で変わるんだ。
幼馴染だからこそ、逆に変化に鈍かったのかもしれない。
胸の奥が、妙にざわついた。
なんか………急に。
“大人の男”って………感じが…………
「おい、聞いてんのかよ。」
「……っ!」
ドキッ───
朔也の声が強くなった瞬間、陽向の心臓が大きく跳ねた。
「人の面ボーっと見てて、俺の話しちゃんと理解出来てんのかよ!」
「あ…っえっと出来てるよ…!」
熱が一気に顔へ集まる。
「つまりGDPは…!」
誤魔化すように慌てて問題集を持ち上げた、その瞬間。
ガツッ
問題集がグラスにぶつかった。
バジャーーーーーーッ!!
勢いよく倒れたグラスから、黒い液体が広がった。
朔也の服に目掛けて飛び散る褐色の雫。
「っざけんなよお前ーーー!!!」
弾かれたみたいに朔也が立ち上がる。
素早くクローゼットの引き出しからタオルを引っ張り出して陽向へ投げた。
「ご、ごめんっ!」
反射で飛んできたタオルを陽向が掴んだその瞬間。
ガバッ
朔也が濡れたシャツの裾を掴んで捲り上げ、そのまま一気に頭から脱ぎ捨てる。
「…………っっっ!!!!」
陽向の心臓が、大きく跳ねた。
視界の中へ飛び込んできた、見慣れているはずの身体。
肩。
鎖骨。
薄く浮いた筋肉の線。
濡れた肌を伝うコーラの雫。
その事実が、不意打ちみたいに脳へ流れ込んできた。
そして朔也は濡れた下半身へ視線を落とし、舌打ち混じりにスウェットズボンへ手を掛ける。
その瞬間。
「ストーーーーーップ!!!」
陽向は、ほぼ反射で叫んでいた。
ぱたぱたぱたっ!!と部屋の隅まで逃げ込み、ベッド脇へしゃがみ込む。
膝を抱えるみたいに床に小さくなり、そのまま勢いよく背中を向けた。
「い、いきなり脱がないでよっ!!」
声が裏返る。
耳が熱い。
顔も熱い。
意味がわからないくらい、心臓がうるさかった。
その瞬間───
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
それは。
俊輔以来、長らく沈黙していた警報装置。
陽向脳内警戒アラート、緊急作動。
(…………は?)
いやいやいや待って。
なんで?
誤作動誤作動。
絶対、誤作動。
なんで朔也に?
今さら何を意識する必要がある?
夏なんて平気で上裸のまま家を行き来していたし、プール帰りにそのまま部屋へ転がり込む事だってあった。
意味わかんない。
ありえない。
どゆ事?
てかなんでこんなに心臓バクバクしてんの?
てかなんで私こんな焦ってんの?
陽向は軽くパニック状態に陥る。
そしてそんな陽向の様子に、朔也は。
「……………は?」
低い声が、ぽつりと落ちる。
いやいやいやなんで!?
今まで散々目の前で着替えくらいしてきただろ。
むしろ自分だって俺の前で平気で着替えてたじゃねーか。
何をしてても平気な顔して空気のように扱ってきたくせに。
今さらなんでいきなりそんな反応してんだ!?
(…急に………どーなってんだよ……!)
思いがけない陽向の咄嗟の行動に、朔也も理解が追いついていない。
「………………。」
朔也の喉が、小さく上下する。
さっきまで、コーラをぶち撒けられた苛立ちしかなかったはずなのに。
部屋の空気が、妙に熱い。
エアコンは効いている。
なのに、変に息苦しい。
ベッド脇で小さく縮こまっている陽向の背中を見た瞬間。
心臓が、また一つ大きく鳴った。
そして朔也は、ゆっくりと悟り始める。
──こいつ。
もしかして今、自分を“男”として意識しているのかもしれない。
その可能性が脳裏を過ぎった瞬間。
ドクン、と。
今度は、朔也の方の鼓動が跳ね上がった。
小さく丸まった肩。
両手で顔を覆って真っ赤に染まった耳。
混乱したみたいに折り込まれている膝。
「………なに?……お前………」
喉が、少し掠れる。
自分でも驚くくらい低い声だった。
ゆっくりと、朔也は歩み寄る。
フローリングが小さく軋む音。
一歩、また一歩。
そして。
ギシ………
ベッドフレームへ身を寄せている陽向のすぐ隣へ、片手をついた。
沈み込むマットレスの感覚が、じわりと腕へ伝わる。
その気配に気がついて。
両手で顔を覆っていた陽向が、そろそろと顔を上げた。
至近の距離で、視線がぶつかる。
目の前には、上裸。
世界が、一瞬止まった。
「今さら俺の上裸に照れてんの?」
「…………っっっ!!!!」
その瞬間。
久方ぶりの出陣じゃーーーーーーーーー!!!!!!
ドッカーーーーーーーーン!!!
こちらも俊輔以来、長らくご無沙汰の陽向脳内小人軍団が満を辞して大戦争を始めた。
敵襲ーーーーーー!!!
迎撃ーーーーー!!!
ドガーーーーーーン!!!
バゴーーーーーーン!!!
全陣、総攻撃ーーーーーーーーーー!!!!!
次の瞬間。
ボカッッッッッ!!!!!!
陽向の右ストレートが、朔也の顔面へ綺麗に炸裂した。
「っっっっ!!?」
鈍い音が部屋へ響く。
勢いよく仰け反る朔也。
陽向自身も、自分が何をしたのかわかっていなかった。
ただ。
もう限界だった。
バンッッッ!!!!
半分パニックのまま立ち上がり、そのまま部屋のドアを勢いよく開け放つ。
陽向は頭が真っ白で、逃げるみたいに朔也の部屋を飛び出した。
朔也の部屋に、しん……と静寂が落ちる。
さっきまで騒がしかった空気が嘘みたいだった。
開け放たれたドアだけが、わずかに揺れている。
廊下へ飛び出していった陽向の足音は、もう聞こえない。
エアコンの低い駆動音。
机の上で溶けかけた氷が、カラン……と小さく鳴る。
その静けさの中で。
「……いってぇ〜………」
朔也は、殴られた頬を押さえながら顔をしかめた。
地味に痛い。
じわじわ熱を持った頬へ触れるたび、さっきの衝撃が鮮明に蘇る。
(いくらなんでも殴るか!?)
思わず眉間へ皺が寄った。
いや確かに、少し揶揄うつもりではいた。
だってあんな反応、反則だろ。
今まで散々、こっちを空気扱いしてきたくせに。
急に“男”を意識したみたいな顔して。
真っ赤になって。
逃げて。
しかも、あの目。
完全に、動揺していた。
(……くそ……)
朔也は深く息を吐き、乱暴に髪を掻き上げる。
頭の整理が、全く追いつかない。
なんなんだよ、急に。
ここ最近になって、いきなり。
雨の日から、おかしくなった。
手を繋いだあの日から、剣道大会の帰りに寄った公園といい、全部少しずつ狂っている。
前までなら、どれだけ距離が近くても平気だった。
二人きりで部屋にいても、こんな空気にはならなかった。
なのに今は。
視線一つ。
反応一つ。
距離感一つで、心臓が振り回される。
しかも、陽向本人は絶対無自覚だ。
自分がどれだけ人を振り回してるのかも。
どれだけ期待させるのかも。
どれだけこっちの心臓へ悪いのかも。
たぶん、全然わかってない。
そして。
そんな混乱の中で。
ある一言だけが、じわじわと腹の底から込み上げてきた。
「………………。」
朔也のこめかみが、ぴくりと引き攣る。
そして次の瞬間。
「“何をされても拒否らない”はどーなってんだーーーーーー!!!!」
怒声が、静まり返った部屋へ盛大に響き渡った。
──陽向と朔也の間で成立した契約条件は。
開始数時間で、早くも契約放棄された。
バンッッッ!!!
自宅へと飛び込んだ陽向は、リビングのテーブルへ勢いよく手をついた。
「はぁ……っはぁ……っはぁ……っ」
呼吸が上手く出来ない。
顔全体が熱い。
心臓のバクバクは鳴り止まない。
そして、陽向は。
「人違いじゃおまんらーーーーーーー!!!!」
自らの脳内で大暴れしていた小人軍団へ向かって、自分自身で全力で突っ込んだ。
絶、対、に、おかしい。
こんな事が、ありえて良い筈がない。
あんな奴に。
よりによって朔也に。
朔也なんかに。
たかが朔也ごときに。
戦争なんかおっ始めんじゃねぇーーーーーー!!!!
(あああぁぁぁぁぁぁ…………!!!!!)
陽向は頭を抱えて、断末魔が響いた。
洋服ビシャー!
上裸ガバー!
キャー!ドキドキー!
キュンキューン!
って、お前……それ………
(ラブコメど定番のラッキースケベやないかーいっっっ!!!!)
これは何かの間違いだ。
完全なるバグ。
システムエラー。
脳内誤作動。
状態不良。
こんなの……….地獄だ。
頭がおかしくなりそうだった。
陽向は、がっくりと項垂れながら、辿り着いた結論をぽつりと呟く。
「……………重症だ……。」
───飢えている。
末期の飢餓状態。
重度のキュン不足。
これは良くない。
本当に良くない。
別れてから、どれくらい経っただろう。
頭を撫でられる事も。
抱きしめられる事も。
優しい声を囁かれる事も。
足りない。
俊ちゃんが…………足りない。
陽向が暫くの間、絶望感に打ちひしがれていると。
ピー….ピー…
小さく鼻を鳴らす音が、足元から聞こえる。
「…………!」
陽向は、はっと我に返った。
視線を落とす。
そこには、黒い瞳をまん丸にしながら、自分を見上げているレオがいた。
帰宅してからずっと、陽向の足元をうろうろしていたのだろう。
小さな尻尾が、不安そうに揺れている。
普段なら。
「レオただいまーーーっ♡」
と、玄関に入るなり迎えに来たレオを真っ先に抱き上げて、顔を埋めて、わしゃわしゃ撫で回している。
なのに今日は。
パニック状態のまま突っ走ってきたせいで、その存在にすら気づけなかった。
それくらい、余裕がなかった。
「……レオ……」
陽向は、へなへなと糸が切れたみたいに床へ座り込んだ。
フローリングの冷たさが、じんわり太腿へ伝わる。
さっきまで暴走していた心臓は、まだ落ち着かない。
息も浅いまま。
頭の奥では、ぐるぐると色んな感情が渦を巻いていた。
するとレオは、不安そうに小さく鼻を鳴らしながら。
ちょこん、と。
陽向の膝へ前足を掛けた。
垂れた耳。
しゅん……と下がった尻尾。
「どうしたの?」とでも言いたげに、潤んだ黒い瞳が真っ直ぐこちらを見上げている。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が、きゅう……っと苦しくなった。
どうしても、思い出してしまう。
(陽向…怒らないで…?)
困った時。
怒らせたと思った時。
いつも、少し眉を下げて、子犬みたいな目でこちらを見ていた。
シュン….として。
どこか不安そうに。
でも甘えるみたいに。
“許してほしい”
“嫌わないでほしい”
そんな空気を、隠しきれない人だった。
ワンコ彼氏。
私はその子犬顔に、これまで何度やられたことか。
「……………そっくり…。」
ぽつり、と零れた声は、ひどく弱々しかった。
陽向は、泣きそうな顔でレオを抱き上げ、その柔らかい毛並みへ額を押し付けた。
その温もりに触れた瞬間。
張り詰めていたものが、一気にほどけた。
「……っ……」
ぎゅう、と。
縋りつくみたいにレオを抱きしめる。
するとレオは、「やっと抱っこしてくれた!」とでも言うみたいに、ぱたぱたと嬉しそうに尻尾を振り始めた。
耳が、ピコンッと立ち上がる。
その無邪気な反応が、余計に胸へ刺さる。
「……ふふ……」
陽向は、泣きそうなまま少しだけ笑った。
そして気づけば。
….ゆら……ゆら……
無意識に、身体を左右へ揺らしていた。
レオを抱きしめたまま。
ゆっくり。
大事なものをあやすみたいに。
それは、俊輔の癖だった。
陽向を抱きしめる時。
嬉しい時。
安心したみたいに笑いながら、よくこうして揺れていた。
(陽向、大好き)
耳元で囁かれた柔らかい声。
髪を撫でる手。
優しく包み込まれる感覚。
全部、鮮明に思い出せてしまう。
「………………大好き……」
ぽつりと。
抑えきれず、零れ落ちた言葉。
今でも。
こんなに大好きで。
こんなに大切で。
思い出すだけで胸が締めつけられる。
会いたい。
触れたい。
抱きしめてほしい。
頭を撫でて、「大丈夫」って言ってほしい。
苦しくて。
寂しくて。
悲しくて。
「…しんど………」
掠れた声が、静かなリビングへ落ちる。
陽向は、レオへ顔を埋めたまま目を閉じる。
さっきまで頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回していた、朔也の事なんて。
もう、どこにもなかった。
今の陽向の胸の中を埋め尽くしているのは。
苦しいくらいに残り続けている、“藤崎俊輔”という存在だけだった。




