第121話 最悪の伏兵を倒すには
激動の剣道大会を終えて、一週間。
七月最初の役員会議。
文化祭まで三ヶ月を切る中で、議題は文化祭から創立五十周年記念事業へと移っていた。
「では次に、創立五十周年記念企画についてです。」
役員達が資料をめくる。
「現在の候補としては、記念誌の発行、記念講演会、卒業生からのビデオメッセージなどが挙がっています。」
「まぁ…無難だな。」
横溝琉嘉が資料を見ながら呟いた。
「えー!!つまんなーい!!そんなの無理ー!!」
「まぁ…記念事業ってそんなもんじゃないですか?」
騒ぎ立てる陽向に、加賀優音が宥めるように言った。
「でもそれ生徒向けっていうより…学校向けって感じだなぁ〜」
阿久津孝明が、椅子にもたれながら言う。
「時間や予算の兼ね合いも考えると…やっぱりその辺りになっちゃうんですかね。」
相田桜子は困ったように柔らかく笑った。
生徒会室には、役員同士様々な意見が飛び交う。
どれも悪くない。
だが、何かが足りない。
そんな空気が漂っていた。
その時。
「あっ!!いい事思いついたっ!!!」
陽向がパンッと手を叩きながら、立ち上がる。
嫌な予感がした。
その場にいた全員が、ほぼ同時にそう思った。
「後夜祭っ!やろうよ!!」
沈黙。
生徒会室から音が消えた。
「……は?」
最初に口を開いたのは横溝琉嘉だった。
陽向はそのままのテンションで突っ走る。
「後夜祭いいじゃん!今までだって、文化祭終了後のアンケートに“後夜祭やりたかった”って意見、結構書いてあったじゃんっ!!」
陽向は机に身を乗り出した。
「いや、予算とか…時間とか…。」
「文化祭まで3ヶ月ないんですよ?どーやって企画とか準備進めてくんですか?」
相田桜子が恐る恐る口を開く中、阿久津孝明の冷静な指摘が入る。
「そんなの何だっていいじゃん!ダンス!ライブ!花火ドーン!!ザ、青春!!」
「発想が雑すぎます。」
ガッツポーズを作る陽向に、加賀優音の声がピシャリと落ちた。
最後にビシッと横溝琉嘉が陽向の顔の目の前に人差し指を突きつける。
「只でさえ星野は生徒会長の仕事もまともに回せてねーくせに無茶言うな!しかもお前、受験生だよ?」
四方八方から飛んでくる現実的な指摘。
だが陽向は全部まとめて振り払うように、テーブルを思いきり叩いた。
バンッ!!
「だって文化祭って、準備してる時はあんなに楽しいのに、終わった瞬間解散じゃん!」
陽向は真っ直ぐ全員を見た。
「みんなで力合わせて準備して詰み上げてきて、シフト回して、大成功させても…その喜びを分かち合う間も無く終わりじゃん!」
陽向は続ける。
「それでも結局そのあと、各クラスそれぞれ打ち上げ行ったり、仲良い同士とかで、みんなバラバラになって盛り上がってやってんじゃん…」
その声だけが妙に静かだった。
「それって、みんな“もっと楽しみたかった”って思ってるからでしょ?文化祭だけで解散しちゃうのが、寂しいからじゃないの?」
文化祭最終日の夕暮れ。
人気のなくなった校舎。
外された装飾。
静かになった教室。
誰もが経験したことのある、あの寂しさ。
「文化祭終了、即はいさよならで終わりたくないって思ってるから。みんなでお疲れ様って仲間で笑い合いたいから行くんでしょ?」
誰も口を挟まない。
生徒会室が静まり返る。
「どうせ毎年、各学年が、各クラスでバラバラになって盛り上がってる打ち上げを、全校生徒みんなでやろーよ!!」
その言葉に。
その場にいる全員の頭の中に、同じ光景が浮かんでいた。
文化祭の終わった校舎。
まだ帰りたくない生徒達。
笑い声。
達成感。
終わってほしくない時間。
「せっかく50周年なんだから!」
陽向は笑った。
「全校生徒みんなで!共通の特別な思い出、作ろうよ!!」
再び沈黙。
予算の問題。
安全面の問題。
学校側の許可。
そんなことは全員わかっていた。
それでも、なぜだろう。
不思議だった。
出来るかどうかじゃない。
これはもう、やるしかない。
気づけば、全員がそんな気持ちになっていた。
まるで。
陽向が見ている景色を、いつの間にか自分達も見せられてしまったみたいに。
「……ったく、言い出したら聞かねぇからな。」
最初に口を開いたのは横溝琉嘉だった。
「私、やりたいです!後夜祭!」
続いて雫が、パッと笑った。
「ダンスとかライブとか…そんなの、絶対楽しそうじゃないですか!」
目を輝かせる雫を見て、陽向の顔も一気に明るくなる。
「ねっ!ねっ!さすがしぃちゃん!わかってんじゃん!」
「はい!」
二人の声が重なった。
「しゃーないなぁ…一回企画書でも作ってみますかね。」
阿久津孝明がうーんっと背伸びをしながらため息をつく。
「俺、申請書作ります。」
書記の二年生、坂牧要も既にメモ帳を開いていた。
「目的、実施内容、スケジュール、必要人員……その辺整理して叩き台作ります。」
その言葉に何人かが頷く。
「じゃあ予算は私達だね。」
相田桜子が隣にいる同じ会計の一年生、工藤篤史へ視線を向ける。
「後夜祭やるなら、どのくらいお金掛かるか調べよっか。」
「はい!備品とか音響とか、必要そうなの全部洗い出してみます!」
相田桜子が優しく笑う。
一年生らしい真っ直ぐな返事に、生徒会室の空気も少し和らいだ。
「後夜祭の内容について、生徒達にアンケート取る?」
「そうっすね!せっかくなら全校から意見集めましょう。」
加賀優音が、広報担当らしく既に生徒側の反応を考えていた。
同じ広報の一年生、斎藤良輝もすぐに頷いた。
次々と具体的な案が飛び交う。
さっきまで『無理だろ』と言っていた空気は、いつの間にか消えていた。
気づけば全員が、“主体的に”自分の役割を探し始めていた。
「……決まりか。」
そんな役員達の姿に、顧問が嬉しそうにぼそりと呟く。
これまでの生徒会は。
何か企画が上がれば、生徒会長が素早く各役職へと的確な業務指示を出していた。
それが今では。
陽向は、航路を決めるだけ。
役員達は、それに応じてそれぞれの持ち場で自分達で船を動かしている。
それが、今の聖陵国際生徒会。
気づけば。
後夜祭について、誰も反対していなかった。
陽向が見せた景色を、一度見てしまったから。
「花火ー!花火やろーーー!!」
「予算、安全面、準備時間、全部無理。」
「えーーーーーー花火は絶対外せねぇ!!」
「お前はもう喋んな!!」
全校生徒で共有するたった一つの特別な思い出。
それはもう。
『出来るかどうか』ではなく。
『どうやって実現するか』の話になっていた。
────────。
一学期も、終盤を迎えていた。
息をつく間もなく放課後の校舎には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
この期間は、いつも騒がしい廊下も、今日は少し静かだった。
単語帳を片手に歩く生徒。
階段の踊り場で友達同士問題を出し合う声。
赤シート越しに必死に用語を睨みつける一年生。
窓の外では、夏を目前にした濃い夕焼けが校舎を赤く染めていた。
その中で。
高校三年生、一学期最大の山場。
──学期末テスト。
文系クラスへ進んだ陽向は、高三になってからというもの、人生に春が来ていた。
数学II、数学B、生物基礎、化学基礎。
高二まで自分を苦しめ続けてきた“理系科目地獄”から、ついに解放されたのだ。
なにせ陽向は、極端だった。
国語系科目は、高二の一年間を平均して学年トップを叩き出す。
古典は言うまでもなく無条件で大好き。
現代文なんて、もはや感覚で解いている。
記述問題では教師から「模範解答より人間味がある」とまで言われた事がある。
英語系科目も学年上位をキープしていた。
対して理系科目全般は。
赤点ギリギリ。
それも通級指導と俊輔指導の特別対応ありき。
平均点を取れたら生徒会室で拍手が起きるレベル。
そんな陽向にとって、“文系選択”は革命だった。
しかも今の陽向には、圧倒的なアドバンテージがある。
生徒会役員、三年目。
そして現在、生徒会長。
校内活動実績は十分すぎる。
指定校推薦。
その四文字は、今や陽向の心を支える最強の魔法だった。
(受験って、案外なんとかなるくない?)
そんな言葉すら、胸のどこかへ浮かび始めていた。
……その時までは。
立ちはだかっていた。
最後の敵。
政治経済。
「………………。」
日曜日、午後。
リビングのテーブルへ教科書と問題集を広げた陽向は、完全に停止していた。
テレビは消えている。
室内からは、レオが歩き回る爪音だけが響いている。
テーブルの上には、開いたままの演習問題プリント。
けれど陽向の視線は、そこから一ミリも進んでいない。
「…………え?」
ぽつり、と。
乾いた声が落ちた。
全く意味が、わからない。
陽向は、ゆっくり問題集を見下ろした。
市場経済。
金融政策。
国際収支。
デフレーション。
為替相場。
GDP。
ケインズ。
新自由主義。
カタカナ。
漢字。
知らない横文字。
知らない概念。
知らない世界。
「………………。」
脳が、理解を拒否していた。
いや待って。
これ、日本語……だよね?
え、高二でやった“公共”の進化系……だよね?
なんで急にこんな難しくなってんの?
陽向は、恐る恐る問題文を読み返す。
──政府が金融引き締め政策を行った場合……
「…………金融……?」
──為替変動が輸出産業へ与える影響を答えよ。
「…………為替……?」
──需要供給曲線を参考に……
「待って待って待って。」
陽向は、ついに両手で頭を抱えた。
「なにこの科目っっっ!!!!」
ガンッ!!
勢い余って、机へ額をぶつける。
意味がわからない。
いや、“言葉”は読める。
読めるけど、頭へ入ってこない。
文章を読んでるはずなのに、脳内で全部ただの記号へ変換されていく。
まるで暗号だった。
(え、これみんな本当に理解してんの……?)
陽向は、愕然とする。
数学みたいに「わからない」が明確じゃないのが、余計に恐ろしい。
解説を読んでも、“つまり何を言ってんの?”にしかならない。
世界史なら得意では無いが、頑張れば“物語”として流れで覚えられる。
情報なら生徒会役員の実務でそこそこ鍛えられてきた。
でも政治経済は違った。
知識と理解が、同時に必要。
しかも、“社会の仕組み”という、陽向が最も苦手なジャンル。
ルール。
制度。
数字。
論理。
全部、苦手。
「こんなの授業でやったっけ……」
その記憶はない。
陽向は、ぱたりと机へ突っ伏した。
そして、記憶を政治経済の授業中へと遡らせた。
(……ぐーーーーーーーーーーー。)
(…星野……おい、星野)
(…ふぁ…?)
(出席番号次だぞ。もうそろ当てられるから起きろ。)
(……え…あ……ありがと綾真………)
10秒後。
(………ぐーーーーーーーーーー………)
あ、先生の話し。
子守り唄だったわ。
「はぁ〜………」
机に突っ伏したまま、陽向の重たい溜め息が落ちた。
高三になってから、完全に油断していた。
理系科目が消えた瞬間、人生イージーモード突入だと思っていたのに。
まさかここへ来て、こんな伏兵が潜んでいたなんて。
窓の外では、夏の湿った夜風がカーテンを揺らしている。
静かなリビング。
問題集だけが、無慈悲に開かれたままだった。
その時だった。
ふと。
陽向の脳裏へ、ある記憶が浮かぶ。
──高二の定期テスト期間。
放課後の図書室。
“公共”のテスト勉強。
(円高って、“円の価値が高い”って意味だから…)
そう言いながら、俊輔は陽向のノートへ、さらさらと500円玉の絵を二つ描いた。
(例えば陽向が、500円でコンビニのアイス一本しか買えない日と、三本買える日だったら、どっちが“500円強い”と思う?)
そして、それぞれの500円玉の横へ、アイスの絵を一本、三本、と描き足していく。
(三本買える方!)
(そう。それが“円高”。)
俊輔はくすっと笑いながら、“500円玉+アイス三本”をぐるりと丸で囲んだ。
「高い=強い。つまり、円高は円が強い状態。」
その隣へ、“円高”と丁寧な字で書いてくれた。
(おぉ〜!円、最強っ!)
陽向の目が、一気に輝く。
すると俊輔は、そのまま今度は“アイス一本”の方へ、ペン先を移した。
(逆に一本しか買えなくなると、“円安”。つまり円が弱ってる。)
同じように、横に“円安”と書き込む。
(あー!!そーゆーことかー!わかったー!)
その瞬間の陽向の顔を見て、俊輔は柔らかく目を細める。
(なんかアイス食べたくなってきた)
(もう少しで範囲終わるから、最後まで集中出来たら帰りに、ご褒美で陽向の好きなアイス3個コンビニで買ってあげるよ)
(ガチ!?)
一瞬で、陽向の顔がぱぁぁっと明るくなる。
(わーい!俊ちゃん大好きーっ!!)
勢いのまま俊輔へ抱きつく。
俊輔は苦笑しながらも自然に腕を回して。
陽向を抱きしめ返し、そのままよしよしと頭を撫でてくれた。
その手の温かさ。
髪を撫でられるたび、安心してしまう感覚。
あの日、帰り道で食べたアイスの味。
アイスを片手に二人手を繋いで。
歩幅を合わせるみたいに、ゆっくり歩いた帰り道。
──ガンッ!!
「わーん!藤崎俊輔カムバックーーーー!!!!」
寂しさと絶望感に引き戻された陽向は、リビングのテーブルへ突っ伏した。
もう隣には、“陽向専用翻訳機”がいないという
この現実。
指定校推薦。
その四文字は、今の陽向にとって“希望”そのものだった。
生徒会活動。
行事実績。
校内で積み重ねてきた信頼。
三年間、必死に走り続けてきた時間。
それら全部を武器に出来る、数少ない進路。
だからこそ。
この、高三一学期末テストは重い。
重すぎる。
指定校推薦を勝ち取るには、評定が全てと言っていい。
一教科。
たった一つの赤点。
それだけで、一気に崩れる可能性だってある。
もし、ここで政治経済を落としたら。
もし、本当に赤点なんて取ったら。
──指定校推薦、終了。
その瞬間。
陽向の脳内で、“なんとかなるっしょ精神”が音を立てて崩壊した。
指定校が消えたら。
次は、総合型選抜と公募推薦。
でも。
もし、それすら通らなかったら。
一般入試となり、最悪の場合。
──共通テスト。
その単語が頭へ浮かんだ瞬間。
陽向の背筋を、ぞわりと悪寒が走った。
そこには当然、陽向にとって壊滅的な理系科目も試験に含まれる。
あの、自分を何度も絶望させてきた科目達。
高二まで、赤点ギリギリを俊輔と綱渡りしながら生き延びてきた“地獄”。
思い出すだけで胃が痛くなる。
そうなれば。
大学受験は…………終わる。
サァァァァァ………………
一瞬で、全身から血の気が引いた。
冷たいものが、背中を滑り落ちていく。
──ママに、刺される。
「ヤバイ。」
ぽつり、と声が漏れる。
死亡。
人生終了する。
ヤバい。
笑えない。
ヤバいヤバいヤバい。
これ、思ってたより全然ヤバい。
陽向の、脳内最悪シナリオ自動生成は、フル稼働。
静かなリビング。
カーテンがエアコンの風に揺れる。
レオがソファで寝息を立てる音が、小さく響く。
世界はいつも通りなのに、陽向の頭の中だけ崖崩れみたいに大惨事だった。
パニック状態の中で、ふと陽向は。
隣家の方角へ────視線を投げた。
(…政治…………経済………。)
脳内で、ある人物の顔が浮かぶ。
理系クラスも必修科目だよな……
将来、外資系のIT企業を志望してるよな………
為替とか、国際情勢とか、しっかり勉強してそうだよな……
そもそも、あいつは地頭が良いんだよな…………
絶望感で真っ暗だった陽向の脳内へ、突然、一筋の光が差し込む。
「………………。」
数秒後。
ガバッ!!
陽向は勢いよく立ち上がった。
椅子がガタンッ!!と音を立てる。
次の瞬間には。
教科書。
ノート。
問題集。
筆箱。
全部まとめて抱え込み、猛ダッシュで玄関へ向かう。
そして。
ピンポーーーーーン!!!!
ピンポンピンポンピンポンピンポーーーーン!!!!
藁にも縋る勢いで、隣家のインターホンを連打した。
そして。
その数分後。
「この通ーーーーーり!!どうか!!どうかお願いしますっ!!朔也様!!!」
陽向は、朔也の部屋の床へ頭がめり込む勢いで、全力土下座を決めていた。
「ざけんな!!」
ドンッ!!
朔也が苛立ったように机へシャーペンを叩き置く。
「俺だってテスト前なんだよ!!なんで自分の勉強時間削って、お前の世話しなきゃなんねーんだ!!受験生なのはお前だけじゃねぇっ!!」
「そこをなんとか〜〜〜そんな冷たいこと言わないで〜〜〜お願いします〜〜〜〜〜」
顔を上げた陽向は半泣きだった。
朔也の机の上には、開いたパソコン。
理系科目の問題集。
積み上がった参考書。
赤シート。
開きっぱなしの単語帳。
いかにも“受験生の部屋”という空気。
そのど真ん中で。
陽向だけが、異物みたいに騒がしかった。
「だいたい!もう明日からテストなのに、なんでこんなギリギリなんだよ!!」
朔也は額へ青筋を浮かべたまま怒鳴る。
「もっとタイミング早けりゃまだ考えたものの、俺だってこの期末は重要なんだから詰めたいに決まってんだろ!!」
「政経はテスト3日目だからなんとかなるって思ったんだよ〜〜〜3日間で助けてよ〜〜〜〜」
「無理。」
「ギャー!!見捨てないでー!!」
「知らん。」
朔也は冷たく言い放ちながら、再び問題集へ視線を落とす。
けれど陽向は諦めない。
なにせ、ここで見捨てられたら人生が終わる。
「必ず!!赤点回避できたら絶対お礼する!!」
「なんで俺が時間を割くのに対してのお礼がお前の赤点に掛かってんだよ!謝礼義務は指導契約成立したその瞬間から発生すんだよ!」
朔也が、心底呆れた顔で吐き捨てる。
「じゃ、じゃあ教えてくれたら赤点関係なしにお礼する!!」
「因みに何する?」
必死の陽向に対して、朔也は問題集に視線を置いたまま心底興味なさそうに答えた。
「えーっと…………ママに……大学決まるまでバイト禁止って……言われてるから………」
じわじわ追い詰められながら、陽向は視線を逸らした。
「お金かからないお礼!」
朔也は、椅子へ深く座り直しながら。
「ほー?」
じろりと陽向を見る。
「お前が金を掛けずに、俺に何を差し出せんだ?」
「………………。」
陽向、沈黙。
考える。
必死に考える。
でも、なにも出てこない。
朔也はそんな陽向を数秒眺めたあと、すっと視線を逸らした。
「はい。帰れ。」
「待ってーーーー!!!!」
ガシッ。
陽向は、机へ向き直ろうとしていた朔也の腕へ、両手で勢いよくしがみついていた。
「な、何でもするよ!」
陽向は、縋りつくみたいに朔也の腕を抱え込み、そのまま必死の顔で見上げていた。
「1ヶ月間、朔也の言う事なんでもきく!!」
柔らかい髪が肩へ落ちる。
焦りで潤んだ瞳。
必死の形相で見上げてくる。
その距離は近い。
その行動は、ズルい。
「な…何でも……って…?」
絞り出した声は、自分でも驚くくらい揺れていた。
朔也の鼓動は、徐々に大きく脈を打つ。
「何でもだよ!パシリする!」
陽向は、ぎゅっと朔也の腕へ力を込めた。
「朔也に何を言われても、何をされても!絶対拒否らないし文句も言わない!」
「な…っ!!!」
その瞬間。
朔也の心臓が、ドクンッ!!と大きく脈打った。
(何言ってんだこいつ……っ!!)
その衝撃的な台詞は、あまりにも朔也の心を揺さぶった。
それは即ち。
朔也にとって。
好きな子を、奴隷化出来る権利。
(…何を………されても………?)
言うことを聞く陽向。
逆らわない陽向。
困った顔で見上げてくる陽向。
一瞬浮かびかけた、あまりにも背徳的思考を。
(だーーーーーーーーーーっっっっ!!!!)
自ら一瞬で掻き消した。
違う違う違う違う。
落ち着け。
考えるな。
それ以上は本気でダメだ。
理性が、全力で非常ベルを鳴らしている。
「…だから……っお願い………!」
真っ直ぐに見つめてくる瞳から目が逸らせない。
陽向がしがみつく腕が熱い。
心臓が、おかしいくらいに暴れている。
どうして毎回、そうやって無防備に急所を抉ってくるのだろうか。
「〜〜〜〜〜っっっ」
そして朔也は。
折れた。
「……1ヶ月間、絶対だからな。」
観念したみたいに、低く呟いた。
その瞬間。
「ほんと!?」
陽向の顔が、ぱぁぁぁっ!!と一気に明るくなる。
その笑顔を見た瞬間。
朔也は、心の底から思う。
……くそ、負けた。




