第118話 負けさせられた、一流の侍
「勝者!!聖陵国際高校ッ!!!!」
ドッッッッッッッ────────!!!!!!
体育館が、割れんばかりの歓声へ包まれる。
「うおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
「津堅ァァァァァ!!!!」
「聖陵初のベスト8だァァァァァ!!!!」
「やべぇぇぇぇぇ!!!!」
咲は手すりに掴まりながら崩れるように泣いていた。
「……蒼太ぁ…っ……うぁーん……」
陽向はそんな咲の肩を組みながら、拳を上げていた。
「いえーーーー!!!!蒼太最強ーーーーっ!!!」
「…凄い…っ本当に……凄いです…津堅先輩……っ!」
雫も瞳に涙を浮かべ、感動に胸を振るわせていた。
観客席が揺れる。
絶叫、拍手、悲鳴みたいな熱狂。
その全てが、まるで遠かった。
有元大毅は、試合場の中央で静かに立ち尽くしていた。
汗が、顎先からぽたりと落ちる。
荒い呼吸。
握った竹刀だけが、僅かに震えていた。
(……格が……………違う…………。)
わかっていた。
津堅蒼太から勝ちを奪う事が、どれほど困難な事か。
勝敗を大将戦へ持ち込めば終わる。
代表戦になれば、なおさら厳しい。
そんな事は最初から理解していた。
だからこそ。
確実に。
絶対に。
トーナメントの“勝ち”だけを取りに行った。
皇辰学園の歴史を守るために。
伝統を守るために。
最も勝率の高い道を選ぶために。
オーダーを変えた。
津堅蒼太という無敗の怪物を避け。
副将戦で勝負を決める。
それが最善手だった。
実際、その考えは間違っていなかったはずだ。
聖陵国際は、これまで何度もベスト16で止まってきた。
津堅蒼太は脅威だった。
だが、それ以外は違う。
そう思っていた。
シナリオは完璧だった。
何が間違っていた。
どこで狂った。
面の奥で、有元は静かに目を閉じる。
そして。
脳裏へ浮かんだのは───
副将戦。
汗だくになりながら。
何度叩き潰しても。
何度押し込んでも。
それでも前へ出続けたあの執念。
(……黒川……朔也…………つ…)
静かに、奥歯が軋む。
大将戦で津堅に二本取られる事も。
代表戦になれば津堅が一本奪う事も。
想定出来ていた。
だが。
ただ一つだけ。
想定出来なかったのが。
あの一本。
一流の皇辰学園主将である、この俺から。
黒川朔也が、もぎ取った一本。
あの瞬間だった。
完璧だったはずの計算が全て狂わされた。
津堅へ繋がった一本。
代表戦へ繋がった一本。
あの一本で。
皇辰学園の勝利は、崩された。
津堅蒼太に負けた。
それは実質。
黒川朔也に、“負けさせられた”んだ。
「整列ッ!!!」
審判の鋭い号令が、熱狂する体育館へ響き渡る。
ハッと。
有元は顔を上げた。
歓声が残る試合場。
その中央へ。
聖陵国際と皇辰学園。
両校のレギュラーメンバーが、静かに歩み出していく。
副将同士だった二人は、再び向かい合った。
黒川朔也。
有元大毅。
勝てなかった。
負けさせられた。
両者互いへ、その無念の大きな喪失感を抱えたまま。
「礼ッッッ!!!!」
無表情で、礼を交わした。
やがて礼を終えた選手達は、それぞれの控えスペースへ戻っていく。
聖陵国際高校、控えスペース。
蒼太は面を外し、大きく息を吐いた。
額に張り付いた前髪をかき上げながら、朔也へ視線を向ける。
蒼太の顔を見たその瞬間。
じわ…っと、朔也の瞳に涙が滲んだ。
「泣いてんのか?」
「…っ泣いてねぇよ」
掠れた声だった。
強がっているのは誰が見ても明らかだった。
蒼太は責める事も茶化す事もせず、ただ穏やかに笑う。
「泣いてくれよ。お前の為に頑張ったんだから。」
「………っ」
その瞬間だった。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
堪えていた涙が、溢れる。
ぽろり、と。
一粒。
そして、もう一粒。
朔也は慌てて涙を拭う。
負けた悔しさも。
届かなかった苦しさも。
全部、自分の中へ押し込めるつもりだった。
けれど。
蒼太のその一言だけで。
全部、崩れてしまった。
蒼太は、泣き崩れる朔也の肩を組んだ。
ただ、黙って。
その肩を、静かに摩った。
───ありがとう。
伝えきれないその想いだけが、朔也の胸に溢れていた。
観客席も、その光景を見ていた。
「あらら…朔也泣いちゃった」
咲は止まらない涙を拭いながら、鼻を啜って笑った。
「嬉しいですよね。津堅先輩が仇を取ってくれて」
雫は手すりに肘をつきながら頬を抑えて、「泣いてる黒川先輩もかっこいー♡」と小さくこぼした。
「………………。」
陽向は、静かにその光景を見つめていた。
脳裏へ浮かぶのは、あの日の夕焼け。
(必ずベスト8決定戦まで勝ち進んで、その副将戦で… ……俺、絶対勝つから!)
茜色の空を背に、真っ直ぐこちらを見つめていた強い瞳。
夜遅くまで、誰もいない公園の隅で。
汗だくになりながら、何度も何度も竹刀を振っていたあの背中。
今、蒼太の肩に顔を伏せて涙を零している朔也の姿が、陽向の胸を締め付けた。
あの涙は、きっと勝利の喜びだけじゃない。
陽向は、そっと唇を噛む。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
皇辰学園、控えスペース。
試合を終えた部員達が、静かに集まってくる。
面を外した有元の髪は汗で濡れていた。
まだ試合の熱気が身体の奥に残っている。
誰も口を開かない。
悔しさ。
喪失感。
言葉に出来ない感情だけが、その場に重く沈んでいた。
やがて有元は、静かに顔を上げる。
「……皇辰学園はベスト16に終わった。」
低い声だった。
けれど、その場にいた全員が自然と背筋を伸ばす。
「この経歴の傷。その敗因は、他でもなく俺にある。」
部員達の肩が小さく震えた。
有元は、真っ直ぐ前を見据えたまま続ける。
「副将戦で勝敗を決める事が絶対条件だった。副将戦で、黒川朔也に取られた、あの一本。」
空気が張り詰めた。
誰も顔を上げられない。
有元は、後輩達一人ひとりを見渡した。
「俺が皇辰の歴史に泥を塗ったあの瞬間を、脳裏に焼き付けろ。」
低く。
鋭く。
「絶対に忘れるな。」
その瞳には、敗北から目を逸らさない強さがあった。
「黒川朔也に取られたあの一本を胸に刻んで、その悔しさを抱えたまま竹刀を振れ。」
有元は言い切る。
「そして来年の都大会で、必ず全国大会への切符を掴め。」
沈黙。
その次の瞬間。
「……はい……っ」
掠れた返事が漏れる。
「すいません……っ、部長……っ」
涙を堪えきれない者もいた。
引退となる三年レギュラーも。
後輩部員達も。
全員が悔しさに顔を歪めていた。
有元は、小さく息を吐く。
「来年、必ず強くなれ。」
そして。
静かに言った。
「敗北の歴史を、お前達の功績で塗り替えろ。」
「「「はいッ!!!!」」」
その声は、敗者の声ではなかった。
次へ進む者達の声だった。
有元は、素早く踵を返す。
向かう先は、聖陵国際高校控えスペース。
勝利の余韻に包まれた場所。
その中で。
有元は、一人の男の前で立ち止まった。
「黒川朔也。」
「……!」
朔也が顔を上げる。
赤くなった目。
泣いた跡を隠し切れていない顔。
有元は、真っ直ぐその瞳を見据えた。
「お前が俺から取った一本が、聖陵国際を勝利へ導いた。」
静かな声だった。
けれど、一切の誤魔化しはなかった。
「副将戦に負けただろうが、その一本だけは、誇っていい。」
空気が止まった。
朔也の喉が、小さく震える。
そして。
「…………うるせぇ、馬鹿野郎。」
掠れた声で吐き捨てた。
その返事に。
有元は、フッ…と口元を緩めた。
踵を返す。
もう振り向かない。
敗北を言い訳にもしない。
悔しさから逃げもしない。
真っ直ぐ前だけを向いて歩いていく。
その背中は──まるで敗者には見えなかった。
ただ静かに。
ただ潔く。
侍のような背中だった。
聖陵国際剣道部は確かに一つ上の景色へ辿り着いた。
悲願の東京都ベスト8。
彼らは次の戦いへ進むも、その代償は決して小さくなかった。
副将戦で全てを出し尽くした朔也は、もう限界だった。
有元との死闘に注ぎ込んだ気力も、精神も、十八年間抱え続けてきた想いも。
あの副将戦へ、残らず置いてきてしまったようだった。
だからこそ蒼太は決断した。
これ以上、朔也へ敗北を背負わせないために。
そして何より。
陽向の前で、これ以上傷つく姿を見せないために。
ベスト4決定戦。
試合場に立ったのは、朔也ではなく控え選手だった。
その判断に、朔也は何も言わなかった。
もう戦えない事を、自分自身が一番よくわかっていた。
試合場へ向かう仲間達の背中を見送りながら、ただ静かに拳を握り締める。
その横顔には、不思議なほど穏やかな諦観が滲んでいた。
蒼太は最後まで主将として戦い続け、大将戦では強豪大将相手に勝利を掴み取る。
だが、それでも届かなかった。
あと一歩及ばず、聖陵国際高校はベスト4決定戦で敗退した。
三年生にとって最後の都大会。
聖陵国際剣道部は、学校史上初となるベスト8という結果を刻みながら、その幕を静かに閉じた。
────────。
体育館の正面玄関。
ガラス張りの自動ドアの前に、陽向達はいた。
六月の夕方。
西日に照らされたガラス壁が橙色に染まり、アスファルトの上には長い影が伸びていた。
玄関前には同じように選手を待つ保護者や友人達が集まっている。
その時。
ウィーン、と自動ドアが開いた。
防具袋を肩に掛けた剣道部員達が数人、ぞろぞろと姿を現す。
見覚えのあるジャージ。
聖陵国際の部員達だった。
「あ!お疲れ様です!」
「お疲れー!」
雫と咲の明るい声が飛ぶ。
その中心には蒼太がいた。
防具袋を肩に掛けたまま立ち止まった蒼太へ、咲が勢いよく飛びつく。
「ちょーかっこよかったー♡」
「お、おい咲…!」
抱きつかれた蒼太は少しだけ困ったように笑った。
照れ臭そうに頭を掻く姿に、周囲の部員たちからも笑いが漏れる。
その光景を見ながら、陽向も自然と頬を緩めた。
そして、視線をさらに奥へ向ける。
肩に防具袋。
左手には竹刀袋。
その姿を見つけた瞬間、陽向の足が自然に前へ出る。
朔也が顔を上げた。
目が合う。
陽向は立ち止まり、スッ…と両手を広げてた。
「………………ハグしたろか?」
咲の腕で迎えられた蒼太をなぞるように。
少しだけ顎を上げて。
少しだけ偉そうに。
笑った。
「…………っ」
朔也は、胸がぎゅっと締めつけられた。
押し込めたはずの感情が、一瞬で胸の奥から溢れそうになる。
その痛みを、誤魔化すように。
逃げるように。
強がるように。
朔也は、フイッと視線を逸らした。
そして。
そのまま陽向の隣りへ腕を伸ばして──
ぎゅ──っ
「お前の慰めなんか、いらねーよっ!」
朔也は雫を抱きしめた。
「…………っっっ!?!?!?」
突然抱き締められた雫は、完全に思考が停止した。
身体が硬直する。
目だけが大きく見開かれる。
なにが起きたのか。
理解が追いつかない。
「えっ!?ちょっ!?えっ!?!?」
顔を真っ赤にしながら大混乱する。
「可愛いくないやつ!」
と陽向が叫ぶ。
朔也は雫をパッと解放すると、そのまま陽向の頬をむにっとつねる。
「可愛くないのはお前の変顔だ!」
「お前の変顔も大概だ!」
「お前の変顔のせいで負けた!」
「先に中指立てたのはそっちだ!」
ぎゃあぎゃあ。
わあわあ。
さっきまで涙を流していた男とは思えないほど騒がしい。
いつもの二人だった。
そのやり取りを見ながら、蒼太は小さく笑う。
咲も吹き出した。
雫だけが、まだ顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
「本当、うるせぇなお前ら……」
蒼太が呆れたように笑う。
「これ以上朔也の顔なんか見たくもないわ!」
「お前の面も金輪際勘弁だよ!」
蒼太はそんな二人に肩を竦めながら。
「じゃあお前ら飯行かねーの?」
その一言で。
「行く行くー!」
「行くに決まってんだろ!」
二人の声が綺麗に重なった。
思わず咲が吹き出す。
そして続けて言った。
「だってベスト8だよ!?聖陵史上初っしょ!?しかも今日引退なわけだし!!」
咲がパンッと両手を叩いた。
「高校最後の大会の、祝勝会しなきゃ!揉めてる場合じゃないから!」
「早く行かねーと。週末の飯時なんて席が──」
蒼太が言いかけたその時だった。
「部長ーーーー!!」
「今日で引退なんですから、写真撮りましょう!!」
「黒川先輩も!!」
「今日の副将戦マジで泣きました!!」
「先輩達帰らないでください!!」
「寧ろ引退しないでください!
後輩達が一斉に駆け寄ってくる。
防具袋を抱えたまま。
目を赤くしたまま。
本気で寂しそうな顔をしながら。
そんな姿に、蒼太はふっと優しく笑った。
「はは、だな。いいよ」
蒼太と朔也は後輩達に囲まれ、次々と写真を撮られていく。
すると今度は。
「あ、いたいた!!」
明るい女子の声。
振り向けば、聖陵剣道部女子達がスマホを握りしめて駆け寄って来る。
「津堅先輩っ!!写真お願いします!!」
「黒川先輩も!!」
「今日で先輩達、引退なんで!!」
さらに。
「すみません!」
別方向から声が飛んだ。
見れば、他校の女子生徒達まで集まってきていた。
「皇辰戦見てました!」
「津堅先輩めちゃくちゃかっこよかったです!」
「写真いいですか!?」
「黒川先輩の裏面もヤバかったです!」
「副将戦めっちゃ泣きました!」
あっという間に人だかりが出来上がった。
まるで小さな撮影会だった。
「あー…」
咲が苦笑する。
「これはしばらく解放されなさそう」
「だね。」
陽向も肩を竦めた。
その時。
「おーい!」
人混みの向こうから蒼太が大きく手を振った。
「悪い!先に行って適当に店探しててくんない?」
「えー!」
陽向が不満そうな声を上げる。
「黙って席取っとけ!」
「うるせぇパーカ!」
相変わらずの応酬。
その様子に周囲が笑う。
「しゃーない。じゃあ行こっか」
「うん。」
咲と陽向が、夕焼け色の屋外へ向かって歩き出す。
その背中へ。
「今日はありがとうございました!」
弾むような声が飛んだ。
二人が振り返る。
そこには、背筋を伸ばした雫が立っていた。
「生徒会長も一ノ瀬先輩も、大変お世話になりました。」
そう言って、ぺこりと深く頭を下げる。
その瞬間だった。
「………っ!」
ピンッ!と、陽向の頭の中で何かが繋がった。
(そうだ………!)
会場へ向かう途中、雫と話していたことを思い出す。
(今度、ご飯とか誘ってみたらー?)
(いや!!無理ですよ!!絶対無理無理っ!!)
「えー?行けると思うけどなぁ……まずは3人で行く?)
(いいんですかっ!?)
あの時の、ぱっと明るくなった雫の顔。
陽向は、何の迷いもなく口を開いた。
「一緒に行かないの?」
雫は目を瞬かせた。
「……え……?」
思考が止まる。
まさかの予想外な言葉だった。
「でも……私、3年生じゃないのに………」
遠慮がちに呟く。
すると陽向は、隣の咲へ顔を向けた。
「えー?そんなの気にしなくていいよね、咲。」
「うん。全然いいっしょそんなの」
咲はあっさり頷く。
そして。
陽向は、玄関のガラス扉から差し込む夕陽よりも眩しい笑顔を浮かべた。
「さっき、約束したでしょ!」
雫は、小さく首を傾げる。
「…約束…………?」
陽向は、いたずらっぽく肩を竦めた。
「3人でご飯行こうって。人数増えちゃったけど、まーそこは良いっしょ?」
その言葉が胸へ落ちた瞬間。
「…………っ」
雫の胸に、じわっと何かが込み上げる。
どうして、この人は────────。
こんなにも温かくて、眩しいのだろう。
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
眩しくて、真っ直ぐ見られない。
陽向は笑った。
そして、当たり前みたいに手を差し出す。
「ね!だから、一緒に行こう!」
夕陽の光を受けたその手が、ひどく温かそうに見えた。
雫はぎゅっと唇を結ぶ。
溢れそうになる感情を堪えながら。
そっと、その手を取った。
「……っ、はい!」
返事と一緒に零れた笑顔は、自分でも驚くほど嬉しそうだった。




