第117話 人生を賭けた、勝利の一本。
代表戦へもつれ込んだ、東京都ベスト8決定戦。
観客席は、未だざわめいていた。
礼を終えた選手達は、それぞれ自校の控えスペースへ戻っていく。
聖陵国際高校、控えスペース。
「津堅。このまま行けるな?」
顧問の低い声。
蒼太は、面を脇へ抱えたまま真っ直ぐ頷いた。
「はい。」
迷いのない即答だった。
顧問は、小さく息を吐きながら続ける。
「ここまで来たら、もう勝ちは見えてる。……とは言え、相手は皇辰の有元だ。」
その名を口にした瞬間、周囲の空気が僅かに張り詰める。
皇辰学園絶対的エース。
副将戦で、朔也をあと一歩で追い詰めた男。
「一筋縄では行かないだろうから、気を抜くな。」
「はい。」
蒼太は、静かに返事をした。
そのまま、ふと視線を横へ向ける。
「………………。」
そこには、朔也がいた。
面を外したまま。
濡れた前髪を額へ張り付かせ。
ただ一点だけを見つめるように、黙り込んでいる。
いつもの軽薄そうな空気は、どこにもない。
ふざけた事も言わない。
笑いもしない。
ただ静かに。
まるで、魂だけ試合場へ置いてきてしまったみたいに、虚空を見つめていた。
よっぽど、悔しかったのだろう。
朔也がこれまで、どれだけこのベスト8決定戦の副将戦に魂を注いできたかを知っている。
“どうしても、勝ちたかった”
その悔しさが、言葉なんかなくても痛いほど伝わってきた。
蒼太は、ぎゅっと拳を握り締める。
これはもう、自分一人の勝負じゃない。
朔也が、死にもの狂いでもぎ取った一本。
その執念ごと、代表戦へ繋がっている。
だからこそ。
絶対に、ここで無駄には出来なかった。
────────。
一方、その頃。
皇辰学園、控えスペース。
「……有元……申し訳ない………」
戻ってきた瞬間だった。
大将戦を務めた部員が、深く頭を下げる。
悔しさと情けなさが滲んだ声。
汗で濡れた道着が、小さく震えている。
有元大毅は、面を外したまま静かにそれを見下ろしていた。
低い声が、静かに落ちる。
「……津堅が、あそこで担いだ瞬間。俺なら小手を打ちに行った。」
「……っ……」
大将部員の肩が、びくりと揺れた。
有元の視線は鋭いまま、続ける。
「担ぎ技は、使う側にとって相手へ隙を作るリスクになる。お前は、防御だけに集中したばかりに、フェイントの隙を見落とした。」
淡々と。
だが、一切の甘さなく。
「…………すみません。」
俯いた声が、掠れる。
だが有元は、怒鳴らなかった。
責め立ても、しない。
ただ静かに、現実だけを突きつける。
それが、この男の強さだった。
「この経験を糧にしろ。お前はこれで一つ、強くなったはずだ。」
有元は、真っ直ぐ言い放つ。
「次のベスト4決定戦では、同じ失敗を繰り返すな。」
その瞬間。
俯いていた部員達が、ハッと顔を上げた。
そして、有元は静かに続ける。
「その切符は、必ず取る。」
低く。
だが、力強い声だった。
敗北の空気に沈みかけていた皇辰学園剣道部へ、再び熱が戻る。
「……はいっ!!」
大将が、強く返事をした。
周囲の部員達も、ゆっくり顔を上げる。
まだ終わっていない。
この敗北で終わるつもりなど、誰もなかった。
皇辰学園の控えスペースへ、もう一度静かな闘志が灯っていく。
「それでは───代表戦を行います。」
場内アナウンスが、熱を帯びた体育館へ響き渡った。
ざわっ───……。
その瞬間。
観客席の空気が、一気に揺れる。
代表戦。
団体戦で決着がつかなかった時にのみ行われる、一騎打ち。
先に一本奪った学校が勝者。
負けた瞬間、そこで全てが終わる。
東京都ベスト8決定戦。
聖陵国際高校 vs 皇辰学園高校。
ついに、完全決着の時が訪れた。
「代表選手、前へ。」
審判の声に、両校の控えスペースから、二つの影が静かに立ち上がる。
聖陵国際高校主将───津堅蒼太。
皇辰学園高校主将───有元大毅。
会場のざわめきが、一気に熱狂となる。
「うわ……マジで津堅と有元だ……」
「このカード見れるとかヤバーーー!!!!」
「実質、全国レベルだろこれ!!」
既に他のブロックのベスト8決定戦は終わっている。
他校の剣道部員達は軒並み集まり、息を呑みながら試合場を見下ろしていた。
その観客席の中で。
「蒼太ーーーーーっっっ!!!!」
陽向が、手すりへ身を乗り出していた。
「ぶっちめろーーーー!!!!殺せーーーーっ!!!!クソ有元吊し上げろーーーーーーっ!!!!」
「生徒会長っ…!!ガラ悪すぎですよっ!!」
雫が、慌てて陽向の腕を引っ張る。
咲なんて、もう完全に頭を抱えていた。
「陽向っ!!輩じゃないんだから!応援が治安悪いって!」
「だってあいつムカつくんだよ!!本当は大将のくせに朔也に舐めプしようと副将戦に下がってきやがって!!!叩き潰せーーー!!!蒼太ーーーー!!!」
陽向は、興奮したまま拳を振り上げる。
その声は、周囲の他校生達まで若干引かせていた。
「聖陵の生徒会長って…ヤンキー…?」
「…あそこら辺…可愛いなって思ってたのに…」
「いや、俺は結構刺さる。あーゆうの。逆に。」
そんなざわめきすら、もう耳へ入っていなかった。
試合場中央。
蒼太と有元が、向かい合う。
蒼太は、微動だにしない。
面の奥。
鋭く細められた瞳だけが、真っ直ぐ有元を射抜いている。
最初から素直に。
正々堂々、こいつが大将戦に挑んで来さえすれば。
朔也は副将戦で勝てていたはずだ。
朔也がさっきの試合で見せた、あの気迫があれば。
相手が有元でさえなければ。
絶対、負けてなんかなかった。
(….お前の相手は……最初から俺だったはずだろ…)
逃げやがって。
戦歴に傷をつけたくなかったか。
己の体裁の為に、仲間を“捨て駒”にしたのか。
どんな手を使ってでも、“三勝”が欲しかったのか。
そんな卑劣なやつに、“朔也の覚悟”が潰された。
それは陽向への。
十八年間の覚悟だったんだ。
(絶対に…許さねぇ。)
腹の底から煮えたぎるような闘志が。
熱く燃える魂が。
握りしめた竹刀に全て注がれていた。
一方の有元もまた、静かに竹刀を構えた。
汗が、顎先からぽたりと床へ落ちる。
二人の間だけ、空気が違った。
まるで。
そこだけ温度が消えたみたいに、張り詰めている。
副将戦。
大将戦。
その全てを経て。
最後に残ったのは───
絶対的主将同士。
本物の怪物と怪物だけだった。
二人が竹刀を構えた瞬間──────
「…………。」
スーッ───と。
会場が静まり返る。
誰も、喋らない。
観客席。
控えスペース。
審判ですら。
全員が、息を止めている。
そして。
「始めェェェッ!!!!」
審判の号令が、雷みたいに炸裂した瞬間。
──ダァァァンッ!!!!!!!!
両者が、同時に床を爆ぜさせた。
開始と同時に蒼太と有元、両者が一気に間合いを潰す。
「ッッッ!!」
観客席の空気が、震えた。
速い。
そんな言葉じゃ、生ぬるい。
踏み込み。
間合い。
剣先。
全部が、一瞬で噛み合っていた。
──パァァァンッ!!!!
初撃。
真正面から、竹刀同士が激突する。
火花が散りそうな衝撃。
「メェェェェンッ!!!!」
有元の豪速の面が襲う。
速い。
鋭い。
一切の無駄がない。
だが。
──パァンッ!!!!
蒼太が、捌く。
真正面から受けない。
竹刀を滑らせるみたいに、最小限の動きで軌道だけを外す。
そのまま。
──パンッ!!!!
「コテェェェェッ!!!!」
蒼太の小手。
有元は、反射みたいな速度で竹刀を締めた。
防ぐ。
流す。
崩れない。
けれど。
面の奥で、有元の瞳が揺れる。
(速すぎる…!)
流石、全国大会出場経験者。
津堅蒼太の攻撃は、あまりにも高速だった。
間一髪。
本当に、ギリギリ。
しかも、一打一打が重過ぎる。
竹刀越しに、腕の芯まで響いてくる。
ただ速いだけじゃない。
踏み込みも、圧も、打突の重さも、全てが別格だった。
でも——
ここで、負けるわけにはいかない。
ベスト8は最低ラインだ。
目標は、全国大会出場。
これまで何度も全国大会出場を果たしてきた皇辰学園が。
これまで培ってきた功績に。
歴史に。
伝統に。
俺の代で泥を塗るなんて。
そんなこと、絶対に許されない。
有元は、奥歯を噛み締める。
そして次の瞬間。
──ダンッ!!
有元が、半歩滑る。
胴。
低い軌道。
死角を抉るみたいな一撃。
咲は思わず両手で顔を覆う。
(……っ!!)
怖くて怖くて。
速すぎて、見えないのに。
打ち合っているのに。
一本も入っていないのに。
緊迫感が尋常じゃない。
一撃ごとに、空気が裂けている。
(…蒼太……お願い…!)
咲の全身から、冷たい汗が止まらない。
──パァンッ!!!!
「ドォォォォォッ!!!!」
蒼太が、防ぐ。
そのまま流れるように身体を捌き、真正面へ戻る。
止まらない。
──ダァンッ!!!!
今度は蒼太。
真正面から振り下ろされる面。
有元の竹刀が、僅かに揺れる。
だが。
──パァンッ!!!!
「メェェェェェンッ!!!!」
受け流された。
面金を滑らせるみたいに。
力を殺す。
軌道を逸らす。
けれど。
(……っ)
有元の奥歯が、ぎり……っと軋む。
津堅蒼太は、脅威そのものだった。
受け流している。
捌いている。
それでも、一撃ごとの圧力が重い。
ほんの少しでも遅れれば、喉元を断ち切られていた。
津堅蒼太は公式戦無敗。
トーナメントでチームが負けても、大将戦に×がついた事はこれまで一度たりともない。
それは、どんな強豪校の大将相手でも。
誰一人、津堅から勝ちを取った事は無い。
それでも。
対戦相手は、“聖陵国際”。
ベスト8決定戦は聖陵国際の鬼門だ。
過去歴代ベスト16以下止まりで、ここの壁を越えられない聖陵国際の歴史は、皇辰学園と格が違う。
津堅以外は、剣道界では名も無い選手の集まりだ。
そんな、津堅一人頼りでここまでのし上がって来たような連中に。
下級の剣道部に。
一流の皇辰学園が、こんなところで潰されてたまるか。
(一本さえ取れば……!)
一本の先取り。
たった一本。
あと一歩、それだけで皇辰学園の功績は守り抜ける。
この一本は。
古豪皇辰学園剣道部、主将としてのプライドだ。
有元の瞳が、鋭く細まる。
その瞬間にはもう次。
有元の剣先が、閃光みたいに跳ねる。
──パンッ!!!!
「コテェェェェェッ!!!!」
蒼太が、紙一重で引いた。
掠める。
ほんの数センチ。
遅れていたら、終わっていた。
蒼太の瞳が、静かに細まる。
(……鉄壁かよ…っ)
打っても。
打っても。
打っても。
有元は、崩れない。
面。
小手。
胴。
全部、防ぐ。
いや。
防いでいるんじゃない。
打たせている。
打たせて。
捌いて。
その起こりを狩る。
攻防一体。
その瞬間。
脳裏へ、浮かんだ。
先ほど控えスペースで、虚空を見つめていた朔也。
面を外したまま。
何も言わず。
ただ、魂だけ試合場へ置いてきたみたいな顔をしていた。
誰よりも。
あいつは、この副将戦へ全部を懸けていた。
ベスト8で勝って。
その先で。
ようやく、陽向へ想いを伝えるつもりだった。
十八年間。
ずっと隣にいたくせに。
何度も逃げて。
何度も誤魔化して。
それでも結局、あいつの人生の中心には、ずっと陽向がいた。
その全部を。
あいつは、あの舞台へ叩き込んだ。
それなのに。
(……く……っ……)
蒼太は、ぎり……っと奥歯を噛み締める。
もし、このまま勝ち抜いて。
ベスト4の戦いへ進んだとしても。
きっと…………もう朔也は戦えない。
朔也抜きで、この先を勝ち抜くなんて到底無謀。
聖陵国際は、ここで終わる。
そんな事は、蒼太自身が一番よくわかっていた。
それでも。
(この一本だけは……絶対、取らなきゃならねぇ……!)
この一本は。
朔也が十八年間の人生を賭けた一本だから。
「っ……!」
陽向が、ぎゅっと手すりを掴む。
(絶対勝って…朔也の仇を打ってよ…!蒼太…っ!)
苦しい。
息が、出来ない。
どっちも、一歩も引かない。
一本。
ただ、その一本だけへ全てを注ぎ込んでいる。
(普通に打っても獲れねぇ。)
有元の防御は、“構え”じゃない。
中心そのものだった。
(なら。)
蒼太の剣先が、スッ…と沈む。
「……っ!?」
有元の瞳が、揺れた。
構えが違う。
剣先の位置。
重心。
踏み込み。
その瞬間。
何かが変わった。
有元の本能が、警鐘を鳴らす。
(…まずい…!)
胴か…っ!
咄嗟に有元が僅かに竹刀を下げた。
次の瞬間。
──ダァァァンッ!!!!!!
蒼太が、踏み込んだ。
床が、悲鳴みたいな音を立てる。
そして。
ズドンッッッッッッッ!!!!!!!!
喉元を、射抜くような鋭い──
突き。
「っ───!!?」
有元の身体が、止まった。
仰け反ったわけじゃない。
違う。
呼吸が、止まった。
(…突き………だと……………?)
中心を、割られた。
防御でも。
攻撃でもない。
身体そのものを、一瞬“縫い止められた”感覚。
(……っ!!)
有元が、咄嗟に竹刀を締める。
だが。
遅い。
その刹那。
──ダァァァァァンッ!!!!!!
蒼太が跳ねた。
床を爆ぜさせる踏み込み。
沈んでいた重心が、ジャンプするように一気に跳ね上がる。
まるで黒い弾丸だった。
これは朔也が十八年間の人生で重ねた想いの、覚悟を賭けて繋いだ──
勝利の一本。
──ズバァァァァァァァンッ!!!!!!
振り抜かれた竹刀が、真正面から天を裂く。
「メェェェェェェェンッ!!!!!!」
完璧だった。
真正面。
王道。
一切の迷いなく。
蒼太の面が、有元の面を真っ二つに叩き割った。
「っ───!!!」
有元の身体が、大きく流れる。
遅れて。
白旗。
白旗。
白旗。
三本。
一斉に、天へ突き上がった。
「面ありィィィィィィィッ!!!!」
次の瞬間。
「勝負ありィィィィィィィィィッ!!!!!!」
ドッッッッッッッッ────────!!!!
体育館が、崩壊した。
「うおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」
「津堅ァァァァァ!!!!」
「突き面ーーーーーーーーッッッ!!!!!」
「なんだ今の!!!!」
「中心割ったァァァァァ!!!!」
「怪物!!!!」
「やっべぇぇぇぇぇぇ!!!!」
歓声。
絶叫。
悲鳴みたいな熱狂。
観客席が、揺れる。
その中心で。
蒼太だけが、静かだった。
残心を取り。
微動だにしない。
荒くもない呼吸。
揺るがない剣先。
その姿は、まるで。
“剣そのもの”だった。




