第116話 剣士の風上
「礼ッ!」
張り詰めた試合場へ、審判の声が鋭く落ちる。
有元大毅と朔也は、互いに深く礼を交わした。
汗が、ぽたりと床へ落ちる。
体育館の熱気は、まだ肌へまとわりつくように重い。
観客席のざわめき。
遠くで続いている別試合の気合い声。
竹刀がぶつかる乾いた音。
その全ての中で──副将戦を終えたこの試合場だけが、異様な熱を残していた。
先鋒 × 0-2
次鋒 ◯ 1-0
中堅 △ 0-0
副将 × 1-2
ここに来て、両校の取得本数差は二本。
つまり。
次の大将戦で、聖陵国際が勝ち抜く条件はただ一つ。
───津堅蒼太が、“二本勝ち”すること。
一本勝ちでは届かない。
二本勝ちで引き分けられる。
二本奪わなければ即敗退。
一見すれば、圧倒的に優勢なのは皇辰学園だった。
だが─────
焦っていたのは、皇辰学園の方だった。
これは、オーダー変更をしてまで避けたかった想定外の事態。
大将戦まで、勝敗を持ち込む事。
「無理に一本取ろうとしなくていい。とにかく防御に徹しろ。死んでも二本取られるな。」
有元は、待機スペースへ戻るなり、大将の部員へ低く言い渡した。
面を外した顔には、まだ激闘の熱が残っている。
呼吸は荒い。
だが、その目だけは鋭く冷えていた。
「……うす。」
皇辰の大将が、小さく頷く。
有元は、汗で濡れた前髪をかき上げながら、静かに続けた。
「一本負けまでで耐え切れば、それで勝ちだ。」
低い声。
だが、その奥には確かな警戒が滲んでいた。
“死んでも二本取られるな”。
その意味を、皇辰学園の部員達は痛いほど理解していた。
もし二本取られれば。
取得本数は並ぶ。
そして試合は引き分けとなり、代表戦へもつれ込む。
一騎打ち。
先に一本奪った学校が勝者となる、完全決着。
そしてその場合、延長戦で有元が再び向き合わなければならない相手は──────
津堅蒼太。
高校入学後、公式戦無敗。
聖陵国際高校剣道部、絶対的主将。
皇辰学園は、その展開だけは避けたかった。
だからこそ。
朔也が死にもの狂いで有元からもぎ取った“あの一本”は、聖陵国際の首の皮一枚。
大将戦へと勝敗を繋いだギリギリの勝機となってしまい。
それがあまりにも重かった。
「……………。」
力なく、朔也は待機スペースへ戻る。
汗で濡れた道着。
乱れた呼吸。
まだ痺れる右腕。
負けた。
あと一歩、届かなかった。
その現実だけが、じわじわと胸の奥へ沈んでいく。
蒼太は、朔也を見なかった。
ただ真っ直ぐ。
試合場だけを見据えたまま、低く口を開く。
「お前が撃ち取った一本は大きい。」
静かな声だった。
けれど、その言葉には確かな熱があった。
「俺が二本勝ちして……必ず。」
そして。
蒼太は、皇辰の待機スペースに立つ有元大毅を真っ直ぐ見据える。
鋭く。
獰猛に。
「有元大毅を引きずり出して、ぶちのめす。」
「……………。」
朔也は、何も言わなかった。
ただ黙ったまま、面を外そうと手をかける。
指先に力が入らない。
悔しさが、喉の奥を焼いていた。
その時だった。
「大将ッ!!」
審判の鋭い声が、張り詰めた試合場へ落ちる。
その瞬間。
体育館の空気が、変わった。
ざわついていた観客席が、すう……っと静まり返っていく。
遠くで聞こえていた別試合の気合い声すら、どこか遠のいた気がした。
津堅蒼太。
その名前だけで、空気が研ぎ澄まされる。
蒼太は、静かに立ち上がった。
面を持つ手。
竹刀を握る指。
歩幅。
呼吸。
その全部に、無駄がない。
ゆっくり。
けれど、一歩ごとに。
まるで“絶対”が試合場へ歩いていくみたいだった。
観客席。
「…蒼太…お願い……っ」
咲が、ぎゅっと両手を握りしめて息を呑む。
さっきまでの朔也の試合とは、また違う。
熱じゃない。
気迫でもない。
もっと静かで。
もっと深くて。
──底知れない。
そんな怖さがあった。
試合場中央。
皇辰学園の大将も、静かに竹刀を構える。
額には汗が滲んでいた。
(……死んでも……二本取られるな……)
有元の言葉が、頭の中で反響する。
一本負けまでならいい。
とにかく耐えろ。
凌げ。
時間を使え。
そうすれば…………勝てる。
それなのに。
向かい合った瞬間から、本能が警鐘を鳴らしていた。
(……やばい……)
目の前の男は、危険だ。
静かなのに。
微動だにしていないのに。
竹刀の切っ先が、まるで喉元へ突きつけられているみたいな圧迫感を放っている。
「……礼ッ!!」
両者が、深く礼を交わす。
構える。
静寂。
誰も、息をしていなかった。
全員の視線が、大将戦へ注がれている。
そして───
「始めッッ!!!!」
審判の声が、炸裂した瞬間。
──ダァンッ!!!!
床が爆ぜた。
「っ!?」
皇辰大将の瞳が、見開かれる。
速い。
そう認識した時には、もう遅かった。
蒼太の踏み込みは、一歩目から間合いを破壊していた。
──パンッ!!!!
小手。
皇辰大将の竹刀が、僅かに浮く。
「っ……!!」
崩された。
そう理解した瞬間には、もう遅かった。
止まらない。
流れるように。
呼吸をするみたいに。
蒼太の身体が、音もなく深く踏み込む。
──ズバァァァンッ!!!!
「ドォォォォォッ!!!!」
完全だった。
あまりにも、一瞬だった。
小手を打たれた認識すら終わらないうちに、もう胴を斬り裂かれていた。
白旗。
白旗。
白旗。
一斉に、天へ突き上がった。
「胴ありィィィィッ!!!!」
ドッッッッッ───!!!!
歓声が、爆発した。
「うおおおおおおおっ!!!!」
「小手胴ーーーーー!!!!!」
「はっや!!!!」
「なんだ今の!!!」
「小手から胴まで一瞬だったぞ!?」
「津堅えぐすぎ!!」
観客席が揺れる。
他校の剣道部員達すら、立ち上がっていた。
皇辰学園側は、言葉を失っている。
「……は……?」
誰かが、呆然と呟いた。
ありえないほど、速すぎた。
構え合った。
開始した。
──その直後には、もう一本入っていた。
それくらい圧倒的だった。
試合場中央。
蒼太だけが、静かだった。
残心。
微動だにせず。
ただ真っ直ぐ前を見据えている。
まるで、“当然だ”と言わんばかりに。
(──まずい……っ!!)
皇辰学園の空気が、目に見えて変わった。
ざわ……っ、と。
張り詰めていた応援席へ、焦りが波紋みたいに広がっていく。
“あと一本取られたら、代表戦”
その現実が、じわじわと全員の喉元を締め上げていた。
試合時間は、まだ残っている。
残り三分。
たった三分。
けれど───
(こんなやつに……三分も耐えろって言うのかよ……っ!)
皇辰の大将は、息を呑んだ。
目の前に立つ津堅蒼太は、あまりにも怪物だった。
静かなのに、怖い。
叫びもしない。
感情を剥き出しにしているわけでもない。
なのに。
竹刀を向けられているだけで、首元へ刃を突きつけられているみたいな圧迫感がある。
一歩、踏み込まれるだけで。
次の瞬間には、斬られている気がした。
(……っ……)
喉が、ひりつく。
本来、この大将戦は“捨て駒”のはずだった。
副将戦で決着をつける。
だからこそ。
この試合へ回ってくる頃には、勝敗はもう決まっている予定だった。
なのに。
聖陵国際の副将──黒川朔也が、有元から一本をもぎ取った。
そのたった一本が。
皇辰学園を、崖っぷちへ立たせている。
“死んでも二本取られるな”
有元の低い声が、脳裏で反響する。
(……死んでも……耐え切るしかねぇ……っ!)
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
竹刀を構える。
深く、息を吐く。
焦るな。
前へ出るな。
一本を狙う必要なんてない。
守れ。
耐えろ。
凌ぎ切れ。
それだけでいい。
そう、自分へ言い聞かせる。
汗が、顎先からぽたりと床へ落ちた。
体育館の熱気が、じっとりと肌へまとわりつく。
観客席のざわめき。
遠くで鳴る別試合の打突音。
全部が、やけに遠い。
視界の中心には、ただ一人。
津堅蒼太だけが立っていた。
「始めッ!!」
審判の声が、鋭く落ちる。
その瞬間。
──ダァンッ!!!!
再び。
蒼太が、床を爆ぜさせた。
空気が裂ける。
踏み込みと同時に、一気に間合いを潰す。
迷いは、一切なかった。
(一瞬で終わらせてやる……!)
蒼太の瞳が、鋭く細まる。
──パァンッ!!
「メェェェェンッ!!」
真正面から振り下ろされる鋭い面。
だが。
「っ……!!」
皇辰の大将は、咄嗟に竹刀を合わせた。
──ギリギリ…ッ!!
火花が散りそうな衝撃。
そこから、更に。
──パァンッ!!
「ドォォォォォッ!!」
間髪入れず飛んでくる胴。
低い踏み込み。
重い圧力。
しかし皇辰は、半歩。
身体を逃がすように下がった。
紙一重で防ぐ。
「っ……はぁ……っ……!」
呼吸が乱れる。
汗が、面の内側を伝った。
強い。
あまりにも。
けれど。
それでも、皇辰の大将は崩れなかった。
“捨て駒”。
そう割り切られて送り出された立場だとしても、ここまで勝ち残ってきた強豪校のレギュラー。
打突の見切り。
反応速度。
防御技術。
どれも、一流だった。
下がる。
逃げる。
真正面から打ち合わない。
試合場を、円を描くみたいに動き続けながら、徹底して時間を削っていく。
まるで。
泥臭く、生き延びるためだけに。
──ダンッ!!
蒼太が踏み込む。
皇辰大将は、また逃がす。
──パァンッ!!
防ぐ。
下がる。
距離を切る。
観客席から、ざわめきが漏れた。
「皇辰、完全に逃げ回ってる……」
「いや、でも今はそれが正解だろ……!」
「一本負けまで耐えれば勝ちなんだから……」
体育館全体が、異様な空気へ包まれていく。
蒼太は、奥歯を噛み締めた。
(……く……っ)
このまま追い続けても、相手は徹底して逃げる。
それなら。
蒼太の目が、静かに細まった。
(……返しで終わらせる。)
次の瞬間。
ふっと。
蒼太が、攻めを止めた。
「……っ?」
皇辰大将の瞳が揺れる。
今まで絶え間なく襲いかかってきた圧力が、わずかに緩んだ。
蒼太は、構えたまま微動だにしない。
剣先だけが、静かに相手を射抜いている。
“打ってこい”
そう言っているみたいだった。
一本を狙って前へ出てきた瞬間。
その起こりを、返し技で刈り取る。
蒼太は、待っていた。
だが───
(……?)
皇辰大将は、動かなかった。
距離を取ったまま。
竹刀を構えたまま。
じり……っと慎重に間合いを測り続けている。
攻めてこない。
一本を取りに来ない。
ただ、ひたすら。
“時間だけ”を使っていた。
その瞬間。
蒼太は、全てを悟った。
(……どこまで……姑息だよ……っ)
静かに。
胸の奥で、怒りが燃え上がる。
剣と剣を交えれば。
そこは、敵から一本を奪うための場所だ。
気迫をぶつけ。
技を競い。
魂ごと叩き込む。
それが、剣道だ。
一本への執念。
勝負への覚悟。
そのために、皆ここまで血が滲むほど竹刀を振ってきた。
なのに。
目の前の相手は、それを捨てた。
一本を取りに来ない。
勝負をしない。
ただ、“試合に勝ち進む”ためだけに。
真剣勝負から逃げて。
プライドを捨てて。
誇りも、剣士としての矜持も投げ捨てて。
泥みたいに、時間だけを稼いでいる。
蒼太の瞳が、すう……っと冷えた。
怒鳴りもしない。
感情を荒げもしない。
けれど。
その静かな怒りだけが。
試合場の空気を、じわりと焼き始めていた。
(そんなに防御がしたいなら───)
ただ時間だけを削り取り、“負けない事”だけへ全てを注いでいる剣。
そんなの。
──剣士の風上にも置けねぇ。
──ダァァンッ!!!!
床が、爆ぜた。
「っ!!」
蒼太が、一気に間合いを潰す。
皇辰の大将の身体が、反射で強張る。
(来る…っ!)
また、あの圧倒的な踏み込み。
一瞬で喉元を断ち切るような打突。
そう本能が警鐘を鳴らした瞬間───
蒼太の竹刀が、大きく振りかぶられた。
「…………っ!!」
左肩。
異様な軌道。
真正面へ振りかぶるはずの剣先が、一瞬視界から消える。
皇辰大将は反射で、竹刀を中央へ引き寄せていた。
面、小手。
そこを塞ぐために。
防御へ意識を集中させる。
次の瞬間。
「──だめだっっ!!!!!」
有元大毅の叫びが雷みたいに炸裂したと、同時に。
(……え?)
担いだ竹刀が、外側から一気に振り抜かれた。
──ズバァァァァァァァンッ!!!!
「メェェェェェェンッッッ!!!!」
右側面。
防御の外側。
完全に空いたその一点を、蒼太の竹刀が真正面から撃ち抜いた。
防御のため上がった竹刀。
開いた面。
崩れた重心。
全部。
最初から、蒼太は見えていた。
皇辰大将の身体が、大きく流れる。
遅れて。
白旗。
白旗。
白旗。
三本。
一斉に、天へ突き上がった。
「面ありィィィィィッ!!!!」
そして。
「勝負ありィィィィィィッ!!!!」
ドッッッッッッッ───!!!!!
体育館が、崩壊したみたいな歓声へ包まれる。
「うおおおおおおおおおっっっ!!!!」
「津堅ァァァァァ!!!!」
「担ぎ面だァァァァァ!!!!」
「やっっっっべぇぇぇぇぇ!!!!」
「フェイントで防御釣りやがった!!!!」
「皇辰から二本取ったァァァァ!!!!!」
地鳴りみたいな歓声。
割れんばかりの拍手。
観客席が総立ちになる。
他校の剣道部員達すら、息を呑んでいた。
その中で。
皇辰の大将は、面の奥で肩を震わせている。
呼吸は乱れ、汗が顎先からぽたりと床へ落ちた。
完全に、圧倒されていた。
その時。
蒼太が、ゆっくりと竹刀を下ろす。
そして。
「……敵はお前じゃねぇ。」
鋭く。
静かに。
獣みたいな目で。
「本物の大将、出してこい。」
ドンッと落ちたその一言だけで。
皇辰学園側の空気が、ピリ……っと張り詰める。
自分が倒すべき相手は、最初からただ一人。
有元大毅。
その宣戦布告だった。
「……嘘……だろ……」
皇辰学園側は、完全に凍りついていた。
耐えればよかった。
守り切ればよかった。
そのはずだった。
なのに。
“防御だけ”へ意識を寄せた、その一瞬を。
津堅蒼太は、真正面から狩り取った。
試合場中央。
蒼太だけが、静かだった。
微動だにしない。
荒くもない呼吸。
揺るがない剣先。
その姿は、まるで。
「…………怪物かよ……」
誰かが、呆然と呟く。
二本勝ち。
それも、強豪・皇辰学園相手に。
絶対的エース・有元大毅が繋いだ勝負を。
真正面から、たった一人でひっくり返した。
観客席。
「……っ……!!」
咲の胸が、大きく脈打つ。
「蒼太……っ……!」
咲は、涙ぐみながら口元を押さえている。
熱い。
苦しい。
息が、出来ない。
さっきまで朔也の試合でいっぱいだった心が。
今度は別の熱で、ぐらぐら揺れていた。
「蒼太ーーーっ!!!かっこいーーーー!!!!」
陽向は興奮して、雫に抱きつきながら跳ねている。
そして。
待機スペース。
「っしゃああああああああっっ!!!!」
聖陵国際剣道部が、一斉に爆発した。
「代表戦だァァァァァ!!!!」
「部長ーー!!!えぐすぎる!!!!」
「担ぎ面で狩りやがった!!!!」
「マジで無敗の怪物!!!!」
歓声。
絶叫。
熱狂。
その中心で。
朔也だけは、静かに試合場を見つめていた。




