第99話 隣の席の君が、帰ってきた
三年四組。
今日から、自分の居場所になる新しいクラス。
教室へ足を踏み入れた瞬間、ざわめきが一気に耳へ流れ込んできた。
「同じクラスじゃん!」
「え、ガチ!嬉しい!」
「まじで担任誰だろ〜!」
あちこちで弾ける笑い声。
机を引く音。
椅子の脚が床を擦る音。
教室全体が、落ち着かない熱を帯びていた。
陽向はそんなざわめきの中、黒板に貼り出された座席表へ向かった。
「陽向ー!おはようー!」
陽向の元へ、すぐに数人の女子が駆け寄ってきた。
「今年陽向と同じクラスでめっちゃあがったー!」
「それな!私もめっちゃあがったよっ!」
陽向は、手を叩き合いながら友達とはしゃぐ。
新しい出席番号。
その文字列を目で追いながら、自分の出席番号を探していく。
「えーと…21番…21番………」
「陽向の席どこ?」
「あった!ここだ!」
見つけた瞬間、小さく息を吐いた。
「え、私と近いじゃん!」
「ガチ?席どこ?」
その時。
キーンコーンカーンコーン────────。
予鈴が校舎中へ響き渡る。
教室内に散らばっていた生徒たちが、一斉に動き始めた。
その流れに混ざりながら、陽向も自分の席へ向かう。
机の上にドサッとスクールバッグを置く。
“またここから始まるんだ”と、ぼんやり思った、その時だった。
「え?」
「はっ!?」
隣の席へやってきた男子生徒と、ほぼ同時に声が重なる。
「綾真じゃんっ!」
そこに立っていたのは、一年二組でかつて同じクラスだった鷹井綾真だった。
少し驚いたみたいに目を見開いたまま、綾真も陽向を見る。
「星野……え、また隣?」
呆然とした声。
二年前。
高校へ入学して、一番最初に座った席。
右も左もわからなかった春の日。
緊張でいっぱいだった教室で、二人は隣の席だった。
昇降口でクラス編成表を見た時、“同じクラスだ”とは思った。
でも、まさか。
もう一度、隣になるなんて。
「やば、ウケんだけど!」
陽向が、パッと笑う。
「綾真とまた同じクラスとか、めっちゃ嬉しいなぁー!」
ドクン───
心臓が、大きく脈打った。
春の光を跳ね返すみたいなその笑顔。
ころころ変わるその表情。
感情がそのまま声になったみたいなその明るさ。
二年前と、何も変わっていない。
いや——違う。
前よりもっと、綺麗になっていた。
無邪気なのに。
子どもっぽいのに。
そうやって無自覚に、心臓を持っていく。
その笑顔を真正面から浴びた瞬間、綾真の呼吸が一瞬だけ止まる。
胸の鼓動が、やけにうるさい。
戸惑いが、一気に押し寄せる。
手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
同じクラスになっただけ。
隣の席になっただけ。
なのに。
胸の奥が、落ち着かない。
その瞬間。
ガラッ───
「はーい、おはようございまーす!」
教室の扉が勢いよく開いた。
一気にざわめきが弾ける。
「わぁー!みゆき先生だぁー!」
「やったー!」
「え、神じゃん!」
教室中から歓声が上がる。
その空気に混ざって、陽向も嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。
「えガチ!?みゆき先生担任!?」
楽しそうに手を叩いて笑う横顔。
春の光を浴びて、髪がふわりと揺れる。
綾真は、その横顔を見つめたまま動けなかった。
(……まじか…………)
胸の奥が、嫌なほど騒がしい。
そして——
新しいホームルームが、静かに始まった。
一年前。
二年生になって、クラスが離れた春。
(……星野。お前……もう俺を、頼んな。)
藤崎俊輔と付き合った彼女への想いに、胸が張り裂ける想いで蓋をした。
藤崎俊輔の隣で笑う、星野陽向。
その光景を見た瞬間に、もう勝てないとわかってしまったから。
眩しかった。
あまりにも、お似合いだった。
生徒会で並ぶ姿も。
廊下で自然に名前を呼び合う距離感も。
二人の目が合った瞬間にほどける笑顔も。
全部が、完成されていた。
そこに、自分の入る隙なんて、どこにもなかった。
だから諦めた。
諦めるしかなかった。
(……もうこれ以上、好きになるな。)
何度も、何度も、自分に言い聞かせた。
それなのに——
星野陽向は、何も変わらなかった。
廊下で会えば、「あ、綾真ー!ねー聞いて!」と当たり前みたいに話しかけてきて。
選択授業で隣になれば、昨日読んだ漫画の話をして。
友達がどうとか、先生がどうとか、今日の購買がどうとか。
本当に、どうでもいい話を。
楽しそうに。
嬉しそうに。
屈託なく笑いながら。
自分の胸の中にあるものなんて、彼女は何一つ知らないで。
その無邪気さが、苦しかった。
藤崎俊輔の隣で、幸せそうに笑う彼女を見るたび。
胸の奥で燻り続ける熱を、どうすることも出来なかった。
消えない。
忘れられない。
諦められない。
そのまま、一年間。
綾真は、“何もなかったふり”を続けてきた。
そして迎えた、三年生の春。
幸か、不幸か。
本日再び、隣の席になってしまった。
窓から吹き込む春風が、ふわりとカーテンを揺らす。
新しい教科書の匂い。
騒がしいクラスの笑い声。
ざわめきに満ちた新学期の教室。
そのすぐ隣で。
星野陽向が、いつものように笑っている。
(……俺に……どうしろっつーんだよ……)
せっかく閉じ込めたはずだった。
もう届かない恋だと、痛いほど理解して、やっと蓋をしたはずだったのに。
ホームルームが終わった瞬間。
星野陽向は、当たり前みたいにこちらへ身体を向けてきた。
「てか綾真さー結構背伸びた?一年の時より座高たかくね?」
明るい声。
ころころ変わる表情。
春の日差しを跳ね返すみたいな笑顔。
どうしようもないほど、近すぎる。
こっちがどれだけ苦しくて。
どれだけ必死で距離を取ろうとしていたかなんて。
きっと、こいつは何も知らない。
だから綾真は、わざと切り込んだ。
これ以上、期待したくなかった。
浮かれたくなかった。
また、“手が届くかもしれない”なんて思ってしまう前に。
自分で、自分を止めたかった。
「卒業して…その後藤崎先輩とは順調?」
なるべく自然に聞いたつもりだった。
でも、声が少し硬かった。
当然、と思っていた。
春休みもずっと一緒にいて。
受験から解放された藤崎俊輔と、いつも幸せな時間を過ごしていたんだろうって。
疑う余地なんて、なかった。
それなのに——
「あー……先輩、海外に引っ越しちゃったから、別れちゃったんだよね」
「…………っっっ!!?」
少し困ったように笑いながら、あまりにもサラッと告げられた───
衝撃の事実。
春のざわめきが、遠のく。
教室の笑い声も。
椅子を引く音も。
窓の外で舞う桜も。
全部が、急に膜の向こう側へ消えていく。
ただ、その言葉だけが。
頭の中で、何度も反響した。
別れた。
別れた?
藤崎俊輔と——?
「……え…………まじ……?」
自分でも情けないくらい声が裏返った。
心臓が、暴れている。
ドクン、ドクン、と。
胸の内側を叩き壊すみたいに脈打っている。
鳥肌が、一気に腕を駆け上がった。
その瞬間。
頭の中で、祝福のファンファーレが鳴り響いた。
(っっっっしゃああぁぁぁぁぁ………!!!!)
叫びたかった。
ガッツポーズしたかった。
机を叩きたかった。
今すぐ校庭10周したいくらい嬉しかった。
でも、そんなこと出来るわけがない。
必死で、喉に力を込める。
込み上げたものを、無理やり押し殺す。
顔が緩む。
駄目だ。
抑えろ。
今ここで喜んだら普通に人として終わってる。
けれど——
胸の奥で、死んだはずの何かが、一気に息を吹き返していく。
熱い。
苦しい。
嬉しい。
怖い。
全部が、一気に押し寄せる。
「なんか綾真が隣の席とか……」
星野陽向がこちらを向いた。
「一年の入学したての頃、思い出すねっ!」
ドクンッ────────。
世界が一瞬止まった。
ふわぁ…っと向けられた。
満開に咲いた花のような──眩しい笑顔。
キラキラキラキラ〜ッと、綾真の視界を直撃した。
(……来た。)
一年生の頃の記憶が一気に蘇る。
いつも二人で笑い合っていた休み時間。
喋り過ぎて怒られた授業中。
そして………あの時の、お家デート。
(………来た……来た……!!)
一年前。
届かないまま、散った恋。
諦めたはずの想い。
でも——
“隣の席の君”が、帰ってきた。
窓から吹き込んだ春風が、陽向の髪をふわりと揺らした。
その横顔が、あの日と同じように春の光に包まれていた。
一度散った桜は季節を巡り——再び、咲いた。
今度こそ。
今年こそ。
あんな想いは、二度と味わいたくない。
絶対に、後悔だけはしたくない。
こうして綾真の恋は、リスタートを切った。
────────。
陽向は、始業式を終えたあと、一人で生徒会室へ向かっていた。
昼前の校舎には、新学期の浮ついた空気がまだ残っている。
新しい教科書を抱えた生徒たち。
昇降口へ向かって駆けていく足音。
「あ、またあとでLINEするねー!」なんて笑い声。
午前中だけで終わる始業式の日特有の、どこか中途半端で、落ち着かない春の時間。
その中を、陽向は静かに歩いていく。
足を進めるたび、胸の奥が少しずつ重くなった。
もう、“あの頃”とは違う。
放課後になるたび自然と集まっていた生徒会室。
慌ただしく書類を抱えて走り回った日々。
怒られて、笑われて、泣いて、助けられて。
その中心には、いつも先輩たちがいた。
騒がしくて、温かくて。
青春の全部みたいな時間が、確かにそこにあった。
その記憶が、胸の奥を静かに締めつける。
やがて、生徒会室の扉が見えてきた。
陽向は、その前でほんの少しだけ立ち止まる。
小さなプレート。
使い込まれた木の扉。
何度も開け閉めしてきたはずなのに、今日は妙に遠く感じた。
もう、自分はここに来る側の人間じゃない。
その事実が、春の空気に溶けるみたいに、じわじわ胸へ広がっていく。
そして——
ガラッ。
静かな音を立てて、扉を開けた。
「おぉ、星野。」
室内には、すでに餅田先生がいた。
ブラインドの隙間から、昼前の明るい光が細く差し込んでいる。
紙の匂い。
ホワイトボードに残った文字。
積み上がった資料。
何も変わっていない。
「悪いな、新学期早々。」
「……いえ……」
陽向は、小さく返事をしながら、生徒会室を見渡した。
その瞬間。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
ここには——
先輩たちの温もりが、残りすぎている。
生徒会長の席。
俊輔がよく座っていた場所。
資料を片手に穏やかに笑っていた横顔。
疲れたみたいに机へ突っ伏していた姿。
自分の名前を呼ぶ声。
笑い声が、今にも聞こえてきそうだった。
(星野、また書類ぐちゃぐちゃ)
(ポンコツすぎるでしょ)
(俊ちゃんちょっと助けてー!)
そんな何気ない日常が、まだこの部屋の空気の中に残っている気がする。
陽向は無意識に唇を噛んだ。
餅田先生は、正面の席を軽く掌で示した。
「まぁ、座って」
「……はい」
陽向は静かに椅子へ腰を下ろした。
パイプ椅子が、小さく軋む。
向かい合う形になると、妙に緊張した。
餅田先生はいつも通り無愛想で、ぶっきらぼうで。
けれど今日は、その空気の奥に少しだけ違うものが混ざっている気がした。
「俺は星野が今期、生徒会を降りた事について、とやかく言うつもりはない。」
低い声が、静かな部屋に落ちる。
「受験生だし、星野のキャパシティの狭さもわかるし。昨年度の三年生が卒業してしまった今、不安があるのも正直わかる。」
「………はい……」
陽向は視線を落とした。
あまりにも大きすぎた背中が、もうここにはない。
先輩たちがいたから頑張れた。
先輩たちがいたから、何度失敗しても立ち上がれた。
そんな先輩たちがいない今…………自分はきっとどうする事も出来ない。
その現実が、ずっと胸の奥に重たく沈んでいる。
餅田先生は、そんな陽向を見ながら、小さく息を吐いた。
「……でも。」
餅田先生の一言で、陽向は顔を上げる、
窓の外の桜を一瞬だけ見てから、餅田先生は静かに言った。
「藤崎が、卒業前に話してた事をな……一応、星野にも伝えるだけ伝えようと思う。」
胸が、ドクンと跳ねる。
「……俊ちゃんが……話してた事……?」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
その名前は、今でも簡単に陽向の心を揺らす。
餅田先生は、少しだけ言葉を探すみたいに沈黙してから、ゆっくりと口を開く。
窓の外では、春風に揺れた桜が、ひらひらと花びらを散らしていた。




