第98話 全面突破!大輪のサクラ咲く
新学期────────。
今日から、高校三年生。
高校生活、最後の一年間が始まる。
始業式の日。
陽向は、高校の正門をくぐった。
春の光が、校舎の白い壁をやわらかく照らしている。
アプローチ広場の両脇には、満開の桜。
風が吹くたび、淡い花びらが空を舞って、まるで季節そのものが祝福しているみたいだった。
昇降口の前では、クラス編成表の掲示を囲む人だかり。
あちこちで名前を呼ぶ声が飛び交う。
笑い声。
ざわめき。
新学期特有の、少し浮き足立った空気。
何もかもが、“いつも通り”だった。
陽向はその中を、一歩ずつ歩いていく。
アスファルトを踏みしめるたび、桜の花びらが靴先に触れて、ふわりと離れていく。
春の風が、制服の裾を揺らした。
ふと、陽向は顔を上げる。
視界いっぱいに広がる、満開の桜。
青空の下、薄桃色に咲き誇る花々は、今年も変わらず綺麗だった。
何も、変わらない。
毎年咲く桜も。
着慣れた制服も。
見慣れた校舎も。
このアプローチ広場も。
去年と、同じ。
一昨年と、同じ。
それなのに。
──彼が、いない。
その事実だけが、世界からぽっかりと切り取られたみたいに、不自然だった。
どうしても、現実味が湧かない。
今にも後ろから、あの穏やかな声が聞こえてきそうで。
『陽向。おはよう』
振り返れば当たり前みたいにそこにいて、優しく笑いながら嬉しそうに髪を撫でてくれる気がして。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
陽向は小さく唇を噛んだ。
二年前の春。
窓の外には満開の桜が咲き乱れる図書室で、初めて出逢った。
一年前の春。
同じく満開の桜の頃に、お互いの想いを通わせた。
静かな本棚の向こう。
柔らかな春の光の中で見つけた、あまりにも綺麗な人。
あの日から、世界は変わった。
そこから季節をふたつ、越えてきた。
そして今。
再び、桜は満開を迎えている。
舞い上がった花びらが、陽向の肩へそっと落ちた。
胸の奥に沈めていた寂しさが、静かに波打つ。
もう、当たり前みたいに図書室へ行っても、彼はいない。
生徒会室にもいない。
廊下にも、教室にも、帰り道にも。
どこにも。
そう思った途端に。
どうしようもなく、会いたくなった。
喉の奥が熱くなる。
視界の奥が、じわりと滲みそうになった——その瞬間。
「おい、ひな!」
春の空気を、鋭い声が切り裂いた。
陽向は、はっと顔を上げる。
風が吹く。
舞い上がった桜の花びらが、青空へ吸い込まれていく。
春の空は、どこまでも青かった。
泣きそうな感情なんて、全部見透かした上で。
まるで、“前を向け”と言われているみたいに。
「ボケッと突っ立ってねーで、さっさと歩けよ」
朔也は、何事もないみたいな顔で、雑に言葉を投げてくる。
その声音には、気遣いなんて欠片も滲んでいない。
「君は……日本の風情を味わおうという気が微塵もないのかね」
陽向は、わざとらしく肩を竦めながら返した。
少し掠れた声を隠すみたいに。
「そんなもんいつだって暫く咲いてんだろーよ」
朔也は興味なさそうに鼻を鳴らす。
「俺は早くクラスが気になるんだよ!時間のある放課後とか休み時間に好きなだけ堪能しやがれ」
「….はいはい、わかったよ」
駆け足で、朔也の隣へ向かう。
並んだ肩。
歩幅。
聞き慣れた足音。
「桜なんて、毎年咲くだろ。」
何気ないみたいに。
朔也が、ぽつりと零した。
その一言が、陽向の胸に静かに落ちる。
寂しくても。
苦しくても。
胸が引き裂かれそうでも。
春が来る度に、それでも桜は必ず咲く。
「うん。そうだね。」
陽向は前を向いて、真っ直ぐ答えた。
卒業。
終わりを迎える恋。
そこから踏み出す恋。
進学。
訪れる出会い。
新しい恋。
春は、恋の季節。
桜の花びらが、二人の間をすり抜けていく。
昇降口が、少しずつ近づいてくる。
すると——
「あ、陽向ー!朔也ー!おはよー!」
明るい声が、空気を弾けさせた。
そこには、昇降口の人だかりの中から手を振り、駆け寄ってくる咲と蒼太。
朝の光の中で笑うその姿は、やけに眩しかった。
「おはよー!」
陽向も、思わず声を弾ませる。
「ねー最悪ー!陽向とクラス離れたんだけどーー!!」
咲が半泣きみたいな顔で叫ぶ。
「えぇっ!?ガチ!?」
陽向が目を丸くすると、咲はそのまま勢いよく腕に抱きついてきた。
「わーん!やだやだやだぁ〜!無理ー!!」
制服越しに伝わる体温。
騒がしい声。
大袈裟なくらいのリアクション。
その全部が、いつも通りで。
陽向の胸の奥に溜まっていた重たいものを、少しだけ軽くしていく。
「えー、まじかぁ。流石に3年連続同じクラスは無いかぁ……」
苦笑しながら呟いた、その時。
「え、蒼太と俺同じクラスじゃん!」
突然、クラス編成表を見上げる朔也の声が弾けた。
「そうなんだよ!良かったな!」
蒼太も嬉しそうに笑う。
昇降口前の空気が、一気に賑やかになった。
誰かが笑って。
誰かが騒いで。
新しいクラスに一喜一憂して。
春の始まり特有の、少し浮ついた熱が、校舎中を満たしていく。
終わったものは、確かにある。
戻れない時間もある。
でも——
新しい季節は、もう始まっていた。
────────。
昇降口の喧騒を背にして、陽向は足早に廊下を進んでいた。
新学期独特の浮き立つ熱気が、校舎中に満ちている。
けれど今の陽向には、そのどれもが少し遠かった。
胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。
歩くたび、上履きの音が廊下に小さく響く。
窓の外では、春風に煽られた桜がひらひらと舞っていた。
廊下の突き当たり。
見慣れた「職員室」のプレートが視界に入る。
自然と足が速くなる。
(……落ちてても暴れないでね)
図書室で、少し困ったみたいに笑っていた横顔。
思い出した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
陽向は、小さく唇を噛む。
大丈夫。
絶対、大丈夫。
彼が落ちるわけがない。
そう思っているのに。
喉の奥が、どうしようもなく熱かった。
ガラッ——
陽向は勢いよく扉を開いた。
職員室独特の空気が、一気に流れ込んでくる。
紙の匂い。
コーヒーの香り。
プリントをめくる音。
電話の呼び出し音。
たくさんの教師たちが行き交うその空間は、いつも通り忙しそうだった。
「おはようございます!えっと……」
そう言いかけた瞬間。
一人の教師が陽向の姿を視界に捉えた瞬間、すぐに椅子を引いて立ち上がった。
「用事があるのは、俺だよな? 星野。」
穏やかな声。
歩み寄ってきたのは、昨年、俊輔の担任だった若林先生だった。
「あ、そうです! 若林先生! なんでわかったんですか?」
息を切らしながら聞くと、若林先生は少しだけ笑った。
「……藤崎に言われたよ。」
その名前が出た瞬間。
胸が、ドクン、と跳ねる。
「始業式の日、きっと朝一番で聞きに来るだろうから、伝えてくれって。」
「…………え……」
時間が、一瞬止まった気がした。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
若林先生は、そんな陽向を見ながら、ふっと目を細めた。
そして——静かに告げる。
「Regularの出願大学、全合格だ。」
「…………っ」
その瞬間。
全身に、ぶわっと鳥肌が駆け上がった。
息が止まり、反射みたいに両手で口元を覆っていた。
熱いものが、一気に込み上げてくる。
「……うそ……」
声が、震える。
「凄い……っ……まじ……凄すぎ……っ……」
視界が、一気に滲んだ。
ぽろぽろ、と。
涙が止まらない。
胸の奥が、いっぱいになる。
流石。
流石の“藤崎俊輔”。
その辞書には決して“失敗”の文字は無いと、陽向は改めて痛感した。
苦しそうにエッセイを抱えていた背中。
眠る時間を削って勉強していた姿。
進路への不安を押し隠して、穏やかに笑っていた声。
全部、全部知っている。
誰よりも努力していたことを、知っている。
だから。
嬉しかった。
胸がいっぱいになるくらい。
苦しくなるくらい。
どうしようもなく嬉しかった。
まるで、自分の夢が叶ったみたいに。
「…うぅ…良かっ…た……っ…グズ…ありがとう…ございま…す…っ」
喉の奥から、嗚咽混じりの声がこぼれる。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、言葉を繋ぐ。
そんな陽向を見つめながら、若林先生は静かに口を開いた。
「…お礼を言いたいのはこっちの方だよ」
陽向が涙で濡れた瞳を上げる。
若林先生は、何かを思い出すように小さく笑った。
「藤崎はずっと揺れてた。悩んで、なかなか踏み出せなくて……そんな時に、お前が藤崎の背中を押してくれたんだ。」
その瞬間。
陽向の脳裏に、いくつもの記憶が一気に蘇る。
図書室で交わした言葉。
進路の話をした帰り道。
「星野も辛かっただろうに…藤崎が苦しい時に、ずっと支えてくれてありがとな。」
「…………っ」
もう、駄目だった。
張り詰めていた何かが、完全にほどける。
息も出来ないくらいに、涙が止めどなく溢れてくる。
(Regular受験…やっぱり辞めたい。)
(それで、陽向と毎日ずっと一緒にいる。)
(親の会社なんて…どうでもいい…)
(……ニューヨークなんて…っ…行きたくない…っ)
(陽向と…っこれから先も…っずっと………一生……っ一緒に居たい………っ」
苦しかった。
寂しかった。
もっと沢山一緒にいたかった。
本当は、ずっと。
それでも。
彼の未来を、壊したくなかった。
だから笑って応援した。
泣きながら。
胸を引き裂かれながら。
それでも、“背中を押す”事を、選んだんだ。
その事実が、胸の奥へ静かに沁み込んでいく。
陽向は、もう泣くことしか出来なかった。
職員室の窓の向こうでは、満開の桜が春風に揺れている。
まるで、遠い場所へ旅立った彼の未来を。
そして、その背中を押した少女の想いを。
静かに、祝福しているみたいだった。
泣き崩れている陽向のもとへ、もう一つの足音が近づいてきた。
職員室のざわめきの中。
コピー機の音や、教師たちの話し声が遠くで重なる。
その中を、ゆっくりと歩いてくる影。
「星野。」
低く落ち着いた声。
陽向は涙で濡れた顔のまま、ゆっくり顔を上げた。
そこに立っていたのは——
「……グス……もっちー……?」
生徒会顧問の、餅田先生だった。
その姿を見ただけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
餅田先生は、泣きじゃくる陽向を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「……俺からも、お前に伝えたい事がある。」
その声音は、いつもみたいな雑さが少し薄かった。
陽向は慌てて涙を拭う。
けれど、拭っても拭っても次から次へと溢れてきて、うまく止まらない。
「……っ……はい……」
鼻にかかった声で返事をすると、餅田先生は少しだけ視線を逸らしてから言った。
「放課後、少し時間あるか?」
「え?…あ、はい……」
「生徒会室で待ってる。」
——生徒会室。
その言葉が落ちた瞬間。
陽向の胸に、ちくりと小さな痛みが走った。
生徒会室。
放課後になるたび通った場所。
怒られて。
笑われて。
泣いて。
喧嘩して。
助けられて。
彼がいて。
先輩たちがいて。
仲間たちがいて。
自分の青春のほとんどが、あそこに詰まっている。
けれど——
もう、自分はそこに居る人間じゃない。
三月で任期を終えて。
今日からもう、生徒会役員ではない。
陽向は、ぎゅっと鞄の持ち手を握った。
「……わかりました。」
静かに答える。
餅田先生は、「おう」とだけ短く返して、それ以上は何も言わなかった。
その不器用な距離感が、どこか餅田先生らしかった。
陽向は一度、小さく頭を下げる。
そして、そのまま職員室を後にした。
ガラッ——
扉を開けた瞬間、春の空気が廊下を通り抜ける。
窓の外では、満開の桜が揺れていた。
ひらひらと舞う花びら。
新しいクラスへ向かう生徒たちの笑い声。
季節は、もう完全に前へ進み始めている。
陽向は、今日から始まる、新しいクラスへ向かって廊下をゆっくり歩き出した。
その足音だけが、静かな校舎に小さく響いていた。




