第113話 剣道部員は癒されたい
「始めっ!!」
鋭い号令が、試合場へ落ちた。
その瞬間、部内の険悪な空気は最悪モードのまま。
聖陵国際高校の二戦目が始まった。
竹刀が床を叩く音。
気合い声。
観客席のざわめき。
試合場の空気は、ピンと張り詰めていた。
一方、その頃────────。
「もー!絶対さっき猛ダッシュした時に落としたよー!」
体育館の入口から遠ざかるように逆方向へ。
半泣きで歩きながら、キョロキョロと辺りを見渡しつつ、陽向は頭を抱えていた。
その隣で、雫がスマホを耳に当てながら、困ったように眉を下げる。
「でも、普通スマホ落ちたら気づきません!?」
「いやー、必死だったから…!どう?鳴ってる?」
「コールはしてますけど……」
雫は画面を確認しながら、小さく息を吐いた。
「とりあえずさっきの合流した場所まで、来た道ずっと戻ってみますか?」
「えー!!試合終わっちゃうよー!!」
陽向が悲鳴を上げた、その時だった。
「あ……っ、もしもし?」
雫が、はっと目を見開く。
「あ、すいません。その携帯の落とし主なんですけど……はい……はい……」
陽向は隣で、祈るように両手を合わせている。
「あ、体育館の……二階トイレ……ですか?」
「あ!」
陽向が、ぽんっと手を叩いた。
「さっきトイレ行ったわ!」
雫の表情が、すん……と固まった。
「すいません……すぐに向かいますので……はい、大変申し訳ありません!ありがとうございます!失礼します!」
通話を切った瞬間。
「良かったー!親切な人が出てくれて!」
陽向は、ぱぁっと笑った。
しかし雫は、全然笑っていなかった。
「良かったー、じゃないですよっ!!」
通路に、雫のツッコミが響く。
「自分で思いっきりトイレに置いてきてるじゃないですかっ!!」
「ごめーん!トイレ行ったこと忘れてたわー!あっはっはー!」
「笑い事じゃないですからっ!!」
試合場では、聖陵国際の二戦目がすでに動き出している。
けれど。
筋金入りの方向音痴と、筋金入りのおっちょこちょい。
この二人を一緒に行動させた結果───
目的地へ辿り着くまでの道のりは、遥かに険しい。
ポンコツペアの珍道中は、想像以上に先が長かった。
────────。
二戦目の対戦状況は、想像以上に険しかった。
先鋒 △
次鋒 ◯
中堅 ×
副将 ◯
副将・蒼太の勝利によって、現時点での勝敗数は聖陵国際が優勢。
けれど──
それは決して、“安心出来る優勢”ではなかった。
もし、このまま大将戦で朔也が敗れれば。
勝敗数は並ぶ。
そうなった場合、最後に勝敗を分けるのは“取得本数”。
現時点で、聖稜国際の取得本数差は、わずか一本。
つまり。
次の大将戦で、相手に二本取られ、こちらが一本も返せなかった場合───。
聖陵国際高校は、ここで敗退する。
「次だな…」
「蒼太と朔也が喧嘩すんなんて…珍しいよな」
「あんなにキレてる蒼太、初めて見たわ」
「星野のやつ、いくらなんでも遅すぎねぇか?」
三年レギュラーメンバーの会話にも、不穏な空気が漂っていた。
「部長、黒川先輩がギャラリー見ててキレてたって事は…星野先輩と雫たんが来ないの気にしてんすかね…黒川先輩」
「なんで来ないんだろーな。迷子になって探しに行ったって……そんな捕まんないもんか?」
一年、二年もこの事態の発端には気がついていた。
体育館の空気は、じっとりと熱を帯びている。
防具へ染み込んだ汗の匂い。
遠くの試合場から絶え間なく響いてくる、気合い声と竹刀の衝突音。
──パンッ!!
乾いた打突音が鳴るたび、観客席のどこかで歓声が上がる。
どの学校も、本気だった。
ここで負ければ終わり。
夏へ進めない。
その現実が、体育館全体を巨大な戦場みたいな空気へ変えていた。
「礼ッ!!」
副将戦終了の声が響く。
蒼太は、深く一礼したあと、静かに試合場を降りた。
汗が顎先からぽたりと落ちる。
荒い呼吸を押し殺しながら、防具の待機スペースへ戻る。
面を外した瞬間、熱気が一気に抜けた。
「っはぁ……」
そして、何気なく観客席を見上げた、その時だった。
二階席。
手すりの向こう。
咲と、目が合う。
咲は、蒼太を見るなり、困ったように眉を下げた。
そして両手のひらを上へ向け、小さく肩を竦める。
“まだ来てない”
言葉がなくても、その意味はすぐにわかった。
「……な………っ!」
蒼太の喉が、ひくりと引き攣る。
ざわ……っと、嫌な感覚が胸の奥を撫でた。
(……なにしてんだ……あのバカ……っ)
思わず、奥歯を噛み締める。
陽向のやつ。
まさか、本当にまだ会場へ辿り着いていないのか。
その瞬間。
蒼太は、反射的に視線を試合場へ向けた。
そこには、すでに大将戦へ立つ朔也の姿があった。
面を付け。
竹刀を握り。
静かに、試合線の中央へ立っている。
もう観客席は見上げない。
さっきまでみたいに、人混みの中を探したりもしない。
ただ。
目の前の対戦相手だけを、真っ直ぐ見据えていた。
その横顔は、静かだった。
静かすぎるほどに。
(……マズイな……)
蒼太の胸の奥へ、不安が重く沈む。
副将戦までに、三勝を取り切れなかった。
本当なら。
ここで大将へ回る時には、“二本負けしてもまだ耐えられる状況”を作ってやりたかった。
けれど現実は違う。
今の朔也には、重圧が真正面からのしかかっている。
しかも。
よりによって。
精神状態は、明らかに万全じゃない。
そこへ更に、対戦相手は敵の最強エースの大将だ。
(……頼むから……切り替えてくれ……)
蒼太は、強く拳を握り締める。
体育館へ響く、開始前の静寂。
相手校の応援席。
ざわめく観客。
張り詰めた空気。
その全部の中心で。
朔也が、ゆっくりと竹刀を構えた。
「始めッッ!!」
──ダァンッ!!!!
開始の号令と同時だった。
朔也が、消えた。
「────っ!?」
相手大将の目が、見開かれる。
速い。
そんな言葉じゃ足りなかった。
踏み込みの瞬間、空気が爆ぜる。
床を蹴った音より先に、黒い影だけが前へ出ていた。
──パァンッ!!
相手が咄嗟に竹刀を上げる。
だが、遅い。
朔也は、最初からそこへ来る事を知っていたみたいに、迷いなく踏み込んでいた。
──パァンッッッ!!!!
「メェェェェェンッ!!!!」
会場中へ、突き抜けるような打突音が響き渡る。
竹刀が、綺麗に面へ吸い込まれた。
同時に。
白旗
白旗。
赤旗。
「メンあり!!」
ドッ───……!!!
体育館が、一瞬遅れて爆発した。
「うおおおおおおっ!!!」
「っしゃああああ!!!」
「速ぇぇぇぇぇぇ!!!!」
観客席が揺れる。
聖陵国際の応援席から歓声が噴き上がった。
あまりにも、一瞬。
構え合ったと思った次の瞬間には、もう勝負が動いていた。
「……っ!」
相手大将が、息を呑む。
今、自分が何をされたのか。
理解が追いついていない顔だった。
だが。
朔也は、もう止まらない。
面の奥。
その目だけが、静かに燃えていた。
胸の奥で、蒼太の声が蘇る。
(剣道は一瞬の隙が命取りだ。)
わかってる。
そんな事は、痛いほど。
副将戦で、自分がどれだけ腑抜けていたか。
どれだけ情けない負け方をしたか。
全部、理解している。
だから。
もう、二度と同じミスはしない。
「……っ」
朔也は、竹刀をゆっくり構え直した。
呼吸が、静かに整っていく。
観客席は、もう見ない。
探さない。
考えない。
今、この試合場にあるのは───
勝つか、負けるかだけだ。
「始めッ!!」
二本目再開。
その瞬間だった。
──ゾクッ。
相手大将の背筋へ、悪寒が走る。
来る。
そう思った時には、もう遅かった。
──ダァンッ!!!!
再び。
朔也が踏み込む。
さっきより、更に深く。
更に鋭く。
まるで黒い弾丸だった。
「っっ!!」
相手が迎え撃とうと竹刀を振り上げる。
しかし。
朔也の剣先が、その起こりより速い。
──スパンッッッ!!!!
「コテェェェェェッ!!!!」
乾いた炸裂音。
相手の竹刀が、宙へ大きく弾かれた。
同時に。
白旗。
白旗。
白旗。
一斉に上がる。
「小手ありッ!!!」
勝負、あり。
「勝負ありィィィッ!!」
ワアアァァァァァッ!!!!!!
次の瞬間。
体育館が、地鳴りみたいな歓声へ包まれた。
「黒川ーーーーーーっ!!!!」
「やっば!!!!」
「はやっ!!!!」
「黒川先輩えぐ!!!!」
「二本で終わらせやがった!!!!」
聖陵国際の部員達が、一斉に立ち上がる。
蒼太も、思わず目を見開いていた。
さっきまでとは、まるで別人だった。
迷いがない。
一切、淀みがない。
集中だけを極限まで研ぎ澄ました、“勝つ剣道”。
そして。
試合場の中央。
朔也は、静かに残心を取りながら、ゆっくり呼吸を吐いた。
汗が、顎先から床へ落ちる。
面の奥の瞳だけが、鋭く熱を帯びていた。
その瞬間。
──ガラッ!!
遅れて開いた、観客席入口の扉。
そこへ、ようやく辿り着いた陽向と雫が、息を切らしたまま立ち尽くしていた。
「……あ……」
目の前では。
試合終了の礼を終えた朔也が、静かに面を外している。
汗で濡れた黒髪。
荒い呼吸。
鋭く細められた目。
そして。
歓声の中心で。
誰よりも圧倒的に、“強者”の空気を纏って立っていた。
対戦校との最後の礼を終えた選手達が、防具袋のある待機スペースへ戻っていく。
「お前!やれんなら最初からちゃんとやれ。」
「やる時はやんだよ、俺は。」
「調子のんなコラ」
蒼太と朔也で交わされる空気は、すっかり元の穏やかさを取り戻していた。
まだ試合の熱気は、体育館中に残っていた。
床へ染み込んだ汗の匂い。
遠くの試合場から響く気合い声。
観客席のざわめき。
竹刀袋を引きずる音。
勝った直後特有の、高揚した空気。
その中で。
陽向は、雫を連れてようやく二階観客席へ辿り着いていた。
階段を駆け降りた勢いのまま、きょろきょろと辺りを見回す。
そして次の瞬間。
「あ、咲いた。」
観客席の手すり付近にいた咲を発見すると、陽向はすぐに駆け寄った。
バッ───!!
陽向は咲の隣へ滑り込むように現れると、そのまま勢いよく手すりへ身を乗り出した。
そして、下の待機スペースに向かって満面の笑みで両手を振る。
「みんなーーー!!!!大健闘だねーーー!!!」
その瞬間。
「「「おっせぇーよっっっ!!!!!!」」」
ドォォォンッ!!!!
聖陵国際剣道部、ほぼフルメンバー総出の怒号が体育館へ炸裂した。
隣の咲まで、完璧なタイミングでハモっている。
面を外したばかりの朔也の黒髪からは、汗が滴っている。
肩で息をしながら。
面を脇へ抱えたまま。
じっと、観客席を見上げていた。
──来た。
その事実だけで。
胸の奥に張り付いていた苛立ちが、ぐしゃぐしゃに揺れる。
遅ぇんだよ。
どんだけ待ったと思ってんだ。
なんで今なんだ。
そんな感情が渦巻いているのに。
視界へ入った瞬間。
……全部、吹き飛びそうになる。
「2戦目も余裕で勝ってんじゃーん!」
陽向は、無邪気に笑いながら身を乗り出した。
「マル3個と三角1個で楽勝だねー!つーかなんで朔也が大将やってんのー!?」
その言葉に。
待機スペースの空気が、一瞬だけピシ…と固まった。
(((…余裕………楽勝…………。)))
二・三年部員達が、なんとも言えない顔で視線を逸らした。
咲なんて、うわぁ……という顔で額を押さえている。
蒼太は、ピクリと眉を引き攣らせた。
そして。
その沈黙の意味を、ただ一人理解していない陽向だけが、きょとんとしていた。
「え?なんか空気重くない?」
「まぁ…ちょっと色々あったんだよ……」
咲が、引きつった苦笑いを浮かべながら誤魔化す。
観客席の手すりへ身を乗り出したまま、無邪気に笑っているその姿に。
思わず腹が立った朔也は、観客席を睨み上げる。
そして次の瞬間。
「………っ!!!」
陽向へ向かって、全力の中指を突き立てた。
「うざ!なにあいつ!せっかく来てやったのに!」
陽向は、負けじと身を乗り出した。
「べーっ!」
片目をぐいっと下へ引っ張り、盛大に舌を出す。
完全に小学生レベルの煽り合いだった。
「「「…………。」」」
剣道部員達は沈黙した。
二人とも、めちゃくちゃ本気である。
そのあまりにも気まずい光景に。
「し、雫たーん!」
「応援来てくれたんだねー!」
剣道部員達は、慌てて空気を変えるみたいに雫へ向かって大きく手を振った。
雫は少しだけ恥ずかしそうに肩を縮こまらせながら、遠慮がちに手を振り返す。
「あー…癒しだ〜」
「さっきまでの部長バトルの地獄がオアシスに変わってく〜」
「雫たんに、3年のマドンナに、生徒会長……」
「あんな豪華なギャラリーに向かって中指立てれんの全校生徒で黒川先輩だけだよな。」
「雫たん癒されるし」
「一ノ瀬先輩色気やばいし」
「星野先輩は全校生徒の太陽だもんなー」
「剣道部入って良かったー」
「今日の都大会優勝出来る気しかしねぇわー」
一気にテンションが上がる剣道部員達。
ついさっきまで険悪だった空気が、嘘みたいに騒がしくなっていく。
けれど、その中心で。
朔也と陽向だけは、いまだに全力で変顔合戦を繰り広げていた。
眉を吊り上げ。
口を歪め。
舌を出し。
もはや顔面だけで殴り合っている。
その姿に、周囲は半分呆れながら笑っている。
けれど。
(黒川先輩………)
雫は、そっと視線を落とした。
胸の奥へ、ほんの少しだけ薄い曇りが差し込む。
(…私の事………気づいてる………?)
さっきから。
朔也の視線は、一度も雫へ向いていない。
見えていないわけじゃない。
きっと、存在には気づいている。
でも。
その目が追いかけているのは、ずっと。
「べーっ!!」
「ブッサー!!」
「お前の変顔のがブスだわー!!」
「キッショー!!」
観客席で必死に変顔している、陽向だけだった。
雫は、そっと隣を見る。
夕陽の残る体育館の光の中で。
陽向は、子供みたいに全力で笑っていた。
その無邪気な横顔を見つめながら。
雫は、小さく胸の奥を握り締めた。




