第111話 いざ、決戦の日!全国剣道都大会!
決戦の剣道大会まで、あと一週間を切っていた。
六月の夜風は、昼間の蒸し暑さを少しだけ洗い流したみたいに涼しい。
夜九時。
陽向は、レオのリードを片手に、いつもの散歩道を歩いていた。
スニーカーの足音。
時折聞こえる虫の声。
レオの首輪が小さく鳴る音。
生徒会、剣道大会、期末前。
最近はみんな忙しくて、放課後も慌ただしい。
だからこうして夜の散歩をしている時間だけが、少しだけ頭を空っぽに出来る時間だった。
いつものように、公園の前を通りかかった、その時。
───ブンッ!!
夜の静けさを裂くみたいな風切り音が、耳へ届く。
「……95……っ、96……97……!」
低く掠れた声。
陽向は、思わず足を止めた。
街灯に照らされた公園の奥。
そこにいたのは、一人で竹刀を振る朔也だった。
「……え……?」
思わず目を見開く。
夜の公園。
誰もいない広場。
湿った土の匂い。
その真ん中で。
朔也は、黙々と竹刀を振り続けていた。
制服じゃない。
黒いTシャツは汗で背中へ張り付き、額から落ちた汗が顎先を伝って地面へ落ちていく。
荒い呼吸。
上下する肩。
それでも。
止まらない。
「……101……っ、102……!」
ブンッ!!
鋭い踏み込み。
空気を切り裂く竹刀の音。
その瞬間だった。
陽向は、反射的に声を掛けかける。
「……朔───」
けれど。
その続きを、飲み込んだ。
朔也の目を見た瞬間。
息が止まりそうになった。
真っ直ぐだった。
ふざけてもいない。
気怠そうでもない。
いつもの、だるそうに笑っている朔也じゃない。
ただ、“勝つ”だけを見据えている目。
夜の街灯の下で。
汗だくになりながら。
息を切らしながら。
それでも一本一本、まるで自分を削るみたいに竹刀を振り続けている。
その姿には、近寄りがたいほどの集中と熱があった。
(……こんな時間まで……)
陽向は、小さく息を呑む。
最近、放課後ずっと道場へ残っているのは知っていた。
柔道部の活動日ですら、道場裏で蒼太と打ち込みしているのも見かけた。
でも。
こんなふうに。
誰も見ていない場所で。
一人になってまで。
こんな顔で、努力しているなんて知らなかった。
朔也は、なんでも器用に要領よくこなす人だと思っていた。
勉強も、運動も、人付き合いも。
適当に卒なくやってるように見えるのに、気づけば結果を出してる。
そんな人。
だからこそ。
今、目の前にいる朔也は、陽向の知っている“軽々しい朔也”と少し違って見えた。
(……なんかめっちゃ……すげぇな……)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
剣道大会へ向けて。
本気で。
本気で、全部賭けてる。
その集中している熱量が、遠くから見ているだけなのに伝わってきた。
レオが「くぅん」と小さく鳴く。
陽向は、ハッとしたみたいに我へ返った。
「…しっ…!」
咄嗟に人差し指を口元に立ててレオを見た。
そして。
邪魔しないように。
気づかれないように。
静かに、その場を離れる。
背後では、今も。
───ブンッ!!
鋭い風切り音が、夜の公園へ何度も響いていた。
陽向はその場を離れて、レオのリードを引きながらぽつりと呟く。
「……朔也、よっぽど勝ちたいんだろうねぇ〜、レオ。」
レオは、何もわからないまま尻尾を揺らしている。
その姿に、ふっと小さく笑った。
けれど胸の奥には、まださっき見た朔也の横顔が残っていた。
汗だくで。
苦しそうで。
なのに真っ直ぐで。
“絶対勝つから。”
あの日、雨上がりの帰り道で聞いた声が、ふいに蘇る。
陽向は、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い月が覗いている。
その時だった。
「あ。」
ぱっと、頭の中へ一つの考えが浮かぶ。
(そーだ!)
陽向の目が、きらりと光る。
(今週の剣道大会……しぃちゃんに声かけてあげよ!)
瞬間。
脳内で、“恋する一年生”の顔が浮かんだ。
きっと。
あんな朔也を見たら、しぃちゃん死ぬ。
陽向は、なんだか自分まで楽しくなってきて、ふふっと笑う。
そう感じてしまうくらいには。
陽向の目には、そんな朔也を“かっこいい”と感じてしまうほどに映った。
夜風が、髪を揺らした。
誰にも見えない公園の片隅で。
朔也が、一人きりで竹刀を振り続けていた。
────────。
そして遂に訪れた。
『東京都高等学校総合体育大会剣道大会』
六月下旬。
梅雨の雲が薄く空を覆う朝だった。
都立総合体育館の周囲には、朝早い時間だというのに、すでに多くの人影が集まっている。
各校のジャージ姿の生徒達。
竹刀袋を肩へ提げた選手達。
応援の保護者。
顧問達の怒号。
ガラガラと防具袋を引く音が、アスファルトへ何重にも響いていた。
体育館入口の自動ドアが開くたび、むわっとした空気が流れ出てくる。
汗。
革。
木刀油。
冷房の効き切らない湿った空気。
その全部が混ざった、“大会会場特有の匂い”。
館内では、すでにあちこちで竹刀の打ち合う音が響いていた。
──パンッ!!
──メェェェェン!!
鋭い気合い。
床を踏み込む音。
張り詰めた空気。
まだ試合前だというのに、会場全体が巨大な戦場みたいな熱気を帯びている。
そんな中。
聖陵国際高校剣道部の控えスペースでは、防具袋を広げながら最後の準備が進められていた。
「紐ちゃんと締めろよー」
部長である蒼太が、部員達へ目を配る。
大会独特の緊張感が、じわじわ空気へ混ざっていた。
遠くの試合場では、すでにウォーミングアップが始まっている。
踏み込み一発で床が鳴る。
竹刀の振りが、風を裂く。
ただ素振りしているだけなのに、“強い”とわかる。
そんな学校ばかりだった。
その空気の中で。
防具袋へ片膝をついたまま、面紐を結んでいる朔也がいた。
焦りも。
緊張も。
全部飲み込んだ上で、“勝つ側”の顔をしていた。
黒いTシャツ越しに浮かぶ肩のライン。
結び直された面紐。
無駄のない動き。
普段の気怠そうな空気は、もうどこにもない。
「まずはベスト16最低ライン。ベスト8の土俵に上がれ。じゃねーと話しになんねぇかんな。」
蒼太の言葉に、朔也は口角を釣り上げる。
「あたりめーだろ」
二人が交わす視線には、“ベスト8の決定戦で勝ったら告白”というあの作戦が胸に宿っていた。
「副将……なんか今日やばそうっすね」
後輩が、小さく呟く。
すると朔也は、「は?」と眉を寄せた。
「いつもやばいだろ。」
「うわ出た。」
「ナルシスト。」
「事実だろ。」
三年部員が茶化すと、周囲に小さく笑いが起こる。
その笑いで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
けれど。
朔也だけは、ふと視線を上げる。
観客席。
まだまばらな応援席の中を、無意識に探していた。
(……まだ来てねぇか。)
胸の奥が、ざわつく。
今日は勝つ。
絶対に。
何がなんでも。
その気持ちは、一週間前よりずっと強くなっていた。
夜の公園で竹刀を振った日も。
手の皮が剥けるまで打ち込んだ日も。
全部、今日のためだ。
そして。
脳裏へ浮かぶ。
雨上がりの帰り道。
真っ赤な顔で、「ありがとう」と呟いた陽向。
繋いだ手。
揺れた瞳。
朔也は、静かに拳をぐっと握る。
今日。
この場所で。
“幼馴染み”を終わらせる。
────────。
一方その頃。
大会会場の入口付近では、次々と人の波が行き交っていた。
竹刀袋を肩へ提げた選手達。
応援に来た生徒達。
各校のジャージ姿の部員達。
館内からは、絶え間なく竹刀のぶつかる音と気合い声が響いてくる。
陽向は入口付近で、落ち着かない様子で何度もスマホと周囲を見比べていた。
「陽向、さっきからなにキョロキョロしてんの?」
隣を歩いていた咲が、不思議そうに首を傾げる。
「あ、や……生徒会の後輩が今日来る予定になってんだけど……」
陽向はスマホ画面を見ながら、少し困ったように眉を寄せた。
画面には、ついさっき届いたばかりのメッセージ。
《すみません》
《ここがどこかわかんなくなりました》
その一文の後には、半泣きみたいなスタンプまで付いていた。
「LINEした感じ、なんか迷子になってるっぽい。」
「え、大丈夫?」
咲の声にも、少しだけ心配が混ざる。
この総合体育館はとにかく広い。
入口も複数ある上に、今日は大会参加校や保護者も多く、人の流れが激しい。
地方大会レベルでも十分迷宮なのに、都大会ともなれば尚更だった。
「うーん……」
陽向は、ぐるりと周囲を見回す。
遠くでは、他校の剣道部員達が列になって移動している。
顧問らしき教師の怒号。
防具袋を引く音。
館内から漏れてくる気合い声。
そして、応援に来ている無数の生徒。
中にはガラの悪そうな。
朔也のような、いかにもチャラチャラしてそうな。
そんな雑多な人混みの中へ、あんなセンターアイドル級美少女の小柄な一年生が放り込まれたら…………
陽向の背筋にゾクリと冷たいものが走る。
「心配だから、ちょっと探してくる!」
陽向は、パッと顔を上げた。
「咲、会場先入っててくんない?」
「え、わかった……けど、もうすぐ初戦始まるよー!」
咲が時計を見ながら言う。
しかし陽向は、もう半分走り出しかけていた。
「最悪、初戦はカットで!2回戦目から見るわー!」
「えぇぇ!?」
咲が思わず声を上げる。
だって今日の陽向は、ここ最近ずっと朔也の剣道大会を楽しみにしていた。
数日前から妙にテンションも高かった。
それなのに。
「ちょっ、陽向ー!」
呼び止める声を背中で受けながら。
陽向は人混みの中へ駆け出していく。
(初戦で強豪当たって敗退したら………どうすんの…………)
ボブの巻き髪が跳ねる。
スニーカーがアスファルトを軽快に蹴る。
その後ろ姿を見送りながら、咲はぽつりと呟いた。
「えー……大丈夫かな………」
一抹の不安を抱えつつ。
咲は、ひとまず一人で大会会場の中へ足を踏み入れた。
────────。
──パンッ!!
遠くの試合場から、鋭い打突音が響く。
都立総合体育館のメインフロア。
湿気を含んだ熱気の中、各校の剣道部員達が、それぞれ試合前の調整へ入っていた。
ある場所では、防具を付けた選手同士が激しく打ち込みを繰り返している。
別の場所では、壁際へ並んだ部員達が、一糸乱れぬ素振りを続けていた。
──ブンッ!!
──ブンッ!!
竹刀が空気を裂く音が、何重にも重なる。
その中で。
聖陵国際高校剣道部の控えスペースもまた、独特の緊張感に包まれていた。
一年生達は、控えスペースの端で並びながら、少し硬い表情で素振りをしている。
「いち、に、さん、しっ……!」
防具は着けていない。
竹刀を握る手つきにも、どこかぎこちなさが残っている。
試合へ出るわけじゃない。
それでも、“都大会”という空気そのものに呑まれそうになっていた。
その横では、二年生の控えメンバーが、床を滑るように足さばきの確認を繰り返している。
「送り足もっと低くな。」
蒼太の声が飛ぶ。
「はいっ!」
床を滑る足音。
踏み込みの乾いた音。
さらにその奥。
レギュラーメンバー達の空気だけが、明らかに違った。
三年レギュラー陣は、面を付けたまま切り返しを始めている。
「メェェェンッ!!」
響く気合い。
竹刀がぶつかる衝撃音。
空気が、研ぎ澄まされている。
そして。
その中心で。
朔也は、一人黙々と竹刀を振っていた。
──ブンッ!!
鋭い風切り音。
汗で湿った前髪が額へ張り付き、道着の背中にはじっとりと汗が滲んでいる。
一本。
また一本。
周囲の音なんて、まるで聞こえていないみたいだった。
その空気は、少し近寄りがたいほど張り詰めていた。
そんな時だった。
「蒼太ー!ヤッホーーー!!」
不意に、上から明るい声が降ってくる。
聖陵国際の部員達が、一斉に顔を上げた。
二階の応援席。
手すりから身を乗り出すみたいに、大きく手を振っていたのは咲だった。
ふわりと揺れる巻き髪。
その姿を見つけた瞬間。
「咲!」
蒼太が、面を脇へ抱えたまま声を上げる。
一年生達も、少し緊張が解けたみたいに応援席へ自然を向けた。
「え、もしかして部長の彼女?」
「めちゃくちゃ美人…!」
咲は、柵へ身を乗り出したまま部員達へ手を振る。
「お疲れー!みんな頑張ってねー!」
二年生部員も、応援席へ手を振り返した。
「あー!一ノ瀬先輩ー!」
「私服姿も綺麗っすねー!最高っす!」
すると蒼太が、周囲を見渡しながら聞いた。
「陽向はー?」
その瞬間。
朔也は、素振りの手を止める。
竹刀を握ったまま、視線だけが二階へ向いた。
咲は、少し困ったように眉を下げた。
「なんか生徒会の後輩が迷子になったらしくて探しに行ったー!」
「はぁ?」
反応したのは、朔也だった。
低い声。
眉間へ皺が寄る。
周囲の部員達が、うわ…という顔で朔也を見る。
咲は、そんな空気にも気づかないまま続ける。
「すぐ戻ると思うけど!多分もう会場来てるんじゃないかなー!」
その言葉に、蒼太は小さく相槌を打ったあと、ちらりと朔也を見た。
「迷子の生徒会の後輩って…」
すると朔也は、竹刀を肩へ担いだまま、いかにも面倒臭そうに口を開く。
「小野雫だろ。“大会、応援行きます”ってLINE入ってた」
その瞬間。
「えっ!雫たん!?」
「雫たん、今日来るんすか!?」
「まじかーーーーー!!!!!」
剣道部の空気が、一気に爆発した。
素振りしていた一年生達まで、思わず動きを止める。
「つか黒川先輩!雫たんのLINE持ってるんすか!?」
「雫たんが仮入来た時ちゃっかり聞いてたんすか!!」
「前世でどんな徳詰んだら雫たんとLINE繋がれるんすかー!!!」
「うるっせぇ!!!お前らアップに集中しろっ!!!」
朔也の怒声が、体育館へ響き渡る。
しかし部員達は、なおもニヤニヤしていた。
「いや絶対浮かれてるって。」
「あ、だから副将今日いつもより気合いヤバかったんすね。」
「ちげーよ。」
朔也は眉間へ皺を寄せながら竹刀を振る。
──ブンッ!!
鋭い風切り音。
その横で蒼太は。
「なんで今日、小野雫が?」
「なんか仮入で剣道初めて見て感動したっつってたな」
「へー…理由はそれだけかー?」
蒼太の含みある言い方に、朔也は鼻で笑った。
「まぁ俺はモテるからな」
蒼太は、くくっと肩を揺らす。
「はは、陽向にLINE繋げて欲しいって言ってきたくらいだからな。案外まじだったりしてな」
その瞬間。
朔也の竹刀が、ぴたりと止まる。
「一年が三年に憧れる事なんて普通だろ。ミーハーなんだよあいつは」
ぶっきらぼうに返しながら、再び竹刀を振る。
──ブンッ!!
蒼太は面を脇へ抱えながら、ふと思い出したように呟く。
「しかし…仮入の日も迷子になったとか言ってなかったか?」
「……あぁ。」
「探しに行ったはいいけど、陽向、初戦間に合うのかよ。」
その瞬間。
朔也の表情が、わずかに曇る。
竹刀を握る手へ、じわりと力が入った。
今日。
この大会を。
どれだけの気合いで挑んでると思ってる。
夜の公園で。
誰もいない場所で。
何百本も竹刀を振った。
全部。
今日、“あいつに見せるため”だったのに。
よりによって。
「ったく……」
ぽつり、と。
低く漏れた声は、呆れと諦めが半分ずつ混ざっていた。
「雫の方向音痴は筋金入りだな……」
すると、その隣で。
蒼太が、ニヤァ……っと口角を上げる。
「心配してんの?」
「してねーよ!」
即答。
しかし蒼太のその言葉に、ふと朔也の脳裏にあの光景が過った。
柔道部員に囲まれながら、小動物のように震えていた雫の姿。
(…また……変なやつに捕まってねぇだろうな………)
なんでこう、つくづく危なっかしい奴なんだ。
一瞬。
胸の奥底の方がざわっ….と静かに騒めいた。
蒼太は、笑いながら朔也の肩を軽く小突いた。
「んな怖ぇ顔してっと、しぃちゃん泣くぞ。」
「……は?」
朔也の眉が、ぴくりと動く。
その瞬間。
周囲の二・三年部員達が、一斉にニヤついた。
「しぃちゃん…?」
「黒川、呼び方キモ。」
「そう呼んでんのは俺じゃねぇっ!!!」
試合前とは思えないくらい。
聖陵国際剣道部の空気だけが、少しだけ騒がしくて。
そして、いつも通りだった。




