第109話 “先輩”と“一年生”
数日後──。
所々のクラスが帰りのホームルームを終えて、校舎は少しずつ放課後の空気へ変わり始めていた。
そんな賑わいの中で、雫は三年四組の後方扉の前に立つ。
胸の前で、資料ファイルをぎゅっと抱える。
心臓が、うるさい。
一年生が、三年の教室へ来る。
それだけで、なんだか少し勇気がいる。
ましてや、会いに来た相手は──
生徒会長。
雫は、小さく息を吸い込むと、扉からぴょこんと顔を覗かせた。
「生徒会長ー!」
その声は、緊張のせいで少し裏返った。
けれど。
「あ、しぃちゃんっ!」
教室の奥で友達と笑っていた陽向が、ぱっと顔を上げる。
次の瞬間には、もうこちらへ駆け寄ってきていた。
制服のスカートを揺らしながら。
まるで、名前を呼ばれるのを待っていたみたいに。
こうして“教室の中の生徒会長”を見るのは、なんだか少し新鮮だった。
周囲のクラスメイト達も、ごく自然に陽向へ話しかけている。
誰かが笑えば、陽向も笑う。
その輪の中心にいるのが、あまりにも自然だった。
「これ…次の役員会議で使う校内アンケートの集計資料が出来たので、チェックお願いします。」
雫は、胸の前のファイルを差し出した。
「え?早くない?締切りまだだよね?」
陽向が驚いたみたいに目を瞬かせる。
「そうなんですけど…横溝副会長が、“会長チェックは日にち余裕が欲しいから、もし出来たら早めに”って……」
「あ………そう。助かるわ…」
陽向の顔が、一瞬だけ遠い目になった。
雫は、歴代役員達が積み重ねてきた、“星野陽向対策”を早速学び始めている。
そんな暗黙の危機管理マニュアルが、すでに組織へ根付いている。
みんなが呆れながら支えているその空気に、どこか温かさを感じている雫だった。
「それではお預かり致します……」
陽向は、わざと仰々しく言いながら資料を受け取った。
その瞬間。
「あ、それと!」
雫は、慌ててもう一歩前へ出る。
「すみません、過去の議事録ってどこかにありますか……?」
「あー、多分生徒会室の棚の……」
陽向は少し考えるように視線を上へ向けたあと、
「ちょっと今出しに行くわ。」
と、軽い調子で言った。
「すみません…」
その時だった。
「あれ、小野雫じゃん。」
背後から、不意に低い声が落ちる。
「……っ!」
雫の肩が、びくりと跳ねた。
振り返る。
そこに立っていたのは──
黒川朔也だった。
制服を少し着崩したまま。
片手をポケットへ突っ込んで。
いつもの気怠そうな顔。
けれど、その姿を視界へ入れた瞬間。
雫の心臓は、また一気に速度を上げた。
「……黒川先輩……っ!」
胸の奥が、熱い。
剣道場で初めて見た時から。
正門前ですれ違った朝も。
遠くから見かけるたび、ずっと。
かっこいいと思っていた。
「え、朔也知り合いなの?」
陽向が、意外そうに目を丸くする。
「一回だけ剣道部の仮入来たんだよ。」
「あ!そうなんだ!確か、しぃちゃんバド部だよね?」
「あ、えっ、はい……」
突然話題を振られ、雫は思わず背筋を伸ばした。
ただでさえ緊張しているのに。
そこへ黒川先輩まで現れるなんて。
頭の中が、軽くパニックだった。
すると朔也が、少し口の端を上げる。
「へぇー、その後無事に辿り着いたんだ?」
「はい!…お陰様で!」
雫は、慌てて答える。
剣道部仮入の日。
迷子になっていた自分へ、「案内してやる」とぶっきらぼうに言ってくれたのを、ちゃんと覚えていた。
そんな小さな事まで覚えていてくれたのが、嬉しくて。
胸が、また少しだけ熱くなる。
「蒼太は?」
「顧問と大会の打ち合わせだって。」
「あ、そーなんだ!」
「咲は…まだホームルームやってんな」
「担任話し長いからね。」
テンポ良く交わされる会話。
まるで呼吸みたいに自然だった。
間がない。
遠慮もない。
説明もいらない。
長い時間を隣で過ごしてきた人間同士だけが持つ、“当たり前”の空気。
「ひなはもう帰れる?」
「うん!あ、でも一瞬生徒会室行って、資料出して来る」
「あそ。んじゃ先ディンバー行ってるわ。」
「は!?一瞬なんだから待っててくれてもよくない!?」
「はいはい、昇降口にいるわ。」
呆れたように返す朔也。
それに陽向が噛みつく。
そのやり取りは、喧嘩みたいなのに。
不思議なくらい自然で。
どこか楽しそうだった。
雫は、その光景を黙って見つめていた。
羨ましかった。
ただ仲が良い、だけじゃない。
言葉にしなくても通じてしまう距離。
隣にいる事が、もう日常になっているみたいな空気。
黒川先輩は、学校では少し近寄りがたい。
怖いわけじゃない。
でも、どこか一人で完結しているみたいな雰囲気がある。
なのに──
生徒会長の前では、その空気が少し違った。
気怠そうに見えて。
ちゃんと返事をして。
ちゃんと待っていて。
自然に会話を続けている。
その姿が、なんだ凄く特別に見えた。
昇降口へ向かう朔也の背中を、ポー…っと見つめる。
その瞬間。
「しぃちゃん?」
陽向が、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「へ?」
「どした?ぼーっとして。」
「あっ、いえ!なんでもないですっ!」
慌てて首を振る。
けれど、耳が熱いのを自覚してしまって。
雫は誤魔化すみたいに、ぎゅっと資料ファイルを抱き直した。
「んじゃ行くか!」
「はいっ!」
生徒会室へ向かい、肩を並べて廊下を進む。
雫は、ちらりと隣を見る。
生徒会長・星野陽向。
今こうして隣を歩いている姿は、どこか拍子抜けするくらい自然体だった。
ぽつり、と。
雫は小さく言葉を落とす。
「黒川先輩と……凄く仲良しですよね」
陽向は「へ?」と気の抜けた声を漏らして、隣を見た。
「そう?」
「毎朝一緒に登校して。帰りも一緒で。本当、いつもラブラブだなぁって思ってました。まさに理想のカップルって感じで、幸せオーラ全開って感じで…」
雫は、少し照れ臭そうに笑った。
その瞬間だった。
陽向の足が、ピタリと止まる。
“ラブラブ”
“理想のカップル”
“幸せオーラ全開”
そのあまりにも強烈ワードに。
陽向は、ガンッ!!と廊下の壁へ手をついた。
「…おえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
「生徒会長!?」
雫の肩がビクッと跳ねる。
陽向は壁へ額を押し付けたまま、うぇぇぇ……と本気で気持ち悪そうな声を出している。
その姿には、演技っぽさより“魂レベルの拒否感”が滲んでいた。
「ほんっとーに、やめてくれる?」
ゆっくり顔を上げた陽向は、げっそりした顔で言った。
「ただの幼馴染みなんだけど。」
その声。
その顔。
あまりにも恐いくらいに“ガチ”だった。
そこには照れもなければ、誤魔化しもない。
本気で嫌がっている人間の顔だった。
あまりにも全力の拒絶反応。
雫の思考が、一瞬止まる。
「……へ…………?」
廊下を吹き抜ける風が、二人の髪を揺らした。
窓の外では、夕陽が校舎のガラスへ反射している。
その光景だけが妙に綺麗で。
なのに雫の頭の中だけ、完全に大混乱だった。
(……え……?)
毎朝一緒に登校して。
帰りも一緒で。
距離も近くて。
名前の呼び方も特別っぽくて。
あの黒川先輩が、あんな柔らかい顔する相手で。
それなのに。
恋人じゃ………ない?
じわじわと、その事実が頭の中へ広がっていく。
「………幼なじみ………?」
「うん。」
陽向は、心底うんざりした顔で頷いた。
「カップルとか100%ないから。」
迷いゼロ。
食い気味。
しかも、“絶対にありえない”という強い意志まで感じる。
その言葉に。
「えぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
雫の絶叫が、夕暮れの廊下へ盛大に響き渡った。
窓の外で飛び立った鳥が、バサバサッ!!と羽音を立てる。
その直後——
「………〜〜〜〜〜っっっ」
雫は、両手で顔を覆ったまま、へなへな〜っと力が抜けるように廊下へしゃがみ込む。
完全に“感情の限界”を迎えていた。
「……なんだ……なんだぁ〜……私……てっきり……」
声が、ふにゃふにゃに溶けている。
全身から一気に緊張が抜けてしまったみたいに、肩までへにゃっと落ちていた。
「しいちゃん?大丈夫?」
陽向が、きょとんとした顔で覗き込む。
すると雫は小さく小さく呟いた。
「……そうなんだぁ……幼馴染みだったんだぁ〜……」
その声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
真っ赤になった頬。
耳まで熱を持っていて。
口元なんて、もう完全に緩み切っている。
“よかったぁ……”って感情が、全身から漏れていた。
そして、その反応を見た瞬間。
陽向は、全部悟った。
そして次の瞬間——
「しいちゃんって……もしかして……」
陽向は、容赦なく核心へ踏み込んだ。
「朔也の事好きなの?」
ドーーーーーーンッ!!!!
廊下に、隕石レベルの直球が落下した。
「………っっっ!!!」
雫は、バネでも仕込まれていたみたいにガバッ!!と立ち上がる。
「え、えーっと……っ」
目が泳ぐ。
肩が跳ねる。
口が開いたり閉じたりしている。
しまった。
——と、顔に書いてあった。
さっきまでの反応を思い返して、自分で自分に大ダメージを食らっている。
さすがにあれは、あまりにも分かりやすかった。
“彼女じゃなかったんだ…!”って安心した気持ちを、全身でダダ漏れさせてしまった。
「……好きっていうかぁ……憧れてるっていうかぁ……」
雫は、もじもじと両手の指先を絡めながら俯く。
長い睫毛の影が、頬へ落ちる。
耳まで真っ赤だった。
「……本当、付き合いたいとか……そんなの……おこがましくて……」
声が小さい。
でも、その一言一言に、“本気”の熱が滲んでいた。
遠くから見てるだけで幸せ。
同じ空間にいるだけで嬉しい。
目が合っただけで一日頑張れる。
そんな、“憧れ”特有のキラキラした感情。
その姿を見た瞬間——
(な、な……なに…………この子…………)
陽向は、両手で口元を覆った。
そして次の瞬間。
脳内へ、盛大に電流が走る。
(可愛いッッッッ!!!!!!!!)
ピシャーーーーーーーーーンッッッッ!!!!
雷、落雷、全面直撃。
しかも破壊力が尋常じゃない。
頬を真っ赤にして。
視線を泳がせて。
好きな人の名前を出されただけで、しどろもどろになって。
あまりにも、“恋する乙女”だった。
そして。
雫の口から。
「……“推し”……?…みたいな……」
その言葉を聞いた瞬間。
陽向の脳内へ、今度は。
キラキラキラキラ〜〜〜〜〜〜…………!!!
甘酸っぱい記憶が、万華鏡みたいに広がっていく。
高校一年生。
入学したての頃。
“先輩”。
その姿を目で追って。
名前を呼ばれただけで大事件。
校内で偶然見かけるだけで世界が輝いて見えて。
“推し”。
その言葉の中に詰まっている感情を、陽向は知っている。
憧れ。
尊敬。
ときめき。
苦しさ。
どうしようもないほどの、眩しさ。
届かないと思ってるからこそ、余計に好きになるその気持ち。
全部、知ってる。
だから——
気づけば。
ガシッ。
陽向は、もじもじ動いていた雫の両手を、勢いよく握り締めていた。
「応援するよっ!!!」
「へ!?」
雫の声が裏返る。
陽向の目は、もう完全に“恋愛モード”へ突入していた。
「朔也とLINE、繋いであげよっか!?」
「えぇっ!?」
雫の肩がビクゥッ!!と跳ねる。
「そんな!!無理無理無理っ!!」
首をぶんぶん横に振る。
「く、黒川先輩とLINEするとか……絶対無理ですよ!」
その“無理無理無理”に。
陽向の胸が、ぎゅうううっと懐かしさで締めつけられた。
(あぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜)
この感じ。
わかる。
わかりみが強すぎる。
大好きなのに。
近づけない。
LINEなんて、貰った瞬間心臓止まりそうになるやつだ。
既読つくだけで死ぬし。
通知来たらスクショ撮るやつだ。
陽向の頭の中は、もはや俊輔との思い出で支配されてた。
そして陽向は、キラキラした目で雫へ迫る。
「こんな可愛い子とLINE出来たら、朔也絶対喜ぶって!」
「で、でも……黒川先輩、彼女いますよね?」
「へ?」
陽向が固まる。
雫は、おずおずと続けた。
「仮入の時に……剣道部の部長さんが……そんなようなニュアンスの事を……」
「…………。」
数秒、沈黙。
そして。
「いやぁー……いんのかなぁ?」
陽向は、うーん……と首を傾げた。
「全然そんな感じしないけど……」
朔也、なにも言ってこないし。
そんなような素ぶりもない。
陽向は、顎へ指を添えながら真剣に考え込む。
「え、でも……他校とか……?」
雫はまだ不安そうだった。
陽向は、そんな雫を見て、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、その辺も含めて聞いとくね!」
ニッコリと笑う陽向は、完全に“後輩の恋を応援する先輩モード”へ入っていた。
夕焼け色へ染まり始めた廊下。
窓の向こうでは、雨上がりの空に淡い虹が滲んでいる。
その光の中で。
恋する一年生は、顔を真っ赤にして慌てふためき。
そんな後輩を見ながら、先輩はめちゃくちゃ楽しそうに笑っていた。




