49.立つ
月が静かに眠りに向かうころ、朔は一人、居間に座っていた。
(……遅いな)
机に置いた湯は、すっかり冷めている。
廊下の奥は、物音ひとつしない。
やがて戸が開き、足音が廊下を渡った。
「……まだ起きてたのか」
低い声が居間に落ちる。
「うん。ずいぶん遅かったね」
オルセンは外套を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
「昇り火の後は見回りをする。
……それに、リーストに呼ばれてな」
そう言いながら向かいの椅子を引き、腰を下ろす。
木が小さく軋んだ。
オルセンは朔を見た。
「……どうした」
朔は少しだけ背筋を伸ばした。
「俺、街に行こうと思う」
言った瞬間、胸の奥が妙に静かになった。
言葉は思ったより軽い。
重く構えていたのは、自分の方だったらしい。
居間はしんと静まっている。
かまどの火も落ち、夜気が窓の隙間から細く入り込んでいた。
オルセンはすぐには答えない。
向かいに座ったまま、肘を膝に乗せる。
「……街へ行かせることは、俺も考えていた」
朔は目を瞬く。
「え?」
思わず声が漏れる。
オルセンは、椅子に腰を下ろしたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「何をするにしても、
いずれは村の外を見ねばならん」
低い声は、揺れない。
「どんな事情があるかは知らん」
そう言ってから、わずかに肩を動かす。
「聞く気もない」
その言い方は、冷たいわけではなかった。
ただ、本当に必要ないと言っているだけだった。
「最初はな」
灯りの下で、オルセンはぽつりと言った。
「貴族の坊ちゃんかと思った」
朔はすぐには反応できない。
オルセンの視線が、ゆっくりと朔の手に落ちる。
「……仕事を知らん手だ」
朔は視線を下げる。
自分の掌を見る。
村の男たちの掌とは違う。
土を耕し、薪を割り、刃物を握り続けた手の厚みがない。
長い年月で固くなった硬さもない。
朔は、ゆっくり拳を握った。
オルセンは続ける。
「それに、見慣れない仕立て」
視線が、朔の服に落ちる。
「世間知らずな様子」
そして、もう一度だけ朔の顔を見る。
「……黒眼黒髪」
朔は小さく首を傾げた。
「え?」
黒い瞳が、オルセンを映していた。
「……この辺りじゃあまり見ない」
それだけ言って、言葉を切る。
居間に、少しだけ静けさが落ちた。
オルセンは椅子の背にもたれ、ゆっくり息を吐く。
「だが、時を重ねていくうちに」
視線が、もう一度朔に戻る。
「……違うと思った」
オルセンは短く言った。
しばらく、居間に沈黙が落ちる。
かまどの残り火が、小さくぱちりと鳴った。
オルセンは肘を膝に乗せたまま、朔を見ている。
「確信を得たのは、
——身の振り方だな」
ぽつりと続けた。
少しだけ口元が緩む。
「……貴族の坊ちゃんはな」
肩がわずかに揺れる。
「子どもと追いかけっこはせん」
朔はつい目を逸らした。
「……何で知ってるんだ」
オルセンは気にする様子もなく続ける。
「屋敷の庭で、護衛を引き連れて歩くのが関の山だ」
少しだけ肩を揺らした。
「転べば周りが慌てる」
居間の空気が、ほんの少し緩む。
「だが、お前は違った」
視線が静かに朔へ戻る。
「村の子どもと走り回る」
低い声は変わらない。
「森にも入る」
わずかに間を置く。
「危ないことも、自分でやる」
オルセンは椅子の背にもたれたまま言う。
「だがな」
声が少しだけ低くなる。
「そういう生き方をするなら」
視線が、真っすぐ朔を捉える。
「力がいる」
短い言葉だった。
居間の空気が、また静かになる。
「選ぶのにも力がいる」
「選んだことを通すのにも力がいる」
かまどの残り火が、また小さく鳴る。
「村の外は」
わずかに言葉を切る。
「ここほど甘くはない」
オルセンはゆっくり立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る。
「庭へ来い」
振り返らずに言う。
「見てやる」
オルセンはそれだけ言って居間を出た。
朔もその背を追う。
ポーチへ出ると、夜気が静かに肌を撫でた。
そのまま庭へ降りる。
踏み固められた土。
低い柵。
実を残したままの木が、銀緑色の葉を揺らしていた。
その足元で、花が風にさざめいている。
背の高さは、相変わらず揃っていない。
こちらは少し詰まりすぎていて、
あちらは妙に間が空いている。
きちんとしているようで、どこか不器用な並び。
(……変わってないな)
庭の中央に、オルセンが立っていた。
くすんだ深緑の外套を脱ぎ、袖をまくっている。
月明かりの下で、黙ってこちらを見ていた。
「……来い」
低い声が落ちる。
朔は、庭の中央へ歩いた。
踏み固められた土の上に立つ。
あの朝と、同じ場所だ。
オルセンが一歩、前に出る。
「覚えてるか」
朔は、うなずいた。
忘れるわけがない。
ここで、
息が詰まり、
膝が折れて——
立てなかった。
朔は、ゆっくりと顔を上げた。
夜気が頬をなでる。
その向こうで、オルセンが動かず立っている。
視線を逃がさないまま、朔はその目を見た。
次の瞬間——
空気が、変わった。
言葉にできない圧が、庭いっぱいに落ちてくる。
肌がひりつく。
呼吸が浅くなる。
正直、まだ怖い。
逃げたい気持ちもある。
でも——
朔は視線を外さなかった。
頭の奥に、ルミナで過ごした日々がよぎる。
庭で遊んだ子どもたちの笑顔。
想定外の連続だった、あの日。
そして——
隣で笑うナディアの顔。
(……俺は)
守れる人間になりたい。
その思いを胸の奥で握りしめたまま、朔は立っていた。
圧は消えない。
胸を押し潰すような重さが、
まだ身体にのしかかっている。
呼吸は浅い。
膝は、今もわずかに震えている。
それでも——
朔は、立っていた。
逃げないと決めた足が、
土の上に残っていた。
しばらくして、
オルセンが、ゆっくり息を吐いた。
その瞬間、
庭を満たしていた圧が、すっとほどける。
空気が戻る。
風が、遅れて庭を通り抜けた。
オルセンは、しばらく朔を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……それでいい」
低い声だった。
それだけ言うと、
オルセンは背を向けた。
花が、風にさざめく。
実を残した木の葉が、月明かりの中で揺れている。
朔は、ようやく息を吐いた。
知らないうちに、歯を食いしばっていたらしい。
顎の奥が、じんと痛んでいた。
それでも、
胸の奥の決意は、消えていなかった。
読んでいただきありがとうございます。
明日も投稿します。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




