47.月に届ける日
今日は、昇り火。
いよいよ、俺の思いを月に届ける日だ。
そのことを思うだけで、
朝から胸の奥が、妙に落ち着かない。
(……子どもか)
小さく息を吐いて、
朔はナハクレム家の戸を叩いた。
⸻
「いらっしゃい」
応接室に姿を見せたレダートは、
挨拶もそこそこに小箱を差し出す。
「こちらです。ご確認ください」
両手で受け取り、そっと蓋を開ける。
黒い石が、細い月に抱かれていた。
夜を閉じ込めたような奥行き。
光を吸い込みながら、
角度を変えるたび――
中心に、十字の星がゆっくりと浮かび上がる。
月の付け根には、
蔦が、石へと絡むように添えられていた。
「ありがとうございます」
「いえ。サクさんの瞳と、よく似ています」
その言葉に固まる。
(……俺の色?)
急に、恥ずかしさが込み上げた。
「“宝石は、誰かと共に在るから、輝くもの。
それを分かってくれる人と出会えた。
そんな幸せは、ない”
……これは妻の言葉です」
穏やかな声だった。
その言葉が、今夜の自分を見透かしたようで、息が詰まる。
「きっとこの子も喜んでいることでしょう」
ふと、レダートが視線を落とした。
「そうだサクさん。
その指輪、少しお預かりしても?」
「これですか?」
「ええ。少し傷が入っております。
磨いておきましょう」
朔は、指先を止めた。
(傷……?)
言われて、初めて意識する。
岩壁に叩きつけられた衝撃。
骨に響いた痛み。
あのときかもしれない。
「お願いします」
外した指輪を、そっと渡す。
レダートは丁寧に受け取り、
何事もないように微笑んだ。
そして、机の引き出しから革袋を取り出す。
「それから、こちらを」
袋の中には、銅貨が入っていた。
「……?」
朔は眉を寄せる。
「想定より材料費が抑えられましたので。
差額をお返しします」
「ですが……」
朔は首を振りかける。
「約束の額でお願いしました」
レダートは静かに言う。
「商いは、誠実であってこそ続きます」
一拍置いて、視線を上げた。
「……本日は昇り火ですから」
その一言に、すべてが含まれていた。
朔は、しばらく黙る。
掴んだ報酬を、
ここに置くと決めた。
後悔は、ない。
――それでも。
今日という日に、
足りなくなるのは、嫌だった。
朔は、ゆっくりと銅貨を受け取る。
「……ありがとうございます」
レダートは、何も言わず頷いた。
「では、アクトに挨拶だけして帰ります」
「……すみません。今日は家庭教師が来ておりまして」
(あぁ。あの身体じゃあ外に出られないよな)
自然と言葉がこぼれる。
「いえ、お構いなく。こちらこそ突然すみません」
レダートは柔らかく頷いた。
「また来てあげてください。
それと、本日の昇り火、楽しんでください」
「……はい」
少しだけ照れくさくなる。
「サクさんに、月の巡りがありますように」
「えぇ。レダートさんにも」
⸻
帰ってきても、ナディアの姿はなかった。
居間は静かで、
朝の光が、机の上を白く照らしている。
(……どこ行ったんだろ)
庭か。
それとも市場か。
ひとまず自室に戻り、
椅子に腰を下ろす。
小箱を、机の上に置いた。
深呼吸をひとつ。
「さて、ルク」
《……はい》
「作戦会議2だ」
《……》
沈黙。
「聞いてる?」
《聞いています》
明らかに温度が低い。
「今回の達成目標は二つ」
指を折る。
「一、ネックレスを渡すこと」
「二、街へ行くことを伝えること」
《難易度は……》
「ーーみなまで言うな。
……分かってる」
椅子に深くもたれかかる。
「だからこそ、戦略が必要だ」
窓の外では、
昼の気配が、少しずつ濃くなっていく。
《現在時刻、地球換算で十三時四十七分》
「まだ余裕はあるな」
《昇り火の開始は日没後。十七時五十分です》
「……つまり、あと四時間ちょっと」
両手を組み、
真剣な顔で天井を見上げる。
「パターンA。
自然な流れで、さりげなく渡す」
《成功率、三十二パーセント》
「低いな」
「パターンB。
街へ行く話を先にして、空気が良くなったところで渡す」
《成功率、二十八パーセント》
「下がったぞ」
《心理的負荷が増大するためです》
「……パターンC」
少し間を置く。
「勢い」
《論外です》
「……っ」
考えれば考えるほど、
状況は複雑に絡み合っていく。
ネックレス。
街へ行く決意。
ナディアの言葉。
自分の気持ち。
(……なんで、こんなに難しいんだ)
目を閉じる。
考え始めると、
止まらない。
時間だけが、
静かに、進んでいく。
⸻
《……朔》
「ん?」
《予定時刻が近づいています。準備を》
はっと目を開ける。
窓の外は、
すでに橙色に染まり始めていた。
「……うわ」
椅子から飛び起きる。
「俺、ずっと考えてた?」
《約三時間二十九分です》
「嘘だろ……」
小箱と祈りを込めた木。
二つを手に取って鞄に入れる。
深呼吸をひとつ。
「よし」
扉を開け、
外へ出る。
家の戸を閉めると、
通りの空気が、いつもと違っていた。
静かなはずの夕方に、
人の気配が混じっている。
向かう先は、村の中央。
ーーの少し手前。
前にナディアと行った市場の近く。
進むにつれて、
ざわめきがひとつの塊になっていく。
人の密度が増していく。
そのとき。
「朔!」
振り向く。
人混みの向こうで、
見慣れた若葉色が顔を覗かしていた。
手を振る仕草が、
いつもより少しだけ落ち着かない。
自然と、足が速くなる。
近づくと、ナディアが小さく笑った。
「同じ家なのに、待ち合わせって変かな?」
ナディアが、少しだけ照れたように笑う。
「……ちょっと思った」
正直に答えると、
「ひどい」
唇を尖らせた。
本当は怒っていないって
分かっているのに、
少し焦る。
「でも、悪くない」
慌てて付け足すと、
ナディアの表情がふっとやわらいだ。
「でしょ」
視線を逸らすように、通りの先を見る。
「それにしても、
……すごいね」
灯りが、通りを縫うように連なっている。
油を足す音、銅貨の触れ合う乾いた響き。
呼び込みの声が重なり、ざわめきは絶えない。
焼ける蜜の匂いと、香草の煙が混じる。
朔がそう言うと、
ナディアが辺りを見回す。
「昇り火の日って、こんなに人いたっけ?」
朔は肩をすくめる。
「俺、去年は知らないからな」
「あ、そっか」
ナディアが小さく笑う。
「広場の方は、もっと人いるよ」
少し背伸びをして、先をのぞき込む。
その視線の先――
人の隙間を縫うように、
赤い光が、ちらりと揺れた。
ナディアが、小さく息を吸う。
「……始まってるね」
まだはっきりとは見えない。
けれど、あそこが今夜の中心だと分かる。
朔は無意識に、鞄へ触れた。
空は、藍に沈みはじめている。
丸い月が、ゆっくりと昇る。
隣から、弾んだ声。
「なんか、楽しいね」
その横顔を見るだけで、
胸が落ち着かない。
「そうだね」
できるだけ平静に答える。
「何か食べる?」
「うん。ちょっとお腹すいた」
即答だった。
少し笑う。
「じゃあ、何にする?」
二人は、灯りの並ぶ通りへ足を踏み入れた。
人の流れに押されるように歩きながら、
朔はふと足を止めた。
「……あれ」
灯りの列の奥。
橙色の湯気の向こうに、
見覚えのある顔があった。
大きな鍋をかき混ぜていた女性が、
こちらに気づいて、にっと笑う。
「よう!」
イサは木の柄杓をひと振りし、
鍋の縁に当てて湯を落とした。
朔が足を止めるより先に、
ナディアが声を弾ませる。
「あ、イサさん!」
くるりと朔を見る。
「寄っていこうよ」
その目が、少しだけ期待している。
朔は、少し笑った。
「もちろん」
二人は屋台の前に立つ。
鍋の中では、濃い橙色のポタージュがゆっくりと揺れている。
湯気が立ちのぼり、かぼちゃとバターの甘い匂いが鼻をくすぐった。
「今日のは祭仕様だぞ」
イサが胸を張る。
「そのまま」
「炙りチーズ乗せ」
「蜂蜜入り」
看板を指で叩く。
「どれ選んでも、パン付きだ」
「わぁ……」
ナディアの目が本気で輝く。
「迷うね」
「どうする?」
「うーん……」
少し考えてから、ナディアが言う。
「違うの頼んで、交換しよ?」
朔は一瞬だけ固まる。
「……そうしようか。」
「じゃあ私は蜂蜜!」
「俺はチーズ」
「決まりだな」
イサが手際よく器に注ぎ、片方には炙ったチーズを落とす。
じゅっと音がして、表面がとろりと溶ける。
もう片方には、とろりと蜂蜜が細い線を描いた。
「熱いから気をつけろよ」
「はーい」
木のスプーンを受け取り、
ナディアがふーっと息を吹きかける。
朔もひと口。
濃い甘み。
かぼちゃの深い味に、
溶けたチーズの塩気が重なる。
「……うま」
思わず漏れる。
ナディアもひと口飲んで、
ぱっと笑う。
「蜂蜜、すごいよ。
甘さがやわらかくなってる」
ナディアがカップを差し出す。
「交換しよ」
近い。
思ったより、近い。
(……落ち着け。ただの味見だ。)
朔は平静を装って受け取る。
指が、ほんの少し触れた。
「……甘いな」
声が、わずかに低い。
「でしょ?」
ナディアが嬉しそうに笑う。
パンをちぎって浸す。
じゅわ、と染みる。
「こういうの、祭りっぽいね」
「確かに」
周囲では笑い声が上がり、
銅貨が鳴り、
子どもが走り抜ける。
遠くで火が揺れている。
朔は、もう一度スープを飲んだ。
熱い。
甘い。
うまい。
ただ、それだけでいい気がした。
「次、あっち行ってみる?」
ナディアが指さす先には、
串焼きの煙。
「行こう」
二人は並んで歩き出す。
人波に揺られながら、
笑いながら、
食べながら。
ふと、見上げる。
満ちた月が、
火の向こうに浮かんでいる。
ナディアが言う。
「きれいだね」
「ああ」
……それでいい気がした。
読んでいただきありがとうございます。
明日も投稿します。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




