46. 満月か朔月
「夜道は冷えます。送らせましょう」
フラノの言葉に、朔は迷わなかった。
「ありがとうございます」
そう言いながら、
その言葉に、帰る意思は含まれていなかった。
外に出る頃には、屋敷の灯りがすっかり夜の色になっていた。
門の前まで歩くと、馬車の姿が目に入る。
御者がこちらに気づいた様子で、
手綱を整え、足台を下ろした。
御者に促され、二人は馬車に乗り込む。
車内には干した草の匂いと、木の匂いが混じっていた。
扉が閉まりかけた、その瞬間。
朔は、ふっと思い出したように言った。
「すみません」
御者が顔を向ける。
「何かございましたか」
朔は一拍置いた。
言い訳の言葉を探している間に、
心臓のほうが、先に決めてしまう。
「忘れ物、しました。先に行ってください」
ナディアが目を瞬かせる。
「え……?」
「すぐ追いつくから」
言いながら、自分でも無茶だと思った。
追いつくわけがない。
それでも、言ってしまった。
御者が困ったように眉を寄せる。
「一人で帰れます。……先に行ってください」
断言にした。
言い切らないと、止められる気がしたから。
ナディアが、言葉を探すみたいに唇を開く。
「朔……」
「ごめん」
ナディアはそれ以上言わず、ゆっくり頷いた。
「……気をつけて」
「うん」
扉が閉まる。
馬車が動き出す。
車輪が石を噛む音が、夜に短く響いた。
朔はその場に残って、門の灯りを見上げた。
――いくか。
腹は決まっている。
朔は門へ歩き出す。
屋敷の外壁は暗く、窓の灯りだけが静かに浮いている。
昼に見た“光がやわらかい”という言葉が、今は少し分かった気がした。
門番に声をかけられ、事情を伝えると、
すぐに中へ通された。
玄関の扉が開く。
中の空気は、外よりも少し暖かい。
迎えに出た使用人が、朔を見て一瞬だけ目を丸くした。
「お戻り、ですか」
「……すみません。レダートさんに、会えますか」
使用人は戸惑いを飲み込むように姿勢を正す。
「承知いたしました。お取次ぎいたします」
廊下を進む。
昼とは違い、足音がやけに響く。
さっきまでの食堂の空気が、まだ残っている気がして、
そのぶん、今の静けさが濃い。
角を曲がった先に、灯りのある部屋がひとつ。
扉の前で、使用人が小さくノックをした。
「旦那様。先ほどのお客様が、お戻りです」
中から、低い声。
「通しなさい」
扉が開く。
朔は一歩踏み込み――
灯りの下に、レダートの姿を見つけた。
昼に見たときと同じ部屋だが、
灯りの色が違うだけで、空気の密度が変わる。
レダートは机から視線を上げ、
ゆっくりと朔を見る。
「どうしましたか?」
声は穏やかだった。
驚きはない。
朔は一歩、前へ出る。
「忘れ物を……」
そこで、言葉が止まる。
誤魔化す理由が、もうない。
「いえ」
まっすぐに、視線を上げた。
「男の意地を、見せにきました」
一瞬の沈黙。
レダートの目が、わずかに細くなる。
「来ると思っていましたよ」
朔は小さく息を吐く。
「素敵な宝石だからこそ」
言葉を選ぶ。
「自分で贈りたいと、そう思いました」
嘘はない。
レダートは椅子から立ち上がると、
棚の奥から、黒い布に包まれた小箱を取り出した。
静かに机の上へ置く。
布をめくる。
そこには、
深い闇を閉じ込めたような石があった。
灯りを受けて、
中心に、金の星がかすかに浮かぶ。
レダートは朔を見る。
「とは言え、購入となると、少々お高くなります」
淡々とした口調。
「加工も必要になりますし……金貨一枚、いただきます」
朔は、一瞬も迷わなかった。
「それで、お願いします」
静かな声だった。
だが揺れていない。
レダートは、ゆっくりと頷いた。
「承知しました」
一拍置いて、続ける。
「加工はどうなさいますか」
「指輪、イヤリング、ネックレス。用途に合わせてお作りできます」
朔は、石に目を落とした。
黒の奥に、かすかな光が揺れている。
一瞬だけ、迷う。
だがすぐに答えは出た。
「……ネックレスで、お願いします」
レダートの視線がわずかに和らぐ。
「かしこまりました」
指を組み、軽く頷く。
「昇り火に間に合うよう、手配いたしましょう」
朔は息をつく。
「……ありがとうございます」
少しだけ、照れが混じる。
それでも、視線は逸らさない。
レダートは小さく笑った。
「若い方が、意地を張るのは嫌いではありません」
それ以上は言わない。
朔も、聞かない。
必要なことは、もう決まった。
⸻
翌日。
ナディアは、ひとりでナハクレム家の門をくぐった。
白い外壁が陽を受けて柔らかく光り、
庭の花々が風に揺れている。
門番に名を告げると、
すぐに中へ通された。
案内された応接室で待っていると、
軽やかな足音が近づく。
扉が開く。
「あらあら」
フラノが目を丸くする。
「ナディアちゃんじゃないの!
また会えて嬉しいわ」
明るい声。
昨日と同じ笑顔。
だがナディアは、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
「実は……お願いがありまして」
フラノは首を傾げる。
「お願い?」
ナディアは、一度だけ息を整える。
「私を、雇ってください」
部屋に一瞬、静けさが落ちる。
フラノは驚いたように瞬きをした。
「雇う、って……?」
「お手伝いでも、何でもします。家のことでも、勉強でも」
声は小さくない。
だが、少しだけ硬い。
フラノは椅子に腰を下ろし、ナディアを見る。
「ナディアちゃんのことなら聞いてあげたいけど……」
柔らかい声。
「まずは、事情を教えてくれる?」
ナディアは視線を落とさない。
「実は……」
*
フラノはナディアの話を聞いた後、
くすりと笑った。
「あらあら」
少しだけ、楽しそうに。
「似たもの同士ね」
ナディアは、意味が分からず瞬きをする。
フラノは続ける。
「それなら……アクトちゃんの家庭教師をお願いできるかしら?」
ナディアの瞳が、わずかに開く。
「あの子、しばらく外に出られないの」
迷いはない。
「やらせてください」
フラノは満足そうに頷いた。
「決まりね」
そして少しだけ声を落とす。
「オルセンさんには、自分から言うのよ」
ナディアは、まっすぐに頷いた。
「はい」
⸻
最近、ナディアがよそよそしい。
声は変わらない。
笑い方も同じだ。
それでも、どこか遠い。
その距離が、やけに気になる。
(……ばれたか?)
胸の奥が、落ち着かない。
やっぱり、いきなり宝石を贈るのは違うのか。
《恋人でもない人に贈るのは、普通は引かれます》
それより――
(街に着いていこうとしていることか?)
《その言い方だと、ストーカーです》
……当たり前のように、昇り火を一緒に回る気でいた。
だが、約束はしていない。
まずは、そこからだ。
何事にも、作戦がいる。
「……ルク、すまん。考えすぎて聞いてなかった。何か言ったか?」
《……》
⸻
最近、朔がよそよそしい。
声は変わらない。
目も、ちゃんと合う。
それなのに、どこか遠い。
(……ばれたのかな)
胸の奥が、落ち着かない。
家庭教師のこと。
言っていないだけ。
隠しているつもりはない。
それとも――
そこまで考えて、首を振る。
今は、違う。
朔が、教会で子どもたちに教えている姿を思い出す。
真面目で、少し不器用で、
でも前を向いている。
最初は、迷子だと聞いて、
かわいそうだと思った。
朔の部屋で、
ひとり、呟いていた夜も。
弱いところがある人なんだと、思った。
でも。
それでも朔は、前に進んだ。
わたしを助けてくれた。
薬だけじゃない。
あのときの背中を、思い出す。
……。
最近、一緒にいるのが当たり前になっていた。
昇り火も、きっと一緒に回れると思っていた。
でも、約束はしていない。
まずは――
約束しないと。
⸻
(……さて、どうする?)
到達目標は明確だ。
昇り火を、一緒に回ること。
それが達成できなければ、
用意したものも、考えたことも、
すべて意味を失う。
まずは約束を取り付ける。
だが、どう言う。
正面からか。
それとも流れを作るか。
最悪のケースは――
「……ルク。作戦成功の鍵は?」
《……明確な目的意識、徹底した状況分析に基づく柔軟な計画、迅速な実行力です。》
《……ただし、何を想定した作戦によります》
目的は今の通りだ。
ならば状況分析。
現在のナディアの様子。
よそよそしい。
原因は不明。
《……》
想定一。
ネックレスがバレた。
想定二。
自分の意図が読まれた。
想定三――
「……よし」
最低でも十二通りは必要だ。
最悪の展開から逆算する。
失敗条件。
拒否。
曖昧な返答。
流される。
その場合の再提案は――
《……警告。前方に――》
次の瞬間。
どん、と軽い衝撃が胸に当たった。
「っ……」
一歩よろける。
目の前に、見慣れた色。
若葉色の瞳が、驚いたように揺れている。
「ご、ごめん」
反射的に声が出る。
「考え事してて……」
ナディアも一歩下がる。
「ううん、私こそ。前、ちゃんと見てなかった」
ほんの一瞬。
互いに、同じだけ言葉を探す。
「「あの――」」
二人の声が重なった。
ナディアが、少し笑う。
「先にいいよ」
今しかない。
想定外。
だが、最短距離。
「明日の昇り火――」
鼓動がうるさい。
「一緒に回らない?」
ナディアはまっすぐ朔を見る。
「……うん。いっしょに回ろ」
⸻
読んでいただきありがとうございます。
明日も同じ時間に投稿します。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




