40.見届けた銀
銀狼は、もうこちらを見ていなかった。
視線は、オルセンのほうだけを追っている。
低く構えた身体。
地面を捉える前脚。
次に踏み込む先も、
完全に、そちらだ。
(……俺は、眼中にない)
そのとき、肩に掛かる感触が、
ふと、意識に引っかかった。
朔は、そっと、鞄に手を入れた。
指先に触れる、
湿った感触。
オルセンの泥玉。
教会で受け取った、
あの一つ。
(……使いどころは、今だ)
この距離。
この位置。
普通なら――
気づかれる。
けれど。
銀狼は、
こちらを“数に入れていない”。
狙う場所は、顔、
——鼻先。
でも、
(普通にやったら、無理だ)
そもそも、届かない。
この距離。
この速さ。
この相手。
(……だから)
朔は、心の中でつぶやく。
(……頼むぜ。相棒)
『了解しました』
淡々としていて、
それでいて――確かに、隣にいる。
『投擲角度、指示します』
銀狼が、前脚に力を溜める。
『……まだです』
朔は、息を止めた。
その“瞬間”を、
ただ、待つ。
銀狼の前脚が、
地面を――
蹴る。
土が弾け、
巨体が、前へと流れ出す。
『――今です』
声は、静かだった。
『角度、上方。三十七度。
力、七割』
その刹那。
身体が、
先に動いていた。
指先を離れた瞬間、
湿った塊が、
空へと放たれる。
銀狼は、
それでも――
こちらを見ない。
牙も、
爪も、
視線も。
すべてが、
オルセンだけを捉えている。
だからこそ。
泥玉は、
“当たった”。
乾いた音が、
空気を裂く。
銀の毛並みに、
濁った色が弾けた。
『……有効』
そして――
匂いが、爆ぜた。
潰れた熟柿のような甘さ。
湿った土と混ざり合った、生臭さ。
それが、
一拍遅れて――
森の空気を塗り替える。
オルセンが、
一度だけ、朔を見た。
銀狼の前脚が、
地面に食い込んだまま、
わずかに震える。
首が、ゆっくりと左右に振られる。
――鼻を、鳴らす。
低く、
短く。
喉の奥で、
空気を擦るような音。
そのまま、一歩――
下がった。
次の瞬間、
頭が、こちらを向いた。
金属のような眼が、
朔を捉える。
次の瞬間。
地面が、爆ぜる。
巨体が、
一直線に――
こちらへ。
『五秒前』
数字が、落ちた。
朔は、
走り出していた。
地面が、
背後で――
砕けた。
踏み抜かれる音が、
一拍遅れて追いつく。
(――速い)
息を吸うより先に、
脚が前へ出る。
枝を蹴り、
根を跨ぎ、
斜面を――滑る。
背中に、
圧がかかる。
近い。
近すぎる。
『四』
風が、
横から叩きつけてきた。
銀の影が、
視界の端をかすめる。
背後で、
牙が噛み合う音。
空を噛んだ衝撃が、
鼓膜を揺らす。
(……っ)
身体を低くする。
反射で、
転がる。
頭上を、
風圧がなぎ払った。
葉が裂け、
枝が折れ、
森が――悲鳴を上げる。
『三』
立ち上がる暇はない。
そのまま、
斜面を滑り降りる。
足裏が、
地面を掴めない。
視界が、
ぶれる。
だが――
前方。
木々の密度が、
わずかに変わった。
根ごと引き抜かれた幹。
剥き出しの土壁。
岩肌。
(……ここだ)
銀狼は、
減速しない。
風を裂き、
白い牙の列が、
そのまま距離を喰い潰してくる。
朔は、
進路を――
わずかに、ずらした。
銀の影が、
そのまま――
突っ込む。
土壁が、
爆ぜる。
土埃とともに、
砕けた岩片が飛散する。
身体中に走る衝撃。
指先で、甲高い音が弾けた。
『二』
朔は、
壁際へ――走る。
背後で、
巨体が立て直す気配。
岩が、
擦れる音。
『一』
朔は、
壁際へ――
跳び込んだ。
同時に、
足を止める。
背中を、
岩に預けるようにして――
身を沈める。
銀狼が、
踏み込む。
重心が、
前へ――流れる。
朔は、
両手を――
地面へ突き出した。
出来るだけ――高く。
「アースボール」
狙いは、
壁。
『残数0です』
壁にせり出るように土球が成る。
——それだけだった。
牙より先に、
巨体そのものが、迫る。
そのとき、
『十分経過しました。』
その声に合わせるように、朔は叫んだ。
「……っアースボール!!」
高く。
精密さは、
要らない。
土壁が、
震えた。
岩肌が、
鳴った。
遅れて、
銀狼が――
顔を上げた。
(……間に合ったな。相棒)
壁が、
崩れる。
壁とともに、
二つの土塊が、
上から――
落ちた。
重なり、
ぶつかり、
押し合いながら、
銀の頭上へ。
土と岩が、
まとめて――
叩き落ちる。
銀狼が、
咆えた。
轟音。
森が、
一瞬――沈黙した。
土埃が、
ゆっくりと沈んでいく。
朔は、
背中を岩につけたまま、
視線を――前へ向けていた。
銀色の塊が、
瓦礫の向こうで――動く。
重い音。
石を押しのける感触。
太い前脚が、
地面を捉える。
銀狼は、
ゆっくりと、起き上がった。
金属のような眼が、
再び――前を向く。
銀狼が、踏み出す。
瓦礫を踏み砕く音。
そのときだった。
「――よく繋いだ」
低い声が、背後から落ちる。
朔は、振り向かない。
「……あとは、任せろ」
オルセンが、
踏み込む。
重心が沈み、
地面が鳴る。
振りかぶられた杖が、
大きく弧を描く。
空気が、裂けた。
あの一撃が、
銀狼を、撃ち抜いた。
衝撃が、
一拍遅れて返ってきた。
銀狼の身体が、
横へ崩れる。
踏み出しかけた前脚が、
空を掻き、
――力なく落ちた。
重い音。
地面が、
低く、鳴る。
銀の毛並みが、
土と瓦礫に沈み、
やがて――動かなくなる。
風が、
遅れて戻る。
枝が、
一つ、揺れた。
空高いところから、
もう一つの銀が、
静かに見届けていた。
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