39.届かない銀
地面に縫い留められた黒狼が、
低く、喉を鳴らしていた。
盛り上がった土に脚を取られ、
身体だけが、じり、と揺れる。
その音を背に、
もう一つの気配が――
確実に、距離を詰めてくる。
(……っ)
次の瞬間、
黒い影が、地面を蹴った。
「息をつく暇も、ない」
踏みしめられる地面。
一気に縮まる距離。
反射的に身を引いた――その拍子に、
足が、もつれた。
視界が、傾く。
地面が迫る。
反射的に、手をついた。
考えるより早く、
そのまま、呼び出していた。
土の感触が、指先に食い込む。
止める暇もなく、
何かが、流れ込み始めた。
(――しまっ)
黒い影が、真っ直ぐに落ちてくる。
風を裂く音。
牙が、視界いっぱいに迫った。
「……待ってるね」
朝に交わした、静かな会話が、
胸の奥で、かすかに揺れた。
――まだだ。
朔は、
噛みつかれる“直前”に、
首を、横へ振った。
視界の端で、
土が、盛り上がる。
牙の進路、
ほんのわずか先。
噛み合うはずだった空間に、
硬い塊が、形を成した。
“バスケットボール”程の大きさの、
土の球。
次の瞬間――
乾いた音が、森に弾けた。
自慢の牙が、
球に噛みつき、
無理な力で、へし折れる。
黒狼の喉から、
悲鳴ともつかぬ声が漏れた。
勢いのまま、
身体が前へ流れ、
地面に、転がる。
朔は、横へ滑り、
距離を取りながら、考える。
(残りは……)
朔に呼応するようにルクの声が重なる。
『残数は五です。』
折れた牙が、土を打つ音がした。
(え……)
――五?
こっちでも数えていた。
黒狼は、前脚をばたつかせながら、
低く、苦しげに唸る。
“バスケットボール”大の土球に目を向ける。
(……もしかして、回数“だけ”じゃない?)
牙を失った黒狼が、
よろめくように身を翻し、
森の奥へ消えていく。
その直後だった。
空気が――
変わった。
森全体が、きし、と軋む。
風が止まり、
音が、ひとつ遅れて追いついてくる。
朔は、思わず息を詰めた。
視線の先。
倒れた木々の向こうに、
二つの影が、向かい合っている。
ひとつは、オルセン。
もうひとつは――
銀色の毛並みを持つ、巨大な狼。
どちらも、微動だにしていない。
オルセンの言葉が頭をよぎる。
「色が薄いほど、魔力が強くなる。
長く生きて、力を溜めた証だ」
それだったら、
(“銀”のあいつはいったいどれだけなんだ)
そのとき、
銀の影が横薙ぎに走る。
振り抜かれた首に合わせて、
剥き出しの牙が、空間を薙いだ。
幹が裂け、土が抉れ、風圧だけで枝が砕けた。
銀狼は止まらない。
低く身を沈め、
その巨体のまま、地面へ踏み込む。
前脚が走り、地面が横へ引き剥がされた。
土が、めくれ上がる。
絡み合っていた根ごと、
倒れた木々が引きずられる。
削られた地面の奥で、
崩れた土壁と岩肌が剥き出しになる。
そのまま、
オルセンの逃げ場を潰すように、
牙を覗かせた口が、正面から開いた。
オルセンの影が、わずかにずれる。
銀の牙が、風を切る。
今度は、オルセンが、踏み込んだ。
杖が、銀狼の肩口へ打ち込まれる。
鈍い音。
毛並みが、大きく波打つ。
だが――
銀狼は、下がらない。
肩が、わずかに沈んだだけだった。
次の瞬間、
銀狼の首が、低く落ちた。
踏み込みの重心が、前へ流れた。
その動きに合わせるように、
牙が、喉元へ伸びる。
だが、その先にあったのは、空気だけだった。
距離が戻る。
牙も、杖も、
互いに届かない位置へ。
朔は、歯を噛みしめた。
(あの一撃を、
……岩をも砕いた一撃を届かせるには)
銀狼は、地を抉るように前へ出る。
地面が鳴り、
前脚が、勢いのまま振り抜かれた。
巨体が横へ流れる。
(……小さくていい。きっかけだ)
銀狼は、すぐに前を向いた。
その一拍。
銀狼の足が――
止まった。
(……今だ)
地面へ、手を伸ばす。
「《アースボール》」
踏み込もうとした前脚の下で、
土が盛り上がる。
足首を包むように、
地面と繋がった塊が噛みついた。
――だが。
銀狼は踏み込む。
土球が、
地面ごと――砕けた。
衝撃が、
朔の足元まで伝わる。
(……っ)
後脚。
体重の乗る位置。
二つ目。
地面が、
悲鳴を上げる。
三つ目。
踏み替えの先。
四つ目。
軸足。
連続して、
土が盛り上がり――
次の瞬間、
まとめて――潰された。
踏み抜くたび、
土球は形を失い、
地面が抉れる。
銀狼は、
減速しない。
止まらない。
砕けた土が、
背後に散った。
(……うそだろ)
一瞬だけ、
金属のような眼が、
こちらを掠める。
『残数は一です』
ルクの淡々とした声だけが、
耳元に落ちた。
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