37.居待への巡り
二つの月が、庭を照らしていた。
満ちかけのマデナが、やわらかな光を落とし、
その上で、淡い光を放ちながら、
アークが見守っている。
(……討伐)
その言葉が、まだ喉の奥に残っている。
夜の森で聞いた、あの低い唸り声。
耳の奥で、同じ音がもう一度鳴った気がして、
朔は無意識に肩をすくめた。
喉のあたりが、冷える。
リーストが土で再現した狼。
牙を剥いたまま、ぴたりと止まった顔。
「よく喉元を狙ってきます」と淡々と告げられた瞬間、
自分の手が首に伸びていたことを思い出す。
(……あれは、ただの土だった)
なのに、身体は覚えている。
逃げ場を探して、足が絡まって、
背後の枝が軋んで、息が吸えなくなったあの夜を。
指先が、震えた。
気づいて、朔は拳を握り直す。
指輪の感触が、皮膚の下まで伝わってくる。
「無理に来なくていい」
オルセンが静かに言う。
「それも、また選択だ」
二つの月明かりの中で、
朔は自分の手を見た。
震えは、まだ消えない。
けれど――
もう、待つだけじゃない。
ちゃんと関わるって、決めた。
「……行く」
声が、思ったよりも揺れなかった。
オルセンが、わずかに眉を動かす。
「ちゃんと関わるって、決めたんだ」
――言葉の奥で、
思い出したくなかった記憶が、かすかに疼いた。
笑っていた顔。
大丈夫だと言われて、
それ以上、踏み込まなかった。
立ち止まる理由はいくらでもあったはずなのに。
信じた。
それで、いいと思ってしまった。
取り返しがつかなくなってから、
何度も、その選択を思い返した。
(……俺は)
喉が、熱くなる。
「俺は……前に進む」
小さく、けれどはっきり言った。
オルセンは、しばらく黙っていた。
やがて、短く息を吐く。
「……そうか」
そして、淡々と言った。
「出発は、明るくなってからだ。
……準備しておけ」
それだけ言うと、
オルセンは庭の端から家の方へ向き直る。
朔は、その背中を見ながら、
胸の奥の震えが、少しだけ形を変えるのを感じた。
(……見ててくれよ)
誰に言うでもなく、
朔は小さく息を吐いた。
二つの月は、何も言わずに庭を照らし続けていた。
⸻
夜が、少しずつ色を失っていく。
二つの月の光はまだ庭に残っているのに、
空の端が、わずかに白み始めていた。
(……朝だ)
眠れなかったわけじゃない。
けれど、深く沈むような眠りではなかった。
小さな鞄に、外套を羽織り、
家を出ようとした、そのとき。
「……朔」
朝の静けさに溶けるような声だった。
振り向くと、
寝起きのままのナディアが立っていた。
「行くんでしょ」
朔は、一瞬だけ言葉を探して、
それから頷く。
「……うん」
少しだけ視線を下げて、
朔の手を見る。
「……待ってるね」
待つ、という言葉が、
前とは違う意味で朔の胸に落ちた。
そして、小さく笑いながら、
言った。
「うん。
……戻ってくる」
それを聞いて、
ナディアは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……いってらっしゃい」
それから続けた。
「……朔に、巡りがありますように」
朔は、間を置かずに返した。
「……ナディアにも」
「いってきます」
戸を閉めると、
朝の空気が、ひんやりと頬を打った。
家の前に、
オルセンが立っていた。
外套を羽織り、
杖を手にしている。
「……行くぞ」
それだけ言って、
オルセンは歩き出した。
朔も、黙ってその隣に並ぶ。
村の中は、まだ静かだった。
家々の影が長く伸び、
ところどころに、朝の気配が滲んでいる。
「痕跡が見つかったのは、
森に入る手前だ」
歩きながら、オルセンが言う。
「……足跡と、爪痕。
魔狼とみて間違いないだろう。
この辺りでも、見かけることはある。」
前を見たまま、オルセンが続ける。
「魔狼はな。
黒、灰、青――
年を重ねるごとに、毛並みが薄くなる。」
「……薄く?」
「まぁ、白髪みたいなもんだ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
「だが人間の老化と違って、
色が薄いほど、魔力が強くなる。
長く生きて、力を溜めた証だ」
朔は、無意識に喉を鳴らす。
「でもな」
オルセンは続ける。
「魔狼は基本、慎重な魔物だ。」
道の先に、
森の縁が見え始める。
「黒や灰は、
新しいもんを嫌う」
足元の草を踏み分けながら、淡々と話す。
「青になると、知恵をつける。
人が厄介だってことを、理解する」
朔は眉をひそめた。
「要は、どの色だろうが、人の気配が濃い場所には寄らんってことだ」
「……この辺でも見るってのは?」
「たまに、はぐれは出る。
だが、そういうのは大抵――」
一拍、間を置く。
「怪我をしてるか、
病気か、
群れについていけなくなった“弱い個体”だ」
森の奥から、冷たい風が流れてくる。
「だが、今回のは違う」
オルセンは、地面に残った足跡を踏みしめる。
「痕跡を隠そうとしていない。
近づくこと自体を、恐れていない」
朔の背中を、ひやりとしたものが走る。
「普通ではありえん」
その言葉に、
朔は思わず息を飲んだ。
森の影が、
ゆっくりと二人を包み込む。
⸻
森に入った途端、
空気が、変わった。
朝のはずなのに、
鳥の声がしない。
葉を踏む音だけが、
やけに大きく響く。
オルセンは、
杖を地面につけたまま、
一度、立ち止まった。
「……これは」
視線の先、
地面の柔らかい土が、
不自然に抉れている。
爪の跡。
深い。
「……でかいな」
朔は、喉を鳴らした。
「――青か、
いや……」
オルセンは言葉を切り、
その先を見た。
折れた低木。
擦り切れた樹皮。
「……風向きが悪い」
低く告げてから、
オルセンは声を落とす。
「音を立てるな」
朔は、頷いた。
息を整え、
足の裏に意識を集中させる。
そのとき――
鼻を突く、
生温い獣の匂いがした。
湿った毛と、
土に混じる脂の匂い。
(……いる)
背中に、
ぞくりとしたものが走る。
『距離、約三十メートル。
移動速度、低速』
ルクの声が、
頭の奥で短く告げた。
オルセンも、気づいていた。
杖を、わずかに引く。
「……来るぞ」
森の奥、
影が、揺れた。
枝が、鳴る。
低く、
喉を震わせる音が――
確かに、こちらを向いていた。
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