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32. 届かせた場所

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


続きもお付き合いいただけると嬉しいです。

玄関の戸が、乱暴に閉まる音がした。


続いて、駆けていく足音。


ナディアは、居間の奥でそれを聞いた。


一瞬、何が起きたのか分からず――

けれど、胸の奥がざわつく。


「……サク?」


呼びかけても、返事はない。


外は、朝の光が強い。

雲ひとつない空が広がっている。


それなのに、

その明るさが、なぜか不自然に感じられた。


ナディアは、急いで玄関へ向かった。



戸を開けると、

庭にはもう誰もいなかった。


土に残った、二人分の足跡。

慌ただしく踏み荒らされた地面。


木戸が、半分開いたまま揺れている。


(……走っていった?)


嫌な予感が、胸を締めつける。


そのとき――


「ナディアちゃん」


背後から、声がかかった。


振り向くと、

隣の家のおばさんが立っていた。


いつもより、表情が硬い。


「今ね……

男の子が、泣きそうな顔で走ってきて……」


言葉の途中で、

ナディアの顔色が変わったのに気づいたのか、

おばさんは声を落とす。


「……セイちゃんのことだよ」


胸が、ひゅっと縮む。


「村の裏で、

崖が崩れたって……」


それだけで、十分だった。


ナディアは、きゅっと唇を噛む。


(サクが、行った)


頭の中で、状況が一気に繋がる。


「……ありがとうございます」


ナディアは一瞬だけ、息を止めた。


それから、

踵を返した。



家に戻り、

そのまま裏手へ回る。


倉の横。

お父さんが、よく道具を置く場所。


地面には、

新しい足跡がいくつも残っている。


(……まだ、近くにいるはず)


そう思って、

声を張り上げた。


「お父さん!」


返事は、ない。



畑へ向かった。


雨で崩れた畝は、

踏みしめるたびに、ぬかるんだ音を立てる。


水を含んだ土の匂い。


けれど、

そこに立つ人影はなかった。


呼びかけても、

返ってくるのは、自分の息だけ。



水路にも足を伸ばした。


増水した流れが、

低く、途切れない音を立てている。


水面に映る光が、

やけに眩しい。


人の姿は、見えなかった。



森の縁。


雨上がりの地面は、

まだ重く、水を含んでいる。


倒れた枝。

ぬかるんだ足元。


目を凝らしても、

人の気配は見つからない。


「……お父さん……」


今度は、声が少しだけ小さくなった。


返事は、ない。



どこを見ても、

人の気配はなかった。


思いつく場所は、すべて回った。

それでも――


誰も、いない。


風が、木々を揺らす。


さっきまで、

確かに聞こえていたはずの音が、

いつの間にか消えている。


(……いない)


胸の奥が、

静かに沈んでいく。


雨上がりの森は、

ひどく明るかった。


その光の中で――

ナディアは、ただ立ち尽くしていた。



アクトの呼吸は、浅かった。


吸うたびに、胸がかすかに持ち上がり、

吐くたびに、それが止まりそうになる。


朔は、思わず自分の息を止めていた。


苦しそうな呼吸を見た瞬間、

朔の頭に、別の日の光景がよぎった。


白い月の下で、

同じように息を詰まらせていた少女。


――そして、

うずくまるあいつの顔。


あのとき、

自分は、何もできなかった。


(……どうすればいい)


岩は、重い。


見ただけで分かる。

人ひとりの力で、どうにかなる大きさじゃない。


それでも――


(考えろ)


朔は、目を伏せなかった。


(諦めるな)



焦りが、喉の奥を焼く。

けれど、手は止めない。


周囲を見渡す。


崩れた土。

転がった石。

引き裂かれた草。


そして――


視界の端に、

太い木の枝があった。


斜面の上から、

一緒に流されてきたのだろう。

土に半分埋もれ、

不自然な角度で横たわっている。


(……あれは)


朔は枝に近づき、

両手で持ち上げようとして――


重さに、眉をひそめた。


だが、

動く。


わずかに、だが確かに。


そのとき。


『岩の下に、わずかでも空間ができれば十分です。

完全に持ち上げる必要はありません』


頭の奥で、淡々と声が続く。


『その枝は、長さがあります。

支点を取れれば、使用できる可能性は高いです』


朔の視線が、

枝と岩の隙間を往復する。


(……テコ、か)


言葉にはしない。

けれど、考えははっきりしていた。


枝の一端を、

岩の下へ差し込む。


土を掻き、

手のひらを汚しながら、

少しずつ、角度を調整する。


支点になる石を探し、

慎重に、枝の下へ置いた。


息を吸う。


歯を食いしばる。


――押す。


枝が、軋む。


腕が、悲鳴を上げる。


それでも、

朔は力を抜かなかった。


次の瞬間。


ごくわずかに、

岩が浮いた。


ほんの、指一本分。


けれど――


その隙間に、

空気が流れ込む。


「……っ」


アクトの胸が、

さっきより、わずかに大きく動いた。


浅かった呼吸が、

ほんの少しだけ、深くなる。


(……いける。)


朔は、さらに力を込めた。


枝が震え、

腕が限界を訴える。


それでも――


「……耐えろ」


自分に言い聞かせるように、

低く、呟いた。


そのとき。


「――あとは、任せろ」


低い声が、

すぐ耳元で聞こえた。


同時に、

視界の端で、

淡い銀の光が揺れる。


振り向く間もない。


次の瞬間――


オルセンが、

杖を大きく振りかぶった。


迷いのない動き。


杖が、岩に叩きつけられる。


ドゴン。


鈍く、重い衝撃。


続けて、

岩が――


砕けた。


石が弾け、

粉塵が舞い上がる。


腕にかかっていた重圧が、

一気に抜けた。


朔は、

その場に膝をついた。


息が、荒い。


腕が、震えている。


「……っ」


アクトの胸が、

はっきりと上下した。


苦しそうだった呼吸が、

確かに、続いている。


オルセンが、岩の残骸を見下ろす。


そして、静かに言った。


「一番大事なのはな。」


視線が、

朔に向く。


「どんな状況でも、諦めんことだ」


オルセンは、しばらく黙っていた。


「……それができた」


「……だから、助けられた」


朔は、

何も言えなかった。


胸の奥で、

何かが、ほどけていく。


朝から引っかかっていた、

あの重たい感覚。


理由の分からなかった、もや。


それが、

いつの間にか、

消えている。


(……俺は)


守りたい。


守れるようになりたい。


ちゃんと知ろう。


この世界を。関わり方を。


——逃げる以外の、やり方を。


(町へ、行こう)


はっきりとした思いが、

胸の中心に、残っていた。


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