31. 走り出す
夜の雨は、すっかりあがっていた。
空は、朝から高く澄んでいる。
雲ひとつない青が広がり、
強い光が、地面をまっすぐ照らしていた。
――けれど、なぜだかすっきりしない。
ふとした拍子に、何かが引っかかる。
理由は、うまく掴めないまま。
空は、こんなにも晴れているのに。
⸻
家の中では、朝から物音が続いていた。
戸が開く音。
棚を探る音。
外に出て、また戻ってくる足音。
どれも大きな音じゃないのに、妙に落ち着かない。
いつもより、動きが早い。
朔が居間に顔を出すと、
オルセンは外套を羽織ったまま戻ってきていた。
腰のあたりで、革の留め具を締め直す。
杖を手に取り、土のついた靴先を一度だけ確かめる。
「……もう行くの?」
朔がそう言うと、
オルセンは短くうなずく。
「昨日の雨でな」
外套の裾を整えながら、続ける。
「村外れの畑と、水路だ。
溝が埋まっとるって話がいくつか来とる。」
いつもなら、
「昼にでも様子を見る」と言いそうな内容だ。
朔は、その背中を見ていた。
すると、オルセンは一度だけ足を止めて、
ほんの少し間を置いた。
「……それからな」
ほんの一瞬、言葉が途切れる。
「少し気になる話もあってな」
それ以上は、言わなかった。
戸を開ける音。
外の空気が流れ込み、
朝の光が一瞬だけ差し込む。
「留守、頼む」
そう言って、
オルセンは外へ出ていった。
戸が閉まる。
家の中には、
晴れた朝の静けさだけが残った。
⸻
どれくらい時間が経っただろうか。
玄関を叩く音が、急に響いた。
一度じゃない。
ためらいのない、切羽詰まった音。
朔は反射的に立ち上がり、玄関へ向かった。
戸を開けると――
そこに立っていたのは、汗に濡れた少年だった。
息が荒く、
肩が大きく上下している。
顔色が悪い。
泣き出しそうなのに、それを必死にこらえている。
見覚えがあった。
庭で一緒に走り回った――
「……セイ?」
名前を呼ぶより早く、
少年は一歩、踏み込んできた。
「サク……!」
声が裏返る。
「アクトが……!」
言葉を探すみたいに、一瞬だけ詰まってから、
叫ぶように続けた。
「村の裏……
いつも入っちゃだめって言われてるとこ……!」
息を吸う。
吐く。
「森の近くで遊んでたら、
急に……崖が、崩れて……!」
言葉が追いつかない。
「石が落ちてきて、
アクトが……下に……!」
そこで、言葉が切れた。
セイの目が、揺れる。
朔の胸が、きゅっと縮む。
場所は、はっきりしない。
けれど――
考えている暇はなかった。
「案内して」
短く言う。
「走れるか」
セイは一瞬、目を見開いて――
すぐに、強くうなずいた。
「……うん!」
踵を返し、走り出す。
考える暇もなく、
朔はその背を追った。
玄関を飛び出すと、
朝の光が一気に視界に流れ込む。
土を蹴る音。
荒い息。
前を走る小さな背中を、
見失わないように。
朔は、ただ走った。
⸻
濡れた土が、まだ柔らかい。
足を踏み出すたび、靴底が沈む。
前を走るセイは、何度も振り返りながら、
それでも必死に先へ進んでいく。
「こっち……!」
声が、かすれる。
村の家並みを抜け、
人の気配が急に薄くなる。
風の音が変わった。
木々の間を抜ける冷たい空気。
土と、湿った石の匂い。
足元が、少しずつ不安定になる。
「もう、すぐ……!」
その声に、
朔は無言でうなずいた。
――そして。
視界が、ひらける。
斜面。
本来なら、草に覆われているはずの場所が、
雨に洗われ、むき出しになっていた。
土は崩れ、
石が転がり、
一部は、完全に落ちている。
そこで――
「……アクト!」
セイが叫んだ。
視線の先。
崩れ落ちた岩のそばに、
小さな身体があった。
半身が、石の下に埋まっている。
動いていない。
胸の奥が、冷たくなる。
朔は駆け寄り、
膝をついた。
「……おい」
声をかける。
返事は、ない。
近くまで寄って、
ようやく分かる。
――息は、している。
けれど、
浅く、
苦しそうだ。
胸が、ほとんど動いていない。
(……まずい)
頭の奥で、
言葉にならない焦りが広がる。
セイが、
少し離れたところで立ち尽くしている。
泣いていない。
けれど、
指先が、震えている。
「……アクト、だな」
名前を確かめるように言った。
「ここで、待て」
朔は、セイを見ずに言った。
セイは、
小さく、うなずく。
「……うん」
視線を戻す。
岩は、大きい。
人ひとりの力じゃ、
簡単には動かせない。
それでも――
(考えろ)
喉が、ひりつく。
(今、出来ることは……)
アクトの、かすかな呼吸音。
その音が、
やけに大きく聞こえた。
焦りが、
胸の奥で、
ぎりぎりまで膨らんでいく。
アクトの呼吸は、浅い。
一つ、数えるあいだに、
もう一つ、落ちていきそうな気がした。
朔は、視線を落とした。
――時間が、ない。
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本日もう一話更新します。




