30.雨の音
雨の音が、家の中にまで染み込んでいた。
部屋にいても、途切れず聞こえる。
屋根を叩く、低く重たい音。
(……日本でも、こんな音だった)
雨の日。
外に出る気も起きなくて、
部屋にこもって、机に向かって。
レポートを書いて、
時計を見て、
また机に向かう。
そんな日が、確かにあった。
このまま雨の音を聞いていたら、
答えの出ない考えに、
そのまま飲み込まれてしまいそうな気がした。
小さく頭を振り、
ベッドから立ち上がった。
⸻
戸を開けて、廊下に出た、その途中で――
足が止まる。
声が、聞こえた。
居間のほうだ。
扉の向こうから、
ナディアとオルセンの声が聞こえてくる。
低く、落ち着いた声。
いつもの調子とは、少し違う。
(……真剣な話、か)
入っていいものか分からず、
朔は廊下に立ったまま、動けなくなる。
雨音は、変わらず続いていた。
しばらくして、
「……そうか」
オルセンの声が、はっきりと聞こえた。
続いて、椅子が引かれる音。
足音が近づき、方向を変える。
玄関の戸が開き、
雨の音が一瞬だけ大きくなった。
長靴を履く音。
そして、外へ出ていく気配。
戸が閉まり、
雨音はまた、家の中に溶け込んだ。
⸻
しばらくして、
朔は居間の扉をノックした。
「……入るよ」
返事はなかったけれど、
ゆっくりと扉を開ける。
窓の外は、白く煙る雨。
庭の向こうが、かすんで見える。
その光を背にして、
ナディアが立っていた。
ゆっくりと振り向く。
「……朔。」
呼ばれて、足が止まる。
しばらく、雨の音だけが続いた。
「……ずっと、降ってるね」
ナディアが、外を見たまま言う。
「こういう日はさ。
外にも出る気、起きないし。」
少し間を置いて、
「……考える時間だけ、増える」
雨音が、一定の間隔で屋根を打つ。
そのリズムに、
朔の意識も引き戻される。
「……分かる気がする」
その言葉に、
ナディアは視線を落とした。
「さっきね」
それから、ようやく朔を見る。
「お父さんと、話してたの」
朔は、何も聞き返さなかった。
ただ、続きを待った。
「……私ね」
少しだけ、間があく。
「小さいころ、
お母さんが、急に倒れちゃって」
雨の音が、屋根を叩く。
「お医者さんにも来てもらったんだけど……
そのまま、だった」
それ以上は、言わなかった。
「それでね」
一呼吸。
「お父さんが、
この村に連れてきてくれたの」
視線は、また窓の外へ。
「ここなら、
無理しなくていい気がしたから、って」
居間に、雨音だけが残る。
しばらくして、ナディアが続けた。
「……ここに来てからね。
少しずつ、前を向けるようになった」
「村の人たちがさ。
何も聞かなくても、
当たり前みたいに声をかけてくれて」
「それだけで、
もう少し先のことを、
考えてもいい気がした」
ナディアは視線を戻し、
朔をまっすぐ見た。
「……それに」
ほんの少しだけ、言葉を選んで。
「近くで、頑張ってる人を見るとさ。
自分も、立ち止まってばかりじゃいられないなって」
一呼吸。
「だから――」
雨音に、言葉が溶ける。
「もう一度、
街に行こうと思ってる」
胸の奥で、何かが動いた。
言うべき言葉が、すぐには見つからない。
「……そうなんだ」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
「……二人でさ」
ナディアが、ぽつりと言った。
「昇り火の準備、したでしょ」
雨の音に混じって、
その言葉が落ちる。
「お願い事を考えるときにね。
最初に浮かんだのが、それだったの」
朔は、黙って聞いていた。
「街に行って、勉強しようって」
……応援してる。
そう言えばいいはずなのに。
ナディアが街に行って、
関係も終わる。
……それでいいはずなのに。
なぜか、言葉が出てこない。
(何だ、この気持ちは….)
代わりに、口からこぼれたのは。
「……勉強って?」
ナディアは、一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに言う。
「ここに来る前は街の学校に通ってたの。
でも、続けられなくって……」
視線を上げて、ナディアは言った。
「でも、
もう一度、学校に行こうって、
そう思ったの。
……今から通っても遅いって思うかも知れないけど」
「そんなことない」
朔は、迷わず言った。
「勉強に遅いも、早いもない」
ナディアは、少し驚いたように目を瞬かせて、
それから、笑った。
「ありがとう」
ナディアの笑顔とは反対に、
胸の奥が、ゆっくりと曇っていく。
それでも、朔は、
何とか同じように口元を緩めた。
雨は、まだ降り止まない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
雨の音の中で、少しずつ動き出す回でした。
次回もお付き合いいただけると嬉しいです。




