第71幕・白い黎明
黒い煉瓦の露台に、冷たい風が吹き抜ける。
空一面に広がる雨雲が、長い夜の果てに見えた朝日を覆い隠していた。
果ての見えない樹海に、朧気な陽光が差し込む。
森を貫く氷河は溶け始め、禿げた地表だけが残される。
そしてその地に、再び緑が現れた。
芽吹いたのではない。
成長ではなく、出現。
ともあれ、森は再構築される。
半日も満たない厳冬は、自然の記憶からも抹消されつつあった。
「――戻られたのですな、魔王様。」
アビスは、森を眺望する魔王の背に語りかけた。
「…何やら物憂げな表情ですな。インフィニティは何処へ?」
「樹海の中だ。この無限とも思える森林は…我が牙城を人類から覆い隠す役割を果たしてきた。…そしてその役割は、未だ終わっていない。」
「フム…人類からの攻勢に耐え得る戦力が足りないと…?しかし我が軍には――」
「――ウェザー帝国。」
「…!」
魔王の口から出た"国名"が、アビスの口を閉ざした。
静寂の中、アビスは自らの呼吸音すら抑え、魔王の言葉を待っている。
「ヘイリー隊をウェザーに派遣した時だ。奴の指揮能力は著しく低い…雑兵を無駄遣いするのは読めていた。ヘイリー単独の力で、ウェザーを十分に疲弊させられる…そう考えていたのだ。
だが…実際はどうだ?
ヘイリーは重傷を負い、隊は敗走した。環境すら変貌させる大魔法は…人類の力を前に敗れたのだ。」
アビスには、魔王の顔は見えていなかった。
しかし魔王の背は、アビスに向けて語っていた。
並ならぬ警戒心…そして怒りを。
「彼の大国は底が知れん。この大地の何処かに"ウェザー"の名が在る限り…人類に最後の日は訪れぬだろう。そして帝国との衝突を交えるとなれば…我が軍には不安要素が残っている。」
…冷たく、湿った風が吹き抜ける。
それは沈黙の中、重く淀んだ空気を流し去ろうとでもしているかのようだった。
魔王は振り向き、アビスと目を合わせる。
「…アビス、お前は覚えているか。モンスターを強者たらしめている要素が何なのかを。」
「"揺るぎない意志"…ですな。」
魔王は、頷くように瞬きをした。
「"頭に無い事象は実現出来ない"、それは魔法にも共通する事実だ。意志は、強大な力を使役する上での必要条件でもある。だが…生来よりモンスターとしての素質を持つ者程、力に身を委ねる事を…内包した人間性を捨て去る事を、その意志が阻んでしまう。」
魔王の眉間には皺が集まっていた。
思い出したくもない過去を想起したかのような…そんな表情を浮かべていた。
「…インフィニティは、その類だ。奴は200年前、自らの人間性を以て魔力の種子による支配を拒んだのだ。強大な魔法を形成する意志は、必然的に私の支配と相克する。」
「勇者を易々と敗った大魔法…そして、それを保有したインフィニティの謀反は、我が軍にとって大きな損失でした…忘れる筈がありませんとも。」
アビスは魔王の側まで歩み寄り、立ち止まる。
「…貴方も、恐れているのですな。インフィニティは貴方の命令に従い、ヘイリーを始末した。それでも、貴方は足りないと…そう思っている。でしょう?」
「ああ。奴の"人間性"は…まだ生きている。同時に、私は確信しているのだ。奴の力は、人類文明を破壊する上で十分であると。ならば、次なる策は――」
「――魔王様。」
魔王の背後で、誰かが呟いた。
「ホホッ、プロミネンス殿…聞いておられたのですな!」
「黙って立っていたから何事かと思ったぞ、プロミネンス。」
「…申し訳ありません。」
そう答え、跪こうとするプロミネンスを見て、魔王は「不要だ」と呟いた。
プロミネンスは立ち上がり、魔王と目を合わせる。
「…指示を仰ぎに来たのだろう。直にインフィニティが戻る。ウェルダーを呼べ。次の作戦を伝える。」
「承知しました。」
プロミネンスは踵を返し、露台へと続いていた階段を下っていく。
「…我々も行くとしましょう。魔王様。」
「ああ。」
やがて残された二者も、その場を立ち去った。
露台には静寂が戻り、白い霧が立ち込める。
夜明けと共に現れた太陽など、既に誰の眼中にも無くなっていた。
・ ・ ・
途方もなく長い廊下を進む中、自身に向かい来る人影の存在に、プロミネンスは気付いた。
「…戻ったか、インフィニティ。」
プロミネンスの呼び掛けに、インフィニティが応じる様子は無かった。
歩みを止める事も、歩調を落とす事もせず、インフィニティはプロミネンスの横を通り過ぎていく。
「待て。」
プロミネンスが明確に静止を呼び掛けて初めて、インフィニティはその足を止めた。
インフィニティは静かに振り向き、プロミネンスを見る。
「お前…人間だった時の記憶はあるか?」
…その問いを前にしても、インフィニティは沈黙を保ったままだった。
眉一つ動かさず、何かを考える様子さえ見せない。
プロミネンスが返答を得る事を諦め、立ち去ろうとした時――
「…魔王様が、私の記憶が必要だと仰ったのか?」
――インフィニティは、漸く口を開いた。
「違う」とプロミネンスが答える。
「それなら、この時間は全て無駄だ。私の時間は全て…魔王様に尽くす為に在るのだから。私に"帰る場所"を与えてくれた、魔王様の為に…。」
インフィニティはそう呟くと、再び前を向いて歩き出した。
("人間性"、か…。)
「そんなもの、杞憂じゃないか…?魔王様。」
プロミネンスは、インフィニティの姿が見えなくなるまで、その背を立ち止まったまま眺めていた。
足音だけが絶え間なく、廊下の中に響いていた。
To Be Continued




