失われた記憶
第一部 創造された世界
科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。
人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。
科学と哲学が交差するSFミステリー。
失われた歴史は、取り戻せるのだろうか。
ユウは、それまで深く考えたことがなかった。
過去に何が起きたのか。
誰が生き、何を考え、どのような世界を築いていたのか。
そのすべてを知ることは、できない。
どれほど優れた記録技術が存在しても、残されなかった出来事を後から確かめることは難しい。
だから、歴史には空白がある。
それは当然のことだと思っていた。
しかし、空白にも種類がある。
記録が少しずつ失われた時代。
災害によって特定の地域の資料が消えた時代。
そして、ある時点を境に、それまで存在していた記録の多くが突然確認できなくなる時代。
大断絶。
ユウが調べ始めたのは、その最後の空白だった。
*
歴史研究院の地下保存庫は、ユウの想像よりも広かった。
長い通路の両側に、資料保管室が並んでいる。
温度と湿度は厳密に管理され、古い文献や記録媒体が保存されていた。
「こちらです」
セインが案内したのは、保存庫の奥にある小さな閲覧室だった。
室内には、立体投影装置と資料解析用の端末が設置されている。
「ここなら、複数の資料を同時に比較できます」
「助かります」
ユウは椅子に腰を下ろした。
セインは、壁面に古い医療記録を表示した。
「まず、これを見てください」
画面には、人体の図解が映し出された。
古代の人間。
その身体の内部構造が、細かく描かれていた。
「以前お見せした資料よりも、保存状態がいいですね」
ユウが言った。
「ええ。比較的最近、別の保存区から移管されたものです」
「年代は?」
「正確には分かっていません。ただ、文字の特徴から、大断絶以前のものと考えられています」
ユウは頷いた。
図解を拡大する。
循環器系。
消化器系。
神経系。
そして、生殖器系。
現在の人間と共通する部分は多い。
しかし、いくつかの器官には明確な違いがあった。
「自然出産を前提とした身体構造ですね」
ユウが言った。
「そう考えられています」
「それに、消化器系も今より複雑です」
セインは頷いた。
「古代の人間は、食物から栄養を得ることを生活の中心にしていましたから」
「今でも食事はできますけどね」
「ええ。ただ、現在の身体では、必要なエネルギーの多くを標準栄養供給によって補っています」
ユウは図解を見つめた。
古代の身体は、食物を摂取し、消化し、栄養を吸収することを前提にしている。
現在の人間にも消化機能は残っている。
しかし、その役割は以前ほど大きくない。
「長い時間をかけて、身体が変わったんでしょうね」
ユウが言うと、セインは静かに頷いた。
「そう説明されています」
ユウは、その言い方に気づいた。
「セインさんは、何か違う考えを?」
「いえ。説明そのものは合理的です」
セインは画面を切り替えた。
「問題は、その過程を示す資料が少ないことです」
*
壁面に、複数の資料が並んだ。
古代の医療記録。
大断絶後の医学教本。
現代の人体構造に関する研究。
ユウは、それぞれを比較した。
「……なるほど」
古代の記録には、自然出産や食物の消化を中心とした身体構造が描かれている。
一方、大断絶後の医学教本には、現在の人間に近い身体構造が示されていた。
「ずいぶん変化していますね」
「ええ」
「でも、その間の記録がない」
「正確には、非常に少ないんです」
セインは資料の一覧を表示した。
大断絶以前のものとされる資料。
大断絶以後のものとされる資料。
そして、年代が確定できない資料。
「空白の期間が、どれくらいあるのかも分からないんですね」
ユウが尋ねた。
「そうです」
「記録媒体が失われた?」
「それが有力な説の一つです」
セインは頷いた。
「ただし、問題があります」
「何でしょう」
「記録が失われた理由を説明する資料も、ほとんど残っていないんです」
ユウは考え込んだ。
「災害なら、被害の記録が残りそうですね」
「必ずしもそうとは限りません。災害が広範囲に及べば、記録を残す余裕がなかった可能性もあります」
「戦争なら?」
「同じことが言えます」
セインは静かに続けた。
「ただ、私は別の点が気になっています」
「別の点?」
「失われた資料の種類です」
セインは、記録の分類表を表示した。
そこには、古代から現代にかけて確認されている資料の分布が示されていた。
医療。
歴史。
建築。
文学。
宗教。
行政。
ユウは画面を見つめた。
「……これは?」
「大断絶前後で、どの分野の記録がどの程度確認されているかを比較したものです」
「医療と歴史の減少が大きいですね」
「ええ」
「でも、宗教文献は比較的残っている」
セインは頷いた。
「そうなんです」
ユウは、しばらく考えた。
「宗教文献は、写本が多かったからでは?」
「その可能性は高いと思います」
「なら、不思議ではないですね」
「ええ。少なくとも、この表だけでは」
セインは画面を閉じた。
ユウは、少し意外に思った。
「そこまで調べて、結論は出ていないんですか?」
「出ていません」
セインは微笑んだ。
「歴史研究は、そういうものです」
ユウも笑った。
「意識研究と似ていますね」
「だから、あなたとは話が合うのかもしれません」
*
二人は、さらに資料を調べた。
古い医療記録には、現在では使用されていない器官の名称が多数記されていた。
それらの一部は、現代の医学教本にも歴史的な用語として残っている。
しかし、別の名称に置き換えられたものもあった。
ユウは、ある項目に目を留めた。
「セインさん、この部分を拡大できますか?」
「どこです?」
「ここです」
画面には、古い文字で書かれた文章が表示された。
その下に、複数の翻訳候補が並んでいた。
《生体機能の維持には、継続的な栄養摂取が必要である》
ユウは首をかしげた。
「当たり前のことですね」
「そうですね」
「でも、なぜわざわざ書いてあるんでしょう」
セインは原文を確認した。
「これは医療教本の一部ですから、基本的な説明だったのでは?」
「なるほど」
ユウは頷いた。
そして、隣の項目を読んだ。
《栄養摂取の停止は、身体機能の低下を引き起こす》
「これも当然ですね」
「ええ」
ユウは少し笑った。
「古代の医学教本って、ずいぶん基本的なことから説明していたんですね」
セインは頷いた。
「学習者に向けた資料だったのでしょう」
ユウは、次の項目を開いた。
《生殖は、二個体の生殖細胞の結合によって開始される》
「……そうか」
ユウは呟いた。
古代の人間にとって、自然妊娠は当たり前のことだった。
しかし、現代では人工子宮による出生が標準となっている。
生殖細胞を利用した初期発生技術は今も医学の基礎にあるが、妊娠と出産の過程は完全に管理されている。
ユウは、資料を読み進めた。
「こうして見ると、昔の人間の生活は、今とはずいぶん違いますね」
「そうですね」
セインは静かに答えた。
「それでも、彼らも私たちと同じように、自分たちの生活を当たり前だと思っていたのでしょう」
ユウは頷いた。
「そうでしょうね」
*
休憩時間。
二人は研究院の食堂にいた。
ユウは栄養カプセルを口に入れた。
セインは、温かい飲み物を注文していた。
「珍しいですね」
ユウが言った。
「何がです?」
「飲み物を選ぶなんて」
「昔から好きなんです」
セインはカップを持ち上げた。
「香りが落ち着くんですよ」
ユウは笑った。
「うちでも最近、昔の料理を作ったんです」
「ご自分で?」
「いえ、妻と娘が」
「なるほど」
セインは小さく笑った。
「それは楽しそうですね」
「娘の宿題だったんです」
ユウは、リナが料理を食べて喜んでいたことを話した。
セインは、穏やかな表情で聞いていた。
「いいですね」
「セインさんは、料理をするんですか?」
「以前は、時々」
「今は?」
セインは少し考えた。
「一人だと、あまり作りませんね」
ユウは、前に聞いた言葉を思い出した。
『以前は、いました』
セインには、妻がいた。
しかし、今はいない。
ユウは、そのことには触れなかった。
代わりに尋ねた。
「セインさんは、どうして古代史の研究を始めたんですか?」
セインはカップを置いた。
「最初は、宗教に興味があったんです」
「創世教ですか?」
「ええ」
「信仰がきっかけ?」
「そうですね」
セインは少し笑った。
「子どもの頃、創世教の教えを聞いて、不思議に思ったことがありました」
「何を?」
「神が私たちを創ったのなら、神は何のために私たちを創ったのだろう、と」
ユウは頷いた。
「確かに」
「誰かに尋ねても、答えは同じでした」
「どんな?」
「神の意思は、人間には理解できない」
セインは、カップの中を見つめた。
「でも、私は納得できなかった」
「どうして?」
「理解できないと決めつけたら、考えることをやめてしまうでしょう?」
ユウは微笑んだ。
「セインさんらしいですね」
「そうですか?」
「ええ」
セインも笑った。
「それで、調べ始めたんです」
「神の意思を?」
「最初は、そうでした」
「今は?」
セインは、少し考えた。
「今は、神について人間が何を語ってきたのかを調べています」
ユウは、その違いを考えた。
神そのものを調べる。
神についての記録を調べる。
似ているようで、まったく違う。
「その方が、研究としては確かですね」
「ええ」
セインは頷いた。
「少なくとも、記録は存在しますから」
*
午後の調査で、二人は古い記録媒体の一覧を確認していた。
大断絶以前のものと推定される資料は、各地の保存区から少しずつ発見されている。
しかし、その多くは破損していた。
「第零保存区の資料が多いですね」
ユウが言った。
「ええ。あの地域では、比較的古い遺構が確認されています」
「なぜ第零なんですか?」
セインは少し考えた。
「保存区の分類が始まった頃から、その名称が使われていたようです」
「最初に発見されたから?」
「そういう説があります。ただ、名称の由来を示す記録は残っていません」
ユウは画面を見つめた。
第零保存区。
以前、夢で見た図形と似た模様が刻まれた石板が発見された場所だった。
「この地域の地形資料はありますか?」
ユウが尋ねた。
「ありますよ」
セインは地図を表示した。
山地。
平原。
古い河川の跡。
現在は人がほとんど住んでいない地域だった。
「この辺りは、昔から居住地だったんですか?」
「断続的に人が住んでいた痕跡があります」
「大断絶以前も?」
「その可能性があります」
ユウは地図を拡大した。
地形は、長い時間の中で変化する。
河川の流れが変わり、建物が失われ、植物が生い茂る。
それでも、大きな山の位置や地形の起伏は、比較的長く残る。
ユウは、ある場所に目を留めた。
「……ここは?」
「どこです?」
「この平原です」
画面には、山に囲まれた広い土地が表示されていた。
平原の端には、緩やかな丘が続いている。
ユウは、地図を回転させた。
視点を低くする。
丘の向こうに、山の稜線が重なった。
その瞬間、ユウの手が止まった。
「……あれ?」
セインが顔を上げた。
「どうしました?」
ユウは答えなかった。
画面に映る風景を見つめていた。
緩やかな丘。
遠くの山。
その間に広がる平原。
どこかで見たことがある。
ユウは、ゆっくり息を吐いた。
「……似ている」
「何に?」
ユウはセインを見た。
「夢の風景に」
*
「夢の風景?」
セインは、画面を見つめた。
「以前お話しした、繰り返し見る夢です」
「草原と、遠くの建物が見えるという」
「はい」
ユウは端末を操作した。
自分が描いた夢のスケッチを表示する。
そこには、広い草原と、遠くに見える建物の輪郭が描かれていた。
そして、その背後には山があった。
セインは、スケッチと地形図を並べた。
「……確かに、似ていますね」
ユウは頷いた。
「ただ、偶然かもしれません」
「そうですね」
「夢の風景は、記憶の中の景色を組み合わせて作られることがあります」
「ええ」
「僕が以前、この地域の画像を見ていた可能性もあります」
セインは頷いた。
「それも考えられます」
ユウは、地図をさらに拡大した。
「でも、少し気になることがあります」
「何でしょう」
「夢では、この辺りに建物が見えるんです」
ユウは平原の一角を指さした。
そこには、現在の地図上では何も表示されていなかった。
「この場所に、遺跡はありますか?」
セインは調査記録を確認した。
「……少なくとも、主要な遺跡としては登録されていません」
「調査されていない?」
「部分的な地表調査は行われています。ただ、詳細な地下調査は限られていますね」
ユウは考え込んだ。
「地形が似ているだけでは、何の証拠にもなりませんね」
「ええ」
セインは静かに答えた。
「ただし、調べる理由にはなります」
ユウは顔を上げた。
「調べる?」
「地形資料と、過去の調査記録を比較してみましょう」
「夢の内容を根拠に?」
セインは首を振った。
「いいえ」
そして、地図の別の場所を指さした。
「この平原の周辺では、古い石板が複数発見されています」
「例の図形が刻まれた石板も?」
「ええ」
「なるほど」
「つまり、この地域に古い人間の活動があったことは、すでに確認されています」
セインは続けた。
「その周辺に未調査の遺構が残っている可能性を調べるのは、歴史研究として自然なことです」
ユウは頷いた。
「夢とは切り離して考えるんですね」
「そうです」
セインは微笑んだ。
「夢が正しいと証明するために調べるのではありません。資料から、何が分かるかを調べるんです」
ユウは笑った。
「その考え方、好きです」
「ありがとうございます」
*
二人は、過去の調査記録を確認した。
第零保存区周辺では、地表の石材や古い建築物の一部が発見されていた。
しかし、地形が複雑であることや、保護区域が広範囲に及ぶことから、詳細な調査が行われていない場所も多かった。
ユウは、地形図を見つめた。
「この平原、以前は川が流れていたんですね」
「ええ」
セインは古い地質資料を表示した。
「現在は地下水脈になっていますが、地層の調査から、かつて地表を流れていた可能性が高いと考えられています」
「川の近くなら、居住地があっても不思議ではない」
「そうですね」
ユウは、夢のスケッチを見た。
草原。
遠くの建物。
山の稜線。
そして、少女。
白い服を着た、長い髪の少女。
ユウは、スケッチの端に描かれた小さな人影を見つめた。
「……」
セインが尋ねた。
「どうしました?」
「いえ」
ユウは首を振った。
「少し考えていました」
セインは、それ以上聞かなかった。
ユウは、少女について詳しく話していなかった。
夢の中に人がいることは伝えていた。
しかし、その少女が何度も同じ問いを投げかけてくることは、まだ話していなかった。
『あなたは誰?』
その言葉を思い出すたび、ユウは不思議な気持ちになった。
なぜ、少女はそんなことを尋ねるのだろう。
なぜ、自分はその夢を繰り返し見るのだろう。
そして、なぜ夢の風景が、古い遺跡のある地域と似ているのだろう。
答えは、まだなかった。
*
調査を終える頃には、外は暗くなっていた。
セインは、資料を整理しながら言った。
「ユウさん」
「はい」
「第零保存区の調査計画を、研究院に提出してみようと思います」
ユウは驚いた。
「現地調査ですか?」
「ええ」
「許可が下りるでしょうか」
「分かりません」
セインは微笑んだ。
「ただ、未調査区域の地形と、周辺で発見された古い石板の分布には、調べる価値があります」
ユウは頷いた。
「僕にも手伝えることはありますか?」
「もちろんです」
「何をすれば?」
「古い医療記録と、現代の身体構造の比較を続けてください」
「それが現地調査に関係するんですか?」
「直接関係するかは分かりません」
セインは静かに答えた。
「でも、私たちは同じ時代の資料を調べています」
ユウは考え込んだ。
「大断絶以前の世界……」
「ええ」
セインは頷いた。
「その世界が、どのようなものだったのかを知りたいんです」
ユウは、セインの言葉を聞いていた。
古代の人々。
失われた記録。
現在とは異なる身体。
そして、創世教の古い図形。
それぞれは、別々の問題に見えた。
しかし、すべてが同じ歴史の空白へとつながっている。
ユウは、静かに頷いた。
「僕もです」
*
その夜。
ユウは、自宅の居間で地形図を眺めていた。
ミナが隣に座った。
「また調べもの?」
「うん」
「最近、ずいぶん忙しそうね」
「そうだね」
ミナは画面を覗き込んだ。
「これは?」
「第零保存区っていう地域の地図」
「聞いたことあるわ」
「古い遺跡が残っている場所なんだ」
「そこに行くの?」
ユウは少し驚いた。
「どうして分かったの?」
「だって、そんな顔してるもの」
ミナは笑った。
「何か面白いことを見つけたときの顔」
ユウも笑った。
「まだ、行けるか分からないけどね」
「そう」
ミナは、しばらく地図を見つめていた。
「危ない場所じゃないの?」
「調査区域は管理されているよ。もちろん、現地に行くなら安全確認は必要だけど」
「なら、いいけど」
ミナは頷いた。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「ユウ」
「何?」
「最近、ちゃんと眠れてる?」
ユウは、少し考えた。
「眠れてるよ」
「本当に?」
「うん」
ミナは、ユウの顔を見つめた。
「夢のこと、まだ気にしてるんでしょう?」
ユウは黙った。
ミナは続けた。
「昔から見てる夢だし、気になるのは分かる。でも、無理はしないでね」
「分かってる」
「約束よ」
ユウは頷いた。
「約束する」
ミナは、少し安心したように微笑んだ。
そのとき、寝室からリナの声がした。
「お父さーん!」
「どうした?」
「今日のお話、まだー?」
ユウは笑った。
「今行くよ!」
ミナが肩をすくめた。
「研究者は忙しいわね」
「本当にね」
ユウは端末を閉じた。
*
リナの寝室では、小さな照明が灯っていた。
「今日は何のお話?」
リナが尋ねた。
ユウは少し考えた。
「昔の人が、遠い場所へ旅をする話はどう?」
「冒険?」
「そう」
「いいね!」
ユウは、古い物語を読み始めた。
山を越え、川を渡り、見知らぬ土地を目指す旅人の話だった。
旅人は、道に迷いながらも、少しずつ目的地に近づいていく。
やがて、リナの目が閉じ始めた。
「お父さん……」
「何?」
「旅人は、ちゃんと帰ってくる?」
ユウは微笑んだ。
「帰ってくるよ」
「よかった……」
リナは、安心したように眠りについた。
ユウは、しばらく娘の寝顔を見つめていた。
そして、静かに部屋を出た。
*
その夜、ユウは再び夢を見た。
草原だった。
風が吹いている。
遠くには、見覚えのある山の稜線が広がっていた。
ユウは、ゆっくり歩き始めた。
足元の草が揺れる。
空は明るかった。
しかし、太陽の位置は分からなかった。
しばらく歩くと、遠くに建物が見えた。
いつもの夢と同じだった。
輪郭はぼやけている。
しかし、今日は少しだけ近くに見えた。
ユウは立ち止まった。
建物の向こうに、山がある。
その山の形を、じっと見つめた。
昼間に見た地形図と、よく似ていた。
偶然なのだろうか。
それとも、自分が地形図を見たことで、夢の風景が変化したのだろうか。
ユウは、建物へ向かって歩いた。
しかし、いくら歩いても距離が縮まらなかった。
そのとき。
「ユウ」
声がした。
振り返ると、少女が立っていた。
長い髪。
白い服。
いつもの少女だった。
「……君は」
ユウが言いかけると、少女は首をかしげた。
「どうしたの?」
ユウは、少し驚いた。
これまで、少女は同じ質問を繰り返していた。
『あなたは誰?』
しかし、今日は違った。
「……僕の名前を知ってるの?」
少女は、不思議そうな顔をした。
「知ってるよ」
「どうして?」
少女は答えなかった。
代わりに、遠くの建物を見た。
ユウも、その方向を見た。
「君は、あそこに行ったことがあるの?」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、小さく首を振った。
「分からない」
ユウは眉をひそめた。
「分からない?」
少女は、もう一度建物を見た。
「でも、あそこに何かある気がするの」
ユウは、少女の横顔を見つめた。
「何が?」
少女は答えなかった。
風が吹いた。
草原が大きく揺れた。
その瞬間、遠くの建物の輪郭が、わずかにはっきりした。
ユウは目を凝らした。
建物の一部に、円形の構造が見えた。
その中心には、何かが刻まれているようだった。
ユウは、一歩踏み出した。
しかし、その瞬間。
景色が揺らいだ。
草原が遠ざかる。
少女の姿が薄れていく。
「待って!」
ユウは手を伸ばした。
少女は、こちらを見ていた。
何かを言おうとしている。
しかし、声は聞こえなかった。
次の瞬間、ユウは目を覚ました。
*
部屋は暗かった。
隣では、ミナが眠っている。
ユウは、しばらく天井を見つめていた。
夢の中の少女。
遠くの建物。
そして、山の稜線。
ユウは、静かに起き上がった。
端末を開く。
夢の記憶が薄れる前に、建物の輪郭を描いた。
以前のスケッチよりも、少しだけ詳細だった。
建物の中央には、円形の構造がある。
ユウは、そこを拡大した。
「……」
そして、昼間に見た第零保存区の地形図を開いた。
二つの画像を並べる。
夢の中の風景。
現実の地形。
山の位置。
平原の広がり。
そして、建物があるはずの場所。
ユウは、しばらく画面を見つめていた。
似ている。
しかし、それだけだった。
夢の記憶は不確かだ。
自分が見た地形図に、夢の風景が影響された可能性もある。
それでも、ユウはスケッチを保存した。
そして、セインに短いメッセージを送った。
《夢の風景について、新しいスケッチを描きました》
《次にお会いしたとき、見てもらえますか?》
送信すると、端末を閉じた。
窓の外では、夜明け前の都市が静かに眠っていた。
ユウは、もう一度ベッドに横になった。
しかし、なかなか眠れなかった。
頭の中には、少女の声が残っていた。
『知ってるよ』
彼女は、なぜ自分の名前を知っていたのだろう。
ユウは、目を閉じた。
その問いに答えられる者は、まだいなかった。
*
翌朝。
歴史研究院では、セインが調査申請書を作成していた。
《第零保存区周辺における未調査地形の考古学的検証》
調査目的。
過去の発見資料。
地質情報。
安全管理計画。
必要な人員と設備。
セインは、一つずつ項目を埋めていった。
そして、調査対象区域の地図を表示した。
平原の一角。
周辺では、古い石板が発見されている。
しかし、その場所自体は、詳しく調べられていない。
セインは、過去の調査報告を読み返した。
すると、一つの記述に目が留まった。
《地表下に、自然地形とは異なる反射特性を示す領域を確認》
セインは眉をひそめた。
古い地中探査の記録だった。
調査は途中で終了している。
理由は、機材の故障。
再調査の記録はなかった。
セインは、その部分を拡大した。
反射特性の異なる領域。
それは、人工物の存在を示している可能性があった。
もちろん、地層の違いや鉱物の分布によっても、同じような反応は起こる。
しかし、調べる価値はある。
セインは、調査申請書にその記録を追加した。
そして、静かに呟いた。
「……何があるんだろうな」
研究室の窓から、朝の光が差し込んでいた。
セインは申請書を提出した。
画面に、受付完了の表示が現れた。
《審査中》
彼は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、ユウから届いたメッセージを開いた。
新しい夢のスケッチ。
セインは、その画像を表示した。
草原。
山の稜線。
遠くの建物。
彼は、地形図と並べて見比べた。
しばらくして、セインは小さく息を吐いた。
「……偶然、か」
その言葉には、確信がなかった。
彼は、画面を閉じた。
そして、調査申請の結果を待つことにした。




