↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の記憶  作者: ケンジ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/22

失われた記憶

第一部 創造された世界

科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。


人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。


科学と哲学が交差するSFミステリー。

失われた歴史は、取り戻せるのだろうか。


ユウは、それまで深く考えたことがなかった。


過去に何が起きたのか。


誰が生き、何を考え、どのような世界を築いていたのか。


そのすべてを知ることは、できない。


どれほど優れた記録技術が存在しても、残されなかった出来事を後から確かめることは難しい。


だから、歴史には空白がある。


それは当然のことだと思っていた。


しかし、空白にも種類がある。


記録が少しずつ失われた時代。


災害によって特定の地域の資料が消えた時代。


そして、ある時点を境に、それまで存在していた記録の多くが突然確認できなくなる時代。


大断絶。


ユウが調べ始めたのは、その最後の空白だった。


*


歴史研究院の地下保存庫は、ユウの想像よりも広かった。


長い通路の両側に、資料保管室が並んでいる。


温度と湿度は厳密に管理され、古い文献や記録媒体が保存されていた。


「こちらです」


セインが案内したのは、保存庫の奥にある小さな閲覧室だった。


室内には、立体投影装置と資料解析用の端末が設置されている。


「ここなら、複数の資料を同時に比較できます」


「助かります」


ユウは椅子に腰を下ろした。


セインは、壁面に古い医療記録を表示した。


「まず、これを見てください」


画面には、人体の図解が映し出された。


古代の人間。


その身体の内部構造が、細かく描かれていた。


「以前お見せした資料よりも、保存状態がいいですね」


ユウが言った。


「ええ。比較的最近、別の保存区から移管されたものです」


「年代は?」


「正確には分かっていません。ただ、文字の特徴から、大断絶以前のものと考えられています」


ユウは頷いた。


図解を拡大する。


循環器系。


消化器系。


神経系。


そして、生殖器系。


現在の人間と共通する部分は多い。


しかし、いくつかの器官には明確な違いがあった。


「自然出産を前提とした身体構造ですね」


ユウが言った。


「そう考えられています」


「それに、消化器系も今より複雑です」


セインは頷いた。


「古代の人間は、食物から栄養を得ることを生活の中心にしていましたから」


「今でも食事はできますけどね」


「ええ。ただ、現在の身体では、必要なエネルギーの多くを標準栄養供給によって補っています」


ユウは図解を見つめた。


古代の身体は、食物を摂取し、消化し、栄養を吸収することを前提にしている。


現在の人間にも消化機能は残っている。


しかし、その役割は以前ほど大きくない。


「長い時間をかけて、身体が変わったんでしょうね」


ユウが言うと、セインは静かに頷いた。


「そう説明されています」


ユウは、その言い方に気づいた。


「セインさんは、何か違う考えを?」


「いえ。説明そのものは合理的です」


セインは画面を切り替えた。


「問題は、その過程を示す資料が少ないことです」


*


壁面に、複数の資料が並んだ。


古代の医療記録。


大断絶後の医学教本。


現代の人体構造に関する研究。


ユウは、それぞれを比較した。


「……なるほど」


古代の記録には、自然出産や食物の消化を中心とした身体構造が描かれている。


一方、大断絶後の医学教本には、現在の人間に近い身体構造が示されていた。


「ずいぶん変化していますね」


「ええ」


「でも、その間の記録がない」


「正確には、非常に少ないんです」


セインは資料の一覧を表示した。


大断絶以前のものとされる資料。


大断絶以後のものとされる資料。


そして、年代が確定できない資料。


「空白の期間が、どれくらいあるのかも分からないんですね」


ユウが尋ねた。


「そうです」


「記録媒体が失われた?」


「それが有力な説の一つです」


セインは頷いた。


「ただし、問題があります」


「何でしょう」


「記録が失われた理由を説明する資料も、ほとんど残っていないんです」


ユウは考え込んだ。


「災害なら、被害の記録が残りそうですね」


「必ずしもそうとは限りません。災害が広範囲に及べば、記録を残す余裕がなかった可能性もあります」


「戦争なら?」


「同じことが言えます」


セインは静かに続けた。


「ただ、私は別の点が気になっています」


「別の点?」


「失われた資料の種類です」


セインは、記録の分類表を表示した。


そこには、古代から現代にかけて確認されている資料の分布が示されていた。


医療。


歴史。


建築。


文学。


宗教。


行政。


ユウは画面を見つめた。


「……これは?」


「大断絶前後で、どの分野の記録がどの程度確認されているかを比較したものです」


「医療と歴史の減少が大きいですね」


「ええ」


「でも、宗教文献は比較的残っている」


セインは頷いた。


「そうなんです」


ユウは、しばらく考えた。


「宗教文献は、写本が多かったからでは?」


「その可能性は高いと思います」


「なら、不思議ではないですね」


「ええ。少なくとも、この表だけでは」


セインは画面を閉じた。


ユウは、少し意外に思った。


「そこまで調べて、結論は出ていないんですか?」


「出ていません」


セインは微笑んだ。


「歴史研究は、そういうものです」


ユウも笑った。


「意識研究と似ていますね」


「だから、あなたとは話が合うのかもしれません」


*


二人は、さらに資料を調べた。


古い医療記録には、現在では使用されていない器官の名称が多数記されていた。


それらの一部は、現代の医学教本にも歴史的な用語として残っている。


しかし、別の名称に置き換えられたものもあった。


ユウは、ある項目に目を留めた。


「セインさん、この部分を拡大できますか?」


「どこです?」


「ここです」


画面には、古い文字で書かれた文章が表示された。


その下に、複数の翻訳候補が並んでいた。


《生体機能の維持には、継続的な栄養摂取が必要である》


ユウは首をかしげた。


「当たり前のことですね」


「そうですね」


「でも、なぜわざわざ書いてあるんでしょう」


セインは原文を確認した。


「これは医療教本の一部ですから、基本的な説明だったのでは?」


「なるほど」


ユウは頷いた。


そして、隣の項目を読んだ。


《栄養摂取の停止は、身体機能の低下を引き起こす》


「これも当然ですね」


「ええ」


ユウは少し笑った。


「古代の医学教本って、ずいぶん基本的なことから説明していたんですね」


セインは頷いた。


「学習者に向けた資料だったのでしょう」


ユウは、次の項目を開いた。


《生殖は、二個体の生殖細胞の結合によって開始される》


「……そうか」


ユウは呟いた。


古代の人間にとって、自然妊娠は当たり前のことだった。


しかし、現代では人工子宮による出生が標準となっている。


生殖細胞を利用した初期発生技術は今も医学の基礎にあるが、妊娠と出産の過程は完全に管理されている。


ユウは、資料を読み進めた。


「こうして見ると、昔の人間の生活は、今とはずいぶん違いますね」


「そうですね」


セインは静かに答えた。


「それでも、彼らも私たちと同じように、自分たちの生活を当たり前だと思っていたのでしょう」


ユウは頷いた。


「そうでしょうね」


*


休憩時間。


二人は研究院の食堂にいた。


ユウは栄養カプセルを口に入れた。


セインは、温かい飲み物を注文していた。


「珍しいですね」


ユウが言った。


「何がです?」


「飲み物を選ぶなんて」


「昔から好きなんです」


セインはカップを持ち上げた。


「香りが落ち着くんですよ」


ユウは笑った。


「うちでも最近、昔の料理を作ったんです」


「ご自分で?」


「いえ、妻と娘が」


「なるほど」


セインは小さく笑った。


「それは楽しそうですね」


「娘の宿題だったんです」


ユウは、リナが料理を食べて喜んでいたことを話した。


セインは、穏やかな表情で聞いていた。


「いいですね」


「セインさんは、料理をするんですか?」


「以前は、時々」


「今は?」


セインは少し考えた。


「一人だと、あまり作りませんね」


ユウは、前に聞いた言葉を思い出した。


『以前は、いました』


セインには、妻がいた。


しかし、今はいない。


ユウは、そのことには触れなかった。


代わりに尋ねた。


「セインさんは、どうして古代史の研究を始めたんですか?」


セインはカップを置いた。


「最初は、宗教に興味があったんです」


「創世教ですか?」


「ええ」


「信仰がきっかけ?」


「そうですね」


セインは少し笑った。


「子どもの頃、創世教の教えを聞いて、不思議に思ったことがありました」


「何を?」


「神が私たちを創ったのなら、神は何のために私たちを創ったのだろう、と」


ユウは頷いた。


「確かに」


「誰かに尋ねても、答えは同じでした」


「どんな?」


「神の意思は、人間には理解できない」


セインは、カップの中を見つめた。


「でも、私は納得できなかった」


「どうして?」


「理解できないと決めつけたら、考えることをやめてしまうでしょう?」


ユウは微笑んだ。


「セインさんらしいですね」


「そうですか?」


「ええ」


セインも笑った。


「それで、調べ始めたんです」


「神の意思を?」


「最初は、そうでした」


「今は?」


セインは、少し考えた。


「今は、神について人間が何を語ってきたのかを調べています」


ユウは、その違いを考えた。


神そのものを調べる。


神についての記録を調べる。


似ているようで、まったく違う。


「その方が、研究としては確かですね」


「ええ」


セインは頷いた。


「少なくとも、記録は存在しますから」


*


午後の調査で、二人は古い記録媒体の一覧を確認していた。


大断絶以前のものと推定される資料は、各地の保存区から少しずつ発見されている。


しかし、その多くは破損していた。


「第零保存区の資料が多いですね」


ユウが言った。


「ええ。あの地域では、比較的古い遺構が確認されています」


「なぜ第零なんですか?」


セインは少し考えた。


「保存区の分類が始まった頃から、その名称が使われていたようです」


「最初に発見されたから?」


「そういう説があります。ただ、名称の由来を示す記録は残っていません」


ユウは画面を見つめた。


第零保存区。


以前、夢で見た図形と似た模様が刻まれた石板が発見された場所だった。


「この地域の地形資料はありますか?」


ユウが尋ねた。


「ありますよ」


セインは地図を表示した。


山地。


平原。


古い河川の跡。


現在は人がほとんど住んでいない地域だった。


「この辺りは、昔から居住地だったんですか?」


「断続的に人が住んでいた痕跡があります」


「大断絶以前も?」


「その可能性があります」


ユウは地図を拡大した。


地形は、長い時間の中で変化する。


河川の流れが変わり、建物が失われ、植物が生い茂る。


それでも、大きな山の位置や地形の起伏は、比較的長く残る。


ユウは、ある場所に目を留めた。


「……ここは?」


「どこです?」


「この平原です」


画面には、山に囲まれた広い土地が表示されていた。


平原の端には、緩やかな丘が続いている。


ユウは、地図を回転させた。


視点を低くする。


丘の向こうに、山の稜線が重なった。


その瞬間、ユウの手が止まった。


「……あれ?」


セインが顔を上げた。


「どうしました?」


ユウは答えなかった。


画面に映る風景を見つめていた。


緩やかな丘。


遠くの山。


その間に広がる平原。


どこかで見たことがある。


ユウは、ゆっくり息を吐いた。


「……似ている」


「何に?」


ユウはセインを見た。


「夢の風景に」


*


「夢の風景?」


セインは、画面を見つめた。


「以前お話しした、繰り返し見る夢です」


「草原と、遠くの建物が見えるという」


「はい」


ユウは端末を操作した。


自分が描いた夢のスケッチを表示する。


そこには、広い草原と、遠くに見える建物の輪郭が描かれていた。


そして、その背後には山があった。


セインは、スケッチと地形図を並べた。


「……確かに、似ていますね」


ユウは頷いた。


「ただ、偶然かもしれません」


「そうですね」


「夢の風景は、記憶の中の景色を組み合わせて作られることがあります」


「ええ」


「僕が以前、この地域の画像を見ていた可能性もあります」


セインは頷いた。


「それも考えられます」


ユウは、地図をさらに拡大した。


「でも、少し気になることがあります」


「何でしょう」


「夢では、この辺りに建物が見えるんです」


ユウは平原の一角を指さした。


そこには、現在の地図上では何も表示されていなかった。


「この場所に、遺跡はありますか?」


セインは調査記録を確認した。


「……少なくとも、主要な遺跡としては登録されていません」


「調査されていない?」


「部分的な地表調査は行われています。ただ、詳細な地下調査は限られていますね」


ユウは考え込んだ。


「地形が似ているだけでは、何の証拠にもなりませんね」


「ええ」


セインは静かに答えた。


「ただし、調べる理由にはなります」


ユウは顔を上げた。


「調べる?」


「地形資料と、過去の調査記録を比較してみましょう」


「夢の内容を根拠に?」


セインは首を振った。


「いいえ」


そして、地図の別の場所を指さした。


「この平原の周辺では、古い石板が複数発見されています」


「例の図形が刻まれた石板も?」


「ええ」


「なるほど」


「つまり、この地域に古い人間の活動があったことは、すでに確認されています」


セインは続けた。


「その周辺に未調査の遺構が残っている可能性を調べるのは、歴史研究として自然なことです」


ユウは頷いた。


「夢とは切り離して考えるんですね」


「そうです」


セインは微笑んだ。


「夢が正しいと証明するために調べるのではありません。資料から、何が分かるかを調べるんです」


ユウは笑った。


「その考え方、好きです」


「ありがとうございます」


*


二人は、過去の調査記録を確認した。


第零保存区周辺では、地表の石材や古い建築物の一部が発見されていた。


しかし、地形が複雑であることや、保護区域が広範囲に及ぶことから、詳細な調査が行われていない場所も多かった。


ユウは、地形図を見つめた。


「この平原、以前は川が流れていたんですね」


「ええ」


セインは古い地質資料を表示した。


「現在は地下水脈になっていますが、地層の調査から、かつて地表を流れていた可能性が高いと考えられています」


「川の近くなら、居住地があっても不思議ではない」


「そうですね」


ユウは、夢のスケッチを見た。


草原。


遠くの建物。


山の稜線。


そして、少女。


白い服を着た、長い髪の少女。


ユウは、スケッチの端に描かれた小さな人影を見つめた。


「……」


セインが尋ねた。


「どうしました?」


「いえ」


ユウは首を振った。


「少し考えていました」


セインは、それ以上聞かなかった。


ユウは、少女について詳しく話していなかった。


夢の中に人がいることは伝えていた。


しかし、その少女が何度も同じ問いを投げかけてくることは、まだ話していなかった。


『あなたは誰?』


その言葉を思い出すたび、ユウは不思議な気持ちになった。


なぜ、少女はそんなことを尋ねるのだろう。


なぜ、自分はその夢を繰り返し見るのだろう。


そして、なぜ夢の風景が、古い遺跡のある地域と似ているのだろう。


答えは、まだなかった。


*


調査を終える頃には、外は暗くなっていた。


セインは、資料を整理しながら言った。


「ユウさん」


「はい」


「第零保存区の調査計画を、研究院に提出してみようと思います」


ユウは驚いた。


「現地調査ですか?」


「ええ」


「許可が下りるでしょうか」


「分かりません」


セインは微笑んだ。


「ただ、未調査区域の地形と、周辺で発見された古い石板の分布には、調べる価値があります」


ユウは頷いた。


「僕にも手伝えることはありますか?」


「もちろんです」


「何をすれば?」


「古い医療記録と、現代の身体構造の比較を続けてください」


「それが現地調査に関係するんですか?」


「直接関係するかは分かりません」


セインは静かに答えた。


「でも、私たちは同じ時代の資料を調べています」


ユウは考え込んだ。


「大断絶以前の世界……」


「ええ」


セインは頷いた。


「その世界が、どのようなものだったのかを知りたいんです」


ユウは、セインの言葉を聞いていた。


古代の人々。


失われた記録。


現在とは異なる身体。


そして、創世教の古い図形。


それぞれは、別々の問題に見えた。


しかし、すべてが同じ歴史の空白へとつながっている。


ユウは、静かに頷いた。


「僕もです」


*


その夜。


ユウは、自宅の居間で地形図を眺めていた。


ミナが隣に座った。


「また調べもの?」


「うん」


「最近、ずいぶん忙しそうね」


「そうだね」


ミナは画面を覗き込んだ。


「これは?」


「第零保存区っていう地域の地図」


「聞いたことあるわ」


「古い遺跡が残っている場所なんだ」


「そこに行くの?」


ユウは少し驚いた。


「どうして分かったの?」


「だって、そんな顔してるもの」


ミナは笑った。


「何か面白いことを見つけたときの顔」


ユウも笑った。


「まだ、行けるか分からないけどね」


「そう」


ミナは、しばらく地図を見つめていた。


「危ない場所じゃないの?」


「調査区域は管理されているよ。もちろん、現地に行くなら安全確認は必要だけど」


「なら、いいけど」


ミナは頷いた。


そして、少しだけ真剣な表情になった。


「ユウ」


「何?」


「最近、ちゃんと眠れてる?」


ユウは、少し考えた。


「眠れてるよ」


「本当に?」


「うん」


ミナは、ユウの顔を見つめた。


「夢のこと、まだ気にしてるんでしょう?」


ユウは黙った。


ミナは続けた。


「昔から見てる夢だし、気になるのは分かる。でも、無理はしないでね」


「分かってる」


「約束よ」


ユウは頷いた。


「約束する」


ミナは、少し安心したように微笑んだ。


そのとき、寝室からリナの声がした。


「お父さーん!」


「どうした?」


「今日のお話、まだー?」


ユウは笑った。


「今行くよ!」


ミナが肩をすくめた。


「研究者は忙しいわね」


「本当にね」


ユウは端末を閉じた。


*


リナの寝室では、小さな照明が灯っていた。


「今日は何のお話?」


リナが尋ねた。


ユウは少し考えた。


「昔の人が、遠い場所へ旅をする話はどう?」


「冒険?」


「そう」


「いいね!」


ユウは、古い物語を読み始めた。


山を越え、川を渡り、見知らぬ土地を目指す旅人の話だった。


旅人は、道に迷いながらも、少しずつ目的地に近づいていく。


やがて、リナの目が閉じ始めた。


「お父さん……」


「何?」


「旅人は、ちゃんと帰ってくる?」


ユウは微笑んだ。


「帰ってくるよ」


「よかった……」


リナは、安心したように眠りについた。


ユウは、しばらく娘の寝顔を見つめていた。


そして、静かに部屋を出た。


*


その夜、ユウは再び夢を見た。


草原だった。


風が吹いている。


遠くには、見覚えのある山の稜線が広がっていた。


ユウは、ゆっくり歩き始めた。


足元の草が揺れる。


空は明るかった。


しかし、太陽の位置は分からなかった。


しばらく歩くと、遠くに建物が見えた。


いつもの夢と同じだった。


輪郭はぼやけている。


しかし、今日は少しだけ近くに見えた。


ユウは立ち止まった。


建物の向こうに、山がある。


その山の形を、じっと見つめた。


昼間に見た地形図と、よく似ていた。


偶然なのだろうか。


それとも、自分が地形図を見たことで、夢の風景が変化したのだろうか。


ユウは、建物へ向かって歩いた。


しかし、いくら歩いても距離が縮まらなかった。


そのとき。


「ユウ」


声がした。


振り返ると、少女が立っていた。


長い髪。


白い服。


いつもの少女だった。


「……君は」


ユウが言いかけると、少女は首をかしげた。


「どうしたの?」


ユウは、少し驚いた。


これまで、少女は同じ質問を繰り返していた。


『あなたは誰?』


しかし、今日は違った。


「……僕の名前を知ってるの?」


少女は、不思議そうな顔をした。


「知ってるよ」


「どうして?」


少女は答えなかった。


代わりに、遠くの建物を見た。


ユウも、その方向を見た。


「君は、あそこに行ったことがあるの?」


少女は、しばらく黙っていた。


そして、小さく首を振った。


「分からない」


ユウは眉をひそめた。


「分からない?」


少女は、もう一度建物を見た。


「でも、あそこに何かある気がするの」


ユウは、少女の横顔を見つめた。


「何が?」


少女は答えなかった。


風が吹いた。


草原が大きく揺れた。


その瞬間、遠くの建物の輪郭が、わずかにはっきりした。


ユウは目を凝らした。


建物の一部に、円形の構造が見えた。


その中心には、何かが刻まれているようだった。


ユウは、一歩踏み出した。


しかし、その瞬間。


景色が揺らいだ。


草原が遠ざかる。


少女の姿が薄れていく。


「待って!」


ユウは手を伸ばした。


少女は、こちらを見ていた。


何かを言おうとしている。


しかし、声は聞こえなかった。


次の瞬間、ユウは目を覚ました。


*


部屋は暗かった。


隣では、ミナが眠っている。


ユウは、しばらく天井を見つめていた。


夢の中の少女。


遠くの建物。


そして、山の稜線。


ユウは、静かに起き上がった。


端末を開く。


夢の記憶が薄れる前に、建物の輪郭を描いた。


以前のスケッチよりも、少しだけ詳細だった。


建物の中央には、円形の構造がある。


ユウは、そこを拡大した。


「……」


そして、昼間に見た第零保存区の地形図を開いた。


二つの画像を並べる。


夢の中の風景。


現実の地形。


山の位置。


平原の広がり。


そして、建物があるはずの場所。


ユウは、しばらく画面を見つめていた。


似ている。


しかし、それだけだった。


夢の記憶は不確かだ。


自分が見た地形図に、夢の風景が影響された可能性もある。


それでも、ユウはスケッチを保存した。


そして、セインに短いメッセージを送った。


《夢の風景について、新しいスケッチを描きました》


《次にお会いしたとき、見てもらえますか?》


送信すると、端末を閉じた。


窓の外では、夜明け前の都市が静かに眠っていた。


ユウは、もう一度ベッドに横になった。


しかし、なかなか眠れなかった。


頭の中には、少女の声が残っていた。


『知ってるよ』


彼女は、なぜ自分の名前を知っていたのだろう。


ユウは、目を閉じた。


その問いに答えられる者は、まだいなかった。


*


翌朝。


歴史研究院では、セインが調査申請書を作成していた。


《第零保存区周辺における未調査地形の考古学的検証》


調査目的。


過去の発見資料。


地質情報。


安全管理計画。


必要な人員と設備。


セインは、一つずつ項目を埋めていった。


そして、調査対象区域の地図を表示した。


平原の一角。


周辺では、古い石板が発見されている。


しかし、その場所自体は、詳しく調べられていない。


セインは、過去の調査報告を読み返した。


すると、一つの記述に目が留まった。


《地表下に、自然地形とは異なる反射特性を示す領域を確認》


セインは眉をひそめた。


古い地中探査の記録だった。


調査は途中で終了している。


理由は、機材の故障。


再調査の記録はなかった。


セインは、その部分を拡大した。


反射特性の異なる領域。


それは、人工物の存在を示している可能性があった。


もちろん、地層の違いや鉱物の分布によっても、同じような反応は起こる。


しかし、調べる価値はある。


セインは、調査申請書にその記録を追加した。


そして、静かに呟いた。


「……何があるんだろうな」


研究室の窓から、朝の光が差し込んでいた。


セインは申請書を提出した。


画面に、受付完了の表示が現れた。


《審査中》


彼は、しばらくその文字を見つめていた。


そして、ユウから届いたメッセージを開いた。


新しい夢のスケッチ。


セインは、その画像を表示した。


草原。


山の稜線。


遠くの建物。


彼は、地形図と並べて見比べた。


しばらくして、セインは小さく息を吐いた。


「……偶然、か」


その言葉には、確信がなかった。


彼は、画面を閉じた。


そして、調査申請の結果を待つことにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。