完全な生命
第一部 創造された世界
科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。
人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。
科学と哲学が交差するSFミステリー。
「お父さん、人間って昔はどうやって生まれてたの?」
朝食の席で、リナが尋ねた。
ユウは手にしていた栄養カプセルを口に入れかけたまま、動きを止めた。
「どうしたの、急に」
「今日、学校で生命の歴史を勉強するんだって」
リナは机の上に学習端末を置いた。
画面には、さまざまな時代の人間の姿が並んでいた。
古い衣服をまとった人々。
病院の寝台に横たわる女性。
そして、透明な人工子宮の中で眠る胎児。
「昔は、お母さんのお腹の中で赤ちゃんが育ってたんだよね?」
「そうだよ」
「本当に?」
「本当に」
リナは不思議そうに首をかしげた。
「どうやって?」
ユウは少し考えた。
「昔の人間には、自然に子どもを産む仕組みがあったんだ」
「今はないの?」
「今の人間は、人工子宮を使うことを前提にした身体になっているからね」
「どうして?」
「安全だからだよ。昔は出産で命を落とす人もいたんだ」
リナは目を丸くした。
「赤ちゃんも?」
「そうだね。赤ちゃんが亡くなることもあった」
「怖いね」
「うん」
ミナが食卓にやってきた。
「でも、昔のお母さんたちは、みんなそうして子どもを産んでいたのよ」
「ミナも?」
「私は違うわよ」
ミナは笑った。
「リナは人工子宮で育ったでしょ?」
「うん!」
リナは嬉しそうに頷いた。
「私、覚えてるよ!」
ユウは笑った。
「生まれる前のことを?」
「違うよ! 写真!」
ミナが端末を操作すると、家族の記録が表示された。
透明な容器の中で、小さな赤ん坊が眠っている。
リナだった。
まだ身体は小さく、目も閉じていた。
「これ、私?」
「そうよ」
ミナが答えた。
「毎日、会いに行ってたんだから」
「お父さんも?」
「もちろん」
ユウは頷いた。
「仕事が終わったら、必ず会いに行ってた」
「何してたの?」
「話しかけてたよ」
「聞こえてた?」
「分からないな」
リナは笑った。
「また分からない!」
ミナも笑った。
「お父さんは、研究者なのに分からないことが多いのね」
「研究者だからこそ、分からないことが多いんだよ」
ユウがそう言うと、リナは少し考えた。
「じゃあ、私も研究者になろうかな」
「いいと思うよ」
「でも、分からないことばっかりなのは嫌だな」
三人は笑った。
ユウは、画面の中の小さなリナを見つめた。
人工子宮の中で眠っていた娘。
あの頃、ユウは毎日、成長記録を確認していた。
指が動いた。
目を開けた。
小さな身体が少しずつ大きくなった。
その一つ一つが、かけがえのない出来事だった。
科学技術によって管理された誕生であっても、そこに感じた喜びは、少しも小さくならなかった。
*
意識科学研究所では、朝から定例会議が行われていた。
議題は、神経機能の長期維持に関する研究だった。
「現在の治療技術では、身体の大部分を長期間維持することが可能です」
研究員が説明した。
「しかし、神経系の一部については、依然として機能低下を完全に防ぐことができていません」
表示面には、年齢別の神経機能の変化が示されていた。
若年期には安定している数値が、高齢期に入ると少しずつ低下していく。
「特に問題なのは、記憶の統合に関わる領域です」
ユウは資料を見つめた。
「原因は?」
「複数の仮説があります。ただ、どれも決定的ではありません」
「修復技術の限界ですか?」
「それも一因と考えられています」
別の研究員が発言した。
「身体のほかの組織では、同様の問題はほとんど発生していません」
会議室に短い沈黙が流れた。
ユウは、表示面に並んだ数値を見つめた。
身体の機能は維持できる。
しかし、意識を支える神経系は、長い時間の中で少しずつ衰えていく。
それは、長年にわたって研究されてきた問題だった。
「結局、意識の仕組みが完全には分かっていないことが、最大の障害ですね」
ユウが言った。
研究員たちは頷いた。
「そうですね」
「記憶を保存することと、本人の意識を維持することは同じではありませんから」
ユウは考え込んだ。
記憶を複製した存在は、本人なのだろうか。
仮に、ある人間の記憶を完全に再現できたとしても、それは同じ意識を持つことになるのだろうか。
この問題には、いまだに答えがなかった。
*
昼過ぎ。
ユウはセインから届いたメッセージを開いた。
《先日お話しした古い文献について、少し興味深い記述が見つかりました》
ユウは返信した。
《どのような内容ですか?》
しばらくして、セインから資料が送られてきた。
古い医療記録の断片だった。
そこには、現在ではほとんど使われていない身体構造の名称が並んでいた。
ユウは画面を拡大した。
《自然妊娠》
《胎盤》
《臍帯》
《分娩》
どれも、歴史資料では知られている言葉だった。
しかし、その横に記されていた図解が気になった。
古い人間の身体を描いたものだった。
「……ずいぶん違うな」
ユウは呟いた。
現在の人間にも、古い身体構造に由来すると考えられている部分は残っている。
しかし、図解に描かれた身体は、現代の標準的な解剖図とは異なっていた。
特に、生殖に関わる器官の構造が大きく違う。
ユウはセインに連絡した。
「資料、見ました」
『どう思います?』
「興味深いですね。ただ、古い医療図解には誤りも多いでしょう」
『そのとおりです』
「これだけでは、何とも言えません」
『私も同じ考えです』
セインは少し間を置いた。
『ただ、同じ構造を描いた資料が、複数の地域で発見されています』
「同じ時代のものですか?」
『年代は確定できていません。ですが、異なる系統の文献である可能性が高い』
ユウは画面を見つめた。
「それなら、当時の身体構造をある程度正確に描いていた可能性がありますね」
『ええ』
「でも、それほど不思議なことではないでしょう。人間の身体は長い時間をかけて変化してきたんですから」
『そうですね』
セインは静かに答えた。
『私も、そう教わりました』
ユウは、その言い方が少し気になった。
「何か疑問が?」
『疑問というほどではありません。ただ、古い時代の医療技術について調べていると、記録のつながりが途切れる部分があるんです』
「大断絶ですか?」
『ええ』
大断絶。
古代から現代へと続く歴史の中で、記録の連続性が大きく失われた時期を指す言葉だった。
その年代も原因も、確定していない。
戦争。
大規模災害。
情報保存技術の変化。
さまざまな説が唱えられていた。
しかし、どれも決定的な証拠を欠いていた。
『身体の変化についても、途中の記録が十分に残っていません』
セインが続けた。
「つまり、変化の過程が分からない?」
『そういうことです』
ユウは頷いた。
「確かに、興味深いですね」
『ただし、資料が失われたからといって、歴史そのものが存在しなかったことにはなりません』
「もちろんです」
『そこは区別しておきたい』
ユウは笑った。
「セインさんらしいですね」
『どういう意味です?』
「慎重だということです」
セインも小さく笑った。
『歴史研究者にとっては、褒め言葉ですよ』
*
その日の夕方。
ユウは、古い医療記録を調べていた。
自然出産。
人工子宮。
生殖機能の変化。
現在の医療では、人工子宮による出生が標準となっている。
それは、長い医療技術の発展によって実現したものだと説明されていた。
しかし、古い資料を調べるほど、ユウは一つの疑問を抱くようになった。
人間の身体は、どのような過程で現在の形になったのだろう。
自然に子どもを産んでいた人類が、人工子宮を利用するようになった。
それ自体は理解できる。
だが、現在の人間は、人工子宮の利用を前提とした身体構造を持っている。
その変化が、いつ、どのように起きたのか。
歴史資料には、明確な説明がなかった。
ユウは、現代の解剖学資料を開いた。
そこには、人体の構造が詳細に示されていた。
循環系。
神経系。
消化に関わる器官。
生殖に関わる器官。
それぞれの機能は、現代の科学によって十分に理解されている。
しかし、古代の人体と比較すると、いくつかの違いがあった。
ユウは、資料を並べて表示した。
古代の身体。
現代の身体。
似ている。
だが、同じではない。
「……当然か」
ユウは呟いた。
身体の構造は、長い時間の中で変化する。
医療技術による改良も加わっている。
何も不思議なことではない。
そう考え、資料を閉じようとした。
そのとき、ある記述が目に留まった。
《現代型生殖補助機構の成立過程については、歴史資料の不足により詳細不明》
ユウは手を止めた。
詳細不明。
それ自体は珍しい表現ではなかった。
古代の歴史には、分からないことが多い。
しかし、身体の構造に関わる重大な変化について、詳しい記録が残されていない。
そのことが、妙に気になった。
*
帰宅すると、ミナが台所に立っていた。
珍しく、調理をしている。
「おかえり」
「ただいま。何を作ってるの?」
「リナの宿題に付き合ってるの」
ユウは台所を覗き込んだ。
食材がいくつか並んでいた。
野菜。
穀物。
そして、香りの強い調味料。
「昔の食事を再現する課題なんだって」
ミナが言った。
「なるほど」
「でも、思ったより大変ね」
ユウは笑った。
「昔の人は毎日やってたらしいからね」
「信じられないわ」
ミナは鍋をかき混ぜた。
「栄養カプセルなら、数秒で終わるのに」
「それだけ、食事が生活の大きな部分を占めていたんだろうね」
「お父さん!」
リナが走ってきた。
「今日は昔の人のご飯を食べるんだよ!」
「楽しみだね」
「でもね、ちょっと変な匂いがする」
ミナが振り返った。
「変な匂いって言わないの」
「だって!」
三人は笑った。
しばらくして、料理が完成した。
温かい穀物料理と、野菜を煮込んだものだった。
リナは慎重に一口食べた。
「……おいしい!」
ミナは安心したように笑った。
「よかった」
ユウも口に運んだ。
香りが広がる。
栄養カプセルでは得られない感覚だった。
「確かに、おいしいね」
「でしょ!」
リナは得意げだった。
「昔の人は、毎日こんなの食べてたんだよね?」
「そうだよ」
「いいなあ」
ミナは笑った。
「毎日作るのは大変よ」
「じゃあ、お父さんが作ればいいじゃん」
ユウはむせそうになった。
「僕が?」
「うん!」
ミナが楽しそうに笑った。
「いい考えね」
「……考えておくよ」
リナは満足そうに頷いた。
その夜、三人はいつもより長い時間、食卓を囲んだ。
食事の準備に時間がかかり、後片づけも必要だった。
それでも、ユウは悪くないと思った。
効率だけでは測れない価値がある。
そんな当たり前のことを、久しぶりに感じていた。
*
食事のあと、ユウはリナの宿題を手伝っていた。
学習端末には、古代の生活に関する問題が並んでいた。
《昔の人間が、現在の人間と大きく異なっていた点を三つ挙げなさい》
リナは指を折りながら答えた。
「一つ目、食べ物を作ってた!」
「うん」
「二つ目、赤ちゃんがお母さんのお腹で育ってた!」
「そうだね」
「三つ目……」
リナは考え込んだ。
「何だろう」
ユウは画面を見た。
そこには、古い人間の生活が紹介されていた。
病気。
怪我。
寿命。
そして、身体の構造。
「昔は、病気を治すのが難しかったんだよ」
ユウが言った。
「今は治せるの?」
「多くの病気はね」
「じゃあ、今の人間の方がすごいね!」
リナは嬉しそうに言った。
ユウは少し考えた。
「そうとも限らないよ」
「どうして?」
「昔の人たちは、今みたいな技術がなくても生きていたんだ」
「でも、病気になったら大変だったんでしょ?」
「そうだね」
「じゃあ、今の方がいいじゃん」
ユウは笑った。
「確かに、そういう考え方もあるね」
リナは端末に答えを書き込んだ。
そして、ふと顔を上げた。
「お父さん」
「何?」
「昔の人と今の人って、同じ人間なんだよね?」
ユウは頷いた。
「もちろん」
「でも、こんなに違うんだね」
ユウは、画面に表示された古代の人間の姿を見た。
そこには、幼い子どもを抱いた女性が描かれていた。
その隣には、現在の人間の身体構造が示されていた。
二つの姿は、よく似ていた。
しかし、身体の内部には、さまざまな違いがあった。
「……そうだね」
ユウは静かに答えた。
「ずいぶん変わったんだね」
*
翌日。
ユウは研究所で、カイに声をかけた。
「少し調べたいことがあるんだ」
「今度は何です?」
「人間の身体の変化について」
カイは目を丸くした。
「また専門外ですか?」
「そうなるね」
「ユウさん、最近ずいぶん研究範囲が広がってますね」
「自分でもそう思うよ」
ユウは端末を操作した。
「古代の人間と現代の人間を比較した研究って、どれくらいある?」
「かなりあると思いますよ」
「身体構造の変化を、連続的に追ったものは?」
カイは少し考えた。
「それは……どうでしょう」
「調べてみたいんだ」
「何か理由が?」
ユウは、昨日のリナとの会話を思い出した。
昔の人と今の人って、同じ人間なんだよね?
「ちょっと気になってね」
カイは端末を操作した。
「医学研究院の資料が使えるはずです」
「ありがとう」
「ただし、閲覧制限がある資料もありますよ」
「なぜ?」
「古い医療記録には、個人情報や未確認の研究結果が含まれていることがありますから」
「なるほど」
カイは検索結果を表示した。
複数の研究資料が並んでいた。
ユウは、その中の一つを開いた。
《古代人類と現代人類の身体構造比較》
研究内容は、一般的なものだった。
古代の身体。
現代の身体。
その違いを、医学的に説明している。
ユウは、資料を読み進めた。
しかし、途中で手が止まった。
ある項目に、短い注記があった。
《現代型人体への移行過程については、十分な連続資料が存在しない》
ユウは、画面を見つめた。
昨日見た資料にも、似た記述があった。
偶然ではない。
複数の研究で、同じ問題が指摘されている。
ユウは、カイに尋ねた。
「これ、どう思う?」
カイは画面を覗き込んだ。
「資料が不足しているんですね」
「うん」
「大断絶の影響でしょう」
「そうだろうね」
「何か問題が?」
ユウは少し考えた。
「問題というほどじゃない。ただ……」
「ただ?」
「僕たちは、古代の人間から今の人間へと変化してきたと教わっている」
「そうですね」
「でも、その過程を示す資料が十分に残っていない」
カイは頷いた。
「歴史研究では、よくあることじゃないですか?」
「そうだね」
ユウは画面を閉じた。
「たぶん、そうなんだろう」
しかし、心のどこかに、小さな疑問が残っていた。
*
その夜。
ユウはセインに連絡した。
「少し、相談したいことがあります」
『何でしょう』
「古代人類と現代人類の身体構造についてです」
『また専門分野が広がりましたね』
ユウは笑った。
「カイにも同じことを言われました」
『それで?』
「身体構造の変化を示す連続的な資料が、十分に残っていないようなんです」
『ええ。そうですね』
「セインさんは、どう考えていますか?」
しばらく沈黙があった。
やがて、セインが答えた。
『私は、二つの可能性を考えています』
「二つ?」
『一つは、単純に記録が失われたということです』
「もう一つは?」
『変化の過程そのものが、私たちの想像とは違っていた可能性です』
ユウは黙った。
「……どういう意味ですか?」
『分かりません』
セインは静かに答えた。
『だから、調べているんです』
ユウは思わず笑った。
「また、それですか」
『何か問題でも?』
「いいえ。むしろ、安心しました」
『安心?』
「セインさんも、分からないことが多いんだなと思って」
セインは小さく笑った。
『研究者ですからね』
二人は、しばらく笑った。
そして、セインが言った。
『ユウさん』
「はい」
『もしよければ、今度一緒に調べませんか?』
「何をです?」
『大断絶以前の医療記録です』
ユウは少し考えた。
「古い資料が残っているんですか?」
『断片的ですが、あります』
「どこに?」
『歴史研究院の保存庫です』
ユウは頷いた。
「ぜひ、お願いします」
『では、日程を調整しましょう』
通信が切れた。
ユウは、端末を閉じた。
窓の外では、夜の都市が静かに光っていた。
人々は、いつもどおりの生活を送っている。
仕事をし、家族と過ごし、眠りにつく。
その営みは、遠い昔から続いてきたものだと、誰もが信じていた。
ユウも、そう信じていた。
ただ、今は少しだけ違っていた。
自分たちが知っている歴史は、本当にすべて正しいのだろうか。
ユウは、机の上に置かれた家族写真を見た。
ミナとリナが笑っている。
自分も、その隣で笑っていた。
ユウは写真を手に取った。
そして、小さく呟いた。
「……僕たちは、どこから来たんだろう」
答える者はいなかった。




