創造主の教え
第一部 創造された世界
科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。
人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。
科学と哲学が交差するSFミステリー。
古い文献ほど、真実に近いとは限らない。
それは、歴史研究の基本的な考え方の一つだった。
古い時代に書かれた記録であっても、そこには記録者の思い込みや誤解が含まれている。伝承を事実として書き残したものもあれば、政治的な意図によって書き換えられたものもある。
そして、古い文献ほど、そうした誤りを検証するための資料が少ない。
ユウは、そのことを知識として理解していた。
だが、実際に古文書を調べるのは初めてだった。
「……まったく分からないな」
研究室の表示面には、複数の文献が並んでいた。
どれも創世教に関する資料だった。
第零保存区周辺で発見された石板。
その石板に刻まれた図形。
そして、図形と関連があるとされる古い宗教文献。
ユウは数日前から、それらの資料を調べていた。
しかし、進展はなかった。
文献の多くは、現在使われている言語とは異なる文字体系で記されていた。
自動翻訳を利用することはできる。
だが、原文が断片的であるうえ、同じ文字に複数の意味があるため、翻訳結果は安定しなかった。
ある資料では「創造」と訳されている言葉が、別の資料では「誕生」と訳されている。
「神」という言葉も同様だった。
創造主。
祖先。
導き手。
原初の存在。
文献によって、訳語が異なっていた。
「ユウさん」
背後から声がした。
カイだった。
「まだ調べてるんですか?」
「うん」
「古代宗教の研究者に転職するつもりです?」
「そういうわけじゃないよ」
カイは表示面を覗き込んだ。
「例の図形ですか?」
「そう」
「何か分かりました?」
「ほとんど何も」
「じゃあ、そろそろ専門家に聞いた方がいいんじゃないですか?」
ユウは振り返った。
「専門家?」
「歴史研究院に、創世教の古文書を研究している人がいるでしょう」
「知らないな」
「僕も詳しくはないですけど。以前、意識研究の公開討論に参加していた人です」
カイは端末を操作した。
しばらくして、一人の研究者の情報が表示された。
《セイン》
《歴史研究院・古代文献研究部》
《専門分野:創世教原典研究、古代言語、文明史》
四十二歳。
ユウより四歳年上だった。
写真には、黒髪の男性が写っていた。
整った顔立ちをしているが、表情はどこか厳しい。
「この人、かなり有名らしいですよ」
カイが言った。
「何で?」
「創世教の研究者なのに、創世教の教団から何度も抗議を受けているそうです」
「どうして?」
「教義の解釈が違うとか、そういう話みたいです」
ユウは画面を見つめた。
「本人は信者なの?」
「そう聞いてます」
「信者なのに教団と対立しているのか」
「面白いでしょう?」
ユウは少し考えた。
そして、セインの研究論文を開いた。
題名は、
《創世教初期文献における創造主概念の変遷》
だった。
冒頭には、次の一文が記されていた。
『信仰とは、疑問を捨てることではない。疑問を抱えたまま、なお問い続けることである。』
ユウは、その文章をしばらく見つめた。
「……会ってみたいな」
カイは笑った。
「そう言うと思いました」
*
歴史研究院は、都市の東部にあった。
古い建築様式を再現した建物が並ぶ区域で、周囲には博物館や文献保存施設が集まっている。
ユウは、研究院の入口で立ち止まった。
意識科学研究所とは、ずいぶん雰囲気が違っていた。
研究所では、設備の更新に合わせて建物の内部も頻繁に変更される。
しかし、歴史研究院は違った。
廊下には石材が使われ、壁には古い文字を模した装飾が施されている。
もちろん、それらの多くは現代の技術で再現されたものだ。
それでも、建物全体に独特の静けさがあった。
「ユウさんですね」
声をかけられた。
振り返ると、一人の男性が立っていた。
写真で見た人物だった。
「セインです」
男性は短く名乗った。
「意識科学研究所のユウです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。どうぞ」
セインは軽く会釈すると、廊下を歩き始めた。
ユウはその後についていった。
「事前に送っていただいた資料は拝見しました」
セインが言った。
「図形について調べているそうですね」
「はい」
「なぜです?」
ユウは少し迷った。
夢の中で見たからだ。
そう説明すれば、相手はどう思うだろう。
「個人的に、気になることがありまして」
セインは振り返らなかった。
「なるほど」
それ以上は聞いてこなかった。
二人は小さな研究室に入った。
室内には、古い文献の複製や立体投影された石板が並んでいた。
セインは椅子を勧めた。
「では、見せていただけますか」
ユウは端末を開いた。
夢の記憶から描いた図形を表示する。
円の中に、三本の線が交差している。
セインは画面を見つめた。
「……これは、どこで?」
「自分で描きました」
「何かを見ながら?」
「いいえ。記憶を頼りに」
セインは少し眉を動かした。
「なるほど」
彼は端末を操作し、別の画像を表示した。
古い石板だった。
そこには、ユウの描いたものとよく似た図形が刻まれていた。
「これを探しているんですね」
「はい」
「この図形は、創世教の古い資料に見られます」
「意味は分かっているんですか?」
「いいえ」
セインは即答した。
ユウは少し驚いた。
「まったく?」
「正確には、いくつかの解釈があります。しかし、どれも確証がありません」
「例えば?」
「創造主の象徴。生命の循環。三つの世界を表す図形。あるいは、単なる装飾」
「三つの世界?」
「そう解釈した研究者がいた、というだけです」
セインは画面を拡大した。
「この図形には、興味深い特徴があります」
「何でしょう」
「創世教の現在の教義では、ほとんど使われていないんです」
「古い時代には使われていた?」
「少なくとも、古い資料には残っています」
セインは複数の画像を並べた。
石板。
布片。
建築物の装飾。
いずれにも、似た図形が描かれていた。
ただし、完全に同じではなかった。
線の角度が違うもの。
円の一部が欠けているもの。
三本ではなく、二本の線が交差しているもの。
「これらはすべて同じ意味を持つと考えられているんですか?」
ユウが尋ねた。
「それすら分かっていません」
セインは椅子に腰を下ろした。
「古い図形の研究で最も危険なのは、似ているものを同じものだと思い込むことです」
ユウは頷いた。
「科学でも同じですね」
「そうでしょう?」
セインは初めて、わずかに笑った。
*
「創世教は、いつ頃成立したんですか?」
ユウが尋ねた。
セインは少し考えた。
「正確には分かりません」
「記録がないんですか?」
「記録はあります。しかし、成立年代を確定できるものはありません」
セインは壁面に古い文献を表示した。
「創世教の聖典には、多くの写本が存在します。地域によって内容も少しずつ異なる」
「原本は?」
「確認されていません」
「失われた?」
「そう考える研究者が多いですが、最初から単一の原本が存在しなかった可能性もあります」
ユウは画面を見つめた。
「では、創始者も不明なんですね」
「ええ」
「それなのに、これほど広く信仰されている」
セインは頷いた。
「宗教が広まるのに、創始者の名前が必要とは限りません」
「そういうものですか」
「人々が必要とするのは、誰が語ったかより、その言葉が自分たちに何を与えるかです」
ユウは少し考えた。
「セインさん自身も、創世教を信じているんですよね」
「ええ」
「研究を続ける中で、教義に疑問を持つことはありませんか?」
「ありますよ」
「それでも信じている?」
「信じているからこそ、疑問を持つんです」
ユウはセインを見た。
セインは穏やかな声で続けた。
「例えば、あなたは意識を研究している」
「はい」
「意識の存在を疑っていますか?」
「いいえ」
「しかし、意識の仕組みについては疑問を持っている」
「そうですね」
「私も同じです」
セインは古い石板に目を向けた。
「創世教が伝えてきた言葉の中には、私たちがまだ理解していない何かがあると思っています」
「それが神の存在だと?」
「分かりません」
セインは微笑んだ。
「私は、分からないことを分からないままにしておくのが苦手なんです」
ユウは思わず笑った。
「それは、僕も同じです」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
初対面の相手だった。
専門分野も違う。
信仰に対する考え方も違う。
それでもユウは、この人物とは話ができると感じ始めていた。
*
セインは、別の資料を表示した。
「創世教の教義で、最も広く知られている一節があります」
画面には、古い文字と現代語訳が並んでいた。
『神は我らを創り、我らは神を忘れた。』
ユウはその文章を読んだ。
「聞いたことがあります」
「多くの人が知っている言葉です」
「どういう意味なんでしょう」
「一般的には、人間が創造主への感謝を忘れてしまったことへの戒めと解釈されています」
「セインさんは違うんですか?」
セインは少し考えた。
「私は、この文章の後半が気になります」
「後半?」
「『我らは神を忘れた』という部分です」
ユウは画面を見た。
「それが何か?」
「忘れた、という表現です」
セインは続けた。
「例えば、あなたが私の名前を知らなかったとします」
「はい」
「その場合、普通は『知らない』と言いますよね」
「そうですね」
「しかし、『忘れた』という言葉には、以前は知っていたという前提がある」
ユウは黙っていた。
セインは画面の文字を指さした。
「この文章は、人間が神を知らなかったとは言っていない」
「……かつては知っていた?」
「少なくとも、そう読むことはできます」
ユウは再び文章を見つめた。
神は我らを創り、我らは神を忘れた。
単純な宗教的教訓だと思っていた言葉が、少し違って見えた。
「では、創世教は、人間がかつて神と直接接していたと教えているんですか?」
「現在の教義では、そうした解釈は一般的ではありません」
「なぜ?」
「神を忘れた、という表現は比喩だと考えられているからです」
「セインさんは、比喩ではないと?」
「そこまでは言いません」
セインは首を振った。
「古い文章を、現代の感覚で文字どおりに読むのも危険です」
ユウは頷いた。
「確かに」
「ただ、可能性を一つに絞る必要もありません」
セインはそう言って、資料を閉じた。
*
研究室を出る頃には、外は夕方になっていた。
ユウは、セインからいくつかの文献を紹介してもらっていた。
その多くは、まだ完全には解読されていないものだった。
「今日はありがとうございました」
ユウが言うと、セインは頷いた。
「こちらこそ。久しぶりに、専門外の方と有意義な話ができました」
「また相談してもいいでしょうか」
「もちろんです」
セインは少し間を置いた。
「ただ、一つだけ聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「あなたは、なぜあの図形を調べているんです?」
ユウは黙った。
セインは続けた。
「最初に見せていただいた図形。あれは、古い資料を見て描いたものではないんですよね」
「はい」
「では、どこで見たんです?」
ユウは少し迷った。
夢の中で見た。
そう答えれば、研究者としての信用を失うかもしれない。
しかし、セインはこれまで、一度も根拠のない断定をしなかった。
分からないことを、分からないと言った。
それが、ユウの背中を押した。
「……夢です」
セインは表情を変えなかった。
「夢?」
「はい。繰り返し見る夢の中で、あの図形を見ました」
しばらく沈黙が続いた。
セインは、ユウの顔を見つめていた。
やがて、静かに尋ねた。
「いつから、その夢を?」
「子どもの頃からです」
「図形も?」
「いえ。図形をはっきり覚えていたのは、最近です」
セインは少し考えた。
「夢の中には、ほかに何が?」
「草原と、建物があります」
「建物?」
「遠くに見えるんです。詳しい形は分かりません」
セインは頷いた。
「なるほど」
ユウは少し不安になった。
「変な話ですよね」
「いいえ」
セインは即答した。
「人間は、夢を見るものです」
「そうですが」
「そして、夢の中に過去の記憶が現れることもある」
「はい」
「ならば、あなたが過去にどこかで図形を見ていた可能性はあります」
ユウは少し安心した。
「僕もそう考えています」
「ただし」
セインは続けた。
「それが事実かどうかは、調べなければ分かりません」
ユウはセインを見た。
「……調べてくれるんですか?」
「興味があります」
セインは少し笑った。
「夢そのものではなく、あなたがどこでその図形を知ったのかに」
ユウは思わず笑った。
「そこは僕も同じです」
「なら、目的は一致していますね」
セインは手を差し出した。
ユウはその手を握った。
短い握手だった。
しかし、その瞬間、二人の間に小さな信頼が生まれた。
*
その夜。
ユウは自宅で、セインから送られてきた資料を読んでいた。
創世教の古い写本。
各地に残る伝承。
そして、失われた原典についての研究。
どれも興味深い内容だった。
しかし、ユウの目を引いたのは、ある短い文章だった。
それは、現在の聖典には収録されていない断片的な記録だった。
『創造主は死んだ。しかし、その声は消えなかった。』
ユウは眉をひそめた。
創造主が死んだ。
宗教的な文章としては、奇妙な表現だった。
神は永遠の存在ではないのだろうか。
ユウは、セインにメッセージを送った。
《この文章について、何か分かっていますか?》
しばらくして、返信が届いた。
《解釈は分かれています。古い創世教では、創造主の死を象徴的な出来事として扱っていた可能性があります》
ユウは続けて尋ねた。
《創造主は、実際に死んだと考えられていたのでしょうか?》
今度は、少し時間がかかった。
やがて、返信が届いた。
《それは、私が長年調べている問題の一つです》
ユウは画面を見つめた。
さらに、もう一通。
《もし創造主が死ぬ存在だったとしたら、私たちは何を神と呼んでいるのでしょうね》
ユウは、その文章を何度か読み返した。
そして、端末を閉じた。
*
「お父さん」
リナが居間に入ってきた。
「まだお仕事?」
「少しだけね」
「今日も夢のこと調べてたの?」
「うん」
リナはユウの隣に座った。
「女の子の名前、分かった?」
ユウは笑った。
「まだだよ」
「じゃあ、次に会ったら聞いてね」
「分かった」
リナは満足そうに頷いた。
そして、ユウの端末を覗き込んだ。
「これ、何?」
画面には、古い石板の画像が表示されていた。
「ずっと昔に作られたものだよ」
「何が書いてあるの?」
「それを調べてるんだ」
リナは石板の表面をじっと見つめた。
「でも、こんなに古かったら、作った人に聞けないね」
「そうだね」
「じゃあ、どうやって調べるの?」
ユウは少し考えた。
「ほかに残っているものと比べたり、同じ時代の記録を探したりするんだ」
「ふうん」
リナはしばらく考えていた。
「お父さん」
「何?」
「昔の人が書いたことって、全部本当なの?」
ユウは娘を見た。
「どうしてそう思ったの?」
「だって、私も学校で間違えることあるもん」
ユウは思わず笑った。
「確かにね。昔の人だって、間違えることはあったと思うよ」
「じゃあ、お父さんも間違える?」
「もちろん」
「先生も?」
「先生も」
「じゃあ、神様も?」
ユウは少し考えた。
「……それは難しい質問だな」
リナは得意げに笑った。
「また分からないんだ!」
「そうだね」
「お父さん、分からないことばっかり!」
ユウは笑った。
「だから、毎日調べてるんだよ」
リナは納得したように頷いた。
「じゃあ、頑張ってね」
「ありがとう」
リナは小さく手を振り、寝室へ向かった。
ユウは、その後ろ姿を見送った。
そして、端末に表示された石板を見つめた。
昔の人が書いたことは、すべて本当なのか。
当たり前の問いだった。
歴史研究では、記録そのものを疑うことが基本になる。
しかし、ユウはそれまで、自分たちが受け継いできた歴史について、深く疑ったことがなかった。
彼は石板の画像を閉じ、セインから送られてきた文献を開いた。
そこには、古い文字で一つの文章が記されていた。
『神は我らを創り、我らは神を忘れた。』
ユウは、しばらくその言葉を見つめていた。
*
同じ頃。
歴史研究院の一室では、セインが古い石板の画像を見つめていた。
円の中に、三本の線。
ユウが夢で見たという図形だった。
セインは、その画像の横に、別の資料を表示した。
創世教の古い写本。
文字の一部は欠けていた。
しかし、残された文章は、かろうじて読むことができた。
『我らは創られた。ゆえに、我らは問う。』
その先は欠損していた。
セインは、しばらく画面を見つめていた。
やがて、静かに呟いた。
「……何を、問う?」
答える者はいなかった。
研究室の窓の向こうでは、夜の都市が静かに光っていた。




