眠りの向こう側
第一部 創造された世界
科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。
人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。
科学と哲学が交差するSFミステリー。
夢の中では、時間の流れ方が違う。
数時間を過ごしたつもりでも、目覚めれば数分しか経っていないことがある。逆に、ほんの一瞬の出来事が、ひどく長い記憶として残ることもある。
ユウは、そうした現象を研究していた。
夢の中で経験する時間と、実際の神経活動の継続時間。
その関係を調べることは、意識の仕組みを理解する手がかりになると考えられていた。
しかし、自分自身の夢については、ほとんど調べたことがなかった。
研究者が自分を被験者にすることは、必ずしも珍しくない。
ただ、ユウは自分の夢を研究対象として扱うことに、どこか抵抗を感じていた。
あの少女との出会いは、幼い頃から続く、ごく個人的な経験だったからだ。
それを数値や波形に置き換えることが、なぜかためらわれた。
だが、その朝は違った。
ユウは寝室を出る前に、個人端末を開いた。
《夢の記録》
新しい項目を作成する。
そして、覚えている限りの内容を書き込んだ。
《草原。晴天。風。白い服の少女。十歳前後》
少し考えて、続けた。
《少女は自分の名前を知らない》
最後に、もう一つ。
《遠方に建造物らしき影》
ユウは入力を終えると、記録を保存した。
夢の内容を文章にするだけで、妙な感覚があった。
それまで頭の中にしか存在しなかった風景が、現実の記録になったような気がした。
もちろん、それは錯覚だ。
夢は夢でしかない。
ユウは端末を閉じた。
そのとき、寝室の扉が開いた。
「お父さん?」
リナだった。
まだ寝間着姿で、眠そうに目をこすっている。
「おはよう。今日は早いね」
「お父さんがいなかったから」
「起こしちゃった?」
リナは首を振った。
そして、ユウの手元を覗き込んだ。
「何してたの?」
「夢の記録だよ」
「夢?」
「うん。昨日、ちょっと変わった夢を見たから」
リナの目が輝いた。
「どんな夢?」
「草原に女の子がいたんだ」
「お友達?」
「知らない子だよ」
「名前は?」
「分からないんだって」
リナは不思議そうな顔をした。
「名前がないの?」
「そうみたい」
「かわいそう」
ユウは少し驚いた。
「どうして?」
「だって、名前がないと呼んであげられないでしょ?」
ユウは答えに詰まった。
確かに、そうだった。
夢の中で何度も会っているのに、自分はあの少女を呼ぶ名前すら知らない。
「じゃあ、お父さんが名前をつけてあげたら?」
「勝手につけてもいいのかな」
「本人に聞けばいいじゃん」
ユウは笑った。
「そうだね。今度会えたら聞いてみるよ」
リナは満足そうに頷いた。
「約束ね」
「約束」
その会話をしたとき、ユウはまだ、夢の中で誰かと再会することを、当然のように口にしていたことに気づいていなかった。
*
研究所に着くと、ユウはカイを呼び止めた。
「ちょっと相談がある」
「珍しいですね。ユウさんが僕に相談なんて」
「睡眠測定装置を個人的に使いたい」
カイは眉を上げた。
「被験者は?」
「僕だ」
「……何かあったんですか?」
「少し気になる夢があってね」
カイは笑いかけたが、ユウの表情を見て真顔になった。
「本気ですか?」
「本気だよ」
「まあ、研究所の規定上、自分自身を測定することは禁止されてませんけど」
「それなら問題ないだろう」
「正式な研究データには使えませんよ。少なくとも、そのままでは」
「分かってる。まずは予備観察だ」
カイはしばらく考えた。
「何を調べたいんです?」
「特定の夢を見たときの神経活動だ」
「明晰夢ですか?」
「違う。少なくとも、夢を見ている最中に夢だと自覚しているわけじゃない」
「じゃあ、どうやって特定するんです?」
「起床後の記録と照合する」
「それだと、かなり曖昧になりますね」
「だから、まずは自分で試す」
カイは肩をすくめた。
「分かりました。装置の空き時間を確認します」
「ありがとう」
「ただし、変な結果が出ても、すぐに新発見だと思わないでくださいよ」
ユウは笑った。
「それは僕の台詞だろう」
*
研究所の睡眠観察室は、地下一階にあった。
壁面は淡い灰色で統一され、外部からの音や光が入りにくい構造になっている。
室内には、寝台と測定装置が置かれていた。
ユウは寝台に横になった。
頭部と首の周囲に、薄い測定帯が装着される。
神経活動を非侵襲的に読み取る装置だった。
「準備できました」
カイの声が天井の通信装置から聞こえた。
「測定開始は二十二時。終了は翌朝六時三十分です」
「了解」
「眠れそうですか?」
「たぶん」
「研究者って、自分が観察される側になると案外眠れないんですよ」
「君は経験があるのか?」
「ありますよ。三時間くらい天井を見つめてました」
ユウは笑った。
「参考にならないな」
通信が切れた。
室内の照明が暗くなる。
ユウは目を閉じた。
あの少女のことを考えた。
白い服。
草原。
風。
そして、名前を知らない少女。
また会えるだろうか。
そんなことを考えているうちに、意識が遠のいていった。
*
目を開けると、草原だった。
ユウは立っていた。
風が吹いている。
空は青い。
見覚えのある景色だった。
「あれ?」
思わず声が出た。
少女がいない。
いつもなら、少し離れた場所に立っているはずだった。
ユウは周囲を見渡した。
草原が広がっている。
遠くに低い丘が見える。
しかし、人影はなかった。
「おーい」
声を出してみた。
返事はない。
ユウは歩き始めた。
草を踏む感触が足の裏に伝わってくる。
風が頬を撫でる。
妙に現実的な夢だった。
しばらく歩くと、遠くに少女の姿が見えた。
白い服。
長い髪。
少女は、草原にしゃがみ込んでいた。
「何してるの?」
ユウが声をかけると、少女は振り返った。
「こんにちは」
「こんにちは」
少女は立ち上がった。
手には、小さな花を持っていた。
「見て」
少女は花を差し出した。
白い花びらが五枚。
中央には、淡い黄色の部分があった。
「きれいだね」
ユウが言うと、少女は嬉しそうに笑った。
「ここには、たくさん咲いてるの」
「そうみたいだね」
ユウは周囲を見渡した。
確かに、草の間に同じ花が点々と咲いていた。
「ねえ」
少女が言った。
「あなたの名前、何だった?」
「ユウだよ」
「ユウ」
少女は繰り返した。
「覚えた」
「君の名前は?」
少女は首をかしげた。
「分からない」
「本当に?」
「うん」
ユウは少し考えた。
「名前がないと、不便じゃない?」
「どうして?」
「呼ぶときに困るだろう?」
少女は不思議そうな顔をした。
「呼ぶ?」
「誰かが君を呼ぶときだよ」
少女は少し黙っていた。
そして、小さく言った。
「……誰も呼ばないよ」
ユウは返す言葉を失った。
少女は、寂しそうには見えなかった。
ただ、当たり前のことを説明しているような表情だった。
「じゃあ、僕が呼んでもいい?」
「いいよ」
「何て呼べばいいかな」
少女は笑った。
「何でもいいよ」
ユウは考えた。
しかし、不思議なことに、名前が一つも思いつかなかった。
少女は、そんなユウを見て楽しそうに笑った。
「また今度でいいよ」
「そうだね」
少女は花を地面に置いた。
そして、遠くを指さした。
「あっちに行ってみる?」
ユウは指さされた方向を見た。
丘の向こうに、建物のようなものが見えた。
以前の夢でも見たものだった。
「あれは何?」
「分からない」
「行ったことは?」
少女は首を振った。
「ないよ」
「じゃあ、一緒に行ってみようか」
少女は嬉しそうに頷いた。
二人は歩き始めた。
風が吹いていた。
草原は、どこまでも続いていた。
*
「ユウさん」
声が聞こえた。
「ユウさん、起きてください」
ユウは目を開けた。
白い天井。
研究所の睡眠観察室だった。
「おはようございます」
カイが立っていた。
「測定、終わりましたよ」
ユウは身体を起こした。
「……もう朝か」
「よく眠ってましたね」
「夢を見た」
カイは端末を操作した。
「それはよかった。内容、覚えてます?」
「かなり鮮明に」
「じゃあ、忘れないうちに記録してください」
ユウは端末を受け取った。
草原。
少女。
白い花。
遠くの建物。
覚えている内容を書き込んでいく。
書き終えると、カイが画面を覗き込んだ。
「同じ少女ですか?」
「そうだと思う」
「何度も出てくるんですね」
「昔からね」
「珍しくはないですけど、興味深いですね」
カイは測定結果を表示した。
複数の波形が空中に浮かび上がる。
「睡眠の質は良好です。特に異常はありません」
ユウは画面を見つめた。
「本当に?」
「少なくとも、通常の解析では」
「詳細データを見せてくれ」
カイは苦笑した。
「やっぱりそう言うと思いました」
*
二人は研究室に戻り、測定結果を詳しく調べた。
睡眠段階の変化。
神経活動の周期。
記憶形成に関係する領域の反応。
いずれも、正常範囲内だった。
「ほら、特に異常はないでしょう」
カイが言った。
ユウは頷いた。
「そうだね」
「夢の内容が鮮明だったのは、覚醒直前に夢を見ていたからかもしれません」
「可能性はある」
「それに、何度も同じ夢を見ること自体は、病的な現象ではありません」
「分かってるよ」
カイは少し笑った。
「なら、これで終了ですね」
ユウは画面を閉じようとした。
そのときだった。
一つの波形が目に留まった。
「……待って」
「どうしました?」
「この部分」
ユウは睡眠後半の記録を拡大した。
細かな神経活動の変化が表示される。
その中に、一定の間隔で繰り返される小さな振動があった。
「これ、何だろう」
カイは画面を覗き込んだ。
「同期成分ですね。睡眠中にはよく見られます」
「そうなんだけど」
ユウは波形をさらに拡大した。
「周期が少し変わっている」
「どういう意味です?」
「ほら、ここ」
ユウは複数の領域の記録を重ねた。
通常、神経活動の同期には多少の揺らぎがある。
しかし、その波形は、いくつかの領域で驚くほど似た間隔を保っていた。
カイはしばらく画面を見つめた。
「確かに、少し整いすぎていますね」
「だろう?」
「でも、装置の共通ノイズかもしれません」
「そうだね」
「測定帯の接触状態でも、似た現象は起こります」
「その可能性もある」
ユウは頷いた。
研究者として、当然の判断だった。
一度の測定で結論を出すべきではない。
「もう一度、測定してみたい」
ユウが言うと、カイはため息をついた。
「やっぱり」
「今度は装置を変える」
「そこまでします?」
「原因を確かめたいんだ」
カイは肩をすくめた。
「分かりました。ただし、ちゃんと休んでくださいよ」
「ありがとう」
ユウは画面を見つめた。
その波形が何を意味するのか、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あの少女の夢を見た夜に、普段とは少し違う神経活動が記録されていた。
もちろん、それが少女と関係しているとは限らない。
しかし、ユウの中で、夢は単なる個人的な経験ではなくなり始めていた。
*
数日後。
ユウは自宅で、夢の記録を整理していた。
研究所での測定以降、少女の夢は見ていない。
それでも、記録を読み返すと、草原の風景が鮮明に思い出された。
特に気になっていたのは、遠くに見えた建物だった。
夢の中では、霧に隠れて全体が見えなかった。
しかし、屋根の形や壁面の一部は覚えていた。
ユウは簡単なスケッチを作成した。
低い丘。
草原。
その向こうに立つ、古い建造物。
そして、入口付近に見えた奇妙な模様。
ユウは手を止めた。
「……こんな模様、あったかな」
夢の記憶は曖昧だ。
実際に見たものなのか、目覚めた後に頭の中で補ったものなのか、区別がつかないこともある。
それでも、模様の形だけは妙にはっきりと思い出せた。
円の中に、三本の線が交差している。
単純な図形だった。
ユウは、その模様を拡大した。
どこかで見たことがあるような気がした。
だが、思い出せない。
「お父さん」
リナが居間に入ってきた。
「何描いてるの?」
「夢で見た建物だよ」
「この前の女の子の夢?」
「そう」
リナは画面を覗き込んだ。
「変な建物」
「そうだね」
「ここに行きたいの?」
ユウは少し考えた。
「行けるなら、行ってみたいかな」
「夢の中なのに?」
「そうだね。夢の中なのに」
リナは笑った。
「じゃあ、また寝ればいいじゃん」
ユウも笑った。
「それで行けたら簡単なんだけどね」
リナはしばらく画面を見ていた。
そして、建物の入口を指さした。
「これ、何?」
「模様だよ」
「何の模様?」
「分からない」
「お父さん、分からないことばっかりだね」
ユウは苦笑した。
「本当にね」
リナは満足そうに頷き、部屋を出ていった。
ユウは再び画面を見つめた。
円。
三本の線。
単純な図形。
ただの夢の一部だ。
そう考えながらも、ユウはその画像を保存した。
*
翌日。
研究所では、古い神経科学資料のデジタル化が進められていた。
ユウは、過去の研究を調べるため、資料保管システムにアクセスしていた。
意識研究の歴史は長い。
古い時代の研究者たちも、夢や記憶、自己認識についてさまざまな仮説を立てていた。
その多くは、現在では否定されている。
しかし、過去の研究に思いがけない発見が残されていることもある。
ユウは、古い睡眠研究の記録を次々と開いていった。
神経活動の測定。
夢の分類。
睡眠中の記憶処理。
どれも、現在の研究と直接関係するものだった。
しばらくして、一つの資料が目に留まった。
《古代意識観に関する研究資料》
神経科学というより、歴史学や宗教学に近い内容だった。
ユウは何気なく開いた。
画面には、古い石板の画像が表示された。
文字の大部分は摩耗していた。
その横には、石板に刻まれた図形の拡大画像が並んでいた。
ユウは次の資料へ進もうとした。
しかし、指が止まった。
「……え?」
画面の中央に、見覚えのある模様があった。
円。
その中で交差する三本の線。
ユウは、昨日保存したスケッチを開いた。
二つの画像を並べる。
形は、よく似ていた。
もちろん、単純な図形だ。
偶然一致する可能性は十分にある。
ユウは自分にそう言い聞かせた。
それでも、気になった。
資料の説明を読む。
《出土地:第零保存区周辺》
《推定用途:不明》
《関連分類:古代宗教資料》
ユウは眉をひそめた。
第零保存区。
聞いたことのない地名だった。
さらに資料を読み進める。
石板は、古い遺構から発見されたものらしい。
詳しい年代は不明。
記録の一部は欠損しており、図形が何を意味するのかも解明されていない。
ユウは画面を拡大した。
石板に刻まれた線は、不規則に摩耗している。
しかし、中心部分の形は、夢の中で見た模様と驚くほど似ていた。
「……どうして?」
声が漏れた。
夢の中で見た図形が、現実の古代資料に存在する。
だが、それだけで不思議な現象だと決めつけるわけにはいかない。
過去に同じ図形を目にしていて、それを忘れている可能性もある。
記憶は、本人が思っているほど正確ではない。
ユウは、そのことを誰よりも理解していた。
それでも。
昨日の自分は、確かに夢の記憶だけを頼りに、この図形を描いた。
ユウはスケッチの保存時刻を確認した。
次に、資料の閲覧履歴を調べた。
少なくとも、研究所の記録上、自分がこの資料を開いた形跡はなかった。
もちろん、それで偶然や過去の接触を否定できるわけではない。
しかし、ユウの中に、小さな疑問が生まれていた。
自分は、どこでこの図形を知ったのだろう。
ユウは資料の詳細情報を開いた。
そこには、関連文献が一件だけ登録されていた。
《創世教古文書研究》
ユウは、その文字を見つめた。
創世教。
昨日まで、ほとんど関心を持ったことのない宗教だった。
娘が絵本で読んでいた、古い神話。
人間を創った神の物語。
ユウは、資料を閉じようとした。
しかし、手が止まった。
夢の中の少女。
草原。
遠くに見えた建物。
そして、古代の石板に刻まれた模様。
それらが何かでつながっているとは、まだ考えられなかった。
ただ、偶然という言葉だけでは片づけたくない気持ちがあった。
ユウは関連文献の閲覧申請を送信した。
画面に短い通知が表示される。
《申請を受け付けました》
ユウは椅子にもたれかかった。
研究室の窓の向こうでは、いつもと変わらない都市の風景が広がっていた。
人々が歩き、輸送機が行き交い、遠くの建物に陽光が反射している。
何も変わっていない。
世界は、昨日と同じように存在している。
それなのに、ユウは初めて、自分の夢の外側に何かがあるような気がしていた。
机の上には、二つの画像が並んでいた。
一つは、夢の記憶から描いたもの。
もう一つは、古代の石板に刻まれたもの。
ユウは、しばらくその二つを見比べていた。




