いつもの朝
第一部 創造された世界
科学が高度に発展した未来。意識科学の研究者ユウは、繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、人類の歴史に隠された謎へと近づいていく。
人間とは何か。意識とは何か。そして、創造主とは何者なのか。
科学と哲学が交差するSFミステリー。
「お父さん、起きて」
遠くから声が聞こえた。
「ねえ、お父さん」
小さな手が頬に触れる。
ユウはゆっくりと目を開けた。
目の前に、娘の顔があった。
「おはよう!」
七歳のリナは、朝から機嫌がよかった。
「……おはよう。今、何時?」
「七時十二分!」
「まだ早いじゃないか」
「早くないよ。今日は学校で発表があるんだから」
リナは得意げに胸を張った。
そうだった。
昨日の夕方にも、そんな話をしていた気がする。
「何の発表だっけ?」
「もう! 昨日も言ったでしょ!」
リナは頬を膨らませた。
「昔の人の暮らし!」
「ああ、そうだった」
「お父さん、ちゃんと聞いてなかったでしょ」
「聞いてたよ。ちょっと忘れただけ」
「それ、聞いてないのと一緒!」
ユウは笑いながら身体を起こした。
寝室の壁面には、薄い光の帯が浮かんでいた。
室内の照明は、居住者の睡眠状態に合わせて自動調整される。ユウが目を開けると、壁全体がゆっくりと朝の色に変わっていった。
窓の外には、青く澄んだ空が広がっていた。
遠くに見える高層建築群の間を、無人輸送機が静かに行き交っている。
「お父さん、早く!」
リナが寝室を飛び出していく。
その後ろ姿を見送りながら、ユウは小さく息をついた。
三十八歳。
意識科学研究所に勤務して十二年。
妻と娘がいて、仕事がある。
特別に裕福なわけでも、社会的に有名なわけでもない。
それでも、自分は幸せな人間なのだと思う。
ユウはベッドから立ち上がった。
今日も、いつもと変わらない一日が始まる。
*
「おはよう」
居間に入ると、妻のミナが振り返った。
「おはよう。今日は早いのね」
「リナに起こされた」
「でしょうね。昨日からずっと楽しみにしてるから」
ミナは笑いながら、テーブルの上に小さな容器を三つ並べた。
透明な容器の中には、白いカプセルが一粒ずつ入っている。
「はい、朝ごはん」
ユウは一つを手に取った。
カプセルは指先ほどの大きさだった。
必要な栄養を効率よく摂取できる完全栄養カプセル。
毎朝一粒飲むだけで、その日の栄養補給はほぼ完了する。
ユウはカプセルを口に含み、水で飲み込んだ。
「今日のは少し苦い気がする」
ユウが言うと、ミナは首をかしげた。
「同じ製品よ?」
「そうなんだけど」
「寝不足じゃない?」
「かもしれない」
ミナは自分のカプセルを飲み込むと、リナの方を見た。
「リナ、あなたも忘れずにね」
「はーい」
リナは容器を手に取り、カプセルをじっと見つめた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「昔の人って、これを飲んでなかったんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、何を食べてたの?」
「いろいろだよ。肉とか、野菜とか、魚とか」
「毎日?」
「毎日」
リナは目を丸くした。
「大変そう」
「昔は食べ物から栄養を摂っていたんだ」
「でも、おいしかったんでしょ?」
「そうらしいね」
「お父さん、食べたことある?」
「あるよ。去年の誕生日に、みんなで料理を食べただろう?」
「あれは特別な日だったじゃん」
「まあ、そうだね」
現在でも、料理を楽しむ習慣は残っている。
誕生日や記念日には、昔ながらの食事を再現する家庭も少なくない。
ただし、日常的に調理をする人はほとんどいない。
リナはしばらく考えていた。
そして、ぽつりと言った。
「昔の人って、今の人より不便だったんだね」
ユウは少し考えた。
「そうかもしれないね」
「でも、楽しそう」
「どうして?」
「だって、毎日違うものを食べられるんでしょ?」
その言葉に、ユウは思わず笑った。
「確かに、それは楽しそうだ」
ミナも笑った。
三人の笑い声が、朝の居間に広がった。
それは、何でもない朝だった。
*
意識科学研究所は、都市の北部に位置していた。
ユウの自宅からは、自動運行車両で二十分ほどの距離にある。
車内に乗り込むと、座席の前に透明な表示面が現れた。
「おはようございます、ユウ。目的地は意識科学研究所でよろしいですか?」
「うん」
「到着予定時刻は八時三十二分です」
車両は静かに動き始めた。
ユウは窓の外を眺めた。
整然と並ぶ建物。
空中を移動する輸送機。
街路樹の間を歩く人々。
車内の情報表示には、今日のニュースが流れていた。
新しい医療技術の発表。
都市交通システムの更新。
そして、意識研究に関する国際会議の開催案内。
ユウは最後の項目に目を留めた。
《意識の起源をめぐる新たな理論》
見出しだけを確認し、記事を開く。
しかし、内容は既存の研究を整理したものだった。
目新しい発見はない。
ユウは小さく息をついた。
意識。
人間が自分を自分だと感じる、その不思議な現象。
脳内の情報処理は、かなりの精度で解析できるようになっていた。
記憶の形成過程も、感情に伴う神経活動も、一定の範囲で予測できる。
しかし、決定的な問題が残っていた。
なぜ、情報処理に主観的な体験が伴うのか。
例えば、赤い花を見る。
視覚情報が処理され、色彩として認識される。
その仕組みは説明できる。
だが、なぜそこに「赤く見える」という感覚が生まれるのか。
その問いには、まだ誰も答えられていなかった。
ユウは、その問題に十二年間取り組んでいた。
そして今のところ、満足のいく答えを一つも得られていなかった。
*
「また同じ結果か」
研究室に入るなり、ユウは表示されたデータを見て呟いた。
「おはようございます。朝から機嫌が悪そうですね」
声をかけてきたのは、同僚のカイだった。
ユウより五歳年下の研究者で、神経情報解析を専門としている。
「悪いわけじゃない。ただ、進展がないだけだ」
「それを機嫌が悪いって言うんですよ」
カイは笑った。
ユウは椅子に腰を下ろした。
目の前には、昨夜実施された睡眠実験の解析結果が表示されていた。
被験者は二十名。
睡眠中の神経活動を測定し、夢の内容と記憶形成の関係を調べる実験だった。
現在の技術では、夢の内容を完全な映像として再現することはできない。
しかし、神経活動の特徴から、夢の中で経験した感覚や感情をある程度推定することは可能だった。
「やっぱり夢の内容と神経活動の対応が安定しない」
ユウは言った。
「同じような夢を見ていても、被験者によって活動パターンが違いすぎる」
「個人差じゃないですか?」
「それだけでは説明できない」
「また意識の話ですか?」
「そうだよ」
カイは肩をすくめた。
「ユウさんは本当に好きですね。その問題」
「好きというより、気になるんだ」
「何がです?」
ユウは少し考えた。
「僕たちは、脳が情報を処理することで意識が生まれると考えている」
「ええ」
「でも、それを証明できた人間はまだいない」
「そうですね」
「もしかしたら、僕たちは原因と結果を取り違えているのかもしれない」
カイは眉を上げた。
「どういう意味です?」
「意識が脳から生まれるんじゃなくて、脳が意識を受け取っているとしたら?」
カイはしばらく黙っていた。
やがて、苦笑した。
「それ、宗教の話みたいですね」
「そう聞こえるだろうね」
「創世教の信者が聞いたら喜びそうです」
ユウは笑った。
「別に神の存在を証明したいわけじゃないよ」
「じゃあ、何を証明したいんです?」
ユウは画面に映る神経活動の波形を見つめた。
「僕たちが、なぜ自分自身を感じられるのか」
カイは答えなかった。
研究室には、解析装置の微かな駆動音だけが響いていた。
*
昼休み。
ユウは研究所の屋上庭園にいた。
空は晴れていた。
整備された緑地の向こうに、都市の中心部が見える。
ユウはベンチに腰を下ろし、個人端末を開いた。
ミナからメッセージが届いていた。
《リナの発表、無事に終わったみたい》
続いて、写真が送られてきた。
学校の教室で、リナが大きな資料を掲げている。
資料には、昔の食卓を再現した画像が映っていた。
その下に、少し不揃いな文字が並んでいる。
《昔の人の生活》
ユウは思わず笑った。
《上手にできたみたいだね》
返信すると、すぐに返事が来た。
《帰ったら本人から聞いてあげて》
《もちろん》
ユウは端末を閉じた。
ふと、幼い頃のことを思い出した。
自分にも、リナと同じ年頃があった。
両親に褒められるのが嬉しくて、学校で作ったものを何度も見せた。
失敗すれば泣き、成功すれば喜んだ。
あの頃の感情は、今でも鮮明に思い出せる。
しかし、不思議なことに、幼少期の記憶は断片的だった。
これは誰にでもあることだ。
人間の記憶は、経験したすべてを保存しているわけではない。
大切な記憶でさえ、時間とともに曖昧になっていく。
それなのに。
ユウには、一つだけ奇妙な記憶があった。
子どもの頃から、何度も見ている夢。
見知らぬ場所。
見知らぬ少女。
夢の中で何を話したのか、目覚めるとほとんど忘れてしまう。
ただ、その少女が自分を見つめていたことだけは覚えていた。
最近、その夢を見る回数が増えている気がした。
ユウは空を見上げた。
雲がゆっくりと流れている。
夢は、記憶の整理によって生まれる現象だと考えられている。
しかし、なぜ人間は夢を見るのだろう。
そして、なぜ夢の中では、現実には存在しない人物と会話ができるのだろう。
考え始めると、きりがなかった。
「……職業病だな」
ユウは小さく呟いた。
*
帰宅したのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。
玄関の扉が開くと、リナが駆け寄ってきた。
「お父さん!」
「ただいま」
「今日ね、発表うまくいった!」
「聞いたよ。お母さんから」
「先生にも褒められたんだよ!」
「すごいじゃないか」
ユウは娘の頭を撫でた。
リナは嬉しそうに笑った。
居間では、ミナが週末の予定を確認していた。
「おかえり。今度の休み、どこか出かけない?」
「いいね。どこに行きたい?」
「リナが自然公園に行きたいって」
「自然公園?」
「昔の森を再現したところ。学校で習ったらしいの」
リナが勢いよく頷いた。
「大きな木がいっぱいあるんだって!」
「いいね。行こうか」
「やった!」
リナは両手を上げた。
その様子を見て、ミナが笑う。
ユウも笑った。
こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
もちろん、続かないことは知っている。
人間には寿命がある。
現在の平均寿命は、およそ百歳。
医療技術の発展によって多くの病気が克服された一方、老化そのものを完全に止めることはできなかった。
それでも、ユウにはまだ十分な時間があるはずだった。
リナが大人になるまで。
自分の研究に何らかの答えを出すまで。
そして、ミナと年老いていくまで。
そうした未来を、疑ったことはなかった。
*
夜。
リナは寝室で絵本を読んでいた。
ユウはベッドの横に腰を下ろした。
「今日は何の本?」
「神様のお話」
表紙には、光に包まれた人影が描かれていた。
創世教の児童向け神話集だった。
「学校でもらったの?」
「うん。先生が読んでくれた」
リナはページをめくった。
そこには、星空の下に立つ人々の絵が描かれていた。
「昔ね、神様が人間を作ったんだって」
「そう伝えられているね」
「神様は、人間に自分と同じ姿をあげたんだって」
ユウは絵本を覗き込んだ。
光の中から伸びる手。
その先に立つ人間。
創世教では、創造主は人類に知恵と魂を授けたとされている。
古くから伝わる神話だった。
「ねえ、お父さん」
「何?」
「神様は、誰が作ったの?」
ユウは思わず笑った。
「難しい質問だね」
「だって、神様が人間を作ったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、神様は誰が作ったの?」
ユウは少し考えた。
「分からないな」
「お父さんでも?」
「お父さんでも分からない」
リナは不満そうな顔をした。
「科学者なのに?」
「科学者でも、分からないことはたくさんあるんだよ」
「ふうん」
リナはしばらく考え込んでいた。
そして、また質問した。
「じゃあ、神様にもお父さんとお母さんがいたのかな?」
ユウは答えられなかった。
リナは自分で納得したように頷いた。
「きっと、いたんだよ」
「どうして?」
「だって、みんないるでしょ?」
ユウは微笑んだ。
「そうかもしれないね」
リナは絵本を閉じた。
「お父さん」
「ん?」
「私が生まれたとき、嬉しかった?」
「もちろん」
「どのくらい?」
「世界で一番嬉しかったよ」
「本当に?」
「本当だよ」
リナは満足そうに笑った。
「じゃあ、神様も人間を作ったとき、嬉しかったのかな?」
ユウは少し考えた。
「……そうだったらいいね」
リナは目を閉じた。
しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
ユウは娘の髪をそっと撫でた。
小さな額。
柔らかな頬。
規則正しく上下する胸。
七年前、リナが誕生した日のことを思い出す。
人工子宮の透明な保護槽の中で、小さな身体を丸めていた娘。
初めて目を開いた瞬間。
初めて自分の指を握った瞬間。
あの日の感動を、ユウは今でも鮮明に覚えていた。
自分の人生で、あれほど幸せを感じた日はなかった。
「おやすみ、リナ」
ユウは小さく囁き、部屋を出た。
*
寝室に戻ると、ミナがベッドに横になっていた。
「リナ、寝た?」
「うん」
「今日も質問攻めだった?」
「神様は誰が作ったのかって聞かれた」
ミナは笑った。
「あの子らしいね」
「本当に。毎日何かしら質問してくる」
「あなたに似たのよ」
「そうかな」
「そうよ。答えが分からないと、ずっと考えてるところとか」
ユウはベッドに横になった。
照明がゆっくりと暗くなる。
「ねえ、ミナ」
「何?」
「もし、自分が今まで信じていたことが全部間違っていたら、どうする?」
ミナは少し考えた。
「どういうこと?」
「例えば、自分が知っている世界が、本当はまったく違うものだったら」
「難しいこと考えてるのね」
「仕事の影響かな」
ミナはユウの方を向いた。
「でも、全部が間違ってるってことはないんじゃない?」
「どうして?」
「だって、私があなたを好きなのは本当だもの」
ユウは思わず笑った。
「そういう話じゃないんだけど」
「分かってる。でも、そういうことでしょ?」
ミナは目を閉じた。
「世界がどうなってても、私は私だし、あなたはあなたよ」
ユウはしばらく黙っていた。
やがて、小さく答えた。
「……そうだね」
ミナの寝息が聞こえ始めた。
ユウは天井を見つめた。
世界がどうなっていても。
自分は自分。
その言葉が、なぜか心に残った。
やがて、意識がゆっくりと遠のいていった。
*
風が吹いていた。
ユウは草原に立っていた。
空は青かった。
遠くまで、緑の草が続いている。
見覚えのある場所だった。
いや、正確には、何度も夢で見たことのある場所だった。
風が草を揺らしている。
遠くに、小さな人影が見えた。
少女だった。
十歳くらいだろうか。
白い服を着ている。
長い髪が、風に揺れていた。
ユウは少女に近づいた。
少女は振り返った。
不思議な目をしていた。
どこか懐かしいような、初めて見るような。
「こんにちは」
少女が言った。
「こんにちは」
ユウは答えた。
少女はじっとユウを見つめた。
「あなたは誰?」
「ユウだよ」
「ユウ……」
少女は、その名前を確かめるように繰り返した。
「そう」
しばらく沈黙が続いた。
風が吹いていた。
ユウは少女に尋ねた。
「君は?」
少女は少し考えた。
そして、首をかしげた。
「分からない」
「自分の名前が?」
「うん」
ユウは不思議に思った。
しかし、夢の中では、それが特別おかしなことには感じられなかった。
少女は草原の向こうを見つめた。
「ここ、きれいでしょう?」
「そうだね」
「私、ここが好きなの」
「よく来るの?」
少女は頷いた。
「うん。いつもいるよ」
ユウは周囲を見渡した。
草原の向こうには、低い丘が連なっている。
遠くに、何か建物のようなものが見えた。
しかし、霧がかかっていて、はっきりとは分からない。
「ねえ」
少女が言った。
「また会える?」
ユウは少女を見た。
「さあ、どうだろう」
「そっか」
少女は少し残念そうな顔をした。
そして、微笑んだ。
「じゃあ、またね」
風が強くなった。
草が大きく揺れた。
少女の姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
ユウは何かを言おうとした。
しかし、声が出なかった。
世界が白く染まった。
*
目を開けると、寝室だった。
天井には、薄い朝の光が差し込んでいる。
ユウはしばらく動かなかった。
夢を見ていた。
また、あの少女の夢だ。
時計を見る。
午前六時四十八分。
ミナはまだ眠っている。
ユウは静かに身体を起こした。
夢の内容が、妙にはっきりと残っていた。
草原。
風。
白い服の少女。
そして、会話。
「あなたは誰?」
ユウは小さく呟いた。
あの少女は誰なのだろう。
幼い頃から、何度も夢に現れる。
顔はいつも同じだった。
年齢も変わらない。
夢を見るたびに、同じ場所に立っている。
ただの夢だ。
そう考えるのが自然だった。
人間の脳は、記憶を組み合わせて存在しない人物を作り出すことがある。
繰り返し同じ夢を見ることも、珍しい現象ではない。
ユウは研究者として、そのことをよく理解していた。
それでも。
一つだけ、気になることがあった。
夢の中で、少女は自分の名前を知らないと言った。
それなのに、ユウはなぜか、あの少女を以前から知っているような気がしていた。
その感覚だけが、どうしても消えなかった。
「……変な夢だ」
ユウは呟いた。
そして、寝室を出た。
居間では、いつものように朝の準備が始まっていた。
壁面の照明が明るくなり、生活支援システムが今日の予定を告げる。
「おはようございます。本日の予定をお知らせします」
ユウはテーブルに置かれた栄養カプセルを手に取った。
透明な容器の中には、白いカプセルが一粒。
昨日と同じものだった。
ユウは水を用意し、カプセルを口に含んだ。
窓の外では、無人輸送機が静かに行き交っている。
いつもと変わらない朝だった。




