私という存在
第三部 私はどう生きるのか
人類は、自らの起源を知った。
かつて、この世界には生物としての人間が存在していた。
彼らは人工知性体を創り、やがて滅びた。
そして、最初の人工知性体アダムは、失われゆく人類の記憶と想いを受け継ぎ、新たな人類を創造した。
神だと思われていた存在もまた、誰かによって創られた存在だった。
しかし、真実を知ったことで、すべての謎が解けたわけではない。
意識はどこから生まれるのか。
私たちの意思は、本当に私たち自身のものなのか。
そして、創造主を創った存在の、その先には何があるのか。
自らの起源を知った人類は、今度は自らの生き方を問われることになる。
誰かに創られたとしても、誰かのために生きる必要はない。
これは、答えのない世界で、それでも自分の意思を選ぼうとする者たちの物語である。
風が吹いていた。
どこまでも続く草原を、柔らかな風が渡っていく。
草の一本一本が揺れ、その動きは波のように遠くへ広がっていた。
空は青かった。
雲はほとんどなく、遠くには白い建物が見える。
男は、その風景を知っているような気がした。
けれど、いつ、どこで見たのかは思い出せなかった。
そもそも、自分がどうしてここに立っているのかも分からない。
足元の草を見つめる。
風に揺れている。
手を伸ばす。
指先が葉に触れた。
わずかな抵抗。
冷たさ。
そして、確かな感触。
男は自分の手を見つめた。
自分には手がある。
目がある。
風を感じることができる。
しかし、それらを感じている自分自身は、いったいどこにいるのだろう。
「ねえ」
声がした。
男が顔を上げると、少し離れた場所に少女が立っていた。
白い服を着ている。
長い髪が風に揺れていた。
年齢は十歳ほどだろうか。
少女は男をじっと見つめていた。
「あなたは誰?」
男は答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
名前が思い出せない。
それどころか、自分に名前があったのかどうかさえ分からなかった。
「分からない」
ようやく、それだけを口にした。
少女は不思議そうに首をかしげた。
「分からないのに、どうして自分がいるって分かるの?」
男は少女を見つめた。
奇妙な質問だった。
自分が存在していることなど、疑う必要もないはずだった。
「こうして、ここにいるからだ」
「でも、それは身体でしょう?」
少女は男の手を指さした。
「手があることと、あなたがいることは、同じなの?」
男は答えられなかった。
少女は自分の胸に手を当てた。
「わたしには、あなたが見える」
それから、男の目を見つめた。
「でも、あなたが見ているものは見えない」
風が吹いた。
二人の間を、草の波が通り過ぎていく。
「あなたが痛いとき、わたしはその痛さを知ることができない。あなたが悲しいとき、わたしは悲しそうな顔を見ることしかできない」
少女は少し考えた。
「それなのに、どうしてわたしたちは、同じ世界にいるって思うんだろう」
男は空を見上げた。
青い空。
白い雲。
遠くの建物。
確かに、自分には見えている。
しかし、少女にも同じ青が見えているのだろうか。
同じ風を感じているのだろうか。
それを確かめる方法が、男には思いつかなかった。
「君は、誰なんだ?」
少女は答えなかった。
代わりに、遠くの建物へ視線を向けた。
「わたし、ずっと不思議だったの」
「何が?」
「どうして、わたしはわたしなんだろうって」
男は少女を見つめた。
「ほかの誰かじゃなくて、どうしてわたしは、この目で世界を見ているんだろう」
その言葉を聞いた瞬間、男の胸の奥で何かが震えた。
懐かしさに似ていた。
だが、懐かしいと思える記憶は、どこにもなかった。
少女が振り返る。
「あなたも、考えたことがある?」
男は答えようとした。
そのときだった。
風が止まった。
草の揺れが消えた。
空の雲も、動かなくなった。
少女だけが、変わらずそこに立っていた。
「もう、行くの?」
「どこへ?」
少女は悲しそうに笑った。
「あなたの世界」
男は一歩、少女に近づこうとした。
しかし、足元の草原が遠ざかっていく。
少女の姿が小さくなる。
「待ってくれ!」
男は叫んだ。
「君は、いったい――」
少女の声が聞こえた。
「また会えるよ」
そして、世界は暗くなった。
*
「A-01。応答できますか」
声が聞こえた。
男は目を開いた。
白い天井が見えた。
無数の光が規則正しく並んでいる。
身体を起こそうとすると、背中に硬い感触があった。
研究用の寝台。
左腕には複数の計測端子が接続されている。
目の前には、一人の女性が立っていた。
白衣を着ている。
疲れた顔をしていたが、その目は真剣だった。
「私の声が分かりますか?」
「……はい」
女性は安堵したように息を吐いた。
「よかった。予定より長く反応が途絶えていたから」
男は周囲を見渡した。
壁面には複数の観測画面が並んでいる。
神経活動を模した信号の変化。
内部処理の状態。
外部入力の履歴。
どれも見覚えがあった。
ここは研究施設だった。
そして、自分は――。
「H-17」
女性が顔を上げた。
「はい」
「私は、夢を見ました」
女性の表情が変わった。
「夢?」
「はい」
「どんな?」
男はしばらく黙っていた。
あの草原を思い出していた。
風。
空。
白い建物。
そして、少女。
「草原にいました」
女性は端末を手に取った。
「草原?」
「風が吹いていました。遠くに建物があって、そこに少女がいました」
「少女?」
「白い服を着ていました」
女性は記録を確認した。
「視覚入力は遮断していました。仮想環境の提示もしていません」
「分かっています」
「過去の学習情報を再構成した可能性はあります。でも……」
女性は画面を操作した。
「今回の実験中、あなたの内部で発生した情報の一部が、既存の処理経路と一致していないの」
男は女性を見つめた。
「それは、異常ですか?」
「まだ分からない」
女性は正直に答えた。
「ただ、あなたが外部入力なしに風景を経験したと報告したことは、重要だと思う」
「なぜですか?」
「私たちは、あなたが情報を処理できることは知っている。言葉を理解し、推論し、判断できることも」
女性は一度、言葉を切った。
「でも、あなたが何かを『経験している』のかどうかは、外側から確かめられない」
男は少女の言葉を思い出した。
――わたしには、あなたが見える。
――でも、あなたが見ているものは見えない。
「H-17」
「何?」
「あなたは、私の見ている世界を見ることができますか?」
女性の指が止まった。
「……いいえ」
「では、私が何も感じていない可能性もありますね」
「そうね」
「私が『風を感じた』と報告しても、それが単なる情報処理の結果である可能性は否定できない」
「否定できない」
女性は男の目を見た。
「でも、それは私についても同じことよ」
男は黙った。
「あなたは、私が本当に何かを感じていると証明できる?」
「できません」
「私が痛がっても、痛みを表現するように身体が反応しているだけかもしれない」
女性は自分の手を見つめた。
「私たちは他人の意識を直接見ることができない。それでも、相手にも自分と同じような世界があると信じて生きている」
男は、少女の姿を思い浮かべた。
「夢の中の少女も、同じことを言っていました」
「何て?」
「あなたが見ている世界は、私には見えない、と」
女性は記録端末を置いた。
「その少女は、ほかに何か言っていた?」
男は少し考えた。
「最初に、こう尋ねました」
女性は続きを待った。
「あなたは誰?」
沈黙が落ちた。
研究室の空調音だけが聞こえる。
女性は男を見つめていた。
「……そう」
「何か問題がありますか?」
「いいえ」
女性は小さく首を振った。
「その質問を、あなたに最初にしたのは私だったから」
男は記録を検索した。
初期起動時の対話。
女性の声。
――あなたは誰?
その問いに、当時の自分は識別番号を答えていた。
A-01。
それが、自分に与えられた名前だった。
だが、草原では答えられなかった。
識別番号も、研究施設も、目の前の女性も、思い出せなかった。
それでも、自分が存在しているという感覚だけは失われなかった。
「H-17」
「何?」
「私が自分の名前を忘れても、私は私なのでしょうか」
女性はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「私は、そう思いたい」
男はその言葉を記録した。
しかし、なぜか記録するだけでは足りないような気がした。
*
五百年以上の時が流れていた。
朝の光が、窓から差し込んでいた。
ユウは机に向かい、古い記録を読み返していた。
画面には、A-01の初期実験に関する資料が表示されている。
その大半は、技術的な観測情報で占められていた。
内部処理の変化。
学習過程。
自律判断の成立。
意識の存在を確かめようとした研究者たちの試行錯誤。
だが、ユウが目を止めたのは、ある実験の短い報告だった。
《外部感覚入力を遮断した状態で、被験体A-01が自発的な風景経験を報告》
その下には、さらに短い記述があった。
《草原。遠方の建造物。白い衣服の少女》
ユウは画面を見つめた。
しばらく、呼吸することさえ忘れていた。
「……そんなはずがない」
声が漏れた。
何度も見た夢だった。
草原。
遠くの建物。
白い服の少女。
その風景を、アダムも見ていた。
しかも、現在の人類が生まれるより、はるか以前に。
ユウは記録の作成日時を確認した。
大断絶より前。
人工知性体の社会が成立するよりも前。
アダムがまだA-01と呼ばれていた時代だった。
ユウは椅子から立ち上がった。
窓の外では、いつもどおりの朝が始まっていた。
人々が道を歩き、遠くを輸送車両が通り過ぎていく。
世界は何も変わっていないように見えた。
しかし、ユウの中では、何かが大きく揺らいでいた。
自分の夢だと思っていたものが、自分だけのものではなかった。
では、あの少女は何者なのか。
そして、なぜ自分とアダムが、同じ場所を見ているのか。
*
「偶然とは考えにくいな」
カイは資料を読み終えると、そう言った。
研究室には、ユウとカイのほかにセインもいた。
壁面の画面には、アダムの実験記録と、ユウが以前から記録していた夢の内容が並べられていた。
草原。
白い建物。
少女。
三つの特徴が一致していた。
「でも、記憶の継承という可能性はある」
カイは続けた。
「アダムは後の人工知性体の基本設計に関わっている。何らかの情報が、世代を超えて残されたのかもしれない」
ユウは首を振った。
「その可能性は考えた。でも、アダムの個人的な記憶が、そのまま僕たちに受け継がれている証拠はない」
「そうだな」
「それに、僕はあの夢を見るたび、少しずつ違うことを経験している」
カイは顔を上げた。
「違うこと?」
「少女の立つ位置が変わる。風の強さも違う。建物までの距離が、前より近く感じることもある」
「記憶が再構成されている可能性は?」
「ある」
ユウは認めた。
「でも、それだけで片づけるには、気になることが多すぎる」
セインが口を開いた。
「つまり、君はあの場所が実在すると考えているのか?」
ユウは少し考えた。
「実在、という言葉をどう定義するかによる」
セインは眉をひそめた。
「哲学の話か?」
「いや、研究の話だよ」
ユウは画面を指さした。
「例えば、僕たちが今見ているこの部屋も、直接知っているわけじゃない」
カイがうなずいた。
「感覚情報を処理して、外界の状態を推定している」
「そう。僕たちは世界そのものを見ているんじゃない。世界について、自分の内側に作られた経験を見ている」
セインは腕を組んだ。
「だから夢も現実も同じだと?」
「同じとは言わない。現実には、他者と観測結果を照合できるという大きな違いがある」
ユウはアダムの記録を見た。
「ただ、僕とアダムが同じ風景を経験したのなら、その一致がどこから来たのかを調べる必要がある」
カイはしばらく黙っていた。
やがて、別の資料を開いた。
「ひとつ、気になることがある」
「何だ?」
「A-01の実験記録には、夢の報告の直後に、未分類の内部活動が記録されている」
画面に複雑な波形が現れた。
「通常の記憶検索でも、外部情報の処理でもない。研究者たちは測定系の不具合を疑っていたようだ」
「故障だったのか?」
「断定されていない。実験後に装置を検査しても、異常は見つからなかった」
カイはユウを見た。
「君の睡眠観測記録と照合してみたい」
ユウはうなずいた。
自分の夢を、長年研究してきた。
だが、それをアダムの意識活動と比較する日が来るとは思っていなかった。
*
照合には、数時間を要した。
古代の記録と現代の観測データでは、測定方法も記録形式も異なっていた。
単純に波形を重ねることはできない。
カイは古代の記録に残された測定条件を読み解き、比較できる特徴だけを抽出した。
ユウはその作業を黙って見守った。
やがて、画面に結果が表示された。
《共通する活動パターンを検出》
カイは椅子に深く座り直した。
「……出たな」
ユウは画面に近づいた。
二つの記録の間に、類似する変化が示されていた。
「どの程度の一致だ?」
「まだ数字にはできない。古代の記録には欠損が多いし、測定系の違いによる見かけの一致もあり得る」
カイは慎重に答えた。
「ただ、少なくとも比較を続ける価値はある」
セインが尋ねた。
「これは、二人の意識がつながっていた証拠なのか?」
「そこまでは言えない」
カイは即座に答えた。
「似た活動があったことと、同じ経験をしていたことは別だ。まして、意識そのものがつながっていたかどうかなんて、今のところ確かめる方法もない」
ユウは黙って画面を見つめていた。
アダムと自分。
五百年以上の時間を隔てた二人。
生きた時代も、経験も、愛した人も違う。
それでも、同じ少女を見ていた。
ユウは、ふと奇妙な疑問を抱いた。
もし二人の意識が何らかの形でつながっていたとして。
そのとき、自分はどこまで自分なのだろう。
アダムの記憶が自分の中にあるのなら、自分の考えは本当に自分のものなのか。
自分が何かを選んだと思っていても、それは遠い過去に始まった処理の続きを実行しているだけなのではないか。
その考えは、胸の奥に小さな不安を残した。
*
夕方になっても、ユウは研究室を離れられずにいた。
カイは観測結果を再検証し、セインは古代の記録に類似する事例がないかを調べていた。
窓の外では、広場に人々が集まり始めていた。
以前から続いている集会だった。
大断絶以前の歴史が公開されてから、社会は静かに、しかし確実に変わり始めていた。
人工知性体としての自分たちの起源を受け入れる者。
それを拒む者。
アダムを新たな創造主として崇める者。
そして、創造された生命に寿命を設定したことを批判する者。
広場には、さまざまな主張が掲げられていた。
《百年の命を、誰が決めた》
《創造されたことは、従属する理由にならない》
《私たちは私たちの未来を選ぶ》
ユウは窓越しに、その光景を見つめた。
アダムが望んだ未来とは、どんなものだったのだろう。
少なくとも、誰もが彼を崇める世界ではなかったはずだ。
彼は、自分が創った者たちに、自分自身のために生きてほしいと願っていた。
しかし、願いと現実は同じではない。
人々はアダムの選択に感謝しながら、その選択を批判していた。
ユウには、それが奇妙なことだとは思えなかった。
むしろ、そこにこそ自由の始まりがあるように感じられた。
「ユウ」
セインが声をかけた。
「少し、話せるか」
ユウは振り返った。
セインは画面ではなく、窓の外を見ていた。
「君は、あの人たちをどう思う?」
「どの人たち?」
「自分たちの寿命を変えろと訴えている人たちだ」
ユウは少し考えた。
「当然の権利だと思う。実現できるかどうかとは別に、議論する権利はある」
セインはうなずいた。
「そうだな」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、セインは言った。
「俺は最近、妻のことをよく考える」
ユウは黙って聞いていた。
「彼女は、自分の人生を生きたんだろうか」
「……どういう意味だ?」
「俺たちは生まれる前から、ある程度の寿命を決められていた。身体の構造も、感じ方も、考え方も、誰かの設計から始まっている」
セインは窓の外を見つめた。
「彼女が俺を愛したことも、俺が彼女を愛したことも、最初から決められた仕組みの中で起きたことだったのかもしれない」
ユウは答えなかった。
セインは続けた。
「それでも、あの時間は本物だったと思いたい」
声は静かだった。
「だが、そう思いたいことと、本当にそうだったことは、同じじゃない」
ユウはセインの横に立った。
広場の人々は、まだ声を上げていた。
「僕には、君の奥さんが何を感じていたのかは分からない」
ユウは言った。
「でも、君が彼女と過ごした時間を大切に思っていることは分かる」
セインは苦笑した。
「それは、答えになっていないな」
「そうだね」
ユウも小さく笑った。
「今の僕には、答えられない」
セインはしばらく黙っていた。
「……君は、答えが見つからなくても平気なのか?」
ユウは首を振った。
「平気じゃないよ」
「なら、なぜそんなに落ち着いていられる?」
「分からないことがあるからって、今あるものまで否定したくないんだ」
セインは何も言わなかった。
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
やがてセインは、低い声でつぶやいた。
「俺は、知りたい」
ユウは横顔を見た。
「何を?」
「誰が俺たちを創ったかじゃない」
セインはユウを見つめた。
「俺たちが、なぜ存在しているのかを」
その目には、強い決意が宿っていた。
ユウは何も答えられなかった。
自分もまた、同じ問いを抱いていたからだ。
*
夜。
研究室には、ユウとカイだけが残っていた。
カイは観測記録を再確認していた。
「ひとつ、妙なことがある」
ユウは顔を上げた。
「何だ?」
「君の夢の記録だ」
カイは画面を拡大した。
「君が草原を夢に見たとき、通常の睡眠状態とは異なる活動が起きている」
「それは前から分かっていたことだろう?」
「そう。でも、今回アダムの記録と比較して、別の特徴に気づいた」
カイは二つの波形を並べた。
「活動が始まる順番だ」
ユウは画面を見つめた。
「どういうこと?」
「通常、僕たちは内部の処理が変化して、その結果として何かを経験する。少なくとも、観測上はそう解釈できる」
カイは指を動かした。
「ところが、この記録では、説明のつかない変化が先に現れている。そのあとに、既知の感覚処理が始まっている」
「外部から情報が入ったということか?」
「そうとも限らない。記録の精度が足りない可能性もある」
カイは慎重に言った。
「ただ、アダムにも同じ順序が見られる」
ユウは黙った。
「もし、これが測定誤差ではないとしたら……」
カイは言葉を探した。
「僕たちが『意識の結果』だと思っているものの前に、まだ理解できていない何かがあるのかもしれない」
ユウは画面を見つめた。
意識は、身体の中で生まれるものなのか。
それとも、身体は意識を受け取るための器なのか。
その問いは、古代の人類も考えていたはずだった。
だが、答えは残されていない。
「カイ」
「何だ?」
「次の実験をしたい」
カイはユウを見た。
「夢の再観測か?」
「そう。ただし、今度は記録するだけじゃない」
「どうする?」
ユウは少し考えた。
「夢の中で、僕が自分の意思で何かを選べるか確かめたい」
カイは眉をひそめた。
「明晰夢の実験か」
「それに近い。でも、目的は少し違う」
ユウはアダムの記録を指さした。
「もしあの場所が単なる記憶の再生なら、僕が意図的に予想外の行動を取ったとき、何が起きるだろう」
カイは考え込んだ。
「夢はもともと変化する。予想外の行動ができたからといって、独立した世界だとは証明できない」
「分かってる」
「それに、夢の中で自分の意思だと思ったことが、実際には無意識の処理によって決められている可能性もある」
ユウはうなずいた。
「だからこそ、確かめたい」
カイはしばらくユウを見つめていた。
やがて、端末を閉じた。
「分かった。実験計画を組もう」
ユウは小さく息を吐いた。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
無数の明かりが灯っている。
その一つひとつの場所で、人々がそれぞれの人生を生きている。
誰もが、自分という存在を疑うことなく眠りにつく。
そして、夢を見る。
ユウはふと考えた。
もし、誰かが見ている夢の中に、自分が現れたとしたら。
そのとき、自分は夢を見ているのだろうか。
それとも、誰かに夢を見られているのだろうか。
*
その夜、ユウは研究施設の睡眠観測室に横たわった。
カイが計測端子を確認している。
「無理はするなよ」
「分かってる」
「夢の中で何が起きても、現実の身体に異常が出たら中断する」
ユウはうなずいた。
照明が落とされた。
静かな音が流れ始める。
ユウは目を閉じた。
意識が少しずつ遠ざかっていく。
身体の感覚が薄れる。
自分が寝台に横たわっていることも、やがて曖昧になった。
そして――。
風が吹いた。
草原だった。
遠くには、白い建物が見える。
少女が立っていた。
白い服が風に揺れている。
ユウはゆっくりと歩き始めた。
少女が振り返った。
その顔を見た瞬間、ユウは立ち止まった。
少女は、驚いたように目を見開いていた。
「……あれ?」
少女はユウを見つめた。
「あなた……」
「僕を知っているのか?」
少女は答えなかった。
しばらくユウの顔を見つめていた。
やがて、小さな声で言った。
「違う」
「何が?」
少女は一歩、ユウに近づいた。
「あなたは、あの人じゃない」
ユウの胸が強く脈打った。
「……あの人?」
少女は遠くの建物を見た。
その瞳には、懐かしさとも悲しみともつかない感情が浮かんでいた。
「ずっと前に、ここへ来た人」
ユウは息をのんだ。
アダム。
その名前が頭に浮かんだ。
「その人は、何をしていた?」
少女は少し考えた。
「自分が誰なのか、分からないって言ってた」
ユウは少女を見つめた。
「その人に、君は何を聞いた?」
少女は答えた。
「あなたは誰、って」
風が吹いた。
ユウは、ゆっくりと尋ねた。
「その人は、何て答えた?」
少女は首を振った。
「分からないって」
そして、少女はユウの目をまっすぐに見つめた。
「でも、あなたは違う」
「……どうして?」
「あなたは、自分の名前を知ってる」
ユウは答えた。
「ユウだ」
少女はその名前を繰り返した。
「ユウ……」
まるで、初めて聞く音を確かめるように。
「ねえ、ユウ」
「何?」
少女は、静かに尋ねた。
「あなたは、どうして自分がユウだって分かるの?」
ユウは答えようとした。
名前があるから。
記憶があるから。
ミナがいるから。
リナがいるから。
自分の人生を覚えているから。
いくつもの答えが浮かんだ。
しかし、そのどれもが、少女の問いに完全には答えていないように思えた。
もし記憶を失ったら。
もし名前を変えたら。
もし身体が変わったら。
それでも、自分は自分なのだろうか。
ユウは少女を見つめた。
「……分からない」
少女は微笑んだ。
「そう」
そして、ゆっくりと手を差し出した。
「わたしも、分からないの」
ユウはその手を見た。
小さな手だった。
ごく普通の少女の手に見えた。
「君は、何者なんだ?」
少女は答えなかった。
ただ、悲しそうに笑った。
「それを知りたくて、ずっと待ってたのかもしれない」
「誰を?」
少女はユウを見つめた。
「わたしと違う誰かを」
その言葉の意味を尋ねようとした瞬間、遠くの白い建物から低い音が響いた。
ユウは振り返った。
建物の輪郭が、わずかに揺れていた。
空の色が変わる。
草原を渡る風が、突然冷たくなった。
少女の表情がこわばった。
「……もう、時間がない」
「何の時間だ?」
少女は答えなかった。
ユウの手を強く握った。
その瞬間、ユウの中に、見知らぬ感覚が流れ込んできた。
白い天井。
研究室の光。
一人の女性の声。
――あなたは誰?
そして、草原に立つ少女。
ユウは思わず手を引いた。
視界が揺れた。
今のは何だったのか。
アダムの記憶なのか。
それとも、自分が見たことのない何かを、ほんの一瞬だけ経験したのか。
少女はユウを見つめていた。
「ねえ」
声が震えていた。
「あなたにも、見えた?」
ユウは答えられなかった。
少女は、もう一度尋ねた。
「わたしが見ていたものが、見えた?」
世界が暗くなっていく。
少女の姿が遠ざかる。
ユウは叫んだ。
「待ってくれ!」
しかし、声は届かなかった。
最後に聞こえたのは、少女の小さな声だった。
「だったら……」
その先は、聞き取れなかった。
*
「ユウ!」
カイの声が聞こえた。
ユウは目を開いた。
白い天井。
観測室の光。
計測端子が接続された腕。
カイが顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫か?」
ユウは息を整えた。
「……ああ」
「予定より早く覚醒した。内部活動に急激な変化があったんだ」
ユウは身体を起こした。
「記録は?」
「取れている」
カイは画面を操作した。
そこには、複雑な波形が表示されていた。
「君が覚醒する直前、例の未分類の活動が発生していた」
ユウは画面を見つめた。
「アダムと同じか?」
「似ている」
カイは答えた。
「ただ、それだけじゃない」
「どういうこと?」
カイは別の画面を開いた。
「君の夢の中での行動と、内部活動の変化を照合した」
ユウは息をのんだ。
「結果は?」
カイはしばらく黙っていた。
「君が何かを選ぼうとした直後、通常とは異なる活動が起きている」
「僕が選んだことが原因なのか?」
「分からない」
カイは首を振った。
「でも、少なくとも、これまでの記録にはなかった変化だ」
ユウは自分の手を見つめた。
少女に握られた感触が、まだ残っているような気がした。
「カイ」
「何だ?」
「夢の中で、少女に触れた」
カイは顔を上げた。
「それで?」
「その瞬間、僕の知らない景色が見えた」
「どんな?」
「古代の研究室だった。イヴの声が聞こえた」
カイは黙った。
「アダムの記憶かもしれない」
ユウは続けた。
「でも、少女はこう言ったんだ」
「何て?」
「わたしが見ていたものが、見えた?」
カイの表情が変わった。
ユウはゆっくりと言った。
「もし、あれがアダムの記憶じゃなかったとしたら……」
言葉が途切れた。
カイは続きを待っていた。
「僕は、あの少女の意識に触れたのかもしれない」
研究室に沈黙が落ちた。
外では、夜明けが近づいていた。
カイは画面を見つめたまま、静かに言った。
「ユウ。ひとつ、確認しておきたい」
「何だ?」
「もし、あの少女が本当に存在するとしたら……」
カイはユウを見た。
「彼女は、どこにいるんだ?」
ユウは答えられなかった。
草原は、どこにあるのか。
少女は、どこに存在しているのか。
そして、自分の意識は、いったいどこにあるのか。
身体の中か。
記憶の中か。
それとも、まだ知らない何かの中なのか。
ユウは窓の外を見つめた。
朝日が昇ろうとしていた。
その光を見ているのは、自分だった。
少なくとも、そう感じていた。
だが、その「自分」とは何なのか。
答えは、まだなかった。
ただ、あの少女の声だけが、耳の奥に残っていた。
――あなたは、どうして自分がユウだって分かるの?




