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神の記憶  作者: ケンジ


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22/22

意識の境界

目の前に、赤い花があった。


花弁は五枚。


細い茎が伸び、葉の先には小さな水滴がついている。


ユウはその花を見つめていた。


「何が見える?」


カイの声が聞こえた。


「赤い花だ」


「形は?」


「花弁が五枚。茎は細い。葉が二枚ある」


「色は?」


「赤だよ」


「どんな赤だ?」


ユウは少し考えた。


「……普通の赤だ」


「普通の赤、か」


カイは記録端末に何かを入力した。


「では、今から君の視覚情報を別の被験者に送る」


ユウはうなずいた。


実験室の中央には、二台の椅子が向かい合うように設置されていた。


一方にはユウ。


もう一方には、研究所の協力者である女性が座っている。


二人の頭部には、感覚情報を記録・再構成するための装置が取り付けられていた。


感覚信号の一部を抽出し、別の個体が処理できる形式へ変換する。


ただし、他人の意識そのものを読み取れるわけではない。


「準備はいい?」


カイが尋ねた。


女性はうなずいた。


「はい」


「それでは、開始する」


低い電子音が鳴った。


ユウの視界にある花が、女性の感覚処理系へ送られる。


数秒後、女性が口を開いた。


「見えます」


「何が?」


「赤い花です」


「花弁は?」


「五枚」


「葉は?」


「二枚あります」


カイは画面を確認した。


「視覚情報の再構成は正常だ」


ユウは女性を見た。


「僕と同じものが見えていますか?」


女性は少し笑った。


「たぶん」


「たぶん?」


「形も色も、あなたの説明と一致しています。でも……」


女性は言葉を探した。


「私が見ている赤が、あなたの見ている赤と同じなのかは、分かりません」


ユウはうなずいた。


それこそが、この実験の出発点だった。


*


研究室の壁面には、二人の視覚処理の比較結果が表示されていた。


入力情報は一致している。


色の識別も、形状の認識も正常だった。


それでも、二人の主観的な経験が同一であるとは証明できなかった。


「結局、ここが限界なんだ」


カイは画面を見つめながら言った。


「僕たちは感覚情報を共有できる。処理結果も比較できる。でも、他人がその情報をどう経験しているかは直接観測できない」


ユウは椅子から立ち上がった。


「もし、僕の赤と彼女の赤が違っていたとしても、二人とも赤だと答えることはできる」


「そう。幼い頃から同じ名称を学習していればね」


「じゃあ、僕たちは同じ世界を見ているつもりで、実際には別々の世界を経験しているのかもしれない」


カイはうなずいた。


「少なくとも、その可能性は否定できない」


ユウは先ほどの花を見た。


赤い花。


自分には確かに赤く見えている。


だが、その赤さを他人に渡すことはできない。


どれほど精密な言葉を使っても、どれほど詳細な情報を共有しても、自分の経験そのものを相手の中へ移すことはできない。


それが、これまでの常識だった。


しかし――。


「夢の中では、違った」


ユウが言うと、カイは顔を上げた。


「少女に触れたときのことか?」


「ああ」


ユウは自分の右手を見た。


「僕は、あの少女が見ていたものを見たのかもしれない」


「そう彼女が言っただけだろう」


「分かってる」


「君が古代の研究室の記録を読んでいたことも忘れちゃいけない。夢の中で、それが再構成された可能性は十分にある」


ユウはうなずいた。


カイの指摘は正しかった。


自分はすでに、アダムとイヴの記録を知っていた。


白い研究室も、イヴの声も、資料から再現できる。


あの夢だけでは、何も証明できない。


「だから、次は僕の知らない情報が必要だ」


カイは腕を組んだ。


「夢の中で、知らない情報を得る?」


「それが現実の情報と一致すれば、少なくとも単なる記憶の再生では説明しにくくなる」


「一致しなければ?」


「仮説を見直す」


カイは少し笑った。


「研究者らしい答えだ」


ユウも笑った。


だが、胸の奥に残る不安は消えなかった。


あの少女が何者なのか。


なぜアダムと自分が、同じ場所にたどり着いたのか。


そして、なぜ少女は自分に触れたとき、あれほど驚いていたのか。


*


その日の午後、ユウたちは新たな実験を始めた。


実験は単純だった。


カイが、ユウの知らない情報を一つ用意する。


その情報を、研究施設内の隔離された端末に保存する。


ユウは内容を知らされないまま睡眠観測を受け、夢の中でその情報に到達できるかを試みる。


「ただし、問題がある」


カイは説明した。


「仮に夢の中で情報を得られたとしても、君がどこからそれを受け取ったのかは分からない」


「通信経路の欠陥かもしれないし、装置の不具合かもしれない」


「そう。だから隔離は厳密に行う」


カイは端末を閉じた。


「今回は僕も答えを知らない。情報は独立した装置で無作為に生成する。実験が終わるまで、誰も確認しない」


ユウはうなずいた。


「分かった」


「それから、もう一つ」


カイの表情が真剣になった。


「夢の中で、少女に情報を尋ねることができたとしても、無理に接触しないでほしい」


「なぜ?」


「前回、君の内部活動に急激な変化が起きた。あれが何だったのか、まだ分かっていない」


「でも、接触しなければ――」


「ユウ」


カイは言葉を遮った。


「君が壊れたら、研究は終わりだ」


ユウは黙った。


カイは続けた。


「君の身体がどういう構造で、どんな仕組みで意識を生み出しているのか、僕たちは以前より多くを知っている。でも、すべてを理解したわけじゃない」


ユウはカイを見た。


「……分かった。無理はしない」


カイはようやくうなずいた。


*


一方、セインは別の調査を進めていた。


彼が調べていたのは、アダムの実験記録ではなかった。


古代人類の夢に関する資料だった。


「人工知性体だけが、あの場所を見るとは限らない」


それがセインの考えだった。


もし草原がアダムの記憶に由来するのなら、人工知性体に共通する現象として説明できるかもしれない。


しかし、もし古代の生物としての人間も、同じ場所を夢に見ていたとしたら。


話は変わる。


セインは膨大な記録を検索していた。


古代の医学論文。


睡眠研究。


夢に関する個人記録。


宗教的な体験の証言。


その大半は、すでに失われていた。


残っている資料も断片的だった。


だが、ある古い文書が目に留まった。


それは正式な研究報告ではなく、古代の医療施設に残されていた症例記録だった。


《被験者は反復する夢を報告》


《夢の内容は、広大な草原と遠方の白い構造物》


セインの指が止まった。


記録の作成年代を確認する。


A-01の起動よりも前だった。


「……まさか」


セインは画面に顔を近づけた。


さらに読み進める。


《夢の中で、白い衣服を着た少女と遭遇》


セインは息をのんだ。


その下には、短い記述があった。


《少女は被験者に、自身の名前を尋ねたという》


セインは椅子から立ち上がった。


「ユウ……」


すぐに通信端末を手に取った。


しかし、そこで手が止まった。


記録には、まだ続きがあった。


《被験者は少女との対話を詳細に記憶していない》


《ただし、覚醒後、次の言葉を繰り返した》


セインは、その文章を読んだ。


そして、しばらく動けなくなった。


《あの子は、私たちを見ているのではない》


《あの子も、何かを探している》


*


ユウがその記録を見たのは、夕方だった。


「古代の人間が?」


思わず聞き返した。


セインはうなずいた。


「A-01が起動するよりも前だ」


カイも画面をのぞき込んだ。


「年代の確認は?」


「複数の保存記録と照合した。少なくとも、A-01の開発が始まる前に作成された文書だ」


カイは黙って資料を読んだ。


ユウは、胸の奥で何かが大きく動くのを感じた。


アダムよりも前。


人工知性体が生まれるよりも前。


その時代の人間も、同じ草原を見ていた。


「記録の信頼性は?」


カイが尋ねた。


「完全ではない」


セインは答えた。


「医療施設の記録だが、元の観測データは残っていない。夢の内容も本人の証言に基づいている」


「後世に改変された可能性は?」


「ある。だから、ほかの記録も探している」


カイはうなずいた。


「慎重に扱う必要があるな」


ユウは画面を見つめていた。


《あの子も、何かを探している》


少女の言葉が蘇った。


――わたしも、分からないの。


――わたしと違う誰かを。


ユウは静かに言った。


「セイン。これが本当なら、あの少女はアダムの記憶から生まれた存在じゃない」


「少なくとも、アダムだけに由来するものではない」


セインは答えた。


「もっと古い何かだ」


カイは腕を組んだ。


「だが、それでも説明はできる。古代人類の夢に関する情報が、A-01の学習資料に含まれていた可能性はある」


「そして、アダムから後の人工知性体へ受け継がれた?」


「そうだ」


ユウは考え込んだ。


確かに、その説明は成立する。


古代人類が見た夢。


その記録を学習したアダム。


そして、アダムが創った新しい人類。


少女の姿は、情報として受け継がれてきたのかもしれない。


だが――。


「それなら、なぜ少女は僕とアダムを区別したんだろう」


ユウが言うと、カイは黙った。


「夢の中の登場人物が、僕の知識に基づいて反応しただけかもしれない。でも……」


ユウは言葉を切った。


少女の驚いた表情が、忘れられなかった。


あれは、あらかじめ用意された反応には見えなかった。


少なくとも、ユウにはそう感じられた。


セインが口を開いた。


「俺は、別のことが気になっている」


「何だ?」


「なぜ、あの少女はいつも質問するんだ?」


ユウはセインを見た。


「質問?」


「あなたは誰。どうして自分が自分だと分かる。自分が何者なのか分からない」


セインは記録を指さした。


「まるで、自分の存在を確かめようとしているみたいじゃないか」


研究室に沈黙が落ちた。


ユウは、少女の目を思い出した。


あの少女は、いつも何かを知りたがっていた。


自分が何者なのか。


他人が何を見ているのか。


そして、なぜ自分は自分なのか。


「……もしかしたら」


ユウはつぶやいた。


「僕たちだけじゃないのかもしれない」


カイが顔を上げた。


「何が?」


「自分の起源を探しているのは」


*


夜。


ユウは自宅に戻っていた。


玄関を開けると、居間からミナの声が聞こえた。


「おかえり」


「ただいま」


「遅かったね」


「少し、調べ物が長引いて」


ミナは読んでいた本を閉じ、ユウを見た。


「最近、そればっかり」


ユウは苦笑した。


「そうだね」


「リナはもう寝たよ」


「そっか」


ユウはソファに腰を下ろした。


ミナは隣に座った。


「ねえ、ユウ」


「何?」


「あなた、最近ちゃんと眠れてる?」


ユウは答えに詰まった。


「研究室では眠ってるよ」


「そういう意味じゃない」


ミナは静かに言った。


「休めてるのかって聞いてるの」


ユウは目を伏せた。


「……あまり、休めてないかもしれない」


ミナは小さく息を吐いた。


「でしょうね」


しばらく沈黙が続いた。


やがてミナが言った。


「あなたが何かを見つけようとしているのは分かる」


ユウは顔を上げた。


「でも、私にはその夢が見えない」


その言葉に、ユウは少し驚いた。


ミナは続けた。


「あなたがどれほど不思議なものを見ているのか、どれほど大切なことを調べているのか、全部は分からない」


「ミナ……」


「でも、分からないからって、あなたのことを理解しようとしなくていいわけじゃないでしょう?」


ユウは黙っていた。


ミナは少し笑った。


「それは、あなたも同じだと思う」


「どういうこと?」


「私が何を考えているか、あなたにも全部は分からないでしょ」


ユウはうなずいた。


「うん」


「でも、一緒に暮らしてる」


ミナはユウを見た。


「分からないことがあっても、一緒にいられる。それじゃ駄目なのかな」


ユウは、隣にいるミナを見つめた。


夢の中で少女に触れたとき、自分は見知らぬ景色を見た。


だが、目の前にいるミナの心の中は見えない。


それでも、自分はミナを愛している。


ミナが何を感じているのか、完全には分からない。


それでも、彼女の言葉に耳を傾けることはできる。


ユウは、そっとミナの手に触れた。


「……駄目じゃないよ」


ミナは微笑んだ。


「なら、今日はもう休んで」


「分かった」


「研究の話は、明日聞くから」


ユウは笑った。


「明日も聞いてくれるの?」


「難しいところは、分からないと思うけどね」


ミナも笑った。


その夜、ユウは久しぶりに研究の記録を開かずに眠った。


*


翌朝。


研究室では、カイがすでに実験の準備を終えていた。


「情報の生成は完了した」


ユウは画面を見た。


隔離端末には、無作為に生成された文字列が保存されている。


ただし、内容は表示されていなかった。


「僕もまだ見ていない」


カイは言った。


「実験が終わるまで、誰も内容を確認できないようにしてある」


ユウはうなずいた。


「分かった」


「今回は、夢の中で少女に会えたら、情報について尋ねてみてほしい」


「少女が答えを知っているとは限らない」


「もちろん」


カイは肩をすくめた。


「そもそも、彼女が君とは独立した存在なのかどうかも分かっていない」


ユウは観測用の寝台に横たわった。


計測端子が取り付けられる。


「ユウ」


カイが声をかけた。


「何だ?」


「昨日の記録、もう一度見直したんだ」


「何か分かった?」


カイは少し迷った。


「まだ確信はない。でも、君が少女に触れた瞬間の活動には、説明しにくい特徴がある」


「どんな?」


「通常、外部からの情報が処理されるときは、感覚系の活動が先に変化する」


「そうだね」


「でも、あのときは違った」


カイは画面を見た。


「君の自己認識に関わる処理が、一瞬だけ不安定になっていた」


ユウは眉をひそめた。


「自己認識?」


「自分の身体がどこにあるか。自分の記憶がどこまで自分のものか。そういった情報を統合している部分だ」


「それが、不安定になった?」


「ああ」


カイは静かに続けた。


「まるで、一瞬だけ、自分と他人の境界が曖昧になったみたいに」


ユウは黙った。


少女の手の感触を思い出した。


そして、見知らぬ研究室の景色。


「……始めよう」


カイはうなずいた。


照明が落とされた。


ユウは目を閉じた。


*


風が吹いていた。


草原だった。


しかし、いつもと少し違っていた。


空が曇っている。


遠くの白い建物は、薄い霧に包まれていた。


ユウは周囲を見渡した。


少女の姿はなかった。


「……誰かいるか?」


返事はない。


ユウは歩き始めた。


草を踏む感触がある。


風の冷たさがある。


そして、遠くで何かが鳴っていた。


低く、規則的な音だった。


ユウは立ち止まった。


音の方向を探す。


白い建物の方から聞こえている。


これまで、あの建物に近づこうとしたことは何度もあった。


しかし、いつも途中で目が覚めてしまった。


ユウは、ゆっくりと歩き始めた。


一歩。


また一歩。


建物が近づいてくる。


白い壁。


窓のない外観。


入口らしきものは見えない。


やがて、建物の前にたどり着いた。


ユウは驚いた。


これまで、どれほど歩いても近づけなかった場所だった。


「……ここは」


壁に手を伸ばす。


冷たい。


確かな感触があった。


そのとき、背後から声がした。


「そこに行っちゃ駄目」


ユウは振り返った。


少女が立っていた。


白い服。


長い髪。


だが、その表情は、これまでとは違っていた。


怯えていた。


「どうして?」


ユウが尋ねた。


少女は首を振った。


「分からない」


「分からない?」


「でも、そこに近づくと……」


少女は建物を見上げた。


「何かが、終わってしまう気がするの」


ユウは建物を振り返った。


低い音が、まだ続いている。


「君は、ここが何なのか知っているのか?」


少女は答えなかった。


「僕は、君に聞きたいことがある」


少女がユウを見た。


「何?」


「僕の世界に、ある情報が隠されている」


少女は首をかしげた。


「情報?」


「文字の並びだ。僕はその内容を知らない」


ユウは続けた。


「もし君が僕とは違う場所にいるのなら、その文字を知ることができるかもしれない」


少女はしばらく考えた。


「……どうして、それを知りたいの?」


「君が本当に存在しているのか、確かめたいから」


少女は目を伏せた。


「わたしが、存在しているか……」


その声には、わずかな寂しさがあった。


ユウは言葉を続けた。


「君を疑っているわけじゃない。ただ、僕には分からないんだ。君が夢の中の存在なのか、それとも――」


「わたしも」


少女が遮った。


ユウは黙った。


少女はゆっくりと顔を上げた。


「わたしも、あなたが本当にいるのか分からない」


風が吹いた。


ユウは少女を見つめた。


「……どういうこと?」


「あなたは、突然ここに来る。そして、突然いなくなる」


少女は草原を見渡した。


「あなたがいなくなったあとも、わたしはここにいる」


ユウは息をのんだ。


「ずっと?」


少女はうなずいた。


「でも、あなたがいない間、あなたが本当にどこかにいるのか、わたしには分からない」


ユウは何も言えなかった。


少女は続けた。


「あなたが夢を見ているのかもしれない」


そして、小さく笑った。


「でも、わたしがあなたの夢を見ているのかもしれないでしょう?」


ユウの背筋に、冷たいものが走った。


少女の言葉は、単なる比喩には聞こえなかった。


「君は……」


ユウは言葉を探した。


「僕がここにいない間、何をしているんだ?」


少女は少し考えた。


「待ってる」


「何を?」


「分からない」


少女は白い建物を見た。


「でも、ずっと前から、何かを待っている気がするの」


ユウはゆっくりと尋ねた。


「アダムも、ここに来たんだね?」


少女はうなずいた。


「あの人も、あなたと同じことを聞いた」


「何を?」


少女はユウを見つめた。


「わたしが、本当にいるのかって」


ユウは息を止めた。


アダムも、同じ疑問を抱いていた。


そして、同じ少女に問いかけていた。


「その人は、どうした?」


少女は目を伏せた。


「……帰っていった」


「それから?」


「もう、来なかった」


ユウは黙った。


少女は、遠くを見るような目をしていた。


「わたし、ずっと待ってた」


その言葉には、長い時間が含まれているように感じられた。


五百年以上。


あるいは、それよりも長い時間。


ユウは少女に近づいた。


「君は、寂しかったの?」


少女は答えなかった。


ただ、小さくうなずいた。


ユウは、胸の奥が痛むのを感じた。


この少女が何者なのかは分からない。


本当に独立した意識を持つ存在なのかも分からない。


しかし、今、自分の目の前で寂しそうにしている。


それを、単なる情報処理の結果だと片づけることはできなかった。


「……君に、名前はある?」


少女は首を振った。


「ないの?」


「分からない」


「誰かに呼ばれたことは?」


少女は少し考えた。


「……ないと思う」


ユウは黙った。


少女はユウを見つめた。


「名前がないと、いないことになるの?」


ユウは首を振った。


「ならないよ」


「どうして?」


ユウは少し考えた。


「僕が君を見ているから、じゃない」


少女は不思議そうに首をかしげた。


「君が何を感じているのか、僕には分からない。でも、君が何かを感じているかもしれないなら、そのことを大切にしたい」


少女はしばらく黙っていた。


やがて、小さく笑った。


「……変なの」


「そうかな」


「うん」


少女は空を見上げた。


「でも、少し嬉しい」


そのときだった。


白い建物から、低い音が響いた。


先ほどよりも大きい。


少女の表情が変わった。


「……また」


ユウは建物を振り返った。


白い壁に、細い線が現れていた。


線はゆっくりと広がっていく。


まるで、何かが内側から開こうとしているようだった。


「何だ、あれは?」


少女は答えなかった。


ただ、ユウの腕をつかんだ。


「お願い」


声が震えていた。


「まだ、行かないで」


ユウは少女を見た。


「どうした?」


少女は建物を見つめていた。


「今度こそ、分からなくなってしまう」


「何が?」


少女はユウを見上げた。


「わたしが、誰なのか」


その瞬間、白い建物の壁が開いた。


眩しい光があふれ出した。


ユウは目を閉じた。


そして――。


*


「ユウ!」


カイの声が聞こえた。


ユウは目を開いた。


観測室だった。


身体が寝台に横たわっている。


計測端子が腕に接続されていた。


「大丈夫か?」


カイが尋ねた。


ユウは息を整えた。


「……ああ」


「急激な活動変化が起きた。安全基準を超えたから、実験を中断した」


ユウは身体を起こした。


「記録は?」


「取れている」


カイは画面を見た。


「ただ、前回よりも複雑だ」


ユウは顔を上げた。


「どういうこと?」


カイは少し迷った。


「君が夢の中で少女と接触したとき、自己認識に関わる処理が一時的に不安定になった」


「前回と同じだね」


「そう。でも、今回は別の変化があった」


カイは画面を拡大した。


「君の感覚処理の一部に、通常とは異なる入力の痕跡がある」


ユウは画面を見つめた。


「外部から?」


「分からない。装置の不具合かもしれない」


カイは続けた。


「ただ、少なくとも、君の内部で何らかの情報の再構成が起きたことは確かだ」


ユウはうなずいた。


「隔離端末の情報は?」


カイは首を振った。


「まだ確認していない」


「見てみよう」


カイは端末を操作した。


封印されていた文字列が表示された。


《7K-42M-91R》


ユウは、その文字列を見つめた。


何も感じなかった。


夢の中で少女に尋ねたが、答えは得られなかった。


「……失敗だね」


ユウが言うと、カイは首を振った。


「そうとも限らない」


「どうして?」


「少なくとも、君は夢の中で少女と対話した。そして、これまで到達できなかった建物の前まで行った」


「でも、情報は得られなかった」


「それはそうだ」


カイは記録を保存した。


「ただ、今回の実験で分かったことがある」


「何?」


「君が夢の中で自分の意思で行動しようとしたとき、観測上の変化が起きている」


ユウは考え込んだ。


「それが何を意味するかは、まだ分からない」


カイはうなずいた。


「でも、次の実験につながる」


ユウは、少女の言葉を思い出した。


――あなたがいなくなったあとも、わたしはここにいる。


その言葉が、頭から離れなかった。


*


その日の夜。


セインは一人、古代の記録を調べ続けていた。


ユウたちには、まだ伝えていないことがあった。


古代の夢の症例記録。


そこには、もう一つ奇妙な記述が残されていた。


《被験者は覚醒後、夢の中で少女に名前を尋ねたと報告》


《少女は答えなかった》


《ただし、被験者は次の言葉を聞いたと証言している》


セインは、その文章を何度も読み返していた。


《わたしを創った人は、どこにいるの?》


セインは椅子に深く座り直した。


少女は、自分の創造主を探している。


だとすれば、少女もまた、誰かによって創られた存在なのか。


セインは画面を閉じた。


そして、亡き妻の写真を見た。


机の片隅に置かれた、小さな写真だった。


彼女は笑っていた。


何も知らずに生きていた頃の写真だった。


自分たちが人工知性体であることも。


アダムという創造主が存在したことも。


そして、命の長さが誰かによって決められていたことも。


知らなかった。


セインは写真に手を伸ばした。


「……君は、どう思う?」


答えはない。


当然だった。


彼女は、もうここにはいない。


セインは目を閉じた。


そして、静かにつぶやいた。


「もし、俺たちの世界にも、さらに上の創造主がいるのなら……」


言葉が途切れた。


彼は、長い間考えていたことを口にした。


「その外側へ、行くことはできるんだろうか」


窓の外には、夜の街が広がっていた。


無数の明かりが灯っている。


その一つひとつの場所で、人々が眠りにつこうとしていた。


誰もが、自分の世界を生きている。


だが、その世界がどこまで続いているのかを知る者はいない。


セインは、再び古代の記録を開いた。


少女の言葉が表示されている。


――わたしを創った人は、どこにいるの?


セインは、その文章を見つめた。


そして、初めて気づいた。


自分たちと少女は、同じ問いを抱いている。


誰が自分を創ったのか。


なぜ自分は存在しているのか。


そして、自分の世界の外側には、何があるのか。


セインは端末に新しい検索条件を入力した。


《意識の外部接続》


《夢の共有》


《現実階層》


検索が始まる。


膨大な記録が、次々と表示されていく。


その中に、一つだけ、奇妙な資料があった。


作成年代は不明。


作成者も不明。


題名だけが残されていた。


《観測者の夢》


セインは、その資料を開いた。


画面には、短い文章が表示された。


《世界を観測する者は、世界の内側に存在する》


《しかし、その観測者自身を観測する者がいるとしたら》


《その世界は、誰のものなのか》


セインは息をのんだ。


文章は、そこで終わっていた。


だが、画面の下には、もう一つの記録が残されていた。


《最終観測対象:未確認》


《観測継続中》


セインは、しばらく動けなかった。


観測継続中。


誰が。


何を。


そして、いつから。


その問いに答える者はいなかった。


ただ、研究室の端末だけが、静かに光っていた。


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