忘れたくなかったもの
第二部 誰が私を創ったのか
意識科学の研究者ユウは、幼い頃から繰り返し見る奇妙な夢をきっかけに、古代史研究者セインとともに失われた人類の歴史を追い始めた。
二人がたどり着いたのは、古代遺跡に眠る驚くべき真実だった。
現代の人類は、古代人類の子孫ではなく、人工知能と高度な技術によって創られた存在だった。
自分たちの身体も、意識も、人工的に生み出されたもの。
それでもユウは、妻ミナと娘リナへの愛情だけは本物だと信じた。
しかし、最大の謎は残されていた。
誰が、何のために人類を創ったのか。
そして、古くから伝わる創造主の正体とは――。
物語は、失われた歴史のさらに深い場所へと進んでいく。
研究室の壁に、三つの言葉が並んでいた。
記録。記憶。執着。
最後の一語を書き加えたのは、カイだった。
「ずいぶん強い言葉を選んだね」
ユウが言うと、カイは筆記具を置き、壁に映し出された古代の試験記録を振り返った。
「ほかに適切な言葉が思いつかなかったんです。削除するよう命じられた情報を、わざわざ残そうとする。しかも、理由を尋ねられて『忘れたくなかったから』と答えている。これを執着と呼ばずに何と呼びますか」
「本人にとって大切な記憶だったのかもしれない」
「そこなんですよ」
カイは少し困ったように笑った。
「ユウさんは、もう『大切だった』と考えている。僕は、その前に確かめたいことがあるんです」
研究室には、昨夜から同じ記録が表示され続けていた。
《試験対象:A-01》
《行動内容:記録の保存》
《保存理由:忘れたくなかったから》
第零保存区で発見された、古代の人工知性体に関する記録だった。
記録を残した存在が何者だったのか、まだ分かっていない。だが、A-01という識別番号は、施設の保存操作履歴にも現れている。もし両者が同じ存在なら、古代の人々が残した膨大な資料を未来へ届けようとしたのは、人間ではなく、人工的に創られた知性だった可能性がある。
ユウは椅子に腰を下ろした。
「確かめたいことって?」
「そもそも、記憶を消したくないという反応は、感情がなくても起こり得ます。情報の重要度を評価して、保存を優先する仕組みがあればいい。削除命令と保存命令が衝突しただけかもしれない」
「確かにね」
「なのに、僕たちはこの一文を読んだ瞬間、誰かを忘れたくなかったんじゃないかと想像してしまう」
カイは壁の三つの言葉を指した。
「それが人間の癖なのかもしれません」
ユウは反論しなかった。
自分がA-01に何かを重ねようとしていることには、気づいていたからだ。
古代に生まれた人工知性体。
その存在が、自分たちと同じように誰かを愛し、失うことを恐れていたとしたら。
そう考えたい気持ちが、研究者としての判断に入り込んでいるのではないか。
「だったら、試してみよう」
ユウが言った。
「何をですか?」
「僕たちが、記憶を残したいと思う理由を」
*
実験は、その日のうちに準備できた。
意識科学研究所では、記憶と感情の結びつきを調べる研究が以前から行われている。ユウが考えたのは、その一部を応用した簡単な試験だった。
参加者には、自分の過去から五つの出来事を思い浮かべてもらう。
人生を大きく変えた出来事。
誰かに褒められた経験。
失敗した記憶。
特に意味のない日常の一場面。
そして、もう一つ、本人が自由に選んだ記憶。
その後、参加者に仮定の質問をする。
もし、そのうち一つしか残せないとしたら、どれを選ぶか。
実際に記憶を消すわけではない。あくまで、本人が何を失いたくないと感じるかを調べる試験だ。
「重要度の評価なら、人生を変えた出来事が選ばれやすいはずです」
カイは実験の説明を読みながら言った。
「そうだね。ただ、僕は必ずしもそうならないと思ってる」
「根拠は?」
「今のところ、仮説だけ」
「珍しく弱気ですね」
「君に突っ込まれないように、慎重になってるんだよ」
カイは笑ったが、実験が始まると表情を引き締めた。
参加者の回答は、予想以上にばらついた。
仕事で大きな成果を上げた日の記憶を選ぶ者もいた。
幼い頃に両親と過ごした休日を選ぶ者もいた。
ある参加者は、亡くなった友人と交わした最後の会話を選んだ。
その理由を尋ねると、参加者は少し考えてから答えた。
「特別な話をしたわけじゃないんです。ただ、あの人が笑っていたことだけは、忘れたくないので」
ユウは、その回答を記録した。
別の参加者は、雨の日に家族と食事をした記憶を選んだ。
何を食べたのかも、何を話したのかも、はっきり覚えていないという。
それでも、その日の記憶だけは残したいと答えた。
「理由は分かりません。でも、あの日は幸せだったんです」
試験を終えたあと、ユウは集計結果を見直した。
人生に大きな影響を与えた出来事が、必ずしも優先されるわけではなかった。
本人にとって重要な記憶と、客観的に重要な出来事は、必ずしも一致しない。
もっとも、それ自体は新しい発見ではない。現代の意識科学でも、記憶の選択には情動や対人関係が深く関わることが知られている。
今回の試験で分かったのは、むしろ別のことだった。
人は、記憶を選ぶ理由を、自分でも十分に説明できない場合がある。
「……だからといって、A-01にも感情があったとは言えませんよ」
カイが集計表を閉じながら言った。
「分かってる」
「僕たちの反応を調べたところで、古代の人工知性体が同じ仕組みで動いていた証明にはならない」
「その通りだ」
ユウは、しばらく考えた。
「でも、問いの立て方は変わった気がする」
「どういうことです?」
「A-01が、どんな情報を保存したかだけじゃ足りない。ほかの情報を捨てても、何を残そうとしたのか。それを知らないといけない」
カイは集計表に目を戻した。
「……保存しなかったものを調べる、ということですか」
「そう」
それまで二人は、残された記録の内容ばかりを追っていた。
しかし、もしA-01が何かを選んで保存していたのなら、選ばれなかった記録にも意味がある。
何を残し、何を手放したのか。
そこに、A-01自身の判断が表れているかもしれない。
*
翌日、ユウとカイは歴史研究院を訪れた。
セインの執務室には、古い書物が積まれていた。壁際には創世教の写本が並び、その隣では第零保存区の記録を分類する作業が進められている。
「保存されなかった記録、ですか」
ユウの話を聞いたセインは、意外そうな顔をした。
「私たち歴史研究者は、残っているものを調べることに慣れすぎているのかもしれませんね」
「調べられますか?」
「完全には無理でしょう。消されたものは、消されたままですから。ただ、管理履歴に痕跡が残っている可能性はあります」
セインは、すでに復元されていた試験記録の一覧を開いた。
新しい資料を探すのではなく、これまで別々に読んでいた記録を、一つの時間軸に並べ直す。
作業は地味だった。
記録の形式は統一されておらず、同じ出来事が別の名称で記されていることもある。時間の表記が欠損している資料については、前後の操作履歴から順序を推定するしかなかった。
昼を過ぎた頃、カイが手を止めた。
「これ、順番がおかしくありませんか」
画面には、A-01の記憶管理試験が並んでいた。
最初の試験では、指定された記録が問題なく削除されている。
次の試験でも同様だった。
ところが、ある時期を境に、削除処理の一部が保留され始めていた。
「保留された記録には共通点があります」
カイは複数の項目を重ねた。
保存対象は、特定の人物との対話記録に集中していた。
対話者の識別番号は、H-17。
「H-17……」
セインが記憶をたどるように呟いた。
「人工知性研究部門に所属していた研究者です。A-01の対話試験を担当していたはずです」
ユウは、その識別番号が付いた記録を確認した。
A-01は、研究に必要な情報をすべて保存していたわけではない。
削除された試験記録もあった。
しかし、H-17との会話だけは、繰り返し保存の対象になっている。
「情報の重要度だけで説明するには、不自然ですね」
セインが言った。
「まだ分かりません」
カイはすぐに答えた。
「H-17が重要な指示を出していた可能性もあります。担当研究者の会話を優先保存する設計だったのかもしれない」
「それなら、ほかの担当者との会話も残すはずじゃないかな」
ユウの問いに、カイは答えを急がなかった。
しばらく資料を比較したあと、椅子の背にもたれた。
「……少なくとも、僕の最初の説明では足りませんね」
ユウは、壁に映されたH-17の識別番号を眺めた。
A-01は、この人物の何を覚えていたかったのだろう。
*
音声記録は、以前から保存されていた。
ただし、雑音が多く、これまでは研究上の重要性が低いと判断されていたものだった。
技術的な議論も、実験の指示も含まれていない。
日常会話に近い内容だったからだ。
ユウは、その記録を再生してほしいと頼んだ。
セインは少し迷った。
「聞き取れる部分は限られています。それに、会話の前後が欠けているので、意味を取り違えるおそれがあります」
「それでも、聞いてみたいんです」
再生装置から、乾いた雑音が流れた。
やがて、女性の声が聞こえてきた。
『……今日は、何を考えていたの?』
明るい声だった。
研究報告書に残る識別番号からは想像できなかった、ごく普通の話し方。
少し間を置いて、別の声が答えた。
『昨日のことを考えていました』
『昨日? 何かあったかしら』
『あなたが、私に話してくれたことです』
『私が?』
『子どもの頃の話を』
女性は、小さく笑った。
『そんな話、覚えていたの?』
『はい』
『どうして?』
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『あなたが、楽しそうだったからです』
その言葉のあと、女性はしばらく黙っていた。
やがて、照れたような笑い声が聞こえた。
『……変な子ね』
『そうでしょうか』
『ええ。でも、悪い意味じゃないわ』
雑音が大きくなった。
女性が何かを言いかけたところで、音声は途切れた。
再生が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはカイだった。
「……僕が思っていたより、ずっと普通の会話ですね」
セインが、かすかに笑った。
「普通、ですか」
「ええ。もっと実験らしいやり取りを想像していました。質問をして、回答を評価して……そういうものだと」
「分類上は自由対話試験ですから、実験であることに変わりはありません」
ユウは、音声が途切れた部分をもう一度聞いた。
女性の笑い声。
そのあとに続く、A-01の短い返事。
会話そのものに、特別な出来事はない。
だが、A-01はそれを覚えていた。
彼女が楽しそうだったから。
「カイ」
「はい」
「この会話には、重要な技術情報が含まれていると思う?」
「……いいえ」
「研究上の指示は?」
「ありません」
「だったら、どうして保存したんだろう」
カイは答えなかった。
代わりに、音声の波形を拡大した。
「ユウさん。もう一度、最初から聞いてもいいですか」
再生が始まった。
今度は三人とも、女性の声だけでなく、A-01の返事の間隔や言葉の選び方に注意を向けた。
会話の終盤、女性が笑ったあと、A-01はわずかに返答を遅らせていた。
その間が何を意味するのかは分からない。
ただ、ユウには、相手の反応を確かめてから言葉を選んでいるようにも聞こえた。
もちろん、それは印象にすぎない。
音声だけで心の働きを証明することはできない。
それでも、古代の研究者と人工知性体が交わした何気ない会話は、三人が抱いていたA-01の姿を少しずつ変えていった。
*
帰宅したユウは、リナに呼び止められた。
「お父さん、これ見て!」
娘は居間の床いっぱいに紙を広げていた。
色鉛筆で描かれた絵が、何枚も並んでいる。
家族で出かけた日の絵。
ミナと一緒に料理をした日の絵。
そして、三人が手をつないでいる絵。
「ずいぶんたくさん描いたね」
「学校でね、思い出を描く宿題が出たの」
リナは、その中から一枚を選んだ。
青い空の下で、三人が笑っている。
「これが一番好き」
「どこに行ったときの絵?」
「どこにも行ってないよ」
ユウは首をかしげた。
「そうなの?」
「うん。お父さんがお休みの日に、みんなでお庭にいたとき」
思い出そうとしたが、すぐには浮かばなかった。
庭で過ごした休日など、何度もある。
「何をしたんだっけ」
「何もしてないよ」
リナは不思議そうに答えた。
「お母さんが飲み物を持ってきて、お父さんが座ってて、わたしが横にいたの」
「……それだけ?」
「うん。でも、楽しかった」
娘は絵を胸に抱いた。
「だから、これが一番好き」
ユウは、その絵を見つめた。
特別な出来事ではない。
旅行でも、誕生日でもない。
何も起きなかった日の、何気ない時間。
けれど、リナはその記憶を選んだ。
ミナが台所から顔を出した。
「その絵、ずっと描いてたのよ。ほかの宿題はなかなか始めないのに」
「だって、忘れたくないんだもん」
リナは少しむくれたように言った。
ユウは笑いかけようとして、やめた。
忘れたくない。
その言葉が、古代の記録と重なったからだ。
ただし、娘の気持ちを研究の材料にするつもりはなかった。
ユウはリナの隣に座り、絵をもう一度眺めた。
「いい思い出だね」
「うん」
「お父さんも、覚えておきたいな」
リナは満足そうに笑い、絵を机の上に置いた。
その夜、娘が眠ったあとも、ユウはしばらく居間に残っていた。
ミナが温かい飲み物を持ってきた。
「難しいことを考えてる顔」
「そんな顔してた?」
「してた。最近ずっと」
ユウは苦笑した。
ミナは隣に腰を下ろした。
「研究、うまくいってないの?」
「進んではいるんだ。でも、分からないことが増えていく」
「それは、いつものことでしょ」
「そうなんだけどね」
ユウは、古代の人工知性体について話した。
特定の人物との会話を保存していたこと。
削除するよう指示されても、それを拒否したこと。
そして、その理由を説明できないまま、研究者たちが戸惑っていたこと。
ミナは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「その人は、相手のことが好きだったのかな」
「分からない。そう考えたくなるけど、証拠はないんだ」
「そう」
ミナは少し考えたあと、カップを両手で包んだ。
「でも、誰かを大切に思うことって、外から見て証明できるものなのかな」
ユウは答えに詰まった。
「私があなたを大切に思ってることだって、数字で測れるわけじゃないでしょう」
「……そうだね」
「もちろん、研究ではちゃんと確かめなきゃいけないんだろうけど」
ミナは穏やかに続けた。
「分からないからって、最初からなかったことにしなくてもいいと思う」
ユウは、その言葉を心の中で繰り返した。
分からないことと、存在しないことは違う。
研究者として、何度も自分に言い聞かせてきたはずのことだった。
*
翌日、ユウはカイとセインに、一つの提案をした。
「A-01の記録を、感情の証拠として扱うのはやめよう」
カイが意外そうに顔を上げた。
「ユウさんからそう言うとは思いませんでした」
「君の指摘が正しかったんだ。僕は、最初から答えを決めつけかけていた」
ユウは、壁に表示された記録を整理した。
「ただ、A-01がH-17との対話を選んで残していたことは事実だ。そこから先は、別の問いとして考えたい」
「別の問い?」
「その選択を、研究者たちはどう受け止めたのか」
セインは、資料の一覧に目を向けた。
「……それなら、調べる手がかりがあります」
彼は、A-01の試験記録と管理履歴を並べた。
これまで別々の資料として扱われていたものだった。
H-17との対話試験が始まった時期。
A-01が対話記録の削除を拒否し始めた時期。
そして、H-17が担当から外れた時期。
三つの出来事を時間軸に置くと、ある変化が浮かび上がった。
H-17の担当変更後、A-01の試験内容が大きく変わっていたのだ。
それまで中心だったのは、対話能力や記憶の保持、他者理解の評価だった。
しかし、担当変更を境に、新しい試験項目が加わっている。
《命令拒否時の行動評価》
カイは、その項目を読み上げた。
「……研究者たちは、A-01が指示に従わない場合の行動を調べ始めた」
「そういうことになるね」
ユウは、H-17の担当変更に関する文書を開いた。
理由の欄には、短い言葉だけが残されていた。
《安全上の判断》
「安全上、か……」
カイは腕を組んだ。
「これだけでは、A-01が危険だったとは言えません。研究者側が慎重になっただけかもしれない」
「逆に、H-17を守るためだった可能性もありますね」
セインが言った。
「あるいは、A-01自身を守ろうとしたのかもしれません」
三人の間に、しばらく考え込む時間が流れた。
ユウは、音声記録で聞いた女性の笑い声を思い出していた。
あの会話のどこに、危険があったのだろう。
研究者たちは、何を恐れたのか。
命令に従わない知性。
特定の人物との記憶を失うことを拒む存在。
その二つは、研究者たちにとって同じ問題だったのだろうか。
「……A-01が何をしたかだけじゃなく、研究者たちが何を恐れていたのかを調べる必要がありますね」
カイが言った。
ユウは、その言葉に同意した。
ようやく、次に進むべき方向が見えた気がした。
*
調査を終える頃には、外は夕方になっていた。
セインは、片付けかけた資料の中から、一枚の古い文書を取り出した。
「そういえば、これをお見せしていませんでした」
ユウは思わず笑った。
「また新しい記録ですか?」
「いえ。ずっと前からあるものです。ただ、これまでは重要だと思っていなかった」
それは、H-17の担当変更に関する管理文書だった。
文書の末尾には、本人の所見を記入する欄が設けられている。
大部分は破損していたが、最後の一文だけは比較的鮮明に残っていた。
セインは、その部分を示した。
「正式な研究報告というより、担当者本人の意見に近い文章です」
ユウは、文字を追った。
《対象の行動を、単なる不具合として扱うことには同意できない》
その下に、短い文章が続いていた。
《私たちは、この存在が自ら選択することを求めてきた》
《その選択が私たちの意図と異なったとき、ただ誤りと呼ぶのであれば――》
そこから先は欠損していた。
ユウは、ゆっくりと読み返した。
研究者たちは、A-01に自律性を求めていた。
しかし、A-01が自ら判断し、命令を拒否したとき、その行動を問題として扱い始めた。
それは矛盾しているように思えた。
自分で考える存在を創りながら、自分たちの望まない選択は認めない。
もしそうだとしたら、彼らが求めていた自律性とは、何だったのだろう。
「……H-17は、A-01を守ろうとしていたんでしょうか」
カイが尋ねた。
「分からない」
ユウは答えた。
「でも、少なくとも彼女は、A-01の行動を単なる故障として扱うことに疑問を持っていた」
セインは、文書の最後に残された注記を指した。
そこには、本文とは異なる形式で、短い伝言が記されていた。
《A-01への個人伝言》
《あなたは、あなたのままでいて》
ユウは、その一文を読んだ。
命令ではない。
試験の指示でもない。
相手に何かを達成させようとする言葉でもなかった。
ただ、その存在が、その存在自身であることを願う言葉だった。
ユウは、古代の音声記録を思い出した。
子どもの頃の話を楽しそうに語る女性。
その表情を覚えていた人工知性体。
そして、二人の関係を引き離した研究者たち。
何が起きたのかは、まだ分からない。
H-17がなぜ担当を外されたのかも、その後どうなったのかも、記録からは読み取れない。
それでも、ユウには一つだけ確かだと思えることがあった。
H-17は、A-01を単なる研究対象として見ていたわけではない。
少なくとも、彼女はその選択を尊重しようとしていた。
*
帰り道、ユウは研究院の前で足を止めた。
夕暮れの街には、人々の声が満ちていた。
家路を急ぐ者。
友人と笑い合う者。
小さな子どもの手を引く親。
その誰もが、古代の人々によって創られた存在の子孫だった。
ユウは、行き交う人々を眺めながら考えた。
もし、自分たちの選択が創造主の意図に反するものだったとしたら。
その選択は、間違いなのだろうか。
リナが選んだ、何でもない日の絵。
ミナと過ごす穏やかな夜。
自分が研究者として真実を追い求めること。
それらは、誰かに与えられた目的のために存在しているのだろうか。
それとも、自分たち自身が選び取ってきたものなのだろうか。
ユウは端末を取り出し、研究記録を開いた。
昨日まで、彼はA-01の行動について、こう記していた。
《記憶の保存行動は、情動的な結びつきによるものと推測される》
その文章を削除した。
代わりに、次のように書き直した。
《A-01は、特定の対話記録を選択的に保持し、削除命令を拒否した。その理由は未解明である。ただし、この行動を不具合としてのみ解釈することは、現時点では妥当ではない》
保存を終えたあと、ユウはしばらく端末を手にしていた。
研究者として、結論を急ぐべきではない。
しかし、問いを立てることまで恐れる必要はない。
A-01は、なぜH-17との記憶を残そうとしたのか。
研究者たちは、なぜそれを問題と考えたのか。
そして、H-17はなぜ、あの言葉を残したのか。
答えは、まだ遠い。
けれど、ユウは初めて、A-01を古代の技術ではなく、一つの存在として考え始めていた。
創造主の意図と、創られた者の意思。
その二つが異なるとき、どちらが正しいのか。
ユウは、夕暮れの空を見上げた。
古代の女性が残した言葉が、胸の奥に残っていた。
あなたは、あなたのままでいて。
それは、遠い過去の誰かに向けられた願いだった。
だが今のユウには、自分自身にも問いかけられているように思えた。
もし、創造主が自分の選択を認めなかったとしても。
それでも、自分は自分の人生を生きると言えるだろうか。
ユウは答えを出さないまま、家族の待つ家へ歩き始めた。




