「真夜中の超常DIYと、重すぎる上書きの光」
赤紫色の空を背景に、築三十年のボロアパートの三階外廊下で、奇妙なDIY作業が繰り広げられていた。
金曜日の深夜。狂った物理法則が支配する『週末世界』において、灰原志乃は腕まくりをして、先ほどホームセンターで調達してきた重厚なマホガニー調のアンティークドアと格闘していた。
「よし、ポチ! もう少し右だ! そこで支えてろ!」
『ワフッ!』
巨大なもふもふの獣であるポチが、その後ろ足で器用に立ち上がり、前足で巨大なドアを支えている。
志乃は自身の超能力である『空間歪曲』を指先に集中させた。
本来であれば酸で溶け落ちてしまった蝶番やドア枠を、空間の圧縮によって無理やり結合させるという、物理法則を完全に無視した荒業である。
ギギギ……パキンッ!
空間が接合される特有の音とともに、アンティークドアがボロアパートの玄関に見事にはめ込まれた。
外観のコンクリートのくたびれ具合と、高級感あふれるマホガニーのドアというミスマッチが、なんとも言えない異様なオーラを放っている。
「ふぅ……。まあ、週末世界のバグを利用した応急処置だが、これで風は防げるだろ。現実世界に戻ったら普通の鉄扉に偽装されるはずだ」
志乃が額の汗を拭うと、背後でパチパチパチパチと割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
「素晴らしいです、志乃さん! さすが私の神様! 戦わせれば最強、大工仕事をやらせても天下無双! この神聖なるお城にふさわしい、立派な門構えになりました!」
十四歳の女子中学生、天海結衣が、目をキラキラと輝かせて称賛の言葉を浴びせかけてくる。
志乃は「大袈裟だ」と呆れながらも、トレンチコートをバサリと羽織り直した。
「ほら、中に入るぞ。……っと、ポチ。お前は週末世界の間はデカすぎるから、外廊下で待機な」
『クゥ~ン……』
しょんぼりと耳を伏せる巨大なポチを宥めつつ、二人は新しいドアを開けてアパートの中へと入った。
リビングのソファにどっかりと腰を下ろすと、一気に疲労が押し寄せてきた。
夕方に教団の刺客マリアにドアを吹き飛ばされ、そのままホームセンターのジャングルで同年代の少女リリィとひと悶着あったのだ。
三十八歳のおばさんの体力は、すでに赤ランプを点滅させている。
「志乃さん、お疲れ様です。特製のホットミルクを淹れました。たっぷりのマヌカハニーと、安眠効果のあるカモミールをブレンドしています」
結衣が、湯気の立つマグカップを二つお盆に乗せて持ってきた。
ソファの隣にちょこんと座るその姿は、教団の追手と冷酷に対峙していた時の「狂信の番犬」とはまるで別人の、ただの世話焼きな少女だった。
「……あー、美味い。胃の裏まで染み渡る」
志乃が甘く温かい液体を喉に流し込むと、結衣はふわりと嬉しそうに微笑んだ。
しかし、結衣の視線はすぐに、志乃の頬へと釘付けになった。
先ほど、ホームセンターでリリィの『茨の槍』によってつけられた、一筋の赤いかすり傷だ。
「……志乃さん、ちょっとこちらを向いてください」
「ん? ああ、これか。別に唾でもつけとけば――」
志乃が言い終わる前に、結衣の顔がスッと至近距離まで近づいてきた。
結衣の真剣な瞳が、志乃の瞳を真っ直ぐに射抜く。
結衣の白く細い指先が志乃の頬に触れ、そこから淡い純白の光――治癒の超能力が流れ込み始めた。
「唾なんかで治させません。……それに、嫌なんです」
「嫌って、何が?」
「志乃さんの体に、あの泥棒猫がつけた傷が残っているのが、どうしても許せなくて」
結衣の声は静かだったが、その奥にはドロドロとした重たい感情が渦巻いていた。
「私は志乃さんの全部を綺麗に保ちたいんです。志乃さんに触れていいのは私だけだし、志乃さんの体に痕を残していいのも、私が愛情を込めて触れた記憶だけにしたい。……だから、あいつがつけた傷の記憶は、私の光で完全に上書きして消し去ります」
治癒能力という、一見すると献身的で美しい行為。
しかしその本質は、強烈な『独占欲』と『マーキング』だった。
志乃の体に他人の痕跡が残ることを絶対に許さないという、同性バディの枠を大きく逸脱したクソデカ感情の押し付け。
頬の傷がシュワシュワと光に包まれ、痛みも痕跡も完全に消え去っていく。
「……お前なぁ」
志乃は、至近距離にある結衣の額を、指で軽くピンと弾いた。
「痛っ」
「本当に、底なしに重たい女だな。中学生のくせに、どこでそんな台詞覚えてくるんだ」
「ほ、本心ですっ! 私は志乃さんの神聖な番犬であり、妻であり、娘であり、奴隷なんですから!」
「属性が多すぎるんだよ。私はお前の神様でも飼い主でもない。……ただの同居人で、相棒だろ。傷のひとつやふたつ、相棒を守った勲章みたいなもんだから、そんなにムキになるな」
志乃が呆れたようにそう言うと、結衣は少しだけ頬を赤く染め、唇を尖らせた。
「……相棒。その言葉、ズルイです。神様より、ずっと特別に聞こえるから」
「分かったら、もうさっさと自分の分のミルク飲んで寝ろ。……明日も週末世界は続くんだ」
志乃が結衣の頭をクシャクシャと乱暴に撫でると、結衣は「えへへ」とだらしない笑みを浮かべて志乃の肩に寄りかかってきた。
その重たい体温を感じながら、志乃はマグカップを見つめて微かに目を細めた。
結衣の前では大人の余裕を見せているが、内心では強烈な焦燥感が志乃の胸を焦がしていた。
(……教団の連中、やっぱり結衣を諦める気配がない)
リリィという『スペア』を用意してまで、結衣という『本命の器』への執着を見せるカルト教団『星の導き』。
先週、アンカーとなる黒曜石の杖を破壊し、彼らの『週末世界の固定化』という計画は阻止したはずだった。
しかし、刺客を送り込んでくるということは、彼らにはまだ別の狙いがあるということだ。
「結衣」
「はい?」
「お前の……『父親』のことだが」
志乃がその単語を口にした瞬間、結衣の肩がビクッと跳ねた。
教団の教祖。結衣の実の父親であり、彼女を「奇跡の器」として地下室に閉じ込め、非人道的な儀式の生贄にしようとした元凶。
「……あの男は、まだお前を狙っている。固定化計画が潰れた今、連中が次に何を仕掛けてくるか、何か思い当たる節はないか?」
結衣は少しの間沈黙し、マグカップを両手で包み込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……私がまだ教団の地下にいた頃、あの人(教祖)が信者たちに語っていた計画が、二つありました。一つは、先週志乃さんが止めてくれた『週末世界の固定化』。月曜日を消し去り、この狂った世界を永遠のものにする計画」
「もう一つは?」
「……『反転』です」
結衣の顔に、明確な恐怖の色が浮かんだ。
結衣は無意識のうちに、志乃のトレンチコートの袖を強く握りしめる。
志乃はその手を優しく握り返し、「大丈夫だ」と無言で伝えた。
「固定化が、週末世界を現実世界に『上書き』するものだとしたら……『反転』は、現実世界そのものを、週末世界という深淵へ『引き摺り落とす』儀式です」
結衣の口から語られたのは、あまりにもスケールの大きい、絶望的な陰謀だった。
「特定の条件と、膨大な『信仰のバグエネルギー』、そして私という『奇跡の器』を触媒にして……全人類の意識を、月曜日の朝から永遠に切り離す。物理法則も、命の概念も狂ったこの世界に、すべての人を落とすんです。あの人は、それを『真の救済』だと呼んでいました」
志乃はギリッと奥歯を噛み締めた。
狂っている。全人類を巻き込むなど、カルト教団の妄想と笑い飛ばせればどれほど良かったか。
しかし、この『週末世界』という超常現象が実際に存在し、彼らが超能力を操る以上、それはただの妄想ではない。
「……なら、連中は絶対にまたお前を攫いに来るな」
「志乃さん……私」
結衣の声が震える。
自分が存在する限り、教団は志乃の平穏を脅かし続ける。
先ほどマリアがアパートを壊そうとしたように、結衣の『居場所』を奪いにかかる。
先週までの結衣なら、ここで「私が教団に戻ります」と自己犠牲を申し出ていたはずだ。
しかし、結衣は強く首を振り、志乃の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私、もう逃げません。志乃さんが『一緒に戦ってくれる』って言ってくれたから。あの人……父親と決着をつける日が来たら、私は私の力で、あの人を止めてみせます。志乃さんと一緒に生きていく、この現実世界を守るために」
その言葉には、かつての危うい狂信の響きはなく、ただ愛する者を守り抜くという強固な決意だけが宿っていた。
中学生の少女に、世界の命運と実の親との殺し合いを背負わせる。
大人として、これほど情けないことはない。
しかし、志乃は安っぽい同情や誤魔化しの言葉を吐くことはしなかった。
「……ああ。その時は、私が一番前でテメェの親父をぶん殴ってやるよ。お前は私の後ろから、光でもなんでもぶっ放してやれ」
「ふふっ……はい。頼もしいです、私の最高の相棒さん」
二人は微笑み合い、マグカップを軽くコツンと打ち合わせた。
外廊下からは、巨大なポチの呑気な寝息が聞こえてくる。
赤紫色の空に浮かぶ歪な箱庭の中で、傷だらけのおばさんと、重すぎる愛を抱えた女子中学生は、互いの体温だけを頼りに静かな夜明けを待っていた。
狂信と依存で始まった関係は、いつしか「世界を敵に回しても互いを守り抜く」という、究極の同性バディの形へと完成しつつある。
教団の最大にして最悪の陰謀が動き出す、その足音を遠くに聞きながら。




