「浮遊する箱庭と、神様を独占する番犬の牙」
赤紫色の空に、ぽっかりと浮かぶ巨大な建造物群。
金曜日の夜が更けゆく週末世界で、灰原志乃と天海結衣は、軽自動車ほどもある巨大な白い獣――ポチの背中に揺られながら空中をパトロールしていた。
「志乃さん、あーん」
「……いや、自分で食えるって。そもそも空飛ぶ犬の背中で、手作りの出汁巻き卵をタッパーから直食いするって、どういう状況だよ」
「いいじゃないですか! 週末世界の冷たい夜風の中、私の愛情たっぷりの手料理で志乃さんの心と胃袋を温める。これぞ同居の醍醐味です! ほら、口を開けてください、あーん!」
三十八歳のおばさんである志乃は、目をキラキラと輝かせて箸を突き出してくる十四歳の女子中学生に根負けし、大きなため息とともに口を開けた。
出汁の効いた卵焼きが、疲れた身体に染み渡るように美味い。
教団の刺客によって自宅アパートのドアが吹き飛ばされてから数時間。
どうせドアが直るまでは落ち着いて眠れないからと、二人はポチに乗って夜空へと飛び出していた。
狂った物理法則が支配するこの空間で、彼らの目的はただ一つ。
「で、志乃さん。本当にあそこに行くんですか?」
「ああ。アパートのドアの代わりになる素材を探さないとな。現実世界に戻ってから業者を呼ぶと金がかかるし、何より『なんでドアが酸で溶けたみたいに吹っ飛んでるんですか』って突っ込まれたら面倒だろ」
志乃が指差した先には、本来なら街の郊外にあるはずの、巨大な郊外型ホームセンターがあった。
この週末世界では、その広大な店舗がまるごと地盤から切り離され、空中をゆっくりと浮遊している。
それだけではない。
ホームセンターの屋根を突き破るように、巨大な樹木や色鮮やかな蔦が異常な速度で成長し、建物全体を飲み込むような『ジャングル』と化していた。
週末世界のバグによる超常現象だ。
「ポチ、あの園芸コーナーの辺りに下ろしてくれ」
『ガウッ!』
ポチが豊かな尻尾で空気を掻き、ホームセンターの屋上駐車場へと滑らかに着地した。
二人がポチの背から降り立つと、そこはむせ返るような緑の匂いに満ちていた。
アスファルトを突き破って生い茂るシダ植物、空中に浮かんだまま花を咲かせる巨大な蘭。
その幻想的でありながら不気味な光景の中を、二人は警戒しながら進む。
「……気をつけてください、志乃さん。何か、嫌な気配がします」
結衣が、志乃のトレンチコートの裾を軽く握りながら囁いた。
彼女の内に眠る超能力――純白の光の力が、周囲の異質な波長を感じ取っているのだ。
「ああ。分かってる」
志乃が右手に『空間歪曲』の力を練り上げながら、園芸コーナーの奥へと足を踏み入れたその時。
シャアァァァッ!! という蛇のような威嚇音とともに、周囲の巨大な蔦が一斉に意志を持ったようにうねり、二人へと襲い掛かってきた。
「結衣、下がれ!」
志乃が右手を振り抜く。
不可視の空間の刃が、襲い来る蔦をまとめて切断した。
切り口からは緑色の樹液ではなく、赤黒い瘴気のようなものが漏れ出している。
「あら。やっぱり、野生のバグ植物じゃ手足も出ないわね」
ジャングルの奥から、鈴を転がすような、しかしひどく冷たい少女の声が響いた。
巨大な食虫植物の影から姿を現したのは、結衣と同じ年頃――十五歳前後の少女だった。
教団『星の導き』の修道服を身に纏い、その両腕にはびっしりと薔薇の棘のような蔦が巻き付いている。
彼女の瞳には、結衣に対する明確な『憎悪』と、暗く濁った『嫉妬』が渦巻いていた。
「……あんたは?」
志乃が睨みつけると、少女はふっと鼻で笑った。
「私の名前はリリィ。……ねえ、結衣。久しぶりじゃない? あなたが教団を逃げ出してから、私がどんな目に遭ってきたか、想像もつかないでしょうね」
「リリィ……ちゃん?」
結衣の顔に、微かな驚きが浮かぶ。
リリィは、教団の地下施設で結衣と共に育った少女だった。
結衣が『奇跡の器(本命)』として特別扱いされる一方で、リリィは常に『スペア』として過酷な訓練と非人道的な実験を強要されてきた。
「あなたが逃げたせいで! 教団のアンカー計画のために、私の身体にどれだけのバグが注ぎ込まれたか……っ!」
リリィが両腕を振り上げると、彼女の腕に巻き付いていた茨が、巨大な触手のように何十本にも分裂し、空中を蠢いた。
彼女の能力『縛鎖の茨』。
対象を捕縛し、精神と体力を吸い尽くす陰謀の産物だ。
「あなたはいつもそう。私からすべてを奪っていく。教祖様の愛も、信者たちの崇拝も。……そして今は、その女の愛まで独り占めしているのね!」
リリィの視線が、結衣から志乃へと移る。
教団の地下で結衣が逃亡したあの夜、リリィは見ていたのだ。
天井をぶち破って現れた志乃が、結衣だけを抱き抱え、優しく名前を呼んで連れ去っていく姿を。
同年代の少女に向けられた、あまりにも重く、醜い嫉妬の感情。
それは、同性「だから」こそ生じる、痛々しいまでの羨望と憎悪だった。
「お前だけ神様に見つけてもらって、幸せになるなんてズルい……! 許さない。お前の大切なものを、お前の目の前で全部壊してやる!!」
リリィの絶叫とともに、無数の茨が狂ったように志乃と結衣へと襲い掛かった。
「ちぃっ!」
志乃が空間の障壁を展開するが、茨はその障壁を包み込むようにして締め上げ、ギシギシとひび割れさせていく。
数の暴力と、狂気に満ちた執念。
背後でポチが咆哮を上げ、茨に噛みつくが、切っても切っても無限に再生してくる。
「死ね、死ね、死ね! お前も、その女も、みーんな私の茨の養分になっちゃえ!」
リリィの顔が狂気に歪む。
茨の先端が障壁を突破し、志乃のトレンチコートを掠め、彼女の頬に一筋の赤い線を描いた。
「――っ」
志乃が微かに顔をしかめた、その瞬間。
――ドォォォォォンッ!!
空気を震わせるような重低音とともに、結衣の身体から、凄まじいまでの純白の光が爆発的に噴き出した。
それは、先ほどのマリアとの戦いで見せた「お掃除」の光ではない。
圧倒的なまでの『拒絶』と『独占欲』を具現化した、絶対的な結界の光。
「……え?」
リリィが戸惑いの声を上げる。
結衣の放つ光は、志乃を包み込み、迫り来る茨を一瞬にして炭化させて吹き飛ばした。
結衣はゆっくりと前に出る。その瞳は、狂信的で、冷酷で、そして何よりも重い愛に満ちていた。
「……ズルくて結構よ」
結衣の声は、氷のように冷たかった。
「私が教団から逃げたせいで、あなたが苦しんだことには同情するわ。でも、志乃さんを傷つけることだけは、絶対に許さない」
結衣が一歩踏み出すごとに、足元のジャングルが光に焼かれて道を作っていく。
十四歳の少女から発せられているとは思えない、強烈な威圧感。リリィは思わず後ずさりした。
「私だけが神様に見つけてもらって、幸せになったって? ……馬鹿言わないで。私はね、志乃さんに私の命も、心も、これからの人生のすべてを捧げたの。私の全存在を賭けて、この人の隣にいる権利を勝ち取ったのよ」
結衣は、志乃の前に立ち塞がり、まるで宝物を守る番犬のようにリリィを睨みつけた。
「志乃さんは私のものだ。志乃さんの優しさも、ため息も、呆れた顔も、全部私だけのもの。あなたみたいな中途半端な覚悟の泥棒猫に、指一本だって触れさせない!!」
同年代の少女に対する、圧倒的なマウント。
それは、同性バディという枠組みすらも超越した、重すぎるクソデカ感情の叩きつけだった。
リリィの顔が屈辱で歪む。
「ふざけるなッ! 私だって、私だって教団のためにすべてを……!!」
リリィが残されたすべての茨を束ね、巨大な槍のようにして結衣へと放つ。
しかし、結衣は避けない。彼女は両手を前に突き出し、教会の鐘のような清冽な音とともに、極大の光の奔流を解き放った。
カァァァァァンッ!!
光の波が茨の槍を真っ向から粉砕し、リリィの身体を包み込む。
殺意はない。だが、志乃に近づく害悪を完全に排除するという強固な意志。
リリィの身体から茨がポロポロと崩れ落ち、彼女は力なくその場に崩れ落ちた。
「あ、あぁ……私の、力が……」
リリィは涙を流しながら、焼け焦げた床に手をついた。
結衣はそんな彼女を冷たく見下ろしたが、トドメを刺すことはしなかった。志乃と「誰も殺さない」と約束したからだ。
「……あなたも、教団の教義なんかじゃなくて、自分のために生きなさいよ。自分の神様は、自分で見つけるのね」
結衣が冷たく言い放った、その時。
ぽんっ、と。
結衣の頭に、大きな手が乗せられた。
「……子供同士の喧嘩で、どっちも重たい感情ぶつけ合ってんじゃないよ」
後ろから歩み寄ってきた志乃が、呆れたようにため息をつきながら、結衣の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「志乃さん……」
「まあ、お前が私のために怒ってくれたのは嬉しいがな。……あんまり同年代を苛めるな。私もおばさんだが、大人気なく思えてくる」
志乃はそう言うと、へたり込んでいるリリィの前に屈み込んだ。
リリィがビクッと肩を揺らす。
しかし、志乃はトレンチコートのポケットから、ストロベリーキャンディを一つ取り出し、リリィの前にポンと投げた。
「教団の連中が、お前をどう扱ってるかは知らん。だが、お前も被害者の一人だろ。今日は見逃してやる。……次に会う時は、誰かの嫉妬じゃなくて、自分の意志で向かってきな」
志乃はそう言い残し、結衣の手を引いて背を向けた。
大人の余裕。あるいは、同じように過去に囚われていた者としての不器用な優しさ。
リリィは、目の前に転がったピンク色のキャンディと、自分から背を向けて歩き出す二人の背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「志乃さん、甘すぎます! あいつ、志乃さんの頬に傷をつけた大罪人ですよ!?」
「いいんだよ。かすり傷だ。……それより、お前のあの『私のものだ!』宣言、ちょっと恥ずかしすぎないか?」
「なっ……! 恥ずかしくなんかありません! 事実を言ったまでです! 志乃さんの髪の毛一本から爪の先まで、全部私のものですからね!」
顔を真っ赤にして猛抗議する結衣。
その重すぎる愛情に、志乃はやれやれと肩をすくめた。
「はいはい。分かったよ、うちの可愛い番犬さん。……ほら、あそこのインテリアコーナーに、ちょうど良さそうなアンティーク調のドアがある。ポチに担がせて、帰るぞ」
『ワンッ!』
巨大なもふもふの獣が、嬉しそうに吠えた。
浮遊するジャングルと化したホームセンターの片隅で、血の繋がらない、けれど何よりも重い感情で結ばれた二人は、新しい『城の扉』を見つけて笑い合った。
週末世界の夜は、まだ少しだけ続く。だが、どんな狂った世界であっても、隣に立つ相棒がいれば、それはきっと悪くないパトロールなのだ。




