「金曜日のサイレンと、神様のいる城の防衛戦」
現実世界の月曜日に帰還し、奇妙な同居生活が始まってから五日が経過した。
金曜日の午後四時半。
灰原志乃は、すっかり見違えるほど綺麗になった自宅アパートのリビングで、淹れたてのハーブティーを啜りながら深い深いため息をついていた。
「志乃さん! 夕食の仕込みが終わりました! 今日は志乃さんの疲労回復を第一に考えた、特製豚の角煮と、十五穀米、それに手作りの無添加お味噌汁です! あ、お風呂のお湯も湧いてます! 肩、お揉みしましょうか!? それとも膝枕の方がよろしいですか!?」
純白のフリルエプロン(なぜか現実世界のネット通販で結衣が勝手にポチっていた)を身につけた天海結衣が、目をキラキラと輝かせながら志乃の前に立っていた。
その背後では、すっかりブラッシングされてツヤツヤになったポチが、『ワフッ』と満足げに尻尾を振っている。
「……結衣。お前なぁ、少しは休め。朝の五時から起きて掃除洗濯して、アイロンがけまでして……いくらなんでもやりすぎだ」
志乃は、ピシッと完璧に折り目のついた自前のトレンチコートを見上げながら言った。
この五日間、結衣の『尽くしっぷり』は常軌を逸していた。三十八歳独身・ズボラ代表だった志乃の生活は、この十四歳の女子中学生によって完全に管理・支配されつつある。
床にはチリ一つなく、冷蔵庫にはタッパーに詰められた常備菜が整然と並んでいる。
結衣の行動原理はただ一つ、『愛する志乃の生活を完璧にサポートすること』。
狂信的なまでの自己犠牲の矢印が、「共に生きる」という方向へシフトした結果、今度は凄まじい熱量の『世話焼き』となって志乃に降り注いでいるのだ。
「休むなんてとんでもない! 志乃さんが快適に過ごせる空間を作ることこそが、私の生きがいであり至上の喜びなんです! 志乃さんのためなら、私、一日四十八時間でも働けます!」
「人間は二十四時間しか生きられないんだよ。……まったく、お前のそのクソ重たい愛情には、いつまで経っても慣れそうにない」
志乃は呆れたようにボヤきながらも、出されたハーブティーの温かさにホッと息をついた。
口では文句を言いつつも、誰かが自分の帰りを待っていてくれて、温かいご飯を作ってくれるという生活が、志乃の荒んだ心にどれほど深く沁み込んでいるか。
結衣の重すぎる感情を受け止めるという覚悟は、同時に志乃自身が結衣に依存していくことと同義だった。
おばさんの孤独な心は、もうこの同性バディの温もりなしでは成り立たなくなっている。
「……さて。のんびりできるのも、あと少しだな」
志乃が壁掛け時計を見上げる。
時刻は午後四時五十五分。
現実世界での束の間の平穏が終わりを告げ、再びあの時間がやってくる。
「はい。……教団は、きっとまた来ますよね」
結衣の表情がスッと引き締まった。
エプロンを外し、その下に着ていた動きやすい黒のパーカー姿になる。
先週の日曜日、教団『星の導き』による「週末世界を現実に固定化する」という陰謀は阻止された。
しかし、教団そのものが壊滅したわけではない。
彼らは未だに結衣という『奇跡の器』を狙っており、次なる計画のために動いているはずだ。
――ウゥゥゥゥゥゥン……!!
午後五時ちょうど。
街の防災無線から、地を這うような低いサイレンが鳴り響いた。
日常の終わりと、非日常の始まりを告げる合図だ。
「来るぞ、結衣。ポチから離れるな」
志乃が立ち上がり、トレンチコートを羽織る。
窓の外の景色が、一瞬にして反転した。
オレンジ色だった夕焼け空が、インクをぶちまけたような毒々しい赤紫色へと染め上げられていく。
同時に、アパートの部屋の空間そのものがグニャリと歪み、重力異常や超常現象が適用される『週末世界』へと移行した。
ボンッ! という音とともに、普通の大型犬サイズだったポチの身体が、軽自動車ほどの巨大な獣――もふもふの上位存在へと膨れ上がる。
「週末世界へのシフト、完了ですね。……志乃さん、いつでもいけます」
結衣は両手を胸の前で組み、自身の内に眠る超能力――純白の光の力を練り上げ始めた。
その時だった。
――ジュウゥゥゥ……。
玄関の鉄扉から、何かを焼き溶かすような不気味な音が聞こえてきた。
志乃が鋭い視線を向ける。
鉄扉が、まるで酸を浴びたように黒く変色し、ドロドロと溶け落ちていく。
溶け落ちた扉の向こうに立っていたのは、修道女のベールを被った、青白い肌の女だった。
その足元からは、コールタールのような真っ黒な泥が、生き物のように蠢きながら部屋の中へと侵入してきている。
「ごきげんよう、裏切り者の灰原志乃。そして、我らが愛しの聖女様」
女は、感情の抜け落ちた声でそう呟いた。
教団の刺客だ。先週の固定化計画が失敗したことで、今度は結衣を直接奪還するための実働部隊を送り込んできたらしい。
「シスター『腐食』のマリアか。相変わらず、趣味の悪い能力を使ってやがる」
志乃は舌打ちをし、右手を前に突き出した。
マリアの足元から這い寄ってくる黒い泥は、触れたものをすべて腐らせ、ボロボロに崩壊させる超常現象だ。
玄関のフローリングが、黒い泥に触れた端からジュワジュワと音を立てて腐り落ちていく。
「教団の目的は変わりました。週末世界の固定化は諦め、次なる大いなる儀式のために、聖女様の力のみを抽出します。……そのためには、聖女様を惑わす『居場所』を完全に破壊しなければならない」
マリアが両手を広げると、黒い泥が津波のように膨れ上がり、志乃のアパートの壁や天井を喰い破り始めた。
「貴女のその部屋ごと、腐り落ちなさい」
「やらせるかよッ!」
志乃が能力『空間歪曲』を発動する。
押し寄せる黒い泥の前に、見えない分厚い空間の壁を作り出し、腐食の進行を食い止める。
バキバキと空間が悲鳴を上げるが、志乃の額に汗が滲む。
「……チッ、質量が多すぎる。この泥、週末世界のバグを吸収して増殖してやがるのか!」
志乃の空間の壁を迂回するように、黒い泥が天井を伝い、結衣のいるリビングの中央へと迫ってくる。
教団の陰謀は明確だった。
結衣が志乃に依存しているなら、その依存先である『志乃の城』を物理的に消し飛ばすことで、結衣の精神的支柱をへし折ろうというのだ。
「ふふ……無駄です。この腐食の泥は、貴女たちの思い出の品も、温かい生活も、すべてを等しく無価値なゴミへと変える」
マリアが冷酷に笑う。
しかし。
志乃の後ろに控えていた結衣は、恐怖に震えるどころか、信じられないほど低い声で呟いた。
「……ゴミに、変える?」
結衣の瞳から、光が消えていた。
いや、違う。狂気的なまでの強烈な感情が、その瞳の奥で青白い炎のように燃え上がっていた。
「私が……今日の朝、三時間かけてワックスを掛けたフローリングを。志乃さんが『居心地がいい』って笑ってくれた、この神聖な部屋を……お前が、腐らせるって?」
「……え?」
マリアが戸惑いの声を上げた瞬間。
結衣の身体から、爆発的な純白の光が放射された。
それは、先週までの「敵を消し炭にするための殺意の光」でもなければ、「志乃を守るための治癒の光」でもない。
純粋な、『殺菌・浄化・清掃』への異常な執念が生み出した、極大の光の奔流だった。
「ここは、私の神様が住む神聖なお城だ。土足で上がり込んで、ゴミを撒き散らすなんて……万死に値する!!」
カァァァァァンッ!!
結衣が両手を前に突き出すと、教会の鐘の音とともに、眩い光の波がリビングを埋め尽くした。
黒い泥が光に触れた瞬間、ジュワッという音とともに、瞬く間に無害な白い灰へと浄化されていく。
そればかりか、光は天井、壁、そしてマリアの足元にまで一瞬で広がり、部屋中に広がっていた腐食の能力を根こそぎ消し飛ばしてしまった。
「な、なんだこの力は!? 私の『腐食』が、ただの光で洗剤のように洗い流されるだと……!?」
マリアが驚愕に見開いた目の前で、結衣は容赦なく光の圧力を高めた。
「汚い。汚い汚い汚い。志乃さんの空気が汚れる。出ていけ、バイ菌!!」
「ひっ……きゃあああああっ!!」
殺意はない。ただ「部屋から追い出す」という強烈な排除の意志。
光の衝撃波がマリアの身体を包み込み、彼女を玄関のドア枠ごと、アパートの外――赤紫色の空が広がる週末世界の空中へと吹き飛ばした。
マリアの悲鳴は、宙に浮かぶ残骸の彼方へと消えていった。
流血も残酷な結末もない。ただ、極度の潔癖と愛憎が生み出した、圧倒的な『お掃除』による物理的排除だった。
後に残されたのは、玄関のドアが吹き飛び、ぽっかりと外の赤紫色の空が見えるようになった、奇妙な静寂だけだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
結衣は肩で息をしながら、慌てて志乃の方を振り返った。
「し、志乃さん! 怪我はありませんか!? 変な泥の匂い、移ってませんか!?」
「……あ、ああ。私は無事だ。お前が防いでくれたおかげでな」
志乃は、ポカーンとした顔で結衣を見つめていた。
先週までの結衣は、「世界がどうなってもいい」という自暴自棄な自己犠牲で力を暴走させていた。
しかし今の結衣は、「志乃との生活空間を守る」という、極めてドメスティックで、しかし恐ろしく強固な意志で力をコントロールしてみせたのだ。
その執念の重さに、志乃は背筋に冷や汗をかきつつも、どこか誇らしいような不思議な感覚を覚えていた。
「いや、それにしても……」
志乃は、吹き飛んだ玄関のドアの跡を指差した。
「ドアがなくなっちまったな。これじゃ、週末世界の間、風通しが良すぎて落ち着かないぞ」
「あ……ご、ごめんなさい、志乃さん! 私、ついカッとなって……!」
結衣が青ざめて平謝りする。
しかし、巨大なポチが『ガウッ』と鳴きながら玄関の前に陣取り、そのもふもふの巨体で風除けの壁になってみせた。
「……ふっ、まあいいさ。どうせ週末世界の間は、アパートに引きこもってるつもりはなかったしな」
志乃はクスクスと笑い出し、トレンチコートのポケットからストロベリーキャンディを取り出して口に放り込んだ。
「教団の連中が方針を変えて、しぶとくお前を狙い続けるってことはよく分かった。だったら、こっちも週末世界のパトロールを再開するしかない。……行くぞ、結衣。お前の神様の、週末デートのお誘いだ」
「はいっ!! どこまでもついていきます、志乃さん!」
結衣の顔に、ぱぁっと花が咲いたような満面の笑みが浮かんだ。
彼女は志乃の腕にぎゅっと抱きつき、そのぬくもりを確かめるように頬を擦り寄せる。志乃もまた、その重たい温もりを振り払うことなく、当然のように受け入れていた。
壊れた玄関から、ポチの背中に乗って赤紫色の空へと飛び出す。
浮遊するビル群、ひび割れたアスファルトの滝。
狂った世界は相変わらずそこにあるが、もう二人は何も恐れていない。
三十八歳のやさぐれたトラブルシューターと、十四歳の愛が重すぎる元・聖女。
因縁とクソデカ感情で結ばれた最強の同性バディは、今夜も週末世界の空を駆けていくのだった。




