「月曜日の目覚めと、神様のいる四角い部屋」
週末世界の空から、毒々しい赤紫色が潮が引くように薄れていく。
日曜日の午後十一時。
宙に浮かんでいた高層ビル群や、ひび割れたアスファルトの欠片が、まるで見えない糸に引かれるように、ゆっくりと本来の場所へと降下し始めていた。重力異常や空間の歪みといった超常現象が鳴りを潜め、狂っていた物理法則が徐々に現実のそれへと上書きされていく。
終わりなき終末を現実に固定化しようとしたカルト教団の陰謀は、昨日、完全に打ち砕かれた。
あとは月曜日の朝を待つだけ。
眠りについていた一般の人々が目を覚まし、いつもの退屈で平和な日常が戻ってくる。
「……もうすぐ、終わりますね」
天海結衣は、アジトであるレトロな映画館の屋上テラスで、手すりに寄りかかりながら色褪せていく夜空を見上げていた。
その隣には、巨大な白い獣――ポチが丸くなってスヤスヤと寝息を立てている。昨日、教団の『アンカー』である黒曜石の杖を噛み砕き、膨大なバグのエネルギーを捕食したポチは、満腹のせいかずいぶんと大人しい。
そのもふもふの毛並みに顔を埋めるのも、この週末世界が終われば、次の金曜日までお預けになってしまう。
「ああ。教団の固定化計画が頓挫した以上、この世界はあと一時間もしないうちに閉じる。私たちの意識も、現実世界にある肉体へと引き戻される」
背後から、くたびれたトレンチコートを羽織った灰原志乃が歩み寄ってきた。
昨日の戦闘で負った傷は、結衣の超能力である光の力で大部分が治癒されている。
しかし、限界を超えて力を引き出した疲労は隠しきれず、三十八歳のおばさんである志乃の目元には、いつも以上に濃い隈が落ちていた。
「志乃さん、お茶を淹れました。夜風が冷えてきたので、温まってください」
「……あ、ああ。サンキュ」
結衣が差し出したマグカップを、志乃は少し照れくさそうに受け取った。
昨日の水族館での死闘を経て、二人の関係性は間違いなく変化した。
結衣の一方的な『自己犠牲』は鳴りを潜め、代わりに『共に生き、献身的に尽くす』というベクトルへと進化(あるいは悪化)を遂げていた。
結衣の志乃に対する眼差しは、以前の狂信的なものから、どこか母親が赤子を見守るような、あるいは狂信的なストーカーが推しを愛でるような、ねっとりと重く、それでいて純粋な愛情に満ちている。
「志乃さん、怪我の痛みはありませんか? 肩、揉みましょうか? それとも、添い寝して温めましょうか? 私、志乃さんのためなら湯たんぽにでも毛布にでもなりますからね」
「……結構だ。お前のその重たい優しさに慣れるには、まだ時間がかかりそうだよ」
志乃は苦笑しながら、マグカップの温かい紅茶を啜った。
しかし、結衣の表情がふっと曇る。
彼女はマグカップの縁を指でなぞりながら、視線を伏せた。
「……現実世界に戻ったら、どうなるんでしょうか」
「ん?」
「この週末世界では、私は志乃さんの隣にいられました。でも、現実世界での私は、教団から逃げ出したただの家出少女です。戸籍もないし、帰る家もない。……それに、私が目を覚ますのは、金曜日に教団の追手から逃げ込んだ、中学校の屋上です」
結衣の声が微かに震える。
週末世界での記憶や能力は、現実世界にも引き継がれる。
しかし、物理的な距離はどうにもならない。
結衣が目を覚ます場所と、志乃が目を覚ます場所は違うのだ。
「教団は、きっと現実世界でも私を探しています。もし、月曜日の朝に目を覚まして……そこに志乃さんがいなかったら。私、また一人ぼっちに……」
不安で押し潰されそうになる結衣。
自分は志乃の相棒になれたと信じている。
でも、それはこの魔法のような週末世界だから成立した夢だったのではないか。
そんな恐怖が、結衣の胸を締め付けていた。
ドンッ。
不意に、結衣の額に軽い衝撃が走った。
志乃が、空になったマグカップの底で、結衣の額を小突いたのだ。
「痛っ……」
「お前なぁ。昨日、私が言ったことをもう忘れたのか? 『お前の人生の最後まで責任を持って背負ってやる』って、大人にそこまで恥ずかしい台詞を言わせておいて、まだ不安がるのかよ」
志乃は呆れたようにため息をつくと、トレンチコートのポケットからチャラチャラと音を立てて『何か』を取り出した。
それは、イチゴ味のキャンディの形をしたキーホルダーが付いた、銀色の鍵だった。
「これ……」
「私の現実世界でのアパートの合鍵だ。お前が未成年で戸籍がなくても、私が保護者としてなんとか誤魔化してやる。だから、そんな捨て犬みたいな顔すんな」
志乃は無造作に、結衣の掌にその鍵を押し付けた。
銀色の鍵。それは、結衣にとって現実世界を繋ぎ止める、何よりも確かな『命綱』だった。
「志乃、さん……」
「いいか。月曜日の朝、お前が目を覚ます中学校の屋上まで、私が必ず迎えに行ってやる。だから、鍵を握りしめて、その場で大人しく待ってろ。絶対に一人で動くんじゃないぞ」
志乃のその言葉を聞いた瞬間、結衣の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではなく、安堵と、爆発しそうなほどの歓喜の涙だった。
「はい……っ、はい! 私、ずっと待ってます。志乃さんが来てくれるまで、一歩も動きません! 石像になれって言われたら石像になります!」
「そこまでしろとは言ってない。……ほら、もうすぐ時間だ」
志乃が空を指差す。
赤紫色の空がパチンと弾け、世界が真っ白な光に包み込まれていく。
週末世界が終わる。
結衣は鍵を胸に強く抱きしめ、目を閉じた。
次に見開く世界は、神様のいる現実だ。
――チュン、チュン。
耳元で、小鳥のさえずりが聞こえた。
結衣はゆっくりと重い瞼を開ける。
そこは、見慣れた中学校の屋上だった。
金曜日の夕方、教団の男たちに追い詰められ、週末世界へと突入したあの場所。
見上げれば、雲一つない爽やかな青空が広がっている。
遠くからは、朝の通勤ラッシュを走る車のエンジン音が聞こえてくる。
「……朝だ」
結衣は体を起こした。コンクリートの床で丸まっていたため、制服はシワだらけで、少し肌寒い。
しかし、右手の掌には、しっかりと銀色の鍵が握られていた。
夢じゃない。あの狂った週末世界での戦いも、志乃と交わした誓いも、すべて現実だったのだ。
「志乃さん、迎えに来てくれるって……」
結衣が嬉しそうに微笑んだ、その時だった。
「――見つけたぞ、聖女様」
背後から聞こえた冷酷な声に、結衣の身体がビクッと強張った。
屋上の鉄扉の前に立っていたのは、金曜日の夕方、結衣を追い詰めた教団の男たちだった。週末世界で気絶させられていた彼らも、現実世界で目を覚まし、結衣を捕獲するために待ち構えていたのだ。
「週末世界での計画は失敗に終わったようだが……我々は諦めない。あなたを教団本部へ連れ帰り、次の金曜日まで地下牢で祈りを捧げてもらう」
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
現実世界では、彼らも週末世界のような強力な影の超能力を使うことはできない。
しかし、それは結衣も同じだ。光の力も、今は微かな温もり程度しか出せない。
大人の男三人に対し、丸腰の女子中学生である結衣に勝ち目はなかった。
(どうしよう……捕まったら、またあの真っ白な部屋に……)
恐怖で足がすくむ。
だが、結衣は右手に握った鍵を強く握りしめ、キッと男たちを睨みつけた。
「嫌です。私は絶対に、あなたたちのところへは戻らない。私の居場所は、教団なんかじゃない!」
「生意気な。連れて行け!」
男の一人が手を伸ばし、結衣の腕を強引に掴もうとした。
その瞬間。
――ドガァァァァンッ!!
屋上の鉄扉が、爆発したかのような凄まじい音を立てて蝶番ごと吹き飛んだ。
砂埃が舞う中、男たちが驚愕して振り返る。
「おいおい、朝の八時から中学生の女の子を囲んで誘拐未遂か? 教団の連中は、現実世界でも相変わらず趣味が悪いな」
吹き飛んだ扉の向こうに立っていたのは、見慣れたカーキ色のトレンチコートを着た女性――灰原志乃だった。
彼女の足元には、なんとリードに繋がれた真っ白な大型犬――サモエド犬の姿をしたポチがお座りをしている。
週末世界の巨大な姿からは縮んでいるが、その存在感は健在だった。
「き、貴様は……灰原志乃!」
「現実世界では能力は使えないはずだ! 女一人に何ができる、やっちまえ!」
男たちが一斉に志乃へと飛び掛かる。
しかし、志乃は口に咥えていたストロベリーキャンディの棒をペッと吐き捨てると、呆れたようにため息をついた。
「超能力が使えないのはお互い様だろ。……それに、三十代の独身女が、荒事に慣れてないと思うなよ」
志乃の動きは、洗練された格闘家のそれだった。
迫る男の拳を最小限の動きでかわし、その腕を掴んで鮮やかな背負い投げを決める。
続く二人の男の膝の裏を鋭いローキックで打ち抜き、姿勢を崩したところへ容赦のない手刀を首筋に叩き込んだ。
ものの十秒。超能力など一切使わない、純粋な物理的制圧。
男たちは白目を剥いてコンクリートの床に転がった。
「ふぅ……。朝から運動させやがって。腰が痛ぇ」
志乃はトレンチコートの襟を直し、ボキボキと首を鳴らしながら結衣の方へと歩み寄った。
「志乃さん……ッ!」
結衣は弾かれたように駆け出し、志乃の胸に思い切り飛び込んだ。
「うおっ、バカ、危ねぇな」
「志乃さん! 志乃さん! 本当に来てくれたんですね……っ、私、信じてました。志乃さんが絶対に助けに来てくれるって!」
結衣は志乃のコートにしがみつき、顔をぐりぐりと押し付ける。
その異常なまでの執着とスキンシップに、志乃はやれやれと頭を掻いた。
「約束しただろ。……ほら、ポチも待ってる。行くぞ」
志乃が顎でしゃくると、普通の犬サイズになったポチが『ワンッ!』と元気よく吠えて尻尾を振った。
結衣は涙と鼻水をコートで拭うと、満面の笑みで頷いた。
「はいっ!」
志乃のアパートは、駅から徒歩十五分ほどの、古びた築三十年のマンションの三階にあった。
ガチャリ、と鍵を開けて中に入ると、そこは……週末世界の映画館のアジト以上に、見事なまでの汚部屋だった。
脱ぎ散らかされた服、山積みのコンビニ弁当の空き箱、床に転がる空き缶の数々。
三十八歳独身、家事能力ゼロの現実がそこには広がっていた。
「……あー、悪い。週末世界に入り浸ってたから、片付ける暇がなくてな。適当に座っててくれ」
志乃が気まずそうに頭を掻く。
しかし、結衣の反応は予想とは全く違っていた。
彼女は目を輝かせ、荒い息を吐きながら部屋中を見渡している。
「素晴らしいです……! ここが、志乃さんの匂いで満たされた、現実世界の聖域……! ああ、神様の抜け殻(服)がこんなにたくさん!」
「おい、匂いとか抜け殻とか言うな。変態か」
「志乃さん! 私、今日からここで、志乃さんのためにすべてを捧げます! 掃除、洗濯、お料理、それに肩揉みから何から、全部私に任せてください! 志乃さんが私なしでは生きられないくらい、完璧に尽くし抜いてみせますから!」
結衣は制服の袖をまくり上げ、凄まじい熱量で空き缶の分別を始めようとした。
その姿には、教団で「奇跡の器」として縛られていた頃の暗い影は微塵もない。彼女は今、自分の意志で、愛する人間のために自分のすべてを注ぎ込もうとしているのだ。
たとえその愛が、世間一般から見れば少しばかり(いや、かなり)重くて歪な同性バディの依存関係であったとしても。
「……はぁ。こりゃ、私の平穏な怠惰ライフも終わりだな」
志乃は呆れたように肩をすくめた。
しかし、その唇には、隠しきれない柔らかな笑みが浮かんでいた。
七年間、後悔と孤独の中でやさぐれていた彼女の部屋に、嵐のような温もりがやってきたのだ。
「おい、結衣。掃除は後でいい。……まずは、飯にするぞ。お前、目玉焼きは半熟派か?」
「志乃さんが作ってくれるなら、炭の塊でも喜んで食べます!」
「だからそういう極端なのをやめろって言ってんだろ」
朝の陽光が差し込む四角い部屋で、呆れ声と無邪気な笑い声が響き渡る。
世界が終わる週末を乗り越えて、不器用な二人の新しい日常が、ここから始まろうとしていた。




