「世界を歪めるほどの愛と、光降る日曜日の夜明け」
水族館の巨大なドーム内に、ガラスがひび割れるような甲高い音が鳴り響き続けていた。
しかし、それは物理的なガラスが割れる音ではない。空間そのものが限界まで圧縮され、悲鳴を上げている音だった。
「おおおおおおおッ!!」
灰原志乃は、額から流れる血を拭いもせず、両手を前へと突き出していた。
彼女の全身から放たれる圧倒的な異能の力――『空間歪曲』の最大出力。それは、ドーム内の空気、瓦礫、そして宙に浮かんでいた巨大な水球をも捻じ曲げ、猛烈な渦を作り出していた。
三十八歳という、決して若くはない肉体が、限界を超えた異能の行使によって内側から軋み、悲鳴を上げている。毛細血管が切れ、皮膚に痛々しい赤みが差し、視界がチカチカと明滅する。それでも、彼女は一歩も引かなかった。
「愚かな……。己の命を削ってまで、その娘を守る価値がどこにある?」
相対する教団『星の導き』の大司教、バアルは、手にした黒曜石の杖を床に突き立てたまま冷酷に言い放った。
バアルが操る巨大な重圧が、目に見えない巨大な壁となって志乃の空間歪曲と激突している。
空間が捻じ曲がろうとする力と、それを押し潰そうとする絶対的な重力。
二つの超常現象の衝突は、赤紫色の光の火花を散らし、水族館の床をすり鉢状に陥没させていく。
「価値ぃ……? そんなもん、あるに決まってんだろ……!」
志乃は血の滲む唇を吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「あのガキはな、私のために自分の命を投げ出そうとしたんだ! 私のために世界を終わらせてもいいって、本気で泣いたんだよ! そんなクソ重たい感情をぶつけられちまったら、大人は命懸けで応えるしかねぇだろうがッ!」
『ガウゥゥゥゥンッ!!』
志乃の叫びに呼応するように、彼女の足元で踏ん張っていた巨大な獣――ポチが猛々しく咆哮した。
サモエドに似たその真っ白な毛並みが、逆立つように膨れ上がる。ポチは単なる巨大な犬ではない。
週末世界のバグを喰らう上位存在だ。
ポチは志乃の周囲で暴走しかけている空間の歪みをその巨大な口で『捕食』し、志乃が自滅しないようにギリギリのバランスでエネルギーを循環させていた。
「無駄な足掻きだ。七年前、己の相棒を見殺しにした小汚い逃亡者が、今更ヒーロー気取りか。貴様の力など、我らが教団の大いなる陰謀の前では、取るに足らん塵に等しい!」
バアルが杖を高く掲げた。
ドーム内の重力が一気に倍加する。
志乃の膝がガクンと折れそうになり、ポチも苦しげに喉を鳴らした。
志乃の作り出した空間の渦が、徐々に押し返されていく。
このままでは、数分と持たずに志乃の身体は重力に押し潰されてしまうだろう。
その絶望的な光景を、天海結衣は背後から見つめていた。
(志乃さんが、私のために……死んでしまう)
結衣の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。
結衣は先ほど、志乃の命を救うために教団へ投降することを決めた。自分が生贄になれば、志乃は助かるはずだった。
それが、自分にできる唯一の恩返しであり、愛の証明だと思っていた。
しかし、志乃はそれを「安っぽい取引」だと一蹴した。
そして今、ボロボロになりながら、結衣を取り戻すために限界を超えて戦っている。
『私の命を、お前の自己犠牲で買うな』
『お前のそのクソ重たい命も、感情も、全部私が背負ってやる』
先ほどの志乃の言葉が、脳裏で何度もリフレインする。
結衣の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなかった。己の愚かさへの気づきと、胸を焦がすような熱い共鳴の涙だった。
(私は、間違っていた……)
結衣はずっと、志乃を『神様』だと思っていた。
自分を救ってくれた絶対的な存在。だから、自分の命を一方的に捧げることが正しい信仰なのだと思い込んでいた。
でも、違う。
目の前で血を流し、苦しそうに顔を歪めながら、それでも自分を守ろうとしてくれているこの人は、決して手の届かない神様なんかじゃない。
傷つき、迷い、過去に囚われながらも、不器用に手を差し伸べてくれる『ただの人間』だ。
(志乃さんは、私の命がいらないんじゃない。私に『生きて』隣にいてほしいって、そう言ってくれているんだ)
その真実に気づいた瞬間、結衣の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
狂信的な自己犠牲の精神が、より深く、より強靭な『共に生きるための愛』へと変質していく。
「……志乃さん」
結衣はゆっくりと立ち上がった。
バアルの放つ圧倒的な重圧が、彼女の身体にのしかかる。しかし、結衣はもう膝を折らなかった。
一歩、また一歩と、前へ進む。
彼女の小さな身体から、淡い純白の光が漏れ出し始めた。それは、昨夜のように敵を焼き尽くすための暴発的な光ではない。ひだまりのように暖かく、どこまでも澄み切った、慈愛の光だった。
「何……?」
バアルの覆われた目が、結衣の放つ異様な波長を察知し、微かに動揺を見せる。
「聖女よ、狂ったか! お前の力は破壊の力。その力を使えば、この空間ごと己の守るべき人間を消し飛ばすことになるぞ!」
「……いいえ」
結衣は静かに首を振った。
彼女は志乃の背中へと辿り着き、その血の滲むトレンチコートに、そっと両手を添えた。
「私はもう、誰も傷つけない。志乃さんが泣くから、誰も殺さない。……私の力は全部、志乃さんを守るために使うの」
結衣の手のひらから、爆発的な光の奔流が志乃の身体へと注ぎ込まれた。
カァァァァンッ!! という清冽な音がドーム内に響き渡る。
光は志乃の身体を優しく包み込み、千切れかけていた毛細血管を癒やし、限界を迎えていた肉体に莫大なエネルギーを充填していく。
「ゆ、結衣……お前……」
「志乃さん、ごめんなさい。私、ようやく分かりました」
結衣は志乃の背中に額を擦り寄せ、涙声で、しかしはっきりとした意志を持って告げた。
「私だけが犠牲になるなんて、志乃さんを一人ぼっちにするなんて、絶対に嫌だ。私は志乃さんと一緒に生きたい。志乃さんの背負う後悔も、痛みも、私が半分持ちます。だから――一緒に戦ってください!」
その言葉は、三十八歳のやさぐれた大人の心に、これ以上ないほど真っ直ぐに突き刺さった。
志乃の目から、不意にボロボロと涙がこぼれた。
七年間、ずっと一人で抱え込んできた孤独。相棒を失い、逃げ出し、自分には誰も守る資格などないと殻に閉じこもってきた。
その暗闇を、無垢で重すぎる感情を持った中学生の少女が、強引にこじ開けて光を差し込んできたのだ。
「……バカガキが。生意気な口、利きやがって」
志乃は泣き笑いのような表情を浮かべ、結衣の手の上に自分の手を重ねた。
結衣の体温は熱く、力強かった。もう、逃げる理由なんてどこにもない。
「よし、結衣! ポチ! 一気に押し込むぞ!!」
『ガウッ!!』
「はいっ!!」
志乃の空間歪曲に、結衣の放つ純白の光が融合する。
赤紫色の重力場と衝突していた空間の渦が、まばゆいほどの黄金色へと変化した。
それは、週末世界のバグである超常現象すらも凌駕する、二人の『クソデカ感情』が引き起こした奇跡の共鳴だった。
「ば、馬鹿な……! 我らがアンカーの力が、押し負けているだと……!?」
バアルが焦燥の声を上げ、必死に黒曜石の杖に力を込める。
しかし、志乃と結衣の融合した力は、もはや教団の陰謀などという薄っぺらい野望で止められる次元にはなかった。
「終わりだ、大司教サマ!!」
志乃が両手を力強く振り抜いた。
黄金色に輝く空間の渦が、バアルの放つ重圧を真っ向から粉砕し、一直線に大司教へと襲い掛かった。
渦の中心で、ポチが目にも留まらぬ速さで跳躍する。
巨大な獣の牙が、バアルの重力の源である黒曜石の杖にガチンッと噛みついた。
パァァァァンッ!!
凄まじい破砕音とともに、教団の陰謀を支えていた杖が粉々に砕け散った。
触媒を失い、バアルの能力が完全に霧散する。
その直後、黄金の空間の渦がバアルの身体を容赦無く飲み込んだ。
殺意はない。ただ、教団の野望を根絶やしにするための圧倒的な防衛の力。
バアルの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、ドームの壁に激突して白目を剥き、完全に意識を刈り取られた。
杖が破壊されたことで、教団が企てていた『週末世界の固定化』の要となるこのアンカーも完全に沈黙した。
水族館に充満していた異常な重圧が嘘のように消え去り、静寂が訪れる。
宙に浮かんでいた水球が形を失い、ザーッと心地よい雨のようにドーム内の床へと降り注いだ。
空を泳いでいた魚たちは、光の粒子となって赤紫色の空へと還っていく。
「はぁ……はぁ……終わっ、た……」
志乃はふらりとよろめき、その場に膝をついた。
限界まで力を振り絞った反動で、全身の力が抜け落ちていく。しかし、倒れ込む前に、温かい腕が彼女の身体をしっかりと受け止めた。
「志乃さんっ! 大丈夫ですか!?」
結衣が、心配そうに志乃の顔を覗き込んでいる。
その背後では、杖を噛み砕いて満足げなポチが、『どうだ』とばかりに尻尾を振っていた。
志乃は荒い息を吐きながら、結衣の顔を見上げた。
涙と土埃で顔を汚した、年端もゆかない女子中学生。しかし、その瞳に宿る光は、出会った時のような危うい狂信ではなく、確かな絆と信頼に満ちていた。
「……ああ、なんとかな。お前が、力を貸してくれたおかげだ」
「ふふっ。私は志乃さんのものですから。志乃さんのためなら、無限に力が出ます」
相変わらず重たい台詞だが、今の志乃にはそれが不思議と心地よかった。
「……なぁ、結衣」
「はい?」
志乃はゆっくりと身を起こし、結衣の頭にポンと手を乗せた。
「お前が私に執着するのは勝手だ。だがな、私もお前に執着する。お前が泣き言を言っても、絶対に手放してやらないし、お前の人生の最後まで責任を持って背負ってやる。……それでも、私の隣にいる覚悟はあるか?」
それは、実質的な家族――あるいはそれ以上に深い、生涯の相棒としての誓いだった。
結衣は目を丸くし、それから、太陽のように輝く満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです!! 私、一生志乃さんの隣から離れませんから! 覚悟しておいてくださいね!」
結衣は志乃の胸にダイブするように抱きつき、ポチもまた「自分も混ぜろ」とばかりに二人の背中にのしかかってきた。巨大なもふもふに押し潰されそうになりながら、志乃はついに声を上げて笑った。
ふと見上げると、ドームのひび割れた天井から、一条の光が差し込んでいた。
赤紫色だった週末世界の空が、徐々に本来の色を取り戻し始めている。
時計の針は深夜を回り、日曜日を迎えようとしていた。
教団の陰謀は退けられ、月曜日は必ずやってくる。
しかし、もう志乃は現実世界に戻ることを恐れてはいない。
なぜなら、月曜日の朝を一緒に迎えるべき、最高に厄介で、最高に愛おしい相棒を見つけたのだから。
光降る水族館の中心で、おばさんと女子中学生、そして巨大な白い獣は、世界の終わりを遠ざけた安堵の中で、静かに寄り添い続けていた。




